2015年のブログ「花見川流域を歩く」をふりかえってみます。
1 房総古代道研究会における発表
1月に房総古代道研究会において、私の「花見川東海道水運支路仮説」を「忘れられた古代交通施設 -千葉市花見川区に所在した水運路を結ぶ古代道路施設 船越-」と題して発表させていただきました。
学術的な裏付けのある活動をしているわけではありませんが、私の仮説を聞いていただき、また有益な多数のアドバイスをしていただいた房総古代道研究会の皆様に感謝いたします。
この発表は、この研究会メンバーでもある千葉市埋蔵文化財調査センターの研究者西野雅人様のご紹介によるものです。
以前「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」の縄文時代貝塚に関する記述内容について疑問があり、西野雅人様にいろいろと教えていただいたことがありました。
発表に使ったパワーポイント資料は次の通りです。
「忘れられた古代交通施設 -千葉市花見川区に所在した水運路を結ぶ古代道路施設 船越-」(パワーポイント)
「忘れられた古代交通施設 -千葉市花見川区に所在した水運路を結ぶ古代道路施設 船越-」(pdf)
この仮説「花見川東海道水運支路仮説」(花見川と平戸川(新川)を結ぶ陸路があり、花見川と平戸川が東京湾から香取の海に抜ける東海道水運支路であった。)を実証することにつながる活動をこの1年行ってきました。
ただし、この仮説を直接実証するような活動を行うにしては、自分にあまりにも知識がないので、迂遠な活動であると判っていますが、まず、基礎知識増大を目指しました。その活動が花見川・平戸川筋の関連遺跡の文献悉皆閲覧学習です。
2 花見川・平戸川筋の遺跡文献悉皆閲覧学習
とにかく、花見川・平戸川筋の遺跡文献を悉皆的に閲覧して学習し始めました
これまで閲覧学習してきた主な遺跡とその感想は次の通りです。
ア 上ノ台遺跡(古墳時代)
祭祀に使ったと考えられる牛骨が竪穴住居から出土し、浮島牛牧の原型が古墳時代に存在していたという印象をもちました。
遺構分布図をIllustratorに取り込み、Illustratorをつかって遺跡内の詳細分布図を作成して検討しました。
2月頃記事多数。
イ 検見川台地の遺跡(主に奈良時代)
直道遺跡、居寒台遺跡などについて学習しました。
銙帯出土に興味を持ち、直道遺跡から出土した銙帯現物を千葉市埋蔵文化財調査センターで閲覧させていただき、大変参考になりました。
銙帯は官人がつけるものですから、銙帯出土は律令国家の活動を表現していると考えました。
その後、「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」に千葉県出土銙帯リストと分布図があり、自分でもそれをGISに取り込みました。
3月頃記事多数
ウ 萱田遺跡群(奈良時代)
白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡について、ゾーン別に遺構・遺物の分布図を作成して、遺跡の特色について自分なりの分析を行い、検討しました。
最初はあまり興味のなかった墨書土器について、途中からその重要意義に気がつき、墨書文字についてその意味を検討しました。
八千代市立郷土博物館で出土墨書土器現物の閲覧もさせていただき、大変参考になりました。
また墨書土器専門家からデータベースが公表されていること教えていただき、墨書土器データベースも活用するようになりました。(おかげでFile Makerというデータベースソフトも使えるようになりました。)
萱田遺跡群の検討で、蝦夷戦争と集落開発が切っても切れない関係にあることを感じました。
また、多量のハマグリ出土などから萱田遺跡群が東京湾岸と強く結びついていることも確認できました。
4月~8月記事多数。
エ 鳴神山遺跡(奈良時代)
鳴神山遺跡は千葉県で墨書土器出土数が第1位の遺跡であり、強い興味を持って検討に入りました。
しかし、肝心かなめの発掘調査報告書の必要部分をコピーして利用できるまでに多大のエネルギーを費やしました。
一般市民が発掘調査報告書のデータをGISにプロットするためには、法律違反(著作権法)を覚悟しなければならないような社会状況が存在することに強い感情を持ちました。(法律違反は時間と多大な経費を投入して、結局回避できました。)
当初は墨書土器データベースを遺構にプロットして遺跡の性格を検討しました。
9月~10月頃記事多数。
発掘調査報告書コピーを入手して、遺物分布検討が現在進行形です。
12月記事多数。
なお、鳴神山遺跡学習では、遺構をGISにプロットして、GIS上で遺物分布等を検討してます。自分としては初めての遺跡内分布図作成にGISを利用するようになりました。遺構や遺物に関する情報はcsvファイルにして、GIS上に単純プロットしたり、出現頻度グラフ表示します。
Illustratorを使っていた時は、分布図作成という作図作業が存在したのですが、GISを使うと、データベース(csvファイル、つまりExcelファイル)を作成すれば作図作業はGISソフトが自動で行いますので、段違いに作業効率化になります。
鳴神山遺跡の発掘調査報告書学習の中で、直線道路状遺構と記載されていた遺構を野馬堀とに違いないと考えたのですが、結果は発掘調査報告書の通り、道路遺構であることを自分なりに確認しました。
この道路遺構の存在は、その道路の意義検討と道路と鳴神山遺跡との関係という2点で、自分に多大の興味をもたらしました。
現在進行形の興味ですが、東海道水運支路仮説という水運交通に関する自分の興味をこの陸路の存在が大いに補強してくれるような気がしています。
また、この直線道路は途中で廃棄され埋め立てられたということのようですから、蝦夷戦争の時代とその後の時代の様子を知る手がかりになりそうです。
3 千葉県小字データベース作成
以前から興味を持っていた小字について角川千葉県地名大辞典付録小字一覧の電子化を開始し、その結果をFile Makerを使ってデータベース化しています。
現在34市町(面積は千葉県の半分)まで作業が進んでいます。
千葉県小字データベースは存在しないので、データベースを試用したところ、自分としては新情報続出で興味がふくらみました。
千葉県全域の小字データベース作成は射程圏内に入りました。
また、墨書土器の文字と小字との直接関係がみられると考えられる場合(鳴神山遺跡出土墨書土器文字「大」と小字大野)も見つかり、小字データベースの活用効果が大であるように感じています。
11月に記事多数。
