2017年12月31日日曜日

2017年の趣味活動をふりかえる

2017年の大晦日となりました。

多くの皆様のおかげでこの1年間も趣味活動を大いに進展できました。

心からお礼申し上げます。

この記事では2017年の活動で印象に残ったことをふりかえってみます。

1 大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習開始
2016.12.23記事「縄文時代遺跡 大膳野南貝塚の学習を開始」から大膳野南貝塚の学習をスタートしました。
縄文時代学習をいつか本格的にしたいと希望していたのですが、その魅力(魔力)の大きさに無意識的にすくんでしまい、ついつい気軽で手ごろなテーマに終始してきていました。
しかしとうとう本腰をいれて縄文時代学習に突入したのが2016.12.23ということになります。
学習対象遺跡を大膳野南貝塚に選んだ理由は千葉県貝塚研究の先鋭第一人者である西野雅人先生にアドバイスをもとめて、その結果によるものです。

学習をはじめて、大膳野南貝塚は次の特質により初心者のための学習対象として好適であると実感しています。
・出土遺構、遺物が豊富で興味深い
・貝塚全体が発掘されていて貝塚像、集落像が捉えられる
・最近発掘された遺跡であり調査精度や分析の質が高い
・詳細情報が刊行されていて学習に利用できる
・全情報量が数冊以内におさまっていて個人で全てを分析する量として適当である。

大膳野南貝塚周辺の地形を知るために旧版地図を入手したり、あるいは千葉県の貝塚について学習したりと最初はウォーミングアップばかりでしたが、そのうち学習が進みだし、旧石器時代、早期後半(炉穴、陥し穴)、前期後葉集落(竪穴住居、土坑)について自分なりの学習を5月まで行いました。
その後中断して、12月から後期集落の学習を再開し現在に至っています。
1月から後期集落の学習を本格的に行う予定です。

大膳野南貝塚発掘調査報告書

2 大膳野南貝塚学習へのQGIS導入
大膳野南貝塚学習ではGISソフトとして高機能であるQGISを導入しました。
このおかげで効率的なデータ空間分析が可能となり、自分自身の学習意欲も増進しています。
またQGISがソフト側から使ってくる表示色が自分にとって好ましい色が多く、そうした些末なことも心理的に学習を促進しています。
さらに、QGIS、Google earth pro、Google earth proに棒グラフを描くソフト(GE-Graph)などを総合的に連携して活用できるようになりました。

QGIS画面の例

3 西根遺跡出土遺物・写真の閲覧
西根遺跡出土「杭」がイナウであるという予感を払拭できないため、千葉県教育委員会の手続きを経て「杭」現物の閲覧を行いました。ついでに加曽利B式土器等の遺物や奈良平安時代遺物の閲覧も行いました。
案の定「杭」はイナウであるとの仮説を強く持つことができました。
現物閲覧では限られた観察しかできませんので、追加で未公表写真の閲覧を行い、さらにイナウであるとの確信を深めることができました。
縄文時代遺物としてのイナウあるいは石器でつくられたイナウは、本邦はじめての発見であるという意義があります。

参考 西根遺跡出土木製品の検討図 1
2017.10.05記事「西根遺跡出土「杭」はイナウ 小孔を開けた工具」による

参考 西根遺跡出土木製品の検討図 2
2017.10.05記事「西根遺跡出土「杭」はイナウ 小孔を開けた工具」による

4 西根遺跡に関する講演
西根遺跡学習を深め、縄文時代出土物(大量の破壊された加曽利B式土器等)は堅果類増産にかかわる祭祀遺跡であり、その後近世までその空間が聖地であったことを突き止めました。
この学習結果を2017年9月24日に印西地域史研究会で「祈りの空間 戸神川谷津の隠された秘密にせまる -西根遺跡 縄文~近世の自分流学習-」(講演レジメpdf)と題して講演させていただきました。
講演準備活動の中で学習を大いに加速することができました。

