2014年6月30日月曜日

下末吉海進期バリアー島の学習 その3

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第4部 下総台地形成に遡る その3

バリアー島の概念図は2014.06.30記事「下末吉海進期バリアー島の学習 その2」に引用掲載したのですが、もう少し詳しい図を探していました。

バリアー島の形成は海進期特有の地形といわれていて、6000年前に海進が終わった日本にはほとんどないそうです。稀有な例がサロマ湖に実例があるそうです。

従って日本の地形を対象にした図書ではほとんど扱われていないようです。

手持ちの資料等を探して無く、WEB検索して論文「垣見俊弘(1990):フロリダのバリアー島と沼沢性海岸巡検記、地質ニュース433号、14-25頁」にたどりつき、その中により詳しい説明図を見つけました。

次の図はアメリカフロリダのバリアー島の調査記録に掲載されていたバリアー島の詳しい概念図です。

バリアー島の概念図
垣見俊弘(1990):フロリダのバリアー島と沼沢性海岸巡検記、地質ニュース433号、14-25頁 より引用

このバリアー島の概念図をよく見ると、上げ潮潮汐三角州とバリアー島の間に潮流口が開いています。

WEBで海外のバリアー島説明図を見ると全ての説明図で上げ潮潮汐三角州とバリアー等との間2箇所に潮流口が描かれています。

バリアー島の潮汐口付近の模式図の一例
http://www.pilebuckinternational.com/chapter-5-coastal-sediment-processes/掲載図をトレース引用

これらの図を見て、鹿島川谷津の位置が上げ潮潮汐三角州とバリアー島との間の潮流口にあたる場所にあることに気がつきました。
印旛沼筋河川争奪に興味を持っている私にとって、鹿島川の出自を具体的イメージできる可能性があるので、画期的なことです。

その画期的な気づきをメモしておきます。

次の図は、地形段彩図に下末吉海進期の古東京湾のバリアー島と離水軸および堆積環境を表した図(岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 掲載図)をオーバーレイして、その一部を拡大した図です。

地形段彩図に「下末吉海進期のバリアー島と離水軸及び堆積環境図」をオーバーレイした図
「下末吉海進期のバリアー島と離水軸及び堆積環境図」は岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用

この図に上げ潮潮汐三角州とバリアー島及び潮流口位置を描きこんでみました。

下末吉海進期の上げ潮潮汐三角州とバリアー島及び潮流口の概念分布図 その1

潮流口Aの位置が概略的に根子名川谷津の位置と合います。
潮流口Bの位置が概略的に(地殻変動の影響を受ける前の)鹿島川谷津の位置と合います。

この概念分布図その1から、根子名川谷津と鹿島川谷津の出自は下末吉海進期に形成された上げ潮潮汐三角州とバリアー島の間の潮流口にあるという作業仮説を設定することにしました。

詳細な検討は今後行うこととします。

さて、上記概念分布図をよく見ると、別の事柄にも気がつきます。
「下末吉海進期のバリアー島と離水軸及び堆積環境図」では、上げ潮潮汐三角州の西に島(バリアー島と考えられる)が表現されています。

この島と上げ潮潮汐三角州の間も潮流口であったことには間違いないと思います。そして、この場所が古平戸川の利根川出口の場所にあたります。

下末吉海進期の上げ潮潮汐三角州とバリアー島及び潮流口の概念分布図 その2

この概念分布図その2から、古平戸川谷津の出自も、下末吉海進期に形成された上げ潮潮汐三角州とバリアー島の間の潮流口にあるという作業仮説を設定することにしました。

これら2つの作業仮説(鹿島川谷津と古平戸川谷津の出自が下末吉海進最盛期の別の潮流口にあるということ)から、印旛沼筋河川争奪仮説を強力に補強できることと、印旛沼筋が利根川名残川であるという俗説の誤りを浮き彫りにできることが判りました。

下末吉海進期バリアー島の学習 その2

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第4部 下総台地形成に遡る その2

次の一連の論文を読んで、下総上位面が形成される過程で最初に陸化したバリアー島について学習しました。

1 岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁
2 岡崎浩子・増田富士雄(1992):古東京湾地域の堆積システム、地質学雑誌第98巻、第3号、235-258頁
3 増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁

1 バリアー島の概念
バリアー島の概念図を次に示します。

バリアー島の概念
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 より引用

アメリカ合衆国の東岸は現在でも後氷期の海進期にあたっていて、海進期特有の海岸地形であるバリアー島が大規模に発達していて、その延長は4300kmの海岸線に295のバリアー島が存在します。

2 バリアー期(下末吉海進期)の古東京湾のバリアー島の分布
上記の論文では、下末吉海進期最盛期の海成堆積物である木下層の層相を露頭観察により詳細調査しています。
調査では観察した堆積相のデータから古流系を復元し、それらからバリアー島システムの堆積環境を推論してバリアー島と離水軸、潮汐三角州と潮流口等の分布図を作成しています。
下末吉海進期の古東京湾のバリアー島と離水軸および堆積環境は次の図に示されます。この図は地形面でいうと下総上位面に対応する情報です。

下末吉海進期のバリアー島と離水軸及び堆積環境
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用(地形段彩図の上にオーバーレイ)