なお、国勢調査の境界データを入手し、それが大字単位のデータであることから、小字データを大字単位にGISにプロットすることを検討中です。
4 感想
花見川・平戸川筋が東海道水運支路であったという仮説を実証するような方向に向かって、まずは地域古代史に関する基礎知識を入手するという大変迂遠な道を歩んでいますが、趣味活動としては学習が進み、技術も向上し、仮説を確かだと感じる機会も増え、確信が深まっています。
しばらくは発掘調査報告書悉皆閲覧学習活動を継続して、基礎知識を泥縄方式で少しでも多く獲得したいと思います。
また、地名データベースの作業も早々に終わらせたいと考えます。
皆様のおかげで、2015年を趣味活動において充実した年として過ごすことができました。
2015.12.31 花見川風景
2015年12月31日木曜日
2015年12月30日水曜日
鳴神山遺跡直線道路検討メモ
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.257 鳴神山遺跡直線道路検討メモ
鳴神山遺跡出土直線道路遺構が遺跡内だけの遺構ではなく、直線状に東と西に延伸していることが、自分なりに確かめることができましたので、その道路意義について、これまで考えた事柄をメモしておきます。
自分で古代道路の兆候を確かめた範囲を地図にプロットすると次のようになります。
鳴神山遺跡出土直線道路遺構及びその延伸線上に観察できる線形模様
地形を考慮しない直線性から、この道路は在地勢力がつくったローカルな実用道路ではなく、律令国家がその威信を民衆や在地勢力に見せつけるために作ったものと考えます。
律令国家がこの道路をつくった理由は、蝦夷戦争で下総国の物資・兵員を動員して、効率的に陸奥国に届けることが急務であったためであると考えます。
蝦夷戦争という国家的一大事において、舟運による物資搬送だけでなく、専用陸路を設ける必要があったと考えます。
一般物資と違い軍馬、特牛の搬送は主に陸路で行う必要があり、その効率化のために専用陸路が設けられたものと考えます。
この道路の始点を次のように想定します。
直線道路始点のイメージ(牛馬搬送)
直線道路は主に大結馬牧、高津馬牧、浮島牛牧の牛馬搬送のために作られたとイメージします。
直線道路の印旛浦渡河地点は白井市谷田と八千代市小池を結んだ地点だったと考えます。
直線道路の印旛浦渡河地点イメージ
この渡河地点は近世絵図にも描かれています。おそらく古代にあってはここに土橋を設けて舟を利用することなく渡河できる場所だったと想像します。ここより東には橋はなかったと想像します。
参考 下総国印旛沼御普請堀割絵図
八千代市立郷土博物館提供
参考 下総国印旛沼御普請堀割絵図拡大図
白丸で囲んだところに、現在の白井市谷田と八千代市小池を結ぶ橋がみえます。
下流の神崎には大きな橋が架かっているのがみえますが、古代にはこの橋はなかったと想像します。
直線道路の終点は次のようにイメージします。
直線道路終点のイメージ
直線道路を牛馬搬送専用道路のようにイメージしますので、香取の海を渡るためのミナトは牛馬専用のものがあり、恐らく搬送船も牛馬専用船があったであろうと空想します。
香取の海を渡る前に牛馬に休息をとらせたり、天気を待ったりする必要がありますから、ミナト機能には広大な牧場が必須です。
また牛馬を航送するのに、その航路は短く、かつ単純なものであることがもとめられます。
そのような観点から、直線道路終点はBではなく、Aであると考えました。
以上の検討をまとめると次のようになります。
蝦夷戦争時代の陸奥国への牛馬搬送イメージ
鳴神山遺跡出土直線道路の意義についてイメージを深めることができました。
この直線道路と鳴神山遺跡の他の遺構がどのように絡むのか、続けて検討します。
直線道路とそれがど真ん中を貫通する鳴神山遺跡集落はどのような関係にあるのか?
興味が深まります。
鳴神山遺跡出土直線道路遺構が遺跡内だけの遺構ではなく、直線状に東と西に延伸していることが、自分なりに確かめることができましたので、その道路意義について、これまで考えた事柄をメモしておきます。
自分で古代道路の兆候を確かめた範囲を地図にプロットすると次のようになります。
鳴神山遺跡出土直線道路遺構及びその延伸線上に観察できる線形模様
地形を考慮しない直線性から、この道路は在地勢力がつくったローカルな実用道路ではなく、律令国家がその威信を民衆や在地勢力に見せつけるために作ったものと考えます。
律令国家がこの道路をつくった理由は、蝦夷戦争で下総国の物資・兵員を動員して、効率的に陸奥国に届けることが急務であったためであると考えます。
蝦夷戦争という国家的一大事において、舟運による物資搬送だけでなく、専用陸路を設ける必要があったと考えます。
一般物資と違い軍馬、特牛の搬送は主に陸路で行う必要があり、その効率化のために専用陸路が設けられたものと考えます。
この道路の始点を次のように想定します。
直線道路始点のイメージ(牛馬搬送)
直線道路は主に大結馬牧、高津馬牧、浮島牛牧の牛馬搬送のために作られたとイメージします。
直線道路の印旛浦渡河地点は白井市谷田と八千代市小池を結んだ地点だったと考えます。
直線道路の印旛浦渡河地点イメージ
この渡河地点は近世絵図にも描かれています。おそらく古代にあってはここに土橋を設けて舟を利用することなく渡河できる場所だったと想像します。ここより東には橋はなかったと想像します。
参考 下総国印旛沼御普請堀割絵図
八千代市立郷土博物館提供
参考 下総国印旛沼御普請堀割絵図拡大図
白丸で囲んだところに、現在の白井市谷田と八千代市小池を結ぶ橋がみえます。
下流の神崎には大きな橋が架かっているのがみえますが、古代にはこの橋はなかったと想像します。
直線道路の終点は次のようにイメージします。
直線道路終点のイメージ
直線道路を牛馬搬送専用道路のようにイメージしますので、香取の海を渡るためのミナトは牛馬専用のものがあり、恐らく搬送船も牛馬専用船があったであろうと空想します。
香取の海を渡る前に牛馬に休息をとらせたり、天気を待ったりする必要がありますから、ミナト機能には広大な牧場が必須です。
また牛馬を航送するのに、その航路は短く、かつ単純なものであることがもとめられます。
そのような観点から、直線道路終点はBではなく、Aであると考えました。
以上の検討をまとめると次のようになります。
蝦夷戦争時代の陸奥国への牛馬搬送イメージ
鳴神山遺跡出土直線道路の意義についてイメージを深めることができました。
この直線道路と鳴神山遺跡の他の遺構がどのように絡むのか、続けて検討します。
直線道路とそれがど真ん中を貫通する鳴神山遺跡集落はどのような関係にあるのか?