「祈りの空間 戸神川谷津の隠された秘密にせまる -西根遺跡 縄文~近世の自分流学習-」(講演レジメpdfの最初頁/4頁)

5 鳴神山遺跡に関する講演
奈良平安時代の鳴神山遺跡について学習を深めているうちに、瓢箪から駒みたいたな感じで「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
この学習結果を2017年11月12日に印西地域史研究会で「奈良・平安期に開発した印西の船穂郷(戸神・船尾)の謎 ~大結馬牧の姿が見えてきた~」(講演レジメpdf)と題して講演させていただきました。
講演準備活動の中で学習を大いに加速することができました。

「奈良・平安期に開発した印西の船穂郷(戸神・船尾)の謎 ~大結馬牧の姿が見えてきた~」(講演レジメpdfの最初頁/6頁)

6 ファミリーブログ
ブログ花見川流域を歩く番外編で技術的興味を、ブログ花見川流域を歩く自然・風景編で散歩について、ブログ世界の風景を楽しむで世界の風景をそれぞれ情報発信して自分の趣味活動の幅を広げることができました。また夏までブログ学習幸福否定で趣味活動におけるグズ克服の取り組みについて情報発信しました。
さらに12月末にブログ芋づる式読書のメモを開設するとともに、全てのブログを埋め込んだサイト考古と風景の楽しみを開設しました。

サイト考古と風景の楽しみホーム画面

7 感想
2017年は縄文時代学習にはじめて本格的に取り組んだ記念すべき年になりました。
同時に学習がなにか本格的になり出した年でもありました。
また年末にかけて読書(文献学習)の大切さを意識し出しました。
この2017年活動を踏まえてより充実した趣味活動を2018年に行いたいと思います。
2018年の活動計画は2018年1月15日(ブログ花見川流域を歩く開設7周年記念日)記事に掲載する予定です。

皆様、よいお年をお迎えください。

2017年12月30日土曜日

私の趣味活動5ブログ埋め込みサイトの開設

このブログをはじめとする、私の趣味活動5ブログを埋め込んだサイト「考古と風景を楽しむ」を開設しました。

サイト考古と風景を楽しむの画面

サイト考古と風景を楽しむに埋め込んだブログ
花見川流域を歩く
花見川流域を歩く番外編
花見川流域を歩く自然・風景編
世界の風景を楽しむ
芋づる式読書のメモ
参考●学習 幸福否定

ブログが増えたのでリンクをたどることなく同時に閲覧できる方が便利であると考えて開設したものです。
このサイトを趣味活動の私設ポータルサイトのように位置づけて今後発展させるつもりです。

なお、パソコンとタブレットでは埋め込みブログの閲覧が問題なくできますが、モバイルでは埋め込み画面の閲覧は困難です。
モバイルをご利用の場合は個々のブログを直接閲覧してください。
参考 モバイルでブログを閲覧した時の画面

●花見川流域を歩く

●花見川流域を歩く番外編

●花見川流域を歩く自然・風景編

●世界の風景を楽しむ

●芋づる式読書のメモ

参考●学習 幸福否定




2017年12月29日金曜日

廃屋墓の機能不明柱穴の検討 総括

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 19

2017.12.21記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 まとめ」の中でピックアップした項目の最後「祭祀柱穴(祭壇)発見の可能性」についてメモします。
この記事が機能不明柱穴検討の最終回です。

1 機能不明柱穴の検討結果
大膳野南貝塚後期集落の機能不明柱穴の検討結果をまとめると次のようになります。

大膳野南貝塚後期集落 人骨出土竪穴住居の分類と機能不明柱穴

機能不明柱穴に祭壇柱の穴が含まれているかもしれないと感じた竪穴住居が3軒、なんともいえないものが6軒、含まれていないと感じたものが1軒という結果になりました。

鳴り物入りで検討を始めた割にはしっかりした結論は得られませんでした。
機能不明柱穴から屋根を支える補助柱を分離できれば検討が大いに進むと考えます。
今後縄文時代竪穴住居構造について専門的に検討した資料・論文を探して学習を深めることにします。
なお、人骨出土竪穴住居以外の竪穴住居についても機能不明柱穴を色分けして眺めてみることにします。そこまで作業を進めればなにか検討を進める手がかりが必ずや得られると楽観しています。