増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 ではバリアー島は下末吉海進期に発達したとして、発達期間と海面変動との関係を次の図で表現しています。

バリアー島の発達と海面変動
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 より引用

3 下末吉海進期最盛期の陸域分布
下末吉海進期最盛期の陸域分布は陸地とバリアー島であったと考えられています。その分布を次の図でグレーで塗色しました。

下末吉海進期最盛期の陸域分布
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用、塗色(地形段彩図の上にオーバーレイ)

この分布図を鳥瞰図として表現したものが次図です。

下末吉海進期最盛期の古東京湾イメージ
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 より引用

下末吉海進期最盛期にバリアー島が存在していた根拠は次のように述べられています。

バリアー島が海進にともなって外洋側から移動してきたことは,その移動した痕跡と考えられる平坦な侵食面が,外洋側にあたる離水軸から東側の地層中に明瞭に残されている(Murakoshiand Masuda,1992 ;O kazaki,1 992)ことからも示される.この平坦な面は,外浜における波浪による侵食面と考えられ, ラヴィーンメント面(Ravinement surface:Swift,1968 ;Nummedal and Swift,1987)と呼ばれる.ラヴィーンメント面のすぐ上には細礫などの粗粒堆積物が残留しているのが特徴である.

すでに述べたように,潮汐三角州堆積物は海進期の堆積物であり,その上面付近が最高海面期と考えられるので,その後さらに海面が上昇してバリアーが海面下に溺れたことはないと考えている.もし,バリアー島が沈水したら,沿岸流や波浪による侵食がおこり,地層にその痕跡が明瞭に残るに違いない.玉造町や成田市付近の地層の例ばかりでなく,鹿島灘や九十九里浜沿岸の常総台地の木下層には,そのような痕跡が今のところみつかっていない.したがって,第9図の1のような“外洋に広く開口した古東京湾は存在しなかったのではないか”,と現在のところ考えている.離水軸で示されるバリアー島(第9図2)は,海が最も広がった最高海面期の姿であったのではないだろうか.」(増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁)

4 下末吉海進期最盛期後の海面低下期
下末吉海進期最盛期後に海面が低下すると、潮汐三角州が陸化するとともに、それまで外浜-海浜であった地域が大規模に陸化したと考えられています。
その様子を示すと次の図になります。陸域の分布をグレーで塗色しました。

下末吉海進期最盛期後の海面低下期の陸域分布
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用、塗色(地形段彩図の上にオーバーレイ)

このブログで問題意識を持ってきた印旛沼筋河川争奪の現場である印旛沼筋付近は丁度Lagoon(潟)として水域に留まっています。この区域について、次の記述がされています。

この離水した海浜地域と北側の陸化した木下地域の潮汐三角州の地域とに囲まれた,酒々井から臼井,さらに白井にかけての地域は,それまでの内湾や潟が閉塞されて汽水から淡水へと変化した(MASUDA andOKAZAKI,1983;渡部ほか,1987).この泥質堆積物の中にはKIPテフラからPm-1テフラまで水成堆積状態で産する(中里,1987MS)ことから,流入物質が少ないため遅くまで水域として残ったことが分かる.」(岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁)

5 鳥趾状三角州期(小原台海進期)の古東京湾の様子
次の図に鳥趾状三角州期(小原台海進期)の古東京湾の様子を示します。この図の情報は地形面でいうと下総下位面形成時代に対応します。

鳥趾状三角州期(小原台海進期)の古東京湾の様子
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用(地形段彩図の上にオーバーレイ)

この時期までの海面低下によって浅い平坦な地帯が各地で離水し、海岸平野が出現しました。古鬼怒川の鳥趾状三角州が前進し、八日市場から小見川地域にはバリアーとその西側のラグーンが認められます。

印旛沼筋の古平戸川と鹿島川の筋が谷津として表現されています。


この3論文の学習により、これまでただひたすら「下総上位面は平坦な浅海底が陸化したもの」と考えていた情報不足状態から脱することができたと思います。

下総上位面の出自を各地域毎に、頭の中で現生地形モデルとも対比しながら、バリアー島や潮汐三角州、ラグーン、海浜など海岸地形として考えることができることが判りました。

成果が大の学習でした。

2014年6月28日土曜日

下末吉海進期バリアー島の学習 その1

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第4部 下総台地形成に遡る その1

第4部では下総上位面に関する検討を行います。

下総上位面が出来た頃の様子、それが地殻変動で変形していった様子などについて、5mメッシュDEM(GIS)と現場調査を友として、知ろうという趣旨です。

しかし、第1部縄文海進、第2部花見川河川争奪、第3部印旛沼筋河川争奪と比べると、下総上位面の成り立ちについての知識や問題意識は希薄であると言わざるを得ません。

そこで、第4部では既存文献の学習をしながら、徐々に自分の検討を進めたいと思います。

最初に、下総上位面が形成される直前のバリアー島について、次の文献を読みながら学習します。

1 岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁
2 岡崎浩子・増田富士雄(1992):古東京湾地域の堆積システム、地質学雑誌第98巻、第3号、235-258頁
3 増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁

