2017年7月31日月曜日

印旛沼・手賀沼付近の縄文海進海面分布イメージとその移動ルート

2017.07.27記事「西根遺跡戸神川流路の時代変遷」で戸神川流路変遷の自然地理的特性を書きました。
Google earth proレイヤー表示技術開発の中で偶然判ったことです。
偶然とはいえ、戸神川の自然地理に興味が派生してしまいましたので、数年前から気になっていた戸神川自然地理の最大の問題である縄文海進海面分布について検討しておくことにします。

縄文海進の海陸分布がわかれば、戸神川の考古学(西根遺跡の考古学)学習の基礎を構築することができます。

この記事では縄文海進海面分布をイメージ的、統計的、大局観思考的に検討してみます。

1 関東地方の縄文海進海陸分布の大局観
現代地形学の最新学術書に次の1926年作成「関東低地の旧海岸線図」が掲載されています。

東木(1926)による関東低地の旧海岸線図(「日本の地形4 関東・伊豆小笠原」(貝塚爽平他編、2000、東京大学出版会)より引用)

この図書には関東平野全体の縄文海進地図は別のものは掲載されていません。
現代の代表的地形学書に1926年(大正16年)の学術成果が研究史の一コマではなく、生きた情報として引用されていることに驚きます。
縄文海進について関東平野をこのような総括図として示している図はどれも皆「東木龍七(1926):地形と貝塚分布より見たる関東低地の旧海岸線、地理学評論2-7、2-8」を参考としているようです。
もっとも、この図は「日本の地形4 関東・伊豆小笠原」編者が作成した図のようです。東木(1926)の図は数枚に分かれていて、かつ関東平野を網羅しているわけではありません。

2 関東地方縄文海進海陸分布の簡易的イメージ把握方法
「東木(1926)による関東低地の旧海岸線図」は地図が小縮尺で細かい地形は判りません。そこで「東木(1926)による関東低地の旧海岸線図」の情報レベルのまま、地図を大縮尺にしてみる方法を検討したことがあります。
2014.04.08記事「縄文海進クライマックス期の海陸分布」参照
標高3m、5m、8m、10m、13mを境とした海陸分布図を作成し、東木旧海岸線図とオーバーレイしてみました。
結果として、標高8mを境とした海陸分布図が「旧海岸線図」に最も合い、次に標高10mがよく合いました。

「東木(1926)による関東低地の旧海岸線図」と現在標高8mを境とする海陸分布図との強引な重ね合せ図

厳密性はありませんが、標高8mとか10m等高線付近が縄文海進海陸分布情報をイメージするのに役立つと考えます。

何も手がかりがないことを考えれば、標高8mとか10m等高線利用の意義はあります。

なお、縄文海進の海面上昇は3m程度と言われていますが、関東地方では次のような要因により、縄文海進クライマックス期海岸線の平面位置が、大局観的にみて現在の標高8m、10m等高線平面位置に存在すると考えられます。

●縄文海進クライマックス期海岸線の平面位置が大局観的にみて標高8m、10m等高線平面位置に合う理由
・地殻変動による地盤の上昇
・火山灰の降灰による地層の発達
・植物遺体の堆積による地層の発達
・河川の土砂運搬堆積による地層の発達
・水田耕作開始期以降の干拓・農地造成・宅地造成による人為的盛土

3 印旛沼・手賀沼付近の縄文海進海面分布イメージ
旧版2万5千分の1地形図から谷津谷底を抜き出し、標高10m等高線の位置をプロットしてみました。

谷津谷底の標高10m地点の分布

標高10m地点を赤丸で示しましたが、この赤丸付近まで縄文海進クライマックス期の海面が広がっていたと大局観的、イメージ的、統計的に捉えることができます。

4 縄文海進クライマックス期の印旛沼-手賀沼の交通特性
縄文海進クライマックス期(縄文時代早期頃)の印旛沼と手賀沼の交通特性を考えてみました。
印旛沼と手賀沼の海面を利用した丸木舟により、流域界付近は一部陸路(船越)を利用して交通していたことを考えると、次のような検討結果となりました。

丸木舟を使った印旛沼-手賀沼移動距離

A地点からB地点に移動する最短ルートが戸神川ルートであることが判りました。
陸路が最短になる神崎川ルートは戸神川ルートより1.8倍の距離になり、陸路最短という条件を生かせませんから、縄文海進クライマックス期の印旛沼-手賀沼交通ルートは戸神川ルートに限定されると考えてよさそうです。

海退により縄文海進の海が狭くなっても、戸神川ルートだけ条件が悪くなることは考えられませんから、海退期(縄文時代前期、中期、後期、晩期)でも印旛沼と手賀沼の丸木舟交通のメインルートは戸神川ルートであったと考えることができます。

西根遺跡はこの戸神川ルートの印旛沼側奥に位置します。

西根遺跡が丸木舟を利用した印旛沼-手賀沼交通のミナトであるという想定の確からしさが急激に高まりすます。
またそのミナトが上流側から下流側に順次移動したことの理由も説明可能となります。

この記事では縄文海進クライマックス期海面の位置は統計的・イメージ的なものですが、次の記事でボーリングデータを使って、地学的にその分布について検討を深めます。

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参考

谷津谷底の標高10m地点の分布(拡大図)基図旧版2万5千分の1地形図

谷津谷底の標高10m地点の分布(拡大図)基図標準地図(国土地理院)