2 感想
機能不明柱穴の検討は現時点では竜頭蛇尾的になっているのですが、この検討のなかで次の項目について副次的に学習を深めることができ、大成果であったと感じています。

ア 人骨出土竪穴住居が廃屋墓と住居隣接墓に分類できること
イ 犬墓にも廃屋墓と住居隣接墓が見られること
ウ 廃屋墓には床面タイプと覆土層タイプがあること
エ 葬送形式に集骨葬と非集骨葬(伸展葬・屈伸葬など)があること
オ 住居内における人骨の位置に意味があるらしいこと
カ 人骨の方向に意味がある場合があるらしいこと
キ 集骨葬集団が非貝塚集団であり、発掘調査報告書による時代区分は「加曽利E4~称名寺古式期」集団になり「称名寺~堀之内1古式期」以降の貝塚集団と異なるが、実は同時期に共同生活をしていたと仮説できる可能性があること
ク 人骨出土竪穴住居の分布は人骨残存条件の備わる貝層のある竪穴住居にほぼ限定されること
ケ 貝層のない竪穴住居にも廃屋墓があった可能性を排除できないこと
コ 人骨齧痕が8割を超えることから長期間のモガリによる遺体ミイラ化が一般的であったこと
サ 廃屋墓は新たな竪穴住居によって切られることが少なく、集落の中で廃屋墓情報が世代を超えて伝承していたらしいこと


2017年12月28日木曜日

ブログ 芋づる式読書のメモ 開設

ブログ「芋づる式読書のメモ」を開設しましたので報告します。

自分にとってブログとは趣味活動の実況中継の場ですが、趣味活動の細項目が増えてきたので、必然的にブログ数も増えてきたことになります。

また趣味活動を7年間にわたって発展させる中で活動を支える滋養(つまり知識)の不足を痛感するようになり、読書活動が増加しているという事情もブログ「芋づる式読書メモ」開設の背景にあります。

ブログ「芋づる式読書のメモ」では最初連載として「縄文時代史」(勅使河原彰、2016、新泉社)を扱っています。

ブログ「花見川流域を歩く」ファミリーの一員としてのブログ「芋づる式読書のメモ」をなにとぞ宜しくお願い申し上げます。

ブログ「芋づる式読書のメモ」画面

 

2017年12月27日水曜日

廃屋墓の存在は世代を超えて伝承した

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 18

2017.12.21記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 まとめ」の中でピックアップした人骨出土竪穴住居と住居重複関係についてメモします。

人骨出土竪穴住居のこれまでの検討で廃屋墓となった竪穴住居は後世に新規竪穴住居によって切られる(破壊される)ことが少ないような印象を受けています。
そこで統計を取ってみました。
漆喰・貝層(覆土層中の貝層)が出土する竪穴住居を対象にして、他の竪穴住居によって切られる(破壊される)ものの割合を求めました。

大膳野南貝塚 漆喰・貝層出土竪穴住居 他の竪穴住居によって切られるものの割合(%)

人骨出土竪穴住居はそうでない竪穴住居とくらべて、切られる(破壊される)割合が少ないことを数値の上で確かめることができました。
これは廃屋墓の存在が、集落内で世代を超えて情報として伝承したことを表現していると考えます。
廃屋墓がそこにあるという情報伝達において、風景上廃屋墓に標識があったと考えることが合理的であると考えます。
廃屋墓にはアイヌのイナウやヌササンのような柱をつかった祭壇が存在していたのではないだろうかと想像しています。

2017年12月26日火曜日

殯(モガリ)におけるミイラ作成

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 17

2017.12.21記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 まとめ」の中でピックアップした人骨齧痕の意味について考察します。