バリアー島学習のこの初回記事では、このブログで何回も紹介した下末吉海進期の古東京湾とバリアー島イメージ図の意味を、私が出典とは別の意味に変更していたことに気がつかなかったという無様な様子を報告します。

正確に言えば、私が引用した地形専門図書が出典とは別の意味で説明しているのですが、てっきり、その説明が出典と同じものと早とちりしていたのです。

出典とそれを引用した専門図書の地形形成に関する考え方の差異に私が気がつかなかったのです。

このような失敗により刺激を受け、バリアー島について学習する気が強まりました。

1 増田富士雄による古東京湾とバリアー島のイメージ

増田富士雄による古東京湾とバリアー島のイメージ
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 より引用

少し長くなりますが、図の説明文章を引用します。

下末吉期の古東京湾は,鹿島灘と九十九里浜に広く開口した湾であったとされている(成田研究グループ, 1962). そのイメージを描けば,第9図の1のようであったろう.一方,これまでに述べてきたように,下末吉海進期のある時期に,第9図の2のように,水戸から銚子そして房総半島へとバリアー島が存在していた.バリアー島は海面が上昇するにつれて,陸側に移動してきたのだから,バリアー島が存在していた時期には外洋に広く開口した古東京湾は存在しなかったといえる.また,それ以前には海面が低かったのだから,離水軸の地帯ではむしろ陸が広がっていたはずである.

バリアー島が海進にともなって外洋側から移動してきたことは,その移動した痕跡と考えられる平坦な侵食面が,外洋側にあたる離水軸から東側の地層中に明瞭に残されている(Murakoshiand Masuda,1992 ;O kazaki,1 992)ことからも示される.この平坦な面は,外浜における波浪による侵食面と考えられ, ラヴィーンメント面(Ravinement surface:Swift,1968 ;Nummedal and Swift,1987)と呼ばれる.ラヴィーンメント面のすぐ上には細礫などの粗粒堆積物が残留しているのが特徴である.

すでに述べたように,潮汐三角州堆積物は海進期の堆積物であり,その上面付近が最高海面期と考えられるので,その後さらに海面が上昇してバリアーが海面下に溺れたことはないと考えている.もし,バリアー島が沈水したら,沿岸流や波浪による侵食がおこり,地層にその痕跡が明瞭に残るに違いない.玉造町や成田市付近の地層の例ばかりでなく,鹿島灘や九十九里浜沿岸の常総台地の木下層には,そのような痕跡が今のところみつかっていない.したがって,第9図の1のような“外洋に広く開口した古東京湾は存在しなかったのではないか”,と現在のところ考えている.離水軸で示されるバリアー島(第9図2)は,海が最も広がった最高海面期の姿であったのではないだろうか.

説明の趣旨は「図1はこれまでの学説を図にしたもので、このような古東京湾は存在しなかった。図2が真の古東京湾の姿である。」ということです。

図1と図2を対照できるように示したのは、時間的経過の違いを示そうとしたものでないことは明らかです。

2 専門図書による「古東京湾とバリアー島のイメージ」説明
専門図書「貝塚爽平他編集(2000):日本の地形4 関東・伊豆小笠原、東京大学出版会」では「古東京湾とバリアー島のイメージ」について次の情報を引用掲載しています。

専門書による「古東京湾とバリアー島のイメージ」説明
貝塚爽平他編集(2000):日本の地形4 関東・伊豆小笠原、東京大学出版会 より引用

図のキャプションで「(a)最終間氷期最盛期(同位体ステージ5e)の古東京湾、(b)その後のわずかな海面低下に伴って関東平野の東側にバリアー島が出現した。」と書いています。

出典論文とは明らかに異なる説明で、出典論文の1図(つまりa図)と2図(つまりb図)の関係を時間の経過による地形変化としています。


出典論文とそれを引用紹介している専門図書の説明の違いをこれまで気がつかなかった、自分の資料理解力の虚弱さを思い知らされました。

同時に、バリアー島についてそれがどんなものか、上記3つの論文について学習を深めたいという興味が強く湧きました。

上記3論文を自分なりに理解してみてから、それと異なる説明をしている専門図書のいいたいことのニュアンスについても考えてみたいと思います。

つづく

2014年6月27日金曜日

印旛沼筋河川争奪仮説のまとめ

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その18

「第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る」の最終回として、これまで検討してきた印旛沼筋河川争奪仮説をとりまとめました。
2014.05.12記事「印旛沼筋河川争奪の見立て(仮説)」で示した見立て(仮説)の表を約1ヶ月半でかなり充実させることができました。