興味が深まります。
2015年12月29日火曜日
鳴神山遺跡直線道路遺構の延長部画像解析 その2
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.256 鳴神山遺跡直線道路遺構の延長部画像解析 その2
鳴神山遺跡の直線道路遺構の東側延長部に本当に古代道路遺構が存在しているのか、自分なりに確かめてみました。
1947年米軍撮影空中写真、1960年国土地理院撮影空中写真に直線道路遺構延伸線付近に線形模様を確認できました。
1947年撮影米軍空中写真に見る線形模様
1960年撮影国土地理院空中写真に見る線形模様
線形模様は無数にありますが、2時点の空中写真で、同じような場所に線形模様を確認できましたので、単純な画像ノイズを拾ったのではなく、意味のある模様であることは確認できます。
線形模様は主に雑木林や樹園に見られて、踏み跡道の存在による樹冠の隙間のような印象を受けます。
もちろん、古代道路遺跡を示唆するにしても、埋没した掘り込み古代道路に起因する二次情報、三次情報です。
さて、1975年撮影カラー空中写真に鳴神山遺跡直線道路遺構の延伸線をプロットすると次のようになります。
1975年撮影カラー空中写真に鳴神山遺跡直線道路延伸線をプロットした図
1947年、1960年撮影空中写真で線形模様が見つかった部分が、なんとそのまま千葉ニュータウン幹線道路(県道190号、船尾・高花1~3丁目地先)に衣替えしています。
参考 2008年撮影空中写真と鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線
参考 標準地図と鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線
鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線付近に実際に古代道路遺構が存在していて、それに起因して土地所有、地割が古代道路沿いにおそらく道路区画に対応した細長形状等で存在し(現代人にはその意味が分からない地割の細分化や微細な細長形状等が存在し)、その特殊性(土地買収のしやすさ…直線的地割、住民サイドからみると複雑で無意味な微細権利関係の解消)が大きな要因になり、この現代千葉ニュータウン直線道路がつくられたのだと推定します。
奈良時代の蝦夷戦争における軍馬搬送のための道路が、現代ニュータウンの幹線道路としてよみがえったのです。
奈良時代の道路線形がそのまま現代ニュータウン幹線道路線形に採用されたことは、古代社会と現代社会をつなぐ事象として面白いことです。
鳴神山遺跡の直線道路遺構の東側延長部に本当に古代道路遺構が存在しているのか、自分なりに確かめてみました。
1947年米軍撮影空中写真、1960年国土地理院撮影空中写真に直線道路遺構延伸線付近に線形模様を確認できました。
1947年撮影米軍空中写真に見る線形模様
1960年撮影国土地理院空中写真に見る線形模様
線形模様は無数にありますが、2時点の空中写真で、同じような場所に線形模様を確認できましたので、単純な画像ノイズを拾ったのではなく、意味のある模様であることは確認できます。
線形模様は主に雑木林や樹園に見られて、踏み跡道の存在による樹冠の隙間のような印象を受けます。
もちろん、古代道路遺跡を示唆するにしても、埋没した掘り込み古代道路に起因する二次情報、三次情報です。
さて、1975年撮影カラー空中写真に鳴神山遺跡直線道路遺構の延伸線をプロットすると次のようになります。
1975年撮影カラー空中写真に鳴神山遺跡直線道路延伸線をプロットした図
1947年、1960年撮影空中写真で線形模様が見つかった部分が、なんとそのまま千葉ニュータウン幹線道路(県道190号、船尾・高花1~3丁目地先)に衣替えしています。
参考 2008年撮影空中写真と鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線
参考 標準地図と鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線
鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線付近に実際に古代道路遺構が存在していて、それに起因して土地所有、地割が古代道路沿いにおそらく道路区画に対応した細長形状等で存在し(現代人にはその意味が分からない地割の細分化や微細な細長形状等が存在し)、その特殊性(土地買収のしやすさ…直線的地割、住民サイドからみると複雑で無意味な微細権利関係の解消)が大きな要因になり、この現代千葉ニュータウン直線道路がつくられたのだと推定します。
奈良時代の蝦夷戦争における軍馬搬送のための道路が、現代ニュータウンの幹線道路としてよみがえったのです。
奈良時代の道路線形がそのまま現代ニュータウン幹線道路線形に採用されたことは、古代社会と現代社会をつなぐ事象として面白いことです。
2015年12月28日月曜日
鳴神山遺跡直線道路遺構の延長部画像解析
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.255 鳴神山遺跡直線道路遺構の延長部画像解析
鳴神山遺跡の直線道路遺構の延長部に本当に古代道路遺構が存在する可能性があるのか、自分なりに確かめてみました。
鳴神山遺跡直線道路遺構の西延長部について、1960年撮影航空写真を使って画像分析してみました。
次に画像分析に用意した画像を示します。
画像分析に用意した画像
原画像は国土地理院が1960年に撮影した航空写真です。
この原画像をPhotoshopで次の5種の加工をしました。
・コントラスト強
・エッジの光彩
・エンボス
・シャープ強
・トーンカーブ補正
5種のそれぞれについて、鳴神山遺跡直線道路遺構がどのように観察できるか、直線道路遺構延長部に線形の模様が観察できるか、検討しました。
5種の加工画像のうちトーンカーブ補正した画像が最も検討に適していました。
トーンカーブ補正画像を使って直線道路遺構延長部に位置する部分で抽出された線形模様を示します。
線形模様(トーンカーブ補正画像)
トーンカーブ補正画像
抽出された線形模様は、模様として画像上に存在していることは事実です。
道路遺構が存在するならば、それは地下にあるので、この模様は道路遺構に起因して生じた様々な二次的事象の総合体であると考えます。
・土層の厚さ等の違いに起因する、土壌水分の相違による地表の色の相違
・土層の厚さ等の違いに起因する、植物生育条件の違いによる作物生育の相違
・遺構存在に起因する土地所有、地割、踏み分け道の存在(この画像の右上端)
なお、自分の観察眼が強い先入観に基づいて、無数に存在する地表模様のなかから、好都合の模様だけ集めてきている可能性が存在します。
次に同じ場所について、2008年撮影カラー航空写真を使って分析してみました。
線形模様(カラー航空写真)
カラー航空写真
カラー航空写真の方が情報量が多いせいのためか、線形模様はより連続して同じ場所に観察できます。
自分の先入観により特定画像特有の模様を都合よく抽出したという可能性は低まりました。
1960年撮影航空写真にも、2008年撮影航空写真にも同じ場所に線形模様が存在しているのですから、その模様は地表に実在する事象です。
画像分析した全体を示すと次のようになります。
鳴神山遺跡直線道路遺構とその延長上の線形模様
この直線道路遺構とその延長上の線形模様を旧版2万5千分の1地形図に概略的にプロットすると次のようになります。
鳴神山遺跡直線道路遺構とその延長上の線形模様(基図は旧版2万5千分の1地形図)
参考 鳴神山遺跡直線道路遺構とその延長上の線形模様(基図は標準地図)
(概略位置を示すだけであり、正確なプロットではない。赤点線の幅程度の誤差の可能性はある。)
自分なりに、鳴神山遺跡直線道路遺構が「本当に道路だ」と納得できる状況に至りました。
道路なら、その延長があり、その延長があれば発掘しなくても何らかの兆候が観察できるに違いないと考えたのですが、その通りになりました。
鳴神山遺跡の直線道路遺構の延長部に本当に古代道路遺構が存在する可能性があるのか、自分なりに確かめてみました。
鳴神山遺跡直線道路遺構の西延長部について、1960年撮影航空写真を使って画像分析してみました。
次に画像分析に用意した画像を示します。
画像分析に用意した画像
原画像は国土地理院が1960年に撮影した航空写真です。
この原画像をPhotoshopで次の5種の加工をしました。
・コントラスト強
・エッジの光彩
・エンボス
・シャープ強
・トーンカーブ補正
5種のそれぞれについて、鳴神山遺跡直線道路遺構がどのように観察できるか、直線道路遺構延長部に線形の模様が観察できるか、検討しました。