1 人骨齧痕の記載と統計
人骨齧痕の記載と一覧表を示します。

齧歯類齧痕の記述例
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚出土人骨 齧歯類の齧痕
大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成

竪穴住居出土人骨のうち周産期~3歳・小児のものを除く16事例のうち齧痕のあるものは13事例であり8割を越えます。
発掘調査報告書ではこの事情について次のように検討しています。
「保存状態の良好な住居祉人骨の出土状況を確認したところ、いずれも解剖学的に自然な位置を保持していたことから一次葬と判断されたが、それらの関節で看取された小規模な骨の移動や骨体に残された齧歯類の齧痕から、死後白骨化するまで遺体の周囲に空隙が存在したか、あるいは遺体の覆土が薄かったと推察された。」

2 人骨齧痕の意味
発掘調査報告書の検討では埋葬後の空隙の存在とか薄い覆土という特殊的な状況を想定していますが、8割を超える人骨に齧痕があることから齧痕ができる状況が一般的状況であったと推察できます。
サハリンアイヌの習俗等から縄文時代に殯(モガリ)におけるミイラ作成が埋葬前に存在していたと考えることが合理的です。
遺体は殯小屋(おそらく居住住居とは別の空家)で長期(1年以上)にわたってミイラとなり(あるいは腐って白骨化し)、その間に齧歯類に食われ、骨に齧痕がついたものと考えます。
殯がおわるとミイラはその場で埋葬されたり、別の空家に集められて合同の埋葬がおこなわれたりしたものと想定します。

J40竪穴住居 竪穴住居から人骨1体出土
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

J40竪穴住居が殯小屋であり、かつ埋葬の場でもあったと想像します。

J74竪穴住居 竪穴住居から人骨7体出土
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

死亡時期が異なり別の場所で殯がおこなわれたミイラも含めて遺体6体がJ74竪穴住居に集められて合同埋葬され、覆土層の途中にも別の1体が埋葬されたと想像します。

なお人骨79号住は覆土中層から出土していますが齧痕があります。
遺体が覆土中層に埋葬された後、人骨がネズミに齧られるという状況を想定することはほとんど不可能です。従ってこの例は覆土中層に埋葬された遺体がすでにネズミに齧られたミイラであったことを物語っています。つまり別の場所にある殯小屋で殯が行われ、最後の埋葬がJ79竪穴住居でおこなわれたと考えることができます。

J79竪穴住居 人骨の状況





2017年12月25日月曜日

集団入れ替わり仮説に替わる階層社会仮説

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 16

2017.12.22記事「非貝塚形成集団と貝塚形成集団の入れ替わり」と2017.12.24記事「人骨出土竪穴住居分布で気が付いた貝塚集落特性」を書いて、発掘調査報告書のそもそもの集落時期区分の扱いに大いなる疑問が浮かびあがりましたのでメモしておきます。

大膳野南貝塚後期集落の漆喰・貝層出土非出土別竪穴住居数をまとめると次のようになります。

大膳野南貝塚後期集落 漆喰・貝層出土非出土別竪穴住居数

加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期の数値がなにか変です。
もし漆喰・貝層出土竪穴住居住民つまり漁業従事者がより新しい形式の土器を使い、漆喰・貝層非出土竪穴住居住民つまり漁場従事者をサポートする劣位階層の人々がより古い形式の土器を使っていたならば、加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期は同じ時点になります。
そのような考えで上記統計表を調整して再集計すると次のようになります。

大膳野南貝塚後期集落 漆喰・貝層出土非出土別竪穴住居数(集計時期調整)

集落の最初期に集団の入れ替わりがあったのではなく、最初から漁業従事集団(集落支配集団)とその配下の劣位階層の人々がセットで入植してこの集落を形成した可能性が浮かび上がります。






2017年12月24日日曜日

人骨出土竪穴住居分布で気が付いた貝塚集落特性

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 15

この記事は2017.12.21記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 まとめ」、2017.12.22記事「非貝塚形成集団と貝塚形成集団の入れ替わり」の続きです。