1 印旛沼筋河川争奪仮説
現在(2014.06.27)までに得られた情報で、印旛沼筋河川争奪仮説を次の表にまとめました。

印旛沼筋河川争奪仮説
項目
内容
名称
印旛沼筋河川争奪
関係場所
千葉県白井市、船橋市、八千代市、千葉市、四街道市、印西市、佐倉市
関係河川
争奪河川:鹿島川
被奪河川:古平戸川(※)
争奪原理
動的河川争奪(※※)又は湖沼域争奪
(オーソドックスな河川争奪原理と異なる。)
争奪タイプ
河道逆行争奪(※※※)
(これまでに花見川河川争奪でのみ発見された珍しい河川争奪タイプである。)
河川争奪であることの証拠
●直接証拠
下総下位面A面(争奪前地形面)と下総下位面B面(争奪後地形面)の分布
●間接証拠
河川争奪を否定すると次の異常が存在することになるので、この異常の存在から逆に河川争奪の存在を証明することができる。
1 印旛沼水系のパターン異常(白井市、八千代市付近)
2 下総下位面時代の谷津幅異常
3 下総下位面構成地層の異常
河川争奪の成因
1 利根川による古平戸川出口の閉塞
(古平戸川流域の営力上の孤立・湖沼化)
2 利根川及び鹿島川の河床低下
(古平戸川より鹿島川の河床が低くなり、侵蝕力に関して古平戸川に対する鹿島川の優位性が発生する。)
河川争奪の地形面モデル
印旛沼筋河川争奪成因モデル 2014.06.24 (下に掲載)
河川争奪時期
下総下位面形成時代の最後期(下総下位面B面形成時代)…約10万年前
地殻運動との関連
印旛沼筋では大局的に見ると、北西部(手賀沼方向)で沈下し、南東部(角崎付近)で隆起する地殻変動が見られる。この地殻変動の大部分は河川争奪後に生起したものであると考える。
印旛沼筋周辺には、地形に反映する多数の隆起軸・沈降軸・断層や規模の大きな陥没地形(オタマジャクシ状凹地)など顕著で複雑な地殻変動がみられる。
これらの変動地形の大部分は、河川争奪後のある期間に集中してできたものであると考える。
関連文献
・印旛沼筋河川争奪に言及した文献はない。
・常総粘土層堆積期(下総下位面形成時代)の印旛沼筋流向を現在と真逆に思考して作成された古地理図が「菊地隆男(1980):古東京湾、アーバンクボタNO18」に掲載されている。
この古地理図は印旛沼筋河川争奪仮説と整合する情報である。
・約10万年前(下総下位面形成時代)のオリジナル古地理図が「千葉県の自然誌 本編2 千葉県の大地」(1997、千葉県発行)に掲載されている。
この古地理図では古利根川の分流が印旛沼筋を現在と同じ方向に流れている。
この古地理図の作成手法や裏付けデータを著者に確認した上で吟味した。その結果この古地理図は誤りであると考える。

 ※ 新川の古称である平戸川を援用して、勝田川を源流にして桑納川等を合わせ、平戸から手賀沼方面に流れていた古河川を古平戸川と呼びます。
※※ 動的河川争奪については2014.04.22記事「花見川河川争奪の特異な原理 動的河川争奪」参照
※※※ 河道逆行争奪については2014.04.24記事「新たな河川争奪タイプ分類 河道逆行争奪」参照

印旛沼筋河川争奪成因モデル 2014.06.24

2 今後の検討(メモ)
今後次のような調査を企画し実施したいと思います 。

2-1 現地調査
・花見川河川争奪は現地調査から始めていますが、印旛沼筋河川争奪はGISでの検討から始めていて、まだ現地調査をほとんどしていません。
・これから現地調査を行い、机上調査結果を確かめて行きます。

2-2 自然地形の復原
・宅地開発地の自然地形復元を旧版2.5万図で行い、地形検討の精度を向上させます。
・旧版2.5万図24面の電子化まで終わっているので、GISプロット作業から始めます。

2-3 千葉第1段丘と千葉第2段丘の分布確認調査
・印旛沼筋の千葉第1段丘と第2段丘の分布確認は正確なものはないので、調査して作成します。

2-4 下総下位面の鹿島川流域分布調査
・鹿島川流域の大部分では下総下位面の分布確認が行われていないので、調査して作成します。

2-5 印旛沼筋河川争奪仮説のバージョンアップ
2-1~2-4に基づいて印旛沼筋河川争奪仮説のさらなるバージョンアップを行います。

2014年6月26日木曜日

印旛沼筋河川争奪の発生年代

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その17

1 印旛沼筋河川争奪の発生年代
これまでの検討で得られた情報から印旛沼筋河川争奪の発生年代を示すと次のようになります。

印旛沼筋河川争奪の発生年代

印旛沼筋河川争奪の発生年代は下総下位面形成期の最後期とし、約10万年前頃と考えます。

顕著な地形を現在に残している地殻変動は、これまでの観察では千葉第1段丘以降の地形では見られません。

従って、顕著な地形を現在に残している地殻変動が、下総下位面形成後でかつ千葉第1段丘形成前の限られた期間に集中的に生起したものと考えます。

地殻変動そのものはこの期間の前後を含めて継続して存在していたことは当然です。

2 印旛沼筋河川争奪の発生年代と地殻変動時期の解釈(メモ)
・印旛沼筋河川争奪が下総下位面形成の末期頃生じた理由は、海面低下が進み、侵蝕基準面が低下しことが引き金になっていると考えます。