2017年7月30日日曜日

イナウ学習 梅原猛 柳田國男 金田一京助

イナウに関する付け焼刃学習の第5回目です。

イナウそのものの興味から離れた大脱線記事です。

2017.07.26記事「イナウ学習 梅原猛「日本の深層」による」で梅原猛の「日本の深層」の記述を引用して考察しました。
その引用文の前で梅原猛は、柳田國男がオシラサマと類似の信仰がアイヌにあるか金田一京助に聞いて、関係が無いと判断した顛末について記述しています。

その記述における柳田國男と金田一京助の関係が大分脚色されているような印象を受けるのでメモしておきます。

梅原猛の記述は次の通りです。
地にあるものたちへの共感

柳田はおしらさまからこけし、おひなさま、あるいは傀儡への展開をみごとに解明したが、おしらさまそのものがなんであるかを、明らかにすることはできなかった。

最初彼は、このような信仰がアイヌにあるのではないかと思って、金田一京助に聞いたところ、アイヌにシラッキカムイというのがあるということを聞いた。シラッキというのは「番をする」ということで、シラッキカムイはアイヌの守り神である。それは多くは、キツネやフクロウのシャレコウベであった。アイヌは旅行のときにもそういうシャレコウベをもって歩く。もしもアイヌのシラッキカムイがそのようなものであるとすれば、それは、顔を描かれた木切れであるおしらさまとは、ずいぶんとちがう。おしらさまとシラッキカムイとは結びつかない。

おそらくそのせいであろう、柳田国男は、おしらさまが蝦夷すなわちアイヌと関係あるという説を捨てる。おしらさまはまったくわが国独自のものであり、たとえそれが偶然蝦夷の地に、すなわち津軽を中心とする東北地方に盛んであったとしても、まったく蝦夷すなわちアイヌと関係のないものだと、後年の柳田は考えたのである。

しかしそれはちがっているのである。金田一の教え方がまずかったか、柳田の尋ね方が不十分かであったのである。おしらさまに、その名もその機能もまったくよく似たというよりは、まったく同じであると思われる神が、実はアイヌに存在しているのである。それはシランパカムイというのである。
梅原猛「日本の深層」(集英社文庫)から引用

オシラサマについて(ひいてはイナウなどについて)柳田國男が金田一京助から影響を受けているような記述になっています。

柳田國男が金田一京助に物事を聞いたことはあるのでしょうけれども、その情報から柳田國男が思考の組み立ての基本を変更することは無かったと考えます。

というのは金田一京助と柳田國男の関係は巨匠と中堅の関係であり、柳田國男が金田一京助に物事について深い部分で「聞く、教えてもらう」ことは無かったと考えるからです。
柳田國男は金田一京助から現場の情報を提供してもらっていただけだと思います。

私がこのような印象を持つのは次の金田一京助の柳田國男追悼文を読んだからです。
追悼文ですから柳田國男を高め、自分は低めているのでしょうけれど、そうした一般的な衣を剥がしても、二人の関係は巨匠と中堅であったと思います。

定本柳田國男集 月報31 「柳田先生を偲びて 金田一京助」

柳田先生を偲びて

金田一京助

私が先生をお慕い申上げた初めは、明治四十年頃のこと、私がその年、樺太へ赴いて、東岸のオチョポッカで、そこのアイヌの、毎日のように口にしているエンルㇺ(enrum)が「岬」の意味だったが、バチラー博士のアイヌ語辞典にはこの語が見えない故、北海道アイヌには無い語だろうかといぶかっていた頃のこと、先生は、私より早く、樺太占領直後の三十九年に赴かれてこの語に気付かれ、驚くべきことを事もなげに、何かの上に、こうお述べになったのを読んだことだった。

それは、「エンルㇺは、北海道でも昔は言ったものだろう。室蘭の岬のエンドモ(絵鞆)は即ちエンルㇺの訛であろうし、今一つ大きく太平洋へ突出した大岬の襟裳崎も、もとエンルㇺだったにちがいない。そこの郡名の幌泉は即ちポロ「大」エンルㇺ「岬」であろう。」というお説だったのである。何という活眼、何という識見、私は頭が下がったものだった。

こうしたことで先生を蔭ながら崇拝している時、先生は同郷人の亀田次郎氏に向かって、「誰かアイヌ語を研究する学者が、大学あたりに居ないか」と問われたことがあって、亀田氏は当時、東大の国語研究室の助手でよく私を知っていた人だったから、
「学者も、食わなきぁなりませんからね」
と突飛な答をして先生を驚かし、
「それぁそうだ、大学あたりでよろしく保護して研究を助けなくては」

そこで亀田氏は、私の名を出して、食うや食わずの刻苦をして居り、ある時、訪れたら、昼飯をしたゝめていたが、何のおかずもなく、塩を振りかけて、から飯をたべて居ました、などお話をしたそう。先生は、目をしばたゝいて聞かれて、
「その人に逢って見たい。君からよろしくこの旨を伝えてくれるように」
と頼まれた、ということで、私もエンルㇺ説に感嘆以来、慕いあげていたものだったから、二三日後、内閣の記録課へお訪ねしてお目にかゝったのが、先生へお近付きになつた最初だった。