5 人骨出土竪穴住居の分布
人骨出土竪穴住居の分布はつぎの通りであり、貝層分布域に限定されているように観察できます。

大膳野南貝塚後期集落 人骨出土竪穴住居

貝層が分布する場所では人骨が理化学的に保存され、それ以外の場所の人骨は火山灰層の影響で消滅してしまったと考えることができます。

しかし、人骨出土竪穴住居の分布をよくみると、貝層(北貝層、南貝層、西貝層)に直接かかわらないものもが4軒あります。その4軒は覆土層に貝層が含まれるものです。

そこで、覆土層に貝層が含まれる竪穴住居分布を調べてみました。

大膳野南貝塚後期集落 貝層のある竪穴住居

竪穴住居が廃絶して埋める時、貝で埋めたり、貝を含んだ土で埋めた竪穴住居の分布が上記の図であり、その分布と人骨出土竪穴住居の分布が略一致することになります。

参考に漆喰貼床・漆喰炉のある竪穴住居分布を次に示します。

大膳野南貝塚後期集落 漆喰貼床・漆喰炉のある竪穴住居

上記3つのデータ、つまり人骨出土竪穴住居、貝層のある竪穴住居、漆喰貼床・漆喰炉のある竪穴住居の間には明瞭な相関を認めることができます。それらの分布は円環状貝塚(北貝層、南貝層、西貝層)を下敷きにして形成されていると捉えることができます。

さて、ここで大いなる疑問が生じます。漆喰や貝が出土しない竪穴住居はなぜそれらが出土しないのかという問題です。

漆喰や貝が出土しない竪穴住居の方が出土する竪穴住居より多いのです。その分布は台地中央や斜面に広がります。

大膳野南貝塚後期集落 漆喰・貝層出土別竪穴住居軒数

大膳野南貝塚後期集落 漆喰貼床、漆喰炉及び貝層のない竪穴住居

漆喰や貝が出土しない竪穴住居とは、貝塚集落内なのに高機能の漆喰炉や漆喰貼床を利用していないのです。また廃絶したとき貝を覆土に撒いていないのです。
極めて特異な事象の存在に、人骨非出土という状況を通して気が付きました。

この記事でこの特異事象を解明することはできませんが、とりあえず次のような作業仮説を設定しておき、これから竪穴住居の詳細検討をするなかで確かめることにします。

人骨出土が貝層(北貝層、南貝層、西貝層)付近に集中する理由(作業仮説)
・円環状貝塚形成を指向する集団が大膳野南貝塚後期集落の主導集団で漁業を生業としていた。
・その主導集団の竪穴住居は漆喰貼床・漆喰炉を利用し、廃絶すると貝や貝を含んだ土で埋められた。従って廃絶住居が墓として利用されると、その人骨は残った。
・一方、主導集団に支配される劣位階層の人々がいて、台地中央や斜面の竪穴住居に住んでいた。
・劣位階層の人々は漆喰の利用や廃絶住居を貝や貝を含んだ土で埋めることを許されなかった。従って廃絶住居が墓として利用されると、その人骨は火山灰土の影響で消滅した。
・なお貝塚集落形成前の廃屋墓人骨がその後の貝塚発展のなかで偶然貝層の下に埋もれ残ったという唯一例外があり、それがJ88竪穴住居である。

2017年12月22日金曜日

非貝塚形成集団と貝塚形成集団の入れ替わり

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 14

この記事は2017.12.21記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 まとめ」の続きです。

4 集骨葬集団が非貝塚集団であること
2017.12.04記事「大膳野南貝塚 後期集落最初期の集団入れ替わり」で後期集落最初期と次期の間に集団の入れ替わりがあったことをメモしました。

参考 大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉集落の最初期に集団が入れ替わった可能性

参考 大膳野南貝塚加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居
2軒の竪穴住居は北貝層の下にうずもれていますが、これは竪穴住居が廃絶した後の時期に形成されたものです。