・印旛沼筋河川争奪後、つまり下総下位面形成が終わった後に顕著な地殻変動があった理由の一つに、海面低下による地殻に対する荷重低下が効いていると考えます。

つまり、地球規模の寒冷化により海面が低下し、その影響を受けて印旛沼筋では河川争奪という出来事があり、少しタイムラグを経て顕著な地殻変動が生じたと考えます。

今朝の花見川 2014.06.26

昨日数回雷雨があり、花見川付近ではソラマメ大の雹も降りました。

今朝の花見川は勝田川や高津川からの流入水で茶色に濁り、ゴミなどの浮遊物も多くなっていました。

大和田機場からの放水の時は水の濁りは少なく、ゴミ浮遊が全くない点が違います。

茶色に濁った花見川

漂流物の浮かぶ花見川水面

弁天橋からの風景

勝田川
正面は国道16

参考 大和田機場から放水している時の花見川水面
放水時の花見川水面 2013.10.17


なお、今日は水面から上ガス(メタンガス湧出)は殆どありませんでした。勝田川谷津水田で、揚水を停止しているためだと推察します。

2014年6月25日水曜日

印旛沼筋河川争奪と地殻変動との時間的関係

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その16

1 印旛沼角崎付近における下総下位面形成時期(その末期が河川争奪時期)と地殻変動との時間的関係
印旛沼が大曲となっている角崎付近の下総下位面(A面、B面)の分布と地殻変動パターンとの関係を3D図で示すと、次のようになります。


印旛沼が大曲となっている角崎付近の下総下位面(A面、B面)と地殻変動パターンとの関係

下総下位面分布(下総下位面時代の鹿島川河床)は地殻変動の影響を受けていないことは明らかです。しかし、現在の印旛沼河床は地殻変動の影響を受けて大曲しています。

この事実から、鹿島川の流路は地史的にみて次のように変化したと考えることができます。

地史的にみた鹿島川流路の変化

この事実から、下総下位面(A面、B面)形成後つまり印旛沼筋河川争奪後に地殻変動が生じ、それにより鹿島川(印旛沼)の形状が大曲に変化していったことが判ります。

2 古平戸川付近における下総下位面形成時期(その末期が河川争奪時期)と地殻変動との時間的関係
次の図は、このブログで検討した変動地形パターンの把握結果です。

変動地形パターンの把握結果

この図のAのパターン(活撓曲関連地形)はBのパターン(活向斜(柏-佐倉)関連地形によって「切られて」います。
つまり、AパターンよりBパターンのほうが時間的に後である(新しい)ことを示しています。

1の検討で、Aパターンの地殻変動は下総下位面形成時期(その末期が河川争奪時期)の後であることが判明しています。

従って、Bパターンの地殻変動も下総下位面形成時期(その末期が河川争奪時期)の後であることが判明しました。

3 結論 印旛沼筋河川争奪後に顕著な地殻変動が生じた
1と2の検討から、結論として印旛沼筋河川争奪後、つまり下総下位面が全部形成された後に現在顕著な地形を残した地殻変動があったということが判りました。

顕著な地形パターンを現在に残す地殻変動が河川争奪を生起したのではなく、下総下位面の主要面(A面)が形成され、その末期頃に河川争奪があり下総下位面(B面)が形成され、その後に顕著な地殻変動があったという地史順番が判りました。

判ったという意味は、自分の思考において合理的作業仮説を得ることが出来たということですが、画期的だと思います。

2014年6月24日火曜日

印旛沼筋河川争奪仮説の脆弱性除去と再度バージョンアップ

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その15

1 河川争奪仮説脆弱性除去
2014.06.06記事「印旛沼筋河川争奪成因モデルに関する思考実験」および2014.06.07記事「Illustratorを使った思考実験(追試)」で示したように、印旛沼筋河川争奪成因モデルでは、河川争奪後に激しい地殻変動があったと考えます。

その地殻変動の影響を除去してもともとの地形を復元すると河川争奪発生を確かめることができます。河川争奪を合理的に説明できます。

そこで、地殻変動の影響は河川争奪発生以後に主にかかるものとして考えることにします。


そして、古平戸川が利根川平野に出る口で流域閉塞が生じた理由は、地殻変動(隆起)ではなく、利根川の堆積作用であると考えます。

古平戸川の流向が利根川の流向と真逆であることに注目し、その地理位置的関係により古平戸川に流域閉塞が生じたと考えます。

古平戸川に流域閉塞が生じた理由

参考 支谷閉塞低地の形成イメージ
鈴木隆介(1998):建設技術者のための地形図読図入門 第2巻低地、373頁、古今書院 より引用

古平戸川の利根川平野出口が、利根川の堆積物によって埋塞されたという考え方は、まさにその場所のすぐ西隣に、現在の手賀沼が存在しているという事実で、その蓋然性を補強することができます。
手賀沼の成因は、印旛沼、霞ケ浦、北浦などと同様に、支流出口が利根川本川の堆積物で閉塞されたことによるものです。

このように考えることにより、今までの仮説脆弱性(地殻変動をご都合主義により仮説構築に利用するという脆弱性)を除去できます。

現在の地形情報からは、古平戸川の利根川平野出口を塞ぐように見える隆起帯が観察できます。
この隆起帯は河川争奪の後、たまたまその場所に形成されたものであると考えます。
この隆起帯だけ先行して生起して河川争奪を引き起こす要因となり、他の地殻変動は河川争奪の後生起したというこれまでの私の考えは、ご都合がよすぎると反省します。