5種の加工画像のうちトーンカーブ補正した画像が最も検討に適していました。
トーンカーブ補正画像を使って直線道路遺構延長部に位置する部分で抽出された線形模様を示します。
線形模様(トーンカーブ補正画像)
トーンカーブ補正画像
抽出された線形模様は、模様として画像上に存在していることは事実です。
道路遺構が存在するならば、それは地下にあるので、この模様は道路遺構に起因して生じた様々な二次的事象の総合体であると考えます。
・土層の厚さ等の違いに起因する、土壌水分の相違による地表の色の相違
・土層の厚さ等の違いに起因する、植物生育条件の違いによる作物生育の相違
・遺構存在に起因する土地所有、地割、踏み分け道の存在(この画像の右上端)
なお、自分の観察眼が強い先入観に基づいて、無数に存在する地表模様のなかから、好都合の模様だけ集めてきている可能性が存在します。
次に同じ場所について、2008年撮影カラー航空写真を使って分析してみました。
線形模様(カラー航空写真)
カラー航空写真
カラー航空写真の方が情報量が多いせいのためか、線形模様はより連続して同じ場所に観察できます。
自分の先入観により特定画像特有の模様を都合よく抽出したという可能性は低まりました。
1960年撮影航空写真にも、2008年撮影航空写真にも同じ場所に線形模様が存在しているのですから、その模様は地表に実在する事象です。
画像分析した全体を示すと次のようになります。
鳴神山遺跡直線道路遺構とその延長上の線形模様
この直線道路遺構とその延長上の線形模様を旧版2万5千分の1地形図に概略的にプロットすると次のようになります。
鳴神山遺跡直線道路遺構とその延長上の線形模様(基図は旧版2万5千分の1地形図)
参考 鳴神山遺跡直線道路遺構とその延長上の線形模様(基図は標準地図)
(概略位置を示すだけであり、正確なプロットではない。赤点線の幅程度の誤差の可能性はある。)
自分なりに、鳴神山遺跡直線道路遺構が「本当に道路だ」と納得できる状況に至りました。
道路なら、その延長があり、その延長があれば発掘しなくても何らかの兆候が観察できるに違いないと考えたのですが、その通りになりました。
2015年12月27日日曜日
学習 台地上の溝状古代道路の例
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.254 学習 台地上の溝状古代道路の例
緊急寄り道学習として、鳴神山遺跡の近くの大塚前廃寺の大溝について学びます。
大塚前廃寺の場所
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
上記地図の下端中央付近が丁度鳴神山遺跡です。大塚前廃寺の位置は鳴神山遺跡から北約1.5㎞の台地上です。
大塚前廃寺遺構平面図
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
2棟の掘立柱建物と1軒の竪穴住居が出土し、その特徴と出土物からいずれも仏教的施設と考えられ、8世紀末から9世紀初頭に位置づけられるとしています。
古代廃寺跡の目の前に大溝が東西に走っています。
大溝の断面図を示します。
大溝の断面図
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ本文編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
大溝の規模は「幅は上端で約2m、下端で60~80㎝、深さは120~130㎝をはかる。」です。
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)ではこの大溝について次のように記述しています。
大溝
また、見つかった溝のうち、掘立柱建物・竪穴住居の遺構群の北を走行する大溝は、再検討の結果、古代に掘削された道路遺構と考えるにいたった。当初、報告(文献1)では近世の野馬堀に関連した遺構と考えられていたが、溝内からレンズ状に出土した瓦の出土状況や、溝内で確認された硬化面の様子、そして県内で確認されている切り通し状の古代道路遺構との類似性などから、近世の野馬堀の遺構とは考えがたい。
1970年代の初めに発掘された時は近世野馬堀と考えたが、その後の古代道路出土事例増大に伴う検証で道路遺構に変更になったものです。
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ本文編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)の情報をよく読むと、溝から出土する遺物の位置が覆土層の上部であり、鳴神山遺跡の直線道路遺構とよく似ています。道路が廃棄された後覆土され、その上に廃棄物が捨てられたという状況が両遺跡の溝遺構で一致します。
次に発掘時の写真を示します。
大塚前廃寺 発掘時写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
大塚前廃寺 発掘時写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
蝦夷戦争時代に下総台地西部各地に点在したであろう中小の馬牧から、軍馬を陸奥国方面へ搬送するために、香取の海沿岸のミナトに軍馬を効率的に集める施設だったと想像します。
緊急寄り道学習として、鳴神山遺跡の近くの大塚前廃寺の大溝について学びます。
大塚前廃寺の場所
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
上記地図の下端中央付近が丁度鳴神山遺跡です。大塚前廃寺の位置は鳴神山遺跡から北約1.5㎞の台地上です。
大塚前廃寺遺構平面図
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
2棟の掘立柱建物と1軒の竪穴住居が出土し、その特徴と出土物からいずれも仏教的施設と考えられ、8世紀末から9世紀初頭に位置づけられるとしています。
古代廃寺跡の目の前に大溝が東西に走っています。
大溝の断面図を示します。
大溝の断面図
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ本文編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
大溝の規模は「幅は上端で約2m、下端で60~80㎝、深さは120~130㎝をはかる。」です。
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)ではこの大溝について次のように記述しています。
大溝
また、見つかった溝のうち、掘立柱建物・竪穴住居の遺構群の北を走行する大溝は、再検討の結果、古代に掘削された道路遺構と考えるにいたった。当初、報告(文献1)では近世の野馬堀に関連した遺構と考えられていたが、溝内からレンズ状に出土した瓦の出土状況や、溝内で確認された硬化面の様子、そして県内で確認されている切り通し状の古代道路遺構との類似性などから、近世の野馬堀の遺構とは考えがたい。
1970年代の初めに発掘された時は近世野馬堀と考えたが、その後の古代道路出土事例増大に伴う検証で道路遺構に変更になったものです。
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ本文編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)の情報をよく読むと、溝から出土する遺物の位置が覆土層の上部であり、鳴神山遺跡の直線道路遺構とよく似ています。道路が廃棄された後覆土され、その上に廃棄物が捨てられたという状況が両遺跡の溝遺構で一致します。
次に発掘時の写真を示します。
大塚前廃寺 発掘時写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
大塚前廃寺 発掘時写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
大塚前廃寺 大溝の発掘時写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
まるで塹壕のような印象を受けます。
台地上にこのような大溝を掘り、それが古代道路だったのですから、自分にとって驚きを伴う学習です。
木曽馬の尻幅が約40㎝ですから、この道路(大溝)内で古代馬のすれ違いは無理に近い状況です。
大溝発掘時写真に斜面に大きな穴が開いていますが、このような場所に馬や人が台地上に上れる施設があったのかもしれません。
あるいはこの道路を横断する施設(開閉門など)があったのか、木陰となる大樹があったのか?
あるいはこの道路を横断する施設(開閉門など)があったのか、木陰となる大樹があったのか?