後期集落最初期と次期の間には葬送や生業・技術の違いがあまりに大きくまた明瞭であり、その間に集団としての継続性を認めることは到底できません。
ところが発掘調査報告書では最初期について次のように記載しています。
「本時期は大膳野南貝塚中期末~後期集落の成立期と考えられる。」(大膳野南貝塚発掘調査報告書)
発掘調査報告書では最初期の集団は「積極的な採貝活動の痕跡は確認できない」けれども貝塚集落の始祖であると認識していることが読み取れます。
この認識は間違いであり、次期の「称名寺~堀之内1古式期」が大膳野南貝塚中期末~後期集落の成立期と考えます。
同じ集団がある時期を境に葬送や生業・技術がすべて抜本的に変化するとは到底考えることができません。

千葉県縄文時代時期区分との対応で次のように考えます。

大膳野南貝塚後期集落(仮説)最初期と次期の間の断絶

最初期の短期間だけなぜ別の集団がこの場所に住み着いたのか、その理由に大いに興味がわきます。
この記事では次のような想像仮説をメモしておきます。
●大膳野南貝塚後期集落 最初期だけ別集団が住み着いた理由(想像仮説)
東京湾沿岸には分散居住する集団(Ⅴ期集団)が住んでいた。
列島西の方から東京湾に環状貝塚形成を特徴とし、かつ高度生業技術をもった集団(Ⅵ期集団)が移住してきた。
その移住圧を逃れてⅤ期集団の一部がそれまで無人であった大膳野南貝塚付近に移住した。
しかしあまり時間を置かないで大膳野南貝塚付近にもⅥ期集団が到達し、Ⅴ期集団を追い払い貝塚集落を形成した。

2017年12月21日木曜日

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 まとめ

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 13

大膳野南貝塚後期集落の廃屋墓の学習を行い、廃屋墓の機能不明柱穴に祭壇柱穴が含まれているのではないかという疑問を10軒の人骨出土竪穴住居について確かめてきました。
この10軒の竪穴住居学習をとりまとめて、自分が得た知識(情報)を整理して今後の検討作業の方向をメモすることにします。

この記事では検討項目の抽出と人骨出土竪穴住居の分類を行います。

1 人骨出土竪穴住居の分類と分布
自分なりに人骨出土竪穴住居を分類してみました。

大膳野南貝塚後期集落 人骨出土竪穴住居の分類

また人骨出土竪穴住居の分布は次のようになります。

大膳野南貝塚後期集落 人骨出土竪穴住居

2 人骨出土竪穴住居に関連する主な検討項目
上記基本情報を踏まえ、次のような項目を検討(復習、整理とりまとめ)します。

ア 人骨出土竪穴住居の分類について
・廃屋墓と住居隣接墓
・犬墓にも見られる廃屋墓と住居隣接墓
・床面タイプと覆土層タイプ
・集骨葬と伸展葬・屈伸葬など
・住居内における人骨の場所
・人骨の方向

イ 集骨葬集団が非貝塚集団であること
・「加曽利E4~称名寺古式期」集団と「称名寺~堀之内1古式期」以降集団の差異

ウ 人骨出土竪穴住居の分布
・貝層付近に廃屋墓が集中したのか、貝層付近だけ人骨が残存したのか?
・貝層付近竪穴住居・遺物出土状況と貝層付近以外竪穴住居・遺物出土状況の差異

エ 人骨齧痕の意味
・モガリとミイラ化について

オ 人骨出土竪穴住居と住居重複関係
・廃屋墓は新たな竪穴住居によって切られることが少ない

カ 祭祀柱穴(祭壇)発見の可能性
・機能不明柱穴に祭祀柱の穴が含まれる可能性の判断 

3 人骨出土竪穴住居の分類について
3-1 廃屋墓と住居隣接墓
竪穴住居内の床面や覆土層から遺体が出土するものを廃屋墓と考えました。
J88、J67、J74、J18、J40、J11。
竪穴住居に遺体が置かれて殯(もがり)が行われ、あるいは別の場所で殯が行われた遺体(ミイラ)が持ち込まれ、その後貝殻や混貝土で埋葬した状況が人骨と土層から確認できる遺構です。
竪穴住居における遺体の存在と同時に居住に使われていたことはあり得ないと考えます。
従って居住していない竪穴住居を埋葬の場として使ったという意味で正真正銘の廃屋墓といえるものです。