心と心との相通、初めてお目にかゝりながら、故旧のように親しく融け合って忘れがたい印象。記録課長は、内閣図書課長を兼ねられ、内閣文庫内の秘本の、蝦夷関係の文書を、課員の窪田君に命じて出して見せて下さるなど、こんな幸福がないと思うほど幸福だった。殊に驚いたのは、どの本を繙いても、赤い不審紙の貼られてない本のなかったこと、それは先生が、そうやってカードを取られた時の目じるしで、実は、先生は、文庫の本を整理されて全部置き替えた上、完全な目録までも作られる目的で、こうやって文庫の本を皆繙かれたものだったというに至って、先生の博覧の源が手に取るように解ったことだった。

果してそうした文庫の新目録は、何年かの後に、出来上ったのであった。

江戸幕府から引き継いだこの文庫は、日本に、否、世界に唯一の珍籍だらけだった内に、最も私を喜ばせた本は浩翰な「蝦夷語彙」三巻の発見だった。

著者「上原有次」は、寛政の蝦夷通辞上原熊次郎にまちがい。最上徳内が信頼した松前藩の通辞で、彼が白虹斎の名で序を書いた「蝦夷方言藻汐草」が成った後、終生のアイヌ語知識をまとめ上げた原本そのものだったから、貴重なものだった。しかも先生は、家へ持ち帰って写してもいいとお許し下さる。暇な頃だったから、持ち帰って、私と家内と家内の姪の林政子(実践卒業)と三人で筆写して製本したのが、凡そこの本の唯一の複本で、私の前に何人もこの書について一言も言っていないし、幕府の書庫内に完全に眠りつゞけて居た本だったから驚く。ロシヤにはドブロトヴォルスキイのAinsko Slovarが在り、英人にはバチラーのアイヌ・イングリシ・ジャパニズ・ディクショナリーがあるのに、日本にだけ住むアイヌの辞書が日本になかったら、正に日本の恥辱だったのに、内閣にこの本が在ることによって、初めて日本の面目も立つ。

余りの嬉しさに、私はその後、これを引き易い分類アイヌ語辞典に写しかえ、謄写版にして知友に頒けるに至ったのは、ひとりでこの珍味を味っているに忍びなかったからである。それもこれもみな、一に柳田先生の賜物だったのである。(昭三九・十一)
定本柳田國男集 月報31 「柳田先生を偲びて 金田一京助」から引用

アイヌ語に関してすら最初は柳田國男の方がはるかに博識であり、日本で最高の情報に接していたのです。
柳田國男は金田一京助に現場情報を期待していたと思います。
おそらく金田一京助からの現場情報は柳田國男が期待したような(パラダイム転換に使えるような)ものではなかったと想像します。
柳田國男は金田一京助の情報の如何にかかわらず思考の枠組みは自分独自に考えていて、「花とイナウ」にあるようにアイヌと和人が同根である可能性を密かに感じながら、学問上の構築物ではアイヌと和人を区別していたのだと思います。



2017年7月29日土曜日

イナウ学習 鉄器以前のイナウ

イナウに関する付け焼刃学習の第4回目です。

2017.07.28記事「イナウ学習 柳田國男「花とイナウ」による」で柳田國男のイナウに関する興味を学習しました。

柳田國男は「花とイナウ」の中で「小刀のまだ普及せぬ頃の、アイヌの中ではどうであったらうか。二つの種族における一つの習俗の、同源異源を説く前には何とかしてこの點を明らかにして置く必要があると思ふ。」と疑問を述べています。

現在見ることのできるイナウは古いものも含めて全て鉄器により作られたものです。
鉄器以前、つまり石器で作られたイナウを見たことはありませんし、それがどのようなものであったか問題にした研究の存在を(自分が素人なので)知りません。

柳田國男は鉄器以前にイナウが作られていたのかどうか疑問を呈しているのですが、その解答はだれもできないのではないかと思います。

しかし、西根遺跡出土丸木製品(発掘調査報告書では杭)が石器で作られたイナウである可能性が濃厚になりました。

石器でつくられた縄文時代後期のイナウ(想定)

この物的証拠が専門家によって認められるならば、縄文人が日常作って祭祀に使っていたイナウの風習がそのままアイヌに受け継がれていると考えられます。

縄文社会の祭祀の様子をアイヌの祭祀から読み解くことができるという思考の根拠になります。

柳田國男がこの情報を知れば、アイヌに残ったイナウという風習と和人に残った削り花が同源であると理解したに違いありません。


2017年7月28日金曜日

30万ページビュー通過に感謝します

2017.07.28 16時ごろこのブログの累計ページビュー数が300000を通過しました。
ブログを読んでいただいている皆様に感謝申し上げます。

30万ページビュー通過の瞬間

このブログは2011.01.15に開設し、約3年後の2014.01.09に10万ページビューを、それから約1年10か月後の2015.11.13に20万ページビューを、そしてさらに約1年8か月半後の2017.07.28に30万ページビューを通過しました。

多くの方々にこのブログをよんでいただいて、とても励みになります。

心から感謝申し上げます。

今後もよろしくお願い申し上げます。

ありがとうございます。

5mメッシュを利用した地形段彩図
(20万ページビュー感謝記事で掲載したものを再掲します。私の地形・風景・地名・考古歴史に関する問題意識の大半はこの地図空間の中に存在しています。)

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参考
2013.04.14からの累計訪問者数の上位20県・州
1 千葉県
2 東京都
3 カルフォルニア州
4 神奈川県
5 埼玉県
6 イリノイ州
7 ワシントン州
8 大阪府
9 茨城県
10 愛知県
11 兵庫県
12 ニューヨーク州
13 北海道
14 京都府
15 長野県
16 福岡県
17 テキサス州
18 静岡県
19 ノースカロライナ州
20 広島県