一方通行であることを前提にすると、この道路は馬や牛を追い立てて移動するのに恰好の施設です。
下総台地西から下総台地東へ、馬を長距離にわたって一気にかつ効率的に搬送するための機能がメインである施設(道路)と考えると、この塹壕のような施設の意義が判ったような気になります。
蝦夷戦争時代に下総台地西部各地に点在したであろう中小の馬牧から、軍馬を陸奥国方面へ搬送するために、香取の海沿岸のミナトに軍馬を効率的に集める施設だったと想像します。
2015年12月26日土曜日
2015.12.26 今朝の花見川
今朝は、ちぎれ雲が西から東へ次々に移動していて、それに太陽光が当たって光り、快晴の時よりも華やかな花見川風景となりました。
花見川風景
ちぎれ雲が赤く染まっています。
花見川風景
花見川風景
花見川風景
花見川風景
ちぎれ雲が赤から金に変化しています。
弁天橋から下流
弁天橋から上流
ちぎれ雲が銀色に輝いています。
畑の空
ちぎれ雲が金、黄、銀色に輝いています。
画面中央に直線状の旭日光が写り、まるでガラス窓越しに撮った時の反射映像のようになっています。
花見川風景
ちぎれ雲が赤く染まっています。
花見川風景
花見川風景
花見川風景
花見川風景
ちぎれ雲が赤から金に変化しています。
弁天橋から下流
弁天橋から上流
ちぎれ雲が銀色に輝いています。
畑の空
ちぎれ雲が金、黄、銀色に輝いています。
画面中央に直線状の旭日光が写り、まるでガラス窓越しに撮った時の反射映像のようになっています。
2015年12月25日金曜日
鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 4
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.253 鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 4
鳴神山遺跡の直線遺構について、台地上の溝であることから野馬堀に違いないと強い先入観の元に考えましたが、発掘調査報告書をよく読むと、発掘調査報告書に書いてあるように、それが道路であると考えるようになりました。
自分の思考に盲点があったことが判りました。
その盲点とは、古代道路の断面形状についての基礎知識が無いことでした。
次の図は「千葉県の歴史 資料編考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)に掲載されている新山(しんやま)遺跡の台地上の道路例です。
新山遺跡
道路跡は第1地点では上部幅3.5~4.6m、底部幅3.0~3.5m、深さ0.85~1.0m(確認面を基準とした値)の浅い溝状を呈する。底面には幅0.4~1.8mの2条または3条の硬化面が0.8mほどの間隔をあけて南北方向に延びている(図3)。第2地点では上部幅3.5~3.7m、底部幅1.5~2.0m、深さ0.1~-0.4mの溝状を呈し、底面には0.3~0.6mの硬化面が2条南北方向に延びる。覆土は自然堆積を示し,硬化面は両端がわずかに高く、中央部がくぼんでおり浅い皿状を呈している。
「千葉県の歴史 資料編考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
台地上の古代道路が全体として大きな溝となっています。堀と表現してもよいと思います。切通と表現してもよいと思います。
このような下総台地における古代道路事例を知っていなかったということに気が付かなかったというお粗末盲点でした。(*)
台地上の道路が溝(堀、切通)になっている理由について知りたいと思います。
現段階ではその大きな理由として牛馬の通行が関係していると考えました。
古代の道路では人だけの通行ではなく、牛馬の円滑な通行が重要であり、牛馬が確実に道を歩くためには、道と道以外の土地を牛馬にもわからせる必要があり、そのために溝を掘り、段差を設ける必要があったのではないかと推察しました。
鳴神山遺跡のM004遺構が道路であると自分が確信するために、寄り道として下総台地の発掘古代道路事例を調べてみたいと思います。
……………………………………………………………………
2015.12.26 追記
* 上記文章で最初「お粗末」と書いたのですが、違和感を感じたので、盲点と訂正しました。
その後、お粗末と感じるか、盲点と感じるかの差異に、自分にとっての大きな情報が含まれていることに気が付き、最初はお粗末と感じたという記録を残すために、お粗末盲点と再訂正しました。
ブログ「花見川流域を歩く番外編」2015.12.26記事「私のお粗末・盲点論争」記事参照
鳴神山遺跡の直線遺構について、台地上の溝であることから野馬堀に違いないと強い先入観の元に考えましたが、発掘調査報告書をよく読むと、発掘調査報告書に書いてあるように、それが道路であると考えるようになりました。
自分の思考に盲点があったことが判りました。
その盲点とは、古代道路の断面形状についての基礎知識が無いことでした。
次の図は「千葉県の歴史 資料編考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)に掲載されている新山(しんやま)遺跡の台地上の道路例です。
新山遺跡
道路跡は第1地点では上部幅3.5~4.6m、底部幅3.0~3.5m、深さ0.85~1.0m(確認面を基準とした値)の浅い溝状を呈する。底面には幅0.4~1.8mの2条または3条の硬化面が0.8mほどの間隔をあけて南北方向に延びている(図3)。第2地点では上部幅3.5~3.7m、底部幅1.5~2.0m、深さ0.1~-0.4mの溝状を呈し、底面には0.3~0.6mの硬化面が2条南北方向に延びる。覆土は自然堆積を示し,硬化面は両端がわずかに高く、中央部がくぼんでおり浅い皿状を呈している。
「千葉県の歴史 資料編考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
台地上の古代道路が全体として大きな溝となっています。堀と表現してもよいと思います。切通と表現してもよいと思います。
このような下総台地における古代道路事例を知っていなかったということに気が付かなかったという
台地上の道路が溝(堀、切通)になっている理由について知りたいと思います。
現段階ではその大きな理由として牛馬の通行が関係していると考えました。
古代の道路では人だけの通行ではなく、牛馬の円滑な通行が重要であり、牛馬が確実に道を歩くためには、道と道以外の土地を牛馬にもわからせる必要があり、そのために溝を掘り、段差を設ける必要があったのではないかと推察しました。
鳴神山遺跡のM004遺構が道路であると自分が確信するために、寄り道として下総台地の発掘古代道路事例を調べてみたいと思います。
……………………………………………………………………
2015.12.26 追記
* 上記文章で最初「お粗末」と書いたのですが、違和感を感じたので、盲点と訂正しました。
その後、お粗末と感じるか、盲点と感じるかの差異に、自分にとっての大きな情報が含まれていることに気が付き、最初はお粗末と感じたという記録を残すために、
ブログ「花見川流域を歩く番外編」2015.12.26記事「私のお粗末・盲点論争」記事参照
2015年12月24日木曜日
鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 3
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.252 鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 3
2015.12.18記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問1」と2015.12.22記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 2」で鳴神山遺跡遺構M004が道路ではないという考えを示しました。
特に2015.12.22記事では検討図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」を掲載して自分の考えの論拠としました。
ところが、早速、その検討図に事実認識で誤認があることが判りましたので訂正して、道路か否かという検討を深めたいと思います。
……………………………………………………………………
このブログは趣味活動における思考プロセスを実況中継しています。
思考における間違いや不明であることが判った時、その間違いや不明をかみしめて、正しい思考に自分を変えていく状況をブログ記事にしていきます。