2 印旛沼筋河川争奪成因モデルの再度バージョンアップ
河川争奪仮説主因を、地殻変動(隆起)から「古平戸川と利根川の流向の真逆性」に変更して、次のようにモデルを再度バージョンアップしました。

印旛沼筋河川争奪成因モデルの再度バージョンアップ

2014年6月23日月曜日

印旛沼筋河川争奪仮説のまとめとその脆弱性

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その14

1 これまでの検討のまとめ
印旛沼筋河川争奪に関するこれまでの主な検討を次にまとめてみました。

印旛沼筋河川争奪成因モデル(2014.06.04記事「印旛沼筋河川争奪成因モデルのバージョンアップ」掲載図の集成図)

地殻変動による思考実験(2014.06.06記事「印旛沼筋河川争奪成因モデルに関する思考実験」掲載図の集成図)

2 河川争奪の主因
この仮説では、河川争奪の主因を古平戸川流域の利根川出口付近の地殻変動(隆起)としています。

モデルの「地殻変動が生じた頃の様子」として、古平戸川流域は「隆起による流域閉塞」を挙げ、そのために古平戸川流域は営力上孤立・湖沼化したと考えました。一方、鹿島川流域はそのような流域閉塞が無かったので、下方浸食が進んだと考えました。

つまり、この時期に古平戸川流域の河床高は下がることはなかったが、鹿島川流域の河床高は下がったと考えました。この河床高の違いは2つの流域が接する場所では侵蝕力の違いになりますから、河川争奪が生じたと考えました。

この考えに、次に示すような脆弱性が含まれていることに気がつきました。

3 河川争奪仮説に関する脆弱性
2014.06.06記事「印旛沼筋河川争奪成因モデルに関する思考実験」および2014.06.07記事「Illustratorを使った思考実験(追試)」で示したように、この仮説では、河川争奪後に激しい地殻変動があったのですが、その地殻変動の影響を除去してもともとの地形を復元すると、河川争奪発生を合理的に説明できることを示しています。

しかし、河川争奪の主因として、古平戸川の利根川出口の地殻変動(隆起)を挙げています。

これは今から考えると、筋が悪い考えだと思います。

地殻変動の一部を河川争奪の主因と考え、地殻変動の大部分を河川争奪後の現象と考えています。自分勝手な論理になってしまっています。

地殻変動が河川争奪の前後にどのように生じたのか、私に情報はないのですが、特段の情報(証拠)が無いならば、地殻変動の影響は仮説において単純に関与させるべきであると考えます。

地殻変動について、ある時は河川争奪の主因として扱い、ある時は河川争奪後の影響として扱うことが、この仮説の脆弱性となっていると思います。

河川争奪の主因は地殻変動以外の別に求め、地殻変動は思考実験で示したように河川争奪後の地形変化要因として扱いたいと思います。

仮説をそのように説明できれば、きれいな仮説になると思います。

仮説から、地殻変動を根拠なく都合よく利用するという脆弱性を除去したいと思います。

つづく

2014年6月20日金曜日

ブログ舞台裏のひとりごと その3

重く大きいテーマを検討していくために、ブログをどのようにの活用するか、重く大きいテーマとブログ活動との調和はあるか、検討してみました。

結果として、次の3つの結論を得ることができました。
この結論に基づいて、生活スタイルを再構築したいと思います。

● 重く大きいテーマを扱っていくための生活スタイル再構築
1 思考力、作業スキルの向上を加速させる
2 記事毎日アップにこだわらない
3 ブログ中心からサイト中心に活動スタイルを転換する

1 思考力、作業スキルの向上を加速させる
ブログを始めた3年前と比べてブログ記事作成のための思考力、パソコン作業スキルは格段に向上してきています。この向上スピードを加速させることによって、重く大きいテーマの一定部分は日々ブログ記事を書くという活動と調和すると思います。

言い方を変えれば、思考力やパソコン作業スキル向上が加速されれば、今まで重く大きいテーマと思っていたものが、そうではなくなるということです。

2 記事毎日アップにこだわらない
思考リズムとブログ記事作成リズムが合わないことが感じられた時は、ブログ記事作成リズムを変更したい思います。有給休暇をいただくようなものです。

3 ブログ中心からサイト中心に活動スタイルを転換する
中長期的に、成果を体系的に整理掲載するサイト(普通のホームページ)をつくり、そのサイト中心の生活に移行したいと思います。

ブログという形式が、自分の思考パターンが徐々に変化してきたために、合わなくなってきたのですから、いつまでもブログ中心に固執していることは得策ではありません。

ここでいうサイト(普通のホームページ)とは、このブログに付随する多数の記事再掲サイトではなく、コンテンツをツリー状に掲示したような一般ホームページのことです。


ブログ記事を毎日書くことにより、知的作業を習慣化し、オリジナルコンテンツを集積してきたということは素晴らしいことです。ですからそうした成果はブログを継続させて、さらに発展させることは当然です。