一方、壁柱より外側の竪穴住居隣接域で張出部に近いところから幼児、周産期人骨が出土する例があり、住居隣接墓として分類しました。
当初いわゆる「床下墓坑」として考えてきましたが厳密には竪穴住居外存在として観察できることから住居隣接墓としました。
J77、J95。
幼児の遺体を竪穴住居に隣接して埋葬し、竪穴住居生活が幼児遺体存在と一体感をもって行えるようにした工夫であると考えます。
この例は廃屋に埋葬したのではありませんから廃屋墓の範疇には入れられません。

参考 J77竪穴住居の検討

3-2 犬墓にも見られる廃屋墓と住居隣接墓
人墓に廃屋墓と住居隣接墓という区分があることが判明しましたが、それと同じ現象が犬墓にみられます。大変興味深い現象です。
J9は犬の廃屋墓です。人が使った竪穴住居を犬の埋葬のために使っています。
一方次の例(1号犬骨)はJ43竪穴住居に付属する犬の住居隣接墓です。

参考 J9竪穴住居

参考 J43竪穴住居

3-3 床面タイプと覆土層タイプ
廃屋墓でも人骨が床面から出土するものと、覆土層から出土するものがあります。
床面から人骨が出土する竪穴住居 J88、J67、J74、J18、J40、J11
覆土層から人骨が出土する竪穴住居 J74、J79、J9
床面から人骨が出土する状況は、廃屋を最初から墓として利用する状況が見えますから、いわば手順を踏んだ正式の埋葬が行われた例であると考えます。
一方、覆土層から出土する例は竪穴住居廃絶の際に「ついでに」あるいは「急いで」埋葬したおざなりな埋葬であると考えます。

3-4 集骨葬と伸展葬・屈伸葬など
人骨が白骨化した後、骨を集めて一定の形をつくり(集骨)それを埋葬する集骨葬と殯でできるミイラの形をいじらないでそのままの形で埋葬する全く異なる2種の葬送が見られます。
集骨葬 J88
殯でできるミイラの埋葬 J88以外全て
集骨葬と殯でできるミイラの埋葬はその形式が全く異なり、他の条件も考慮するとう集団が異なると考えました。(別途検討予定)

J88竪穴住居出土 集骨された人骨

殯でできるミイラの形状や修飾にはつぎのものが観察できました。
伸展葬
屈伸葬
甕被り葬

3-5 住居内における人骨の場所
住居中央から出土する人骨は手厚く埋葬された可能性が高く、住居端の壁柱付近から出土する人骨は別の場所でミイラ化したものが住居壁の上から持ち込まれた(投げ込まれた)可能性があり、相対的な意味で埋葬方法の丁寧さランクが低いと考えます。

J18竪穴住居の例
中央の甕被り幼児は手厚く扱われ、端の壮年女性は住居壁から持ち込まれた(落とされた)可能性がある。

3-6 人骨の方向
竪穴住居のなかでの人骨の置かれた状況から、人骨の指す方向に意味がある可能性があるものがあります。
例 J40

参考
参考
 

2017年12月20日水曜日

住居壁等が失われている廃屋墓

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 12

大膳野南貝塚廃屋墓の機能不明柱穴の検討を時期別に竪穴住居毎に順次検討していますがこの記事がその終回です。
この記事では堀之内2式期の残りであるJ11竪穴住居廃屋墓の検討をおこないます。