このブログは検討成果を公表しているものではなく、あくまで思考プロセス実況中継をしています。
従って、間違いや不明が判った時、過去記事については追記(追補)という形でわからないということや間違いであったという情報を原則として書き込むこととしますが、原文そのものは記録とするためいじらないで残すことも選択肢に含めます。
なお間違った画像は削除したり、訂正版を掲載することにします。画像はWEB上で一人歩きして拡散してしまうためです。
参考
3-2 自分の思考プロセスの実況中継を、ブログで行うスタイルを継続したい。
・検討成果をブログで公表するというのではなく、「ああでもない、こうでもない」と私が思考するプロセスをブログ記事にします。学習を深めていくプロセスを記事にします。ですから、誤りの訂正がこれまでも何度もあり、これからもあるとおもいます。そうしたある程度の試行錯誤を経ることによって、より合理的で充実した自然・文化の認識に到達したいと思います。
2012.01.15記事「ブログ開設1周年」
……………………………………………………………………
検討図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」では次の2点を表示しました。
1 台地上にもかかわらず全線溝となっている
2 台地端A、Bで低地に降りるための切通しが造られていない
このうち、2について台地端A(台地の西端、白井谷奥遺跡029道路状遺構の西端)は低地に降りる部分が切通しになっていることが発掘調査報告書に掲載されていました。
私が発掘調査報告書をよく読まずに、不鮮明な平面画像だけで地形を読み違えた結果です。
発掘調査報告書における白井谷奥遺跡029道路状遺構の記載は次の通りです。
029道路状遺構(第93図、図版55)
調査区西端において検出されている。「調査報告第358集」において報告した鳴神山遺跡M004と同一遺構であり、白井谷奥遺跡から鳴神山遺跡にかけて一直線に走っている遺構である。途中の未調査区をも含めて現状で確認できる総延長距離は590mである。全調査区を見渡しても竪穴住居や掘立柱建物との重複はない。鳴神山遺跡も白井谷奥遺跡もそれほど遺構密度の高い遺跡ではないが、このほかの溝や道路状遺構のほとんどが竪穴住居との重複関係をもつことと比較した場合、これは注目すべき事象である。その上に出土遺物も古代に限定できることから考えて、本遺構は古代のものであると見てまちがいない。
溝の走行方位はN-65°-Eである。調査区内に掛かっている部分は、一部現道のために調査できなかった部分を含め61.7mである。幅は上端で2.0m~2.5m、下端で1.1m平均である。確認面から遺構底面までの掘り込みの深さは最も浅いところで0.4m、最も深いところで0.7mである。遺構底面はほぼ平坦である。
覆土中にはローム粒・ローム塊を含み、覆土中に硬化面が存在しないことから、道路としての使用中はかなり丁寧な管理を受け、廃絶時においては人為的に埋め戻されていると考えられる。
道路状遺構としては遺物の出土量が多いが、出土層位は覆土中層付近に集中している。
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅣ-印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社・財団法人千葉県文化財センター)
台地端A付近の平面図、横断図、縦断図
縦断図をみると溝遺構が斜面を下っている様子が明らかであり、斜面に切通しが出来ていると観察できます。
従って、道路状遺構の特性を次のように把握できます。
道路状遺構の特性
(注 直線遺構の延長距離はGIS上の計測で604mとなりました。)
台地と低地の間にも溝がある、つまり台地斜面の切通しが造られていることを知り、この直線遺構が報告書のいうような道である可能性を感じだしました。
もしこの直線遺構が野馬堀であるなら、直線性を維持してそのまま斜面を下って低地に至る様子はあまりにも不自然だからです。
台地上に溝を掘って道路をつくるという状況が首肯できるならば、道路と考える方の分が良くなります。
当面、野馬堀であるという強い先入観を捨てて、どちらであるか再検討します。
……………………………………………………………………
この直線遺構を台地面を利用した馬牧の野馬堀であるととらえると、直線遺構の検討は鳴神山遺跡とその周辺地域の検討になります。
一方、この直線遺構を道路ととらえると、その検討は鳴神山遺跡だけでなく、船橋市夏見付近の大結馬牧から下総台地を大横断して、おそらく印西市小林、馬場付近に至る古代軍馬搬送ルートを考えることになります。
その古代軍馬搬送ルートの中での鳴神山遺跡の意義を検討しなければなりません。
下総台地全体の古代史の話になります。
検討の大きな分水嶺にたどり着きました。
2015.12.18記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問1」と2015.12.22記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 2」で鳴神山遺跡遺構M004が道路ではないという考えを示しました。
特に2015.12.22記事では検討図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」を掲載して自分の考えの論拠としました。
ところが、早速、その検討図に事実認識で誤認があることが判りましたので訂正して、道路か否かという検討を深めたいと思います。
……………………………………………………………………
このブログは趣味活動における思考プロセスを実況中継しています。
思考における間違いや不明であることが判った時、その間違いや不明をかみしめて、正しい思考に自分を変えていく状況をブログ記事にしていきます。
このブログは検討成果を公表しているものではなく、あくまで思考プロセス実況中継をしています。
従って、間違いや不明が判った時、過去記事については追記(追補)という形でわからないということや間違いであったという情報を原則として書き込むこととしますが、原文そのものは記録とするためいじらないで残すことも選択肢に含めます。
なお間違った画像は削除したり、訂正版を掲載することにします。画像はWEB上で一人歩きして拡散してしまうためです。
参考
3-2 自分の思考プロセスの実況中継を、ブログで行うスタイルを継続したい。
・検討成果をブログで公表するというのではなく、「ああでもない、こうでもない」と私が思考するプロセスをブログ記事にします。学習を深めていくプロセスを記事にします。ですから、誤りの訂正がこれまでも何度もあり、これからもあるとおもいます。そうしたある程度の試行錯誤を経ることによって、より合理的で充実した自然・文化の認識に到達したいと思います。
2012.01.15記事「ブログ開設1周年」
……………………………………………………………………
検討図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」では次の2点を表示しました。
1 台地上にもかかわらず全線溝となっている
2 台地端A、Bで低地に降りるための切通しが造られていない
このうち、2について台地端A(台地の西端、白井谷奥遺跡029道路状遺構の西端)は低地に降りる部分が切通しになっていることが発掘調査報告書に掲載されていました。
私が発掘調査報告書をよく読まずに、不鮮明な平面画像だけで地形を読み違えた結果です。
発掘調査報告書における白井谷奥遺跡029道路状遺構の記載は次の通りです。
029道路状遺構(第93図、図版55)
調査区西端において検出されている。「調査報告第358集」において報告した鳴神山遺跡M004と同一遺構であり、白井谷奥遺跡から鳴神山遺跡にかけて一直線に走っている遺構である。途中の未調査区をも含めて現状で確認できる総延長距離は590mである。全調査区を見渡しても竪穴住居や掘立柱建物との重複はない。鳴神山遺跡も白井谷奥遺跡もそれほど遺構密度の高い遺跡ではないが、このほかの溝や道路状遺構のほとんどが竪穴住居との重複関係をもつことと比較した場合、これは注目すべき事象である。その上に出土遺物も古代に限定できることから考えて、本遺構は古代のものであると見てまちがいない。
溝の走行方位はN-65°-Eである。調査区内に掛かっている部分は、一部現道のために調査できなかった部分を含め61.7mである。幅は上端で2.0m~2.5m、下端で1.1m平均である。確認面から遺構底面までの掘り込みの深さは最も浅いところで0.4m、最も深いところで0.7mである。遺構底面はほぼ平坦である。