イナウ学習 柳田國男「花とイナウ」による

イナウに関する付け焼刃学習の第3回目です。

梅原猛「日本の深層」でイナウに関する学習を行いました。
2017.07.26記事「イナウ学習 梅原猛「日本の深層」による

この図書(集英社文庫)の解説を赤坂憲雄という方が書いていて、その中で柳田國男「花とイナウ」について次のように触れています。
戦後の柳田には、「花とイナウ」と題された論考がある。柳田の最初にして、最後の本格的なアイヌ文化論であった。祭りの庭に神霊の依代として立てられる樹木ないし枝である、花/イナウ。削りかけ・御幣・ヌサ・手草などの名で呼ばれる、日本人の信仰のなかの祭りの木つまり花を、アイヌの人々はイナウと称する。花とイナウはあまりに似ている。だからこそ、柳田はそれを「二つの種族における一つの習俗」である、と語らざるをえなかった。ほかの信仰・習俗・伝承については、日本文化/アイヌ文化のあいだに切断線を引くことにためらいを見せなかった柳田が、花/イナウの前では途方に暮れている。「花とイナウ」の漂わせるひき裂かれた雰囲気は、日本文化/アイヌ文化の切断それ自体にたいする確信の揺らぎを暗示している、そんな気がする。

二つの種族における一つの習俗とは、いかにも苦しい。説得力に欠ける。梅原さんならば、迷わずに、それは一つの種族における一つの習俗である、と断言することだろう。わたしには断言するだけの自信は、残念ながらない。しかし、花/イナウとかぎらず、一つの種族における一つの習俗であると仮定することで見えてくるものが、ことに東北の文化のなかには、あまりに多い。
赤坂憲雄「梅原猛「日本の深層」集英社文庫収録解説」から引用

柳田國男がイナウについて考察していること自体興味がありますし、解説文の趣旨が本当にそうであるかも興味が湧きましたので、早速読んでみました。

柳田國男「花とイナウ」定本柳田國男集第11巻から
(文中の鉛筆線は30年前に自分が引いたものです。30年くらい前に定本柳田國男集全31巻、別巻5巻を入手し第1巻から読みだし15巻くらまで読んで、全巻読破できなかった思い出があります。)

柳田國男「花とイナウ」の初出は「昭和22年1月、2月、北方風物2巻1号、2号」です。

書き出しは次の通りです。
北地原住民の神を祭る日に立てる木、彼等の言葉でイナウ又はイナオといふものは、こちらにもよほど似よつた風習があつて、最も普通にはこれを花と呼んでゐる。関東北部では木花、信州の一部には花の木といふ名もあり、正月十三日をそのために花掻き日、同十四日の晩から十五日へかけての年越を花正月、また大正月の松の内に対して、小正月の幾日かの休みを、花の内といつてゐる例も東京の近くにはある。

古い時代には、これを本ものの花と区別するために、削り花と呼んでゐたことが文献の上に伝わり、それを後々は又ケヅリカケともいつたやうで、今も九州方面にはこの名が行はれてゐる。最初の心持は削って掛けるといふのだったらしいが、近頃少しづゝその技術が衰へて来て、何か未完成のやうな感じを伴ふやうになった。しかしもしこのカケが作りかけなどのカケであつたならば、これを改った信仰の儀式に、用意する筈はないのである。

花とイナウと、隻方一つ一つの作品を比べ合せて見ると、あちらのは念入りで手が込んでをり、こちらのは簡略で無造作なものが多いので、たつたこれだけの近頃の事實によつて、或は一方を摸倣であり、眞似そこなひであるやうに、想像する人もないとは限らぬが、さういふ早合點が一番いけない。以前も今の通りであつたといふ根拠は一つもないばかりか、寧ろ反対の推測を下すべき理由が幾つもある。つまりはかういふ目に立たぬ事物にも、まだわれわれの知らなかつた歴史があるのである。
柳田國男「花とイナウ」から引用

この論考で柳田國男はアイヌのイナウという風習が和人の花(削り花)と瓜二つであり、それがどのように関係しているのか興味を持っているということをメインテーマにしています。
アイヌのイナウ習俗のほかにヌサ、タクサなどの神に関する言葉の相似もあり「お互いに内部の生活まで、理解しあってゐたことが想像せられ、たとへやうもないなつかしさを感ずる」と述べています。
そして最後に「一方の信仰が他の信仰の一部までも、置き換へたものとは解することができないのである。」と結んでいます。

この柳田國男の最後の文章は和人の神道などの風習や言葉がアイヌに影響を与えて、それがアイヌのアイデンティティになって現在に至っているという単純な結論を排除しているのです。

和人とアイヌに信仰にかんして花とイナウにみられるように相似の風習や言葉があり、その起源が同じか違うのかわからないと結論付けているのです。

むしろ、和人の神道などの影響でアイヌの信仰を説明しようということではなく、花とイナウの相似の根拠はまだ証拠(データ)の上でその原理を説明できるものがないといっているのです。和人とアイヌの信仰が同根であることを排除していません。