同時にブログという形式に対する強い信奉は徐々に解消し、サイト中心に移行したいと思います。

サイト(ホームページ)が出来れば、サイトとブログの有機的連携により、自分の思考をより活性化させることができる生活リズムを確立できると期待します。



花見川の早朝風景

2014年6月19日木曜日

ブログ舞台裏のひとりごと その2

現在、4月から、シリーズ記事「花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る」を連載中です。

しかし、連載がなかなか続きません。

印旛沼筋河川争奪をフィニッシュさせる記事の大体の構想は固まっているのですが、記事化が進みません。

その理由の1つに、テーマの重さ、大きさとブログ形式表現(日誌的表現)とのアンバランスがあります。

印旛沼筋河川争奪をフィニッシュさせる記事では、河川争奪と地殻変動との関係を検討し、その説明図を作成することを予定しています。

しかし、この作業は自分にとっては未知の部分も多く、検討成果を少しづつ記事にして、最後には予定調和的に結論に達するという類の作業ではないようです。

集中継続して作業と思考を行い、幾つかの試行錯誤を経て結論に達するというプロセスが必要です。

1日単位の作業でそれなりの報告価値のある途中経過なり成果的なものを出すことが困難です。

とりあえず実際の活動は、時間を集中してとれるようになったら、強引に検討して、強引に記事化して、予定を全うするつもりです。

しかし、重く大きいテーマと、日々記事を積み重ねていくというブログ活動構造特性との不調和をどのように解決するかという問題が、ますます大きくなり、ほっておけない状態となりました。

重く大きいテーマほど興味がありますから、ブログ活動に合わないから重く大きいテーマは避けるという選択肢は最初から100%ありません。

重く大きいいテーマを考えていくうえで、ブログをどのように活用できるのか、できないのか検討して、自分の活動スタイルの再構築を試みたいと思います。

つづく

花見川の早朝風景

2014年6月17日火曜日

ブログ舞台裏のひとりごと その1

このブログの1,000超の記事は99%がその日に書いてその日にアップするというフレッシュなものです。

正真正銘のフレッシュジュースみたいなものであることは誇れることかもしれません。

しかし、フレッシュな食物だけでは持続的安定的生命維持に困難が伴うことから、保存食を発明し、それを重宝に使うことを憶えたのが人間というものです。

このブログも記事を蓄えておき、それを適時アップできればブログ生活がよりスムーズ、快適になると思います。

記事作成の余裕が生活上無くなることがわかっているような時に、記事ストックがあれば便利です。

しかし、現状では1日に複数記事をなぜか書けません。

記事ストックを造りたいのですができません。

何故記事ストックができないのか、その理由を列挙してみました。

1 ブログ記事を複数書くために必要な最小限の時間が生活の中で確保できない場合がある。

2 簡単な記事テーマでも、考え込んでしまい、楽しんでしまい、結果的に時間を浪費することがある。

3 時間が潤沢にあることがわかると、欲張ってしまい、より重い大きなテーマに突入してしまい、長時間かかりきりになり、逆に時間不足に陥ることが多い。

4 1記事を書くと(仕上げると)、気力がなくなり、別の記事に取り組むエネルギーが湧かなくなる、集中力が途切れる場合がある。

1は物理的要因(客観時間的要因)です。
2と3は心理的要因(趣味活動における対時間欲張り心理量比)です。
4は肉体神経的要因(老化)です。

1と4は強く操作しづらい要因です。
2と3の心理的要因(対時間欲張り心理量比)は操作しても、おそらく副作用は少ないと思います。

自分の心理(対時間欲張り心理量比→シンプルに言えば単なる欲張り)をコントロールすることが、これからの自分のブログ生活を安定的に継続させる鍵のようです。


花見川の早朝風景

2014年6月14日土曜日

印旛沼古堀筋御普請図絵

私はこれまで知らなかった「印旛沼古堀筋御普請図絵」の画像を入手しましたので紹介します。

1 経緯
このブログを見ていただいた方(長谷川智昭さん)から「印旛沼古堀筋御普請図絵」について尋ねられたのですが、当方はその図絵については知りませんでした。
長谷川さんがその図絵が掲載されていた本のキャプションから、図絵が収蔵されている船橋市図書館に出向かれてその画像を入手され、当方にもコピーを送っていただきました。
このような経緯で、長谷川さんの好意で図絵画像を入手しました。

2 印旛沼古堀筋御普請図絵
次の画像は船橋市図書館の図書目録(図録)検索用画像ですから低画質なものです。

この画像をこのブログに掲載することについては、船橋市中央図書館郷土資料室から了解をいただいています。

印旛沼古堀筋御普請図絵
(船橋市西図書館所蔵)

印旛沼古堀筋御普請図絵 部分
(船橋市西図書館所蔵)

天保期印旛沼堀割普請の全体像、特に5藩の丁場区分(工区区分)を一覧できるようにした図絵です。

天保期印旛沼堀割普請はお手伝い普請であり、幕府の命により次の全国5藩が従事しました。
1の手(平戸村~横戸村) 沼津藩(水野家) 現静岡県沼津市
2の手(横戸村~柏井村) 庄内藩(酒井家) 現山形県鶴岡市
3の手(柏井村~花島村) 鳥取藩(松平家) 現鳥取県鳥取市
4の手(花島村~畑村)  貝淵藩(林家)  現千葉県木更津市
5の手(畑村~検見川村) 秋月藩(黒田家) 現福岡県甘木市