覆土中にはローム粒・ローム塊を含み、覆土中に硬化面が存在しないことから、道路としての使用中はかなり丁寧な管理を受け、廃絶時においては人為的に埋め戻されていると考えられる。
道路状遺構としては遺物の出土量が多いが、出土層位は覆土中層付近に集中している。
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅣ-印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社・財団法人千葉県文化財センター)
台地端A付近の平面図、横断図、縦断図
縦断図をみると溝遺構が斜面を下っている様子が明らかであり、斜面に切通しが出来ていると観察できます。
従って、道路状遺構の特性を次のように把握できます。
道路状遺構の特性
(注 直線遺構の延長距離はGIS上の計測で604mとなりました。)
台地と低地の間にも溝がある、つまり台地斜面の切通しが造られていることを知り、この直線遺構が報告書のいうような道である可能性を感じだしました。
もしこの直線遺構が野馬堀であるなら、直線性を維持してそのまま斜面を下って低地に至る様子はあまりにも不自然だからです。
台地上に溝を掘って道路をつくるという状況が首肯できるならば、道路と考える方の分が良くなります。
当面、野馬堀であるという強い先入観を捨てて、どちらであるか再検討します。
……………………………………………………………………
この直線遺構を台地面を利用した馬牧の野馬堀であるととらえると、直線遺構の検討は鳴神山遺跡とその周辺地域の検討になります。
一方、この直線遺構を道路ととらえると、その検討は鳴神山遺跡だけでなく、船橋市夏見付近の大結馬牧から下総台地を大横断して、おそらく印西市小林、馬場付近に至る古代軍馬搬送ルートを考えることになります。
その古代軍馬搬送ルートの中での鳴神山遺跡の意義を検討しなければなりません。
下総台地全体の古代史の話になります。
検討の大きな分水嶺にたどり着きました。
2015年12月23日水曜日
2015.12.23 今朝の花見川
曇天の朝でした。
曇天の朝
落葉樹の葉がほとんど全部落ち、空間が明るくなりました。また花見川水面がよく見えるようになりました。
花見川風景
花見川風景
花見川風景
花見川風景
この風景の中央部に落葉樹が無くて、平べったい笹の生える空間があり、背後に常緑樹がみえます。
常緑樹は印旛沼流域下水道西部ゲートのある場所に植わっています。
手前の樹木がない平べったい空間にはコンクリート製のトーチカが存在していて、樹木が生えるだけの厚みのない土壌が覆っています。
トーチカの調査はこのブログで行い、公表しています。
WEBサイト「トーチカの発見と調査」
花見川風景
弁天橋から下流
弁天橋から上流
畑の空
曇天の朝
落葉樹の葉がほとんど全部落ち、空間が明るくなりました。また花見川水面がよく見えるようになりました。
花見川風景
花見川風景
花見川風景
花見川風景
この風景の中央部に落葉樹が無くて、平べったい笹の生える空間があり、背後に常緑樹がみえます。
常緑樹は印旛沼流域下水道西部ゲートのある場所に植わっています。
手前の樹木がない平べったい空間にはコンクリート製のトーチカが存在していて、樹木が生えるだけの厚みのない土壌が覆っています。
トーチカの調査はこのブログで行い、公表しています。
WEBサイト「トーチカの発見と調査」
花見川風景
弁天橋から下流
弁天橋から上流
畑の空
2015年12月22日火曜日
鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 2
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.251 鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 2
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅣ-印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社・財団法人千葉県文化財センター)では白井谷奥遺跡の調査結果と鳴神山遺跡の調査結果をまとめて次のような記述を行っています。
2 鳴神山遺跡M004道路状遺構・白井谷奥遺跡029道路状遺構にっいて
二遺跡において異なる遺構番号を付してあるが、両遺跡を一直線に走る同一の道路状遺構である。鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡の所在する台地を完全に横切っていると考えられる。走行方位はN-65°-Eである。事実記載において記しているとおり、出土遺物は古代のものばかりであり、古代の遺構との重複はまったくない。このことから考えて、古代の道路と断定してまちがいないであろう。古代の遺構との重複関係がないということは、道路として機能していた期間が長く、かつ、その機能を妨げられない施設であったことを意味している。しかし、上端幅2.0~2.5m、下端幅1.1m平均という規模であり、古代の道路といっても官道になるようなクラスの道路ではない。注意すべきはその走行方位である。台地の上のみの調査であるので、谷間をどのように走っているのかは想定が難しい。周辺を広く見て他の遺跡との関連性を考慮に入れた場合、南西側では古代においてこの道路の指向性を示すような遺跡の存在は知られていない。一方、北東側に目を向けた場合、本埜村竜腹寺に所在する竜腹寺の故地「竜腹寺跡」が鳴神山遺跡から7㎞離れたこの溝の走行方位延長線上に存在する。竜腹寺は印旛沼にまつわる縁起から「三竜寺」伝承の一寺の可能性があるかと想定されるが、木下別所廃寺が本来の竜腹寺であるとの論もあり、実態はまったくわかっていない。現在の竜腹寺については確実に遡れるのは南北朝期であり、はたして本遺跡が機能している段階に存在する古代寺院であるのかどうかも判明しない。千葉ニュータウン関連の発掘調査はかなりの面積において行われているが、残念ながら竜腹寺跡と本道路状遺構の間を結ぶ区間での調査は行われていない。
今後この線上において調査が行われた場合に、本道路状遺構の延長部分が検出されれば、この仮説の一部は実証されることになる。
一直線に走る同一の道路状遺構
溝遺構が一直線に台地面の端から端まで通っていた事実が浮き彫りになりました。
発掘調査報告書では、この溝遺構を上記のように確信をもって道路であるとしています。
専門家が確信を持って道路であると記載している事柄に、知識の無い素人がそれは違うと否定しようとするのですからとんでもないことです。
しかし、2015.12.18記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問1」で書いた通り、この直線遺構を道路と考える材料は最初から全く見当たりません。
専門家の道路説が結局正しければ、自分自信が気がつけない知識上の盲点があり、その盲点の存在がわかるのですから、自分の学習が大いに進みます。
自分の考えが正しければ、それなりに自分の学習が深まります。
どちらに転んでも自分の学習が進展するチャンスに立っているので、今後の認識の深まりが楽しみです。
さて、上記道路説を自分なりに検討してみます。
私がこの直線遺構を道路ではないと考える理由は次の通りです。
【削除】(ここに掲載した検討図は事実認識に間違いがありましたので削除しました。2015.12.24)
道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠
さて、この直線遺構が古代道路と考えると、この道路は規模は小さいけれど律令国家が全国に張り巡らした官道と同じような計画思考で作られていて、地形を無視して直線性を演出し、国家の威信を民衆に示したことになります。
律令国家が直営でつくったものであることはその極端な直線性から確実だと考えます。たとえ国家直営ではなくても、それに準じるランクの道路です。
従って、この道路は国家が必要としている大切な交通機能を実現しているのです。
国家が必要としている重要な連絡、物資移動のためにつくられたのです。
民衆がお遍路をするために作ったものではありません。
特に蝦夷戦争の時代ですから兵員の移動や牛馬を含む軍需物資の運搬等に使われたとか、軍需物資生産のための戦略的重要性のある道路だったと考えることが大切です。
このような道路の性格をM004の延伸線を引いて検討してみました。
次の図は直線道路状遺構の延伸線を記入して、遺跡分布図をプロットしたものです。
M004延伸線と遺跡A