これは終戦直後の昭和22年の文章です。

今から批判すればいくらでもできます。上記赤坂憲雄の文章は昭和22年の柳田國男にたいして少し酷なような印象を持ちました。

寧ろ柳田國男の「花とイナウ」を、柳田國男がアイヌと和人の信仰が同根であると考えようとした可能性があるものとして肯定的に扱うべきものであると考えます。

柳田國男「花とイナウ」は梅原猛にインスピレーションを与えたに違いありません。

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定本柳田國男集第11巻 中表紙

2017年7月27日木曜日

西根遺跡戸神川流路の時代変遷

Google earth proにレイヤーを重層表示して時代変遷が分かるようしたいというツール開発をしていたところ、突然ツール開発が成功しました。
ブログ「花見川流域を歩く番外編」2017.07.25記事「Google earth proレイヤー重層表示の改良 アイディアの源泉
例として西根遺跡の流路を扱っていたのですが、このツールで西根遺跡流路変遷の特徴が判りましたのでメモします。

次に西根遺跡の縄文時代(流路1)から順次現河川までをレイヤー重層表示アニメで示します。最後に流路の集成図を示しています。

このアニメを見ていただくと、下記にかいた特徴を誰でも感得できると思います。

西根遺跡流路変遷アニメ

このアニメをつくる前の流路変遷感は「時代によって流路はバラバラだ。特別の傾向はない。」という印象程度でした。

ところが、このアニメを見ると、発掘域中央付近で時代とともに流路が右に移動していることが判ります。

時代別流路

そして細かく観察すると、なんと縄文時代から現河川(開発前)にかけて流路がほぼ正確に西遷(右岸側へ移動)しているのです。

時代別流路詳細

時代によって戸神川流路はあちこち自由に乱流していたという思考はとても雑なもので到底許されるものでないことを思い知らされました。

この事実を次のように解釈しました。

戸神川流路西遷の理由

左岸船尾方面から戸神川に流入する支谷津の堆積物の影響で戸神川谷津の左岸側が埋まり、流路が支谷津反対側に押しやられていることが読み取れます。

この事実から、戸神川のこの付近は縄文海進後の海→川のプロセスが他の場所より顕著であったことが想定できます。

縄文海進の頃(縄文時代早期、前期頃)戸神川の奥深くまで丸木舟で乗り入れることができたという交通事情が、縄文時代後期には大いに窮屈になっていたことが忍ばれます。

戸神川流路変遷は私が想定する「土器送り場である西根遺跡の本質とはミナト送りの場である」という思考と符合し、さらには補強する材料であると考えます。
2017.04.20記事「西根遺跡学習用作業仮説
2017.04.26記事「西根遺跡は翡翠原石入荷ミナトか? 学習用作業仮説追補

2017年7月26日水曜日

イナウ学習 梅原猛「日本の深層」による

イナウに関する付け焼刃学習の第2回目です。

梅原猛「日本の深層」のイナウに関する記述を学習しました。
20年以上前の記述で、現在の専門世界でどのように評価されているものか自分は知りませんが、自分にとってイナウの特性を直観できる素晴らしい記述です。
アイヌひいては縄文人の心性がよく理解できます。

次の記述は柳田國男がオシラサマと類似の信仰がアイヌにあるか金田一京助に聞いて、関係が無いと判断した顛末の記述の後に出てくるのものです。

…おしらさまに、その名もその機能もまったくよく似たというよりは、まったく同じであると思われる神が、実はアイヌに存在しているのである。それはシランパカムイというのである。

バチェラーの『アイヌ英和辞典』第四版で「シランパ」というところを引くと、「地上の木(複数) v. i. To be standing on the earth, as trees. (An old word only found in stories and legends). It seems to come from shiri, "earth", an, "is", and pa a plural suffix」とある。つまりシランパとは、「木のように地上に立っていること。(物語や伝説にのみ発見される古い言葉である)」というのである。そしてその意味として、バチェラーは、"shiri"すなわち「地」、"an"すなわち「在る」、それに"pa"複数を示す接辞パが加わった「地にあるものたち」という意味だというのである。

「地にあるものたち」それは素晴らしい言葉であるように思われる。「地にあるものたち」-もちろん樹木も地にある。しかし人間も獣もすべてが、やはり「地にあるものたち」なのであろう。木はまさに、このような多くの「地にあるものたち」を代表するものなのである。私はこの世界観に感動をおぼえるのである。現在の地球物理学によれば、まず地球上に植物ができる。そしてその木が発散する酸素によって地球が囲まれ、そしてそこから動物が生まれるという。とすれば、植物は生命の母なのである。このことを予感していたかのように、アイヌ語では木のことを「シランパカムイ」といって、すべての地にあるものを代表させようとするのである。また同じ辞典で「シランパカムイ」のところを引くと、次のようにある。

「木の神・ The name given to any tree regarded as one's guardian deity and so worshipped. Such a tree may be taken as the hunter's care taker. The places where such trees grow are held very sacred.」(人間の守護神としてみなされて崇拝される、すべての木に与えられる名前である。そういう神は、猟師のお守りと考えられている。そしてその木が茂っている場所は、聖なる場所とされる)というのである。