12 堀之内2式期 J11竪穴住居
11-1 特徴
発掘調査報告書では、J11竪穴住居はJ111竪穴住居と重複しJ11竪穴住居が新しいと記述されていて、柱穴帰属の検討もそのように行われています。
しかし、J111竪穴住居は出土土器から加曽利B1式期に比定されると記述されることから、J11竪穴住居はJ111竪穴住居より古く、J11竪穴住居はJ111竪穴住居によって切られていると考えざるを得ません。
従って発掘調査報告書による「J11竪穴住居はJ111竪穴住居より新しい」という記述は過誤であり、柱穴帰属の検討の一部にも過誤があると考えます。
人骨は炉祉北側の床面直上から成人骨1体検出されていますが、後世の削平等で多くの部位が失われています。頭骨が四肢骨から離れています。骨から齧歯類の齧痕が観察されています。
遺物は堀之内1~2式期に属する土器が中テン箱1箱分と獣骨26点が出土しています。

J11竪穴住居の位置

J11竪穴住居 柱穴分布
住居の南東部付近柱穴はJ111竪穴住居に帰属するものが多いと考えられます。

人骨出土の状況

12-2 検討
人骨は住居中央付近の床面から出土し、齧歯類によって食べられているので次のような状況が想定できます。
空家となっていたJ11竪穴住居に遺体が持ち込まれ、殯(もがり)が行われ、遺体がミイラ化し、そのさいにネズミに遺体の一部を食われ、その後漆喰と焼土を含む土で埋められました。(堀之内2式期)
加曽利B1式期になるとJ11竪穴住居跡が廃屋墓であるという情報の伝承が途切れていて、J11竪穴住居を切ってJ111竪穴住居が建てられました。

機能不明柱穴はその数が多く的確な考察が出来ませんが、炉祉の東西に分かれて4~5の機能不明柱穴群が対のように分布しています。それらが屋根を支える補助柱であるのか、それとも別の意義がある柱であるのか気になります。
人骨の分布は乱れていますが、東西方向に置かれていた様子がうかがえ、機能不明柱穴の分布との関連が気になります。

2017年12月19日火曜日

方向性を想起させる人骨配置廃屋墓

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 11

大膳野南貝塚廃屋墓の機能不明柱穴の検討を時期別に竪穴住居毎に順次検討しています。
この記事では堀之内2式期の廃屋墓の検討をおこないます。

11 堀之内2式期 J40竪穴住居
11-1 特徴
J40竪穴住居はJ41竪穴住居、J114竪穴住居と重複し、最も新しい住居です。
覆土にはハマグリ、イボキサゴを含む混貝土層が堆積しています。
床面直上で伸展葬の人骨が検出され、壮年ないしは熟年の男性であることが判っています。人骨の一部には齧歯類の齧痕が観察されます。
出土物は土器、石器などが中テン箱1箱分と獣骨165点が出土しています。

J40竪穴住居の位置

J40竪穴住居 柱穴分布

人骨出土の状況

人骨出土の状況 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

11-2 検討
11-2-1 人骨の方向性について
この人骨がJ40竪穴住居の住人であったかどうかの直接証拠はありません。
作業仮説として次のような状況を想定します。
空家であったJ40竪穴住居に別の竪穴住居に住んでいた人物の遺体が持ち込まれ、殯(もがり)が行われ、遺体がミイラ化し、そのさいネズミにかじられ、最後は混貝土層で竪穴住居を覆った(埋葬した)と考えます。

人骨の頭が住居端、脚部が住居中央方向であり、人骨が指す方向が竪穴住居空間を意識したものであるように観察できて(時計の針のように観察できて)大変特徴的です。
人骨の頭が指す方向がその人物と関わりがある地物の方向を示すものかもしれません。

J40竪穴住居 廃屋墓 検討

J40竪穴住居出土人骨が指す方向にある地物

11-2-2 機能不明柱穴について
機能不明柱穴が単なる屋根を支える補助構造柱であるのか、祭祀性をもった柱(祭壇)でるのか、はたまた廃屋墓になった時新たに建設された祭壇であるのか決めてとなるような情報は得られません。
大膳野南貝塚の全竪穴住居情報を統計整理して分析し、後日検討を深めます。