この図絵に類似するものは他にもあるので、天保期普請当時の社会上層部にこのような図絵を所蔵する需要があったのだと思います。

部分図は「2の手(横戸村~柏井村) 庄内藩(酒井家) 現山形県鶴岡市」付近を示しています。

「高台」とよばれる台地が山のように描かれ、掘削が大変であったことを表現しています。

この図絵の名称「印旛沼古堀筋御普請図絵」の「古堀」とは天明期印旛沼堀割普請ですでに「堀割」の概形が出来ていたので、その古い堀割の工事という意味です。堀割とは「地を掘って水を通したところ。ほり。」ということです。

この図絵ができた由来などの情報は得ていませんので、いつか船橋市図書館に出向いて調べてみたいと思います。

なお、以前の活動で船橋市図書館に「続保定記」の写本があることを知っています。
「続保定記」写本や印旛沼古堀筋御普請図絵が船橋市図書館に収蔵されている経緯についても興味があります。

この図絵について教えていただき、その画像を送っていただいた長谷川さんに感謝します。長谷川さんは次のブログで情報発信しています。


2014年6月13日金曜日

花見川の霞

霞が出ている早朝、光量が少ない時に逆光でアートモード写真を撮ると、物影の霞が青く撮れる場合があることを知りました。

霞が青く写ったアートモード写真 2014.06.13 4:39

通常モードでは次の写真になります

上の通常モード写真

自分が感じたその時の霞の出ている風景印象の表現としては、私はアートモード写真の方を好みます。

仮に私に絵心があってスケッチをするとすれば、通常モード写真のように描くのではなく、アートモード写真のように描くと思います。

アートモード写真で花見川の魅力の一端を引き出すことができると思います。

霞の出た花見川の風景 2014.06.13


霞の出た花見川の風景 2014.06.13

2014年6月12日木曜日

花見川の泉

散歩道の斜面に水が滴り落ちていて、穴が掘ってあるので、泉のようになっている場所があります。

花見川の泉

花見川の泉
この動画では水滴の滴り音も捉えています。

干天が続く冬期にはこの水溜りはなくなってしまいます。

穴は近所のどなたかが掘って、時々埋まった土や枯葉を除いて「管理」しているのだと推測します。

小鳥類が水を呑みに来る場面を時々見かけますから、生態上役立っています。


散歩に来た飼い犬がこの水を呑むこともあります。

2014年6月11日水曜日

花見川のブラックバス

早朝散歩途中に釣り人が魚を釣り上げたところに遭遇したので、魚を見せていただきました。
ブラックバスでした。

釣り人が釣り上げたブラックバス

ブラックバス

この付近でブラックバスは多いとのことでした。ブラックバスはもちろん外来魚で歓迎せざる魚です。

ちなみに、千葉市環境保全部の魚類調査では、花見川で次のような魚類が記録されています。(平成14年度調査)

花島橋付近(天戸制水門の上流)
・フナ属、モツゴ、ヌマチチブ、カダヤシ、ブルーギルの5
新花見川橋付近(長作制水門の下流)
・スズキ、ボラ、セスジボラ、コボラ、ウロハゼ、マハゼの6

カダヤシとブルーギルは外来魚です。
新花見川付近にはスズキ、ボラ類、ハゼ類が顔を出し、リストを見ただけで汐の香りがしてきます。

都川やその支流の葭川にはアユが遡上しているので、花見川も水門に魚道がつくられればアユが遡上し、勝田川や高津川までのぼると思います。

今朝の花見川風景

正面は軽便鉄道橋梁橋台及びトーチカ遺跡

2014年6月10日火曜日

花見川放水のサイン

23日前から大和田排水機場からの放水が行われているようです。
横戸下放流警報局の放水サイン(黄色警告灯)が今朝も廻っていました。

花見川放水のサイン

花見川の水位はいつもより高くなっていました。流れはほとんどありません。

今朝の花見川水面 2014.06.10

水の色が濁っているので、その濁りは支流(勝田川と高津川)のものと考えられるので、大和田排水機場からの放水はこの時点では僅かだと推察しました。
(大和田排水機場からの放水量が一定以上になると水の濁りやゴミは無くなります。)

弁天橋付近では岸の草が2m程まで流れに沿って倒れているので規模の大きな放流が昨晩か昨日あったようです。

弁天橋付近の風景

流れに沿って倒れた岸の草

勝田川河口では草の倒れ方が流れの方向に直角になっています。

勝田川河口
正面の橋は国道16

草の倒れ方が流れの方向に直角になっているということは、放流により花見川の水位が上昇し、その影響で勝田川の水位も上昇し、その時、草の生えている中洲に向かって、本来の流れ方向とは直角の方向で流れができて、その時草が倒れたのだと思います。急激な水位上昇を物語っています。

なお、大和田排水機場からの放流量は記録され公表されていますが、支流の勝田川と高津川及び花見川そのものの流量は全く観測されていません。過去、調査されたことも1度も無いとのことです。
身近な河川の流量がどのくらいか(普段、洪水の時など)、大体のところを簡便な方法で調べて、いつか知りたいと思っています。


花見川の洪水は水位で管理されています。(しかし、水門の開閉があり水位から流量を逆算することはできないようです。)河川管理者は河川施設設計のための計画流量は設定しています。