シランパカムイはまさに木の神なのである。木の神であると同時に、それは地上にあるすべてのものを生きとし生けるものを代表する神なのであろう。

また、バチェラーと並んでアイヌ文化を深く愛し、アイヌの土地に住みアイヌ文化の研究に一生を捧げたネール・ゴルードン・マンローは、このシランパカムイを「遠い神」、すなわち天上の神にたいして、近くにいてもっとも頼りにできる神の第一等にあげているのである。マンローはそれは、"vegetation"すなわち「成長の神」であるという。そしてそのシランパカムイの魂は、人間に家や道具を提供する木の中に、特に樫の中に現存するというのである。そしてまた、それは穀物や草の中にも現存して、木を成長させ、穀物を実らせる力となるというのである。

ところがアイヌでは、動物はもちろん植物すらも人間と同じものなのである。動物も植物も、本来その魂は天の彼方のどこかにいて、そこでは人間と同じような生活をしているのである。たまたま彼らの魂は、このわれわれの住む地上にやってきた。そこで彼らは、仮に動物や植物の形をとっているにすぎない。これは驚くべき思想であるように思われる。パンティズムというよりは、パンヒューマニズムというべきかもしれない。とすれば植物は、仮に植物の姿をとった人間といえるかもしれないし、人間は、仮に人間の姿をとった植物といえるかもしれない。この考え方は、地にあるもの、すなわちすべての生きとし生けるものの一方に植物をおき、その一方に人間をおく考え方であるように思われる。そして、その原初は自らの仲間であり、自らの祖でもある植物の生命力を崇拝し、そしてその力を借りようとするのである。

このように考えると、あの白木を削って顔を描く意味は明らかであろう。それはその本来の故郷においては、人間の姿をしている木の神を示したものである。そしてアイヌのイナウもまた、白木を削って顔を描く。つまり、イナウにイナウパロ(イナウの口)、イナウシク(イナウの目)、イナウキサラ(イナウの耳)、イナウネトパ(イナウの体)、イナウケマ(イナウの足)があるという。思えばイナウは木でありながら、同時に人間であるのである。おしらさまもこのようなイナウと同じく、木でありながら人間であるという二重性をもっている。おしらさまは、あのすべての生命の基である「シランパカムイ」をあらわしたものであることは、ほぼまちがいのないように思われる。
梅原猛「日本の深層」(集英社文庫)から引用

縄文人のイナウ信仰がアイヌに引き継がれ、倭人社会には神仏習合などに隠れてオシラサマ信仰として、さらにはコケシ、おひな様、傀儡(操り人形)として残存しているという梅原猛の思考は大いに自分の学習意欲を駆り立てます。
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梅原猛「日本の深層」(集英社文庫)

2017年7月25日火曜日

イナウ ヌササン学習 「アイヌ芸術」による

大膳野南貝塚の竪穴住居柱穴深度分析で竪穴住居跡にヌササン(祭壇)が存在していたらしいことを突き止めました。
また西根遺跡出土物閲覧で「杭」とされるものがイナウである可能性がほぼ確実になりました。

そこでイナウ、ヌササンの付け焼刃学習をしておきます。

この記事では「アイヌ芸術 第二巻木工編」(金田一京助、杉山寿栄男 昭和17年)(昭和48年復刻、北海道出版企画センター)の学習を行います。

この記事では単体の削りかけをイナウ、イナウをセットで配置したものをヌササンとします。

1 野外に設置したヌササンの例

日高地方の例
「アイヌ芸術 第二巻木工編」(金田一京助、杉山寿栄男 昭和17年)から引用

熊祭に於けるイナウの配列順序 日高
「アイヌ芸術 第二巻木工編」(金田一京助、杉山寿栄男 昭和17年)から引用

熊祭イナウ配列順序 石狩
「アイヌ芸術 第二巻木工編」(金田一京助、杉山寿栄男 昭和17年)から引用

2 イナウの例

クマ頭神を配した例
「アイヌ芸術 第二巻木工編」(金田一京助、杉山寿栄男 昭和17年)から引用

イナウの例
「アイヌ芸術 第二巻木工編」(金田一京助、杉山寿栄男 昭和17年)から引用
左の3対のヌサは樺太の例(腕状枝)

イナウの例
「アイヌ芸術 第二巻木工編」(金田一京助、杉山寿栄男 昭和17年)から引用
右の輪のイナウは樺太の例

3 考察
3-1 アイヌのイナウ、ヌササンの意義
これらのイナウ、ヌササンはすべて近代工業製品である鉄器を利用して現代アイヌが作成したものです。
また縄文時代前期から数えて7000年~6000年くらいの時間が、縄文時代後期から数えて4500年~3000年くらいの時間が経過しています。
縄文社会が倭人社会とアイヌ社会に分かれ、アイヌ文化も変遷しているに違いありません。
しかし上記イナウ、ヌササンは縄文時代の原始的祭具の様相を伝えていると考え、縄文時代前期竪穴住居の柱穴から想定したヌササンをイメージする手がかりとして活用できると考えます。
また、縄文時代後期出土物をイナウと想定した思考の裏付けになると考えます。

3-2 住居内外のヌササンについて
図書の中にアイヌ住居内ヌササンについての記述があり、住居内東北隅に配置される例が記述されています。
またアイヌ住居東窓の外に見えるようにヌササンが常備設置され、そのヌササンが法事や供養の場となっている例も記述されています。
これらの記述からこれまでの自分のヌササン、イナウに関する思考は竪穴住居の廃絶祭祀、あるいは土器送り(ミナト送り)祭祀関連に限られていて大変限定した思考であったことに気が付きました。
特に大膳野南貝塚の学習では竪穴住居跡の情報は全て廃絶祭祀の結果であるということではなく、竪穴住居で人が生活していたとき、住居内に設置されたヌササンや住居近辺に設置されたヌササンも柱穴分析の中で見つかるかもしれないことに気が付きました。