プロットされる遺跡について詳しい知識があるわけではありませんが、この図の中に直線道路の起終点となるような古代重要拠点があるという情報を知りません。
M004延伸線と旧版地形図A
旧版2万5千分の1地形図の情報から延伸線と関連するような道路等を見つけることはできません。
確かに延伸線の先に竜腹寺跡はあります。
はるか西と鳴神山遺跡付近を経由して竜腹寺跡付近とを道路でつなぐ意義が説明されれば、竜腹寺が延長上にある意味が分かるのですが・・・
延伸線上の遺跡は沢山あるので、延伸線上の遺跡があるという説明だけでは何もわかりません。
M004延伸線と旧版地形図B
鳴神山遺跡から東方向の延伸線ではそれに平行するような道路は見つかりません。
M004延伸線と遺跡C
この図の区切り方を見ると、延伸線の西方向が東京湾であり、東海道の通っている場所であることに気が付かされます。
M004延伸線と旧版地形図C
延伸線と平行するような道路を確認できます。そしてその先に大結馬牧があったと考えられる場所があります。
参考 大結馬牧の記述
もし強引に夢想するならば、大結馬牧で生産した軍馬を陸奥国方面に運ぶために、上図のような台地上の道をつくり、鳴神山遺跡付近を通って竜腹寺まで運び、そこから馬を船に乗せて香取の海を渡り、北上したというストーリーを描くことができるかもしれません。
このように夢想すると、古代にあって東京湾と香取の海を直接結ぶ台地横断陸路が存在していた可能性は否定できないと考えます。
しかし、残念ながら、M004はその構造面から道路であることを否定せざるを得ません。
……………………………………………………………………
追記 2015.12.24
当初掲載図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」に事実認識のおいて間違いがありましたので削除しました。
この記事の最後の文章「しかし、残念ながら、M004はその構造面から道路であることを否定せざるを得ません。」を否定してM004が道路かもしれないと感じるようになりました。
予想外のはやさで自分の盲点にきがつくかもしれません。
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅣ-印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社・財団法人千葉県文化財センター)では白井谷奥遺跡の調査結果と鳴神山遺跡の調査結果をまとめて次のような記述を行っています。
2 鳴神山遺跡M004道路状遺構・白井谷奥遺跡029道路状遺構にっいて
二遺跡において異なる遺構番号を付してあるが、両遺跡を一直線に走る同一の道路状遺構である。鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡の所在する台地を完全に横切っていると考えられる。走行方位はN-65°-Eである。事実記載において記しているとおり、出土遺物は古代のものばかりであり、古代の遺構との重複はまったくない。このことから考えて、古代の道路と断定してまちがいないであろう。古代の遺構との重複関係がないということは、道路として機能していた期間が長く、かつ、その機能を妨げられない施設であったことを意味している。しかし、上端幅2.0~2.5m、下端幅1.1m平均という規模であり、古代の道路といっても官道になるようなクラスの道路ではない。注意すべきはその走行方位である。台地の上のみの調査であるので、谷間をどのように走っているのかは想定が難しい。周辺を広く見て他の遺跡との関連性を考慮に入れた場合、南西側では古代においてこの道路の指向性を示すような遺跡の存在は知られていない。一方、北東側に目を向けた場合、本埜村竜腹寺に所在する竜腹寺の故地「竜腹寺跡」が鳴神山遺跡から7㎞離れたこの溝の走行方位延長線上に存在する。竜腹寺は印旛沼にまつわる縁起から「三竜寺」伝承の一寺の可能性があるかと想定されるが、木下別所廃寺が本来の竜腹寺であるとの論もあり、実態はまったくわかっていない。現在の竜腹寺については確実に遡れるのは南北朝期であり、はたして本遺跡が機能している段階に存在する古代寺院であるのかどうかも判明しない。千葉ニュータウン関連の発掘調査はかなりの面積において行われているが、残念ながら竜腹寺跡と本道路状遺構の間を結ぶ区間での調査は行われていない。
今後この線上において調査が行われた場合に、本道路状遺構の延長部分が検出されれば、この仮説の一部は実証されることになる。
一直線に走る同一の道路状遺構
溝遺構が一直線に台地面の端から端まで通っていた事実が浮き彫りになりました。
発掘調査報告書では、この溝遺構を上記のように確信をもって道路であるとしています。
専門家が確信を持って道路であると記載している事柄に、知識の無い素人がそれは違うと否定しようとするのですからとんでもないことです。
しかし、2015.12.18記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問1」で書いた通り、この直線遺構を道路と考える材料は最初から全く見当たりません。
専門家の道路説が結局正しければ、自分自信が気がつけない知識上の盲点があり、その盲点の存在がわかるのですから、自分の学習が大いに進みます。
自分の考えが正しければ、それなりに自分の学習が深まります。
どちらに転んでも自分の学習が進展するチャンスに立っているので、今後の認識の深まりが楽しみです。
さて、上記道路説を自分なりに検討してみます。
私がこの直線遺構を道路ではないと考える理由は次の通りです。
道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠
さて、この直線遺構が古代道路と考えると、この道路は規模は小さいけれど律令国家が全国に張り巡らした官道と同じような計画思考で作られていて、地形を無視して直線性を演出し、国家の威信を民衆に示したことになります。
律令国家が直営でつくったものであることはその極端な直線性から確実だと考えます。たとえ国家直営ではなくても、それに準じるランクの道路です。
従って、この道路は国家が必要としている大切な交通機能を実現しているのです。
国家が必要としている重要な連絡、物資移動のためにつくられたのです。
民衆がお遍路をするために作ったものではありません。
特に蝦夷戦争の時代ですから兵員の移動や牛馬を含む軍需物資の運搬等に使われたとか、軍需物資生産のための戦略的重要性のある道路だったと考えることが大切です。
このような道路の性格をM004の延伸線を引いて検討してみました。
次の図は直線道路状遺構の延伸線を記入して、遺跡分布図をプロットしたものです。
M004延伸線と遺跡A
プロットされる遺跡について詳しい知識があるわけではありませんが、この図の中に直線道路の起終点となるような古代重要拠点があるという情報を知りません。
M004延伸線と旧版地形図A
旧版2万5千分の1地形図の情報から延伸線と関連するような道路等を見つけることはできません。
はるか西と鳴神山遺跡付近を経由して竜腹寺跡付近とを道路でつなぐ意義が説明されれば、竜腹寺が延長上にある意味が分かるのですが・・・
延伸線上の遺跡は沢山あるので、延伸線上の遺跡があるという説明だけでは何もわかりません。
M004延伸線と旧版地形図B
鳴神山遺跡から東方向の延伸線ではそれに平行するような道路は見つかりません。
M004延伸線と遺跡C
この図の区切り方を見ると、延伸線の西方向が東京湾であり、東海道の通っている場所であることに気が付かされます。
M004延伸線と旧版地形図C
参考 大結馬牧の記述
もし強引に夢想するならば、大結馬牧で生産した軍馬を陸奥国方面に運ぶために、上図のような台地上の道をつくり、鳴神山遺跡付近を通って竜腹寺まで運び、そこから馬を船に乗せて香取の海を渡り、北上したというストーリーを描くことができるかもしれません。
このように夢想すると、古代にあって東京湾と香取の海を直接結ぶ台地横断陸路が存在していた可能性は否定できないと考えます。
しかし、残念ながら、M004はその構造面から道路であることを否定せざるを得ません。
……………………………………………………………………
追記 2015.12.24
当初掲載図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」に事実認識のおいて間違いがありましたので削除しました。
この記事の最後の文章「しかし、残念ながら、M004はその構造面から道路であることを否定せざるを得ません。」を否定してM004が道路かもしれないと感じるようになりました。
予想外のはやさで自分の盲点にきがつくかもしれません。
登録:
投稿 (Atom)