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「アイヌ芸術」の表紙
「アイヌ芸術 第二巻木工編」(金田一京助、杉山寿栄男 昭和17年)(昭和48年復刻、北海道出版企画センター)から引用

2017年7月24日月曜日

参考 縄文時代前期集落竪穴住居の柱穴深度分析

現在、大膳野南貝塚の学習は後期集落の竪穴住居柱穴深度分析を行っていますが、参考として前期集落竪穴住居に柱穴深度分析を適用してみました。

J50号竪穴住居の柱穴分析は次のような結果となっています。

J50号竪穴住居の柱穴分析
発掘調査報告書における柱穴の分類とその分布から、主柱穴は北方向を意識して設置されていること、新段階主柱穴及び壁柱穴が存在していた時(建物が存在していた時)、住居に祭壇が設けられ、北方向を向いて拝んでいた可能性を論じました。
2017.04.19記事「竪穴住居廃絶時の祭壇跡か」参照

この検討の確からしさについて、新たに柱穴深度逆立体グラフを用いて検討します。

柱穴深度が大きければより高い柱がそこに建てられていた可能性があり、柱穴深度逆立体グラフは柱の高さを復元想定する材料として使えると考えます。

用途不明柱穴(祭壇であると想定した柱穴)を北に向かってみると次のようになります。

J50号竪穴住居 用途不明柱穴の深度逆立体グラフ

これを東方向を向いてみると次のようになります。

J50号竪穴住居 用途不明柱穴の深度逆立体グラフ
用途不明柱穴が東西方向に3~4の列をなしている状況がわかります。

次に主柱穴、壁柱穴との関係をみると次のようになります。

J50号竪穴住居 古段階主柱穴と用途不明柱穴の深度逆立体グラフ
用途不明柱穴と古段階主柱穴は配置のみならずその深度(つまり柱の高さ)から分別されます。

J50号竪穴住居 新段階主柱穴と用途不明柱穴の深度逆立体グラフ
用途不明柱穴と新段階主柱穴は配置のみならずその深度(つまり柱の高さ)から分別されます。

J50号竪穴住居 壁柱穴と用途不明柱穴の深度逆立体グラフ
壁柱穴と新段階主柱穴は主にその配置から、また深度(つまり柱の高さ)からも分別されます。

参考 J50号竪穴住居 全柱穴の深度逆立体グラフ

また、柱穴深度逆立体グラフを真上付近からみると次のようになります。

J50号竪穴住居柱穴深度逆立体グラフ

これらの観察結果から、J50号竪穴住居の用途不明柱穴の柱は建物が存在していたとき、その中に設置された祭壇(ヌササン)であるという想定の確からしさをより強めることができたと感じました。

次のイメージ図は柱穴深度逆立体グラフのデータ(柱の高さ)を反映していませんが、このようなイメージの祭壇が建物内に作られたと考えることができます。

J50号竪穴住居の祭壇の想像図

J50号竪穴住居では、住居主人が死亡してその竪穴住居の廃絶が決まった時、竪穴住居の建物が存在する状態でその空間が祭祀の場となったと想定します。

後期集落J67竪穴住居(人骨出土)では建物が存在していない状況で祭壇(ヌササン)が作られたと想定できますから、前期集落と後期集落では廃絶竪穴住居が祭祀の場(送り場)として使われるプロセスが異なる可能性があります。

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●北方向礼拝と地形空間との関係
偶然になりますが、前期集落J50号竪穴住居と後期集落67号竪穴住居はすぐ隣接しています。その2つともに北方向を意識していることが読み取れます。
その2つの竪穴住居は大膳野南貝塚が存在する台地の「付け根」のような場所で、東側、西側ともに谷津であり、北を拝むにはうってつけの場所です。
北方向を拝む祭祀の場がそれにふさわしい地形空間と対応しているという因果関係があるのかどうか、意識して学習を進める予定です。

2017年7月23日日曜日

竪穴住居跡送り場のイメージ

大膳野南貝塚後期集落のJ67号竪穴住居が建物廃滅後に送り場として利用されたことを検討しました。
2017.07.22記事「竪穴住居の送り場利用は建物廃滅後」参照

送り場としてのJ67号竪穴住居跡のイメージを用途不明柱穴の深度逆立体グラフを素に作成してみました。

J67号竪穴住居 建物廃滅後お送り場イメージ

J67号竪穴住居 建物廃滅後お送り場イメージ(注記)

参考 J67号竪穴住居 用途不明柱穴の深度逆立体グラフ

このイメージの蓋然性がどれだけあるかという問題は別にして、学習プロセスの中で自分の頭の中に浮かんだイメージをこのような絵にできるようになったことが、学習意欲を大いに高めます。

また将来より学習が進んだ段階で(知識が増えた段階で)このイメージを見ればその蓋然性について直観的な評価ができますから、今からその時のふりかえりが楽しみです。


2017年7月22日土曜日

竪穴住居の送り場利用は建物廃滅後

大膳野南貝塚縄文時代後期集落の竪穴住居柱穴分析を行っています。
柱穴深度逆立体グラフをつくれるようになりましたので、試行データを作成したJ67号住居について、予察的に検討します。

柱穴深度逆立体グラフは柱穴の深さを誇張して地上に表現したものですが、柱穴深度が多きればそれだけ高い柱、太い柱が立っていた可能性があることから、建物存在をイメージする手立ての一つになります。

発掘調査報告書に掲載されているJ67号住居写真と似た角度で柱穴深度逆立体グラフを作成して、並べて、写真の柱穴と柱穴種類(壁柱穴、張出部柱穴、意義記載なし(用途不明)柱穴)を対照させてみました。

このような作業をすると、竪穴住居の送り場としての様子が次から次へと推測できます。
与えられた情報は同じですが、平面図や一覧表情報を見るのと、立体的にその情報をみるのでは推測力(発想力)とその自信の程度が全く異なります。
検討の深さが全く異なることを体験しています。

次のような検討結果を得ることができました。

J67号住居 柱穴深度逆立体グラフからみた送り場の様子推測

人骨近くの用途不明3柱穴は祭壇(ヌササン)の柱穴であると推測することができます。
この場合、祭壇が張出部構造柱の影となる位置関係から、祭壇は建物廃滅後に設置されたと考えることができます。
このように考えると壁柱穴の外に位置する用途不明柱穴も祭壇を構成する柱であると捉えることができます。
また人骨と祭壇の位置関係から送り場に表側、裏手側が存在していたことがわかります。
さらに祭壇は略北側を意識してつくられていたと考えることができます。
前期集落でも祭壇は北側を意識していましたので、房総縄文人が北極星を信仰していたことが推測できます。
J67号住居は建物廃滅後、祭壇が設置された送り場として利用されたと推測することができますから、遺体を置いた時はすでに建物は無かったのです。
獣骨も出土しているので、遺体を置いて送るという祭祀の中で、あるいはそれとは別の祭祀でこの場で獣肉食が行われたと考えられます。

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参考

この記事検討で使ったGoogle earth pro画面

2017年7月21日金曜日

竪穴住居柱穴深度の逆立体グラフ作成成功

大膳野南貝塚後期集落の竪穴住居柱穴分析を行うに当たって、柱穴深度から手がかりが得られるかもしれないと考えます。

そこで、竪穴住居柱穴深度の逆立体グラフ作成にチャレンジしてみました。
土坑体積の立体グラフの作成ができたのですから、柱穴深度についても立体グラフ作成は原理としてできるはずですが、竪穴住居内のミクロ事象分布ですから関連ソフトであるQGIS、GE-Graph、Google earth proの精度が対応できるものであるかどうか不確かでした。

結果は竪穴住居柱穴深度逆立体グラフ作成に成功しました。

柱穴深度立体グラフ 地表から地上方向に逆表示
J67号竪穴住居

柱穴深度立体グラフ

柱穴深度立体グラフ

柱穴深度立体グラフ

柱穴深度立体グラフ

スケールはとりあえず任意であり、柱穴間の相対的関係を見るために作成しました。

発掘調査報告書の記述では柱穴を壁柱穴、張出部柱穴、記述しないものの3つに区分しているので、立体グラフはそれで色分けしてあります。

Google earth pro画面では立体グラフを動かして観察できますから、上記画像で見る以上に細部までの情報を感得できます。

J67号竪穴住居でその用途が記述されていない6本の柱穴のうち3本が竪穴住居内にあり、そのうちの中央1本の深度が大きく、従って高い(あるいは太い)柱が立っていた可能性があり、建物の構造柱ではない、祭壇の柱であった可能性も存在します。

オーバーラップするJ68号住居域に分布するJ67号竪穴住居の柱穴深度はJ68号住居覆土層分の深度が反映されていないので、深度の値が小さくなっています。

これから進める柱穴分析で柱穴深度情報を観察する方法を1つ編み出すことができました。
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参考 発掘調査報告書の記述

J67号竪穴住居の柱穴分布図と柱穴深度情報

2017年7月20日木曜日

廃屋墓から祭壇跡が見つかるか?

大膳野南貝塚後期集落のまとめをざっと学習してきて、自分に少しずつ集落のイメージができてきました。

この記事から後期集落竪穴住居の柱穴分析のつづきに入ります。
2017.05.08記事「後期集落竪穴住居の柱穴予察検討」参照

この記事では検討の視点をメモします。

前期集落と異なり、後期集落では廃絶竪穴住居から人骨が出土した廃屋墓が11軒あります。

大膳野南貝塚後期集落廃屋墓

廃屋墓ではおそらくモガリと同じような祭祀が行われ、祭壇も立てられていたに違いありません。

廃絶竪穴住居から祭壇跡が見つかるとするとその有力対象が廃屋墓です。

そこで、まず廃屋墓としての廃絶竪穴住居の柱穴分析を行い、祭壇跡を探してみます。

例えばJ67住居では、発掘調査報告書で建物構造としての柱穴と認識されていない柱穴が人骨に近くにあります。

J67住居平面図(黄色柱穴は発掘調査報告書で建物構造と関わらないとされているもの)
発掘調査報告書から引用

J67住居写真
発掘調査報告書から引用

今後詳細に検討することによって、J67の3つの非構造柱穴が祭壇の可能性ありと想定できるかもしれません。

廃屋墓の次に特徴的出土物のある廃絶住居跡の柱穴分析を引き続き行い、比較検討を深めたいと思います。

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参考
前期集落の検討
2017.04.19記事「竪穴住居廃絶時の祭壇跡か」から

柱穴分析

祭壇の空想