2013年8月27日火曜日

「戸(と、ど)」地名検討の中間報告

花見川地峡の自然史と交通の記憶 65

2013.06.21記事「「戸(と、ど)」地名検討の状況報告」で、戸地名をGISにプロットして検討を始めたことを書きましたが、その記事の続報です。

八千代市と千葉市を対象に、大字と小字について、戸地名をGIS上の地図にプロットしました。
本来は印西市、佐倉市、酒々井町、栄町、成田市、四街道市なども含めて地図にプロットすべきところですが、これらの市町では場所情報について入手できる資料がないので、後日の作業とし、とりあえず八千代市と千葉市分で中間的に検討してみました。

戸地名リスト(角川地名大辞典等による)を地図にプロットする方法は八千代市と千葉市で異なるため、別記事で説明します。

1 戸地名の分布

八千代市と千葉市の戸地名分布図
赤字は大字(印西市、佐倉市、酒々井町、栄町、成田市、四街道市分を含む)、それ以外は小字

戸地名といってもいろいろな時代に別の意味でつけられたものが混じっているので、この分布図から有用な情報を汲み取るのは困難であることが判りました。
そこで、戸地名の分類を行ってみることにしました。

2 戸地名の分類
分布図に表現した戸地名をよく見ると、木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸が別の場所で沢山重複して出てきます。
これらの地名は何らかの共通した地物・事象に関連して生まれたものであり、私が検討しようとしているイメージ(※)とニュアンスが異なります。

※ 私が考える「戸」のイメージ:東京湾や香取の海が西方からやってきた人々(海の民)によって最初に開拓(植民)されたころ付けられた「戸」がつく地名。(2013.05.20記事「「戸」を構成する4つのイメージ」参照)

そこで、木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸とそれ以外の戸地名に分けてみました。


八千代市と千葉市の戸地名
市区
戸地名
(右以外)
木戸・井戸・出戸・渡戸・橋戸・折戸
八千代市
平戸、平戸台、平戸口、平戸前、平戸、戸崎、戸崎、背戸、砂戸、榎戸
【木戸】木戸浦、新木戸前、仲木戸前、木戸場、木戸場
【井戸】井戸向、井戸作、井戸作、下井戸、亀井戸
【出戸】出戸、出戸
【橋戸】橋土、橋戸
千葉市花見川区
天戸町、天戸境、横戸町、横戸台、横戸谷津、三戸作
【木戸】木戸尻、木戸下
【出戸】出戸
【渡戸】渡戸
千葉市稲毛区
江戸向
【木戸】木戸作、木戸場
【井戸】井戸川、水位戸
【渡戸】渡戸、渡戸
千葉市中央区
登戸町、川戸町、大宮戸、上戸
【木戸】木戸脇、木戸場、木戸脇、木戸作、木戸脇、木戸下、大木戸野、大木戸
【井戸】西井戸、井戸町、桜井戸
【出戸】下出戸、下出戸内谷、東出戸、都出戸、出戸、出戸、出戸
【渡戸】渡戸、渡戸
【橋戸】橋戸、橋戸
【折戸】折戸
千葉市若葉区
戸張作、江戸谷、走戸、走戸台、戸崎、佐屋戸、南佐屋戸、北佐屋戸、戸崎、羽根戸、西之戸、柳戸、水喰戸
【木戸】木戸作、木戸作、木戸坊、大木戸、木戸脇、木戸作、左木戸、木戸、外戸木、木戸下、木戸坊、木戸先、木戸尻
【井戸】西井戸、西井戸、井戸向、大井戸町、下井戸、井戸向、井戸谷、井戸作外、井戸向
【出戸】出戸、出戸、出戸、出戸
【渡戸】渡戸台、渡戸、和田戸、渡戸、渡戸
【橋戸】大橋戸、橋戸、内橋戸
【折戸】折戸、折戸、折戸
千葉市緑区
油戸、皀角子戸、菅戸、菅戸谷、越川戸、越戸、高津戸町、上大宮戸、下大宮戸、宇戸、宇戸谷、大木戸町、石ノ戸、美濃戸、小食土町、関戸、榎戸、引戸
【木戸】大木戸、木戸作、木戸面、木戸作、木戸脇、木戸脇
【井戸】大井戸作、井戸尻、井戸端、亀井戸、柳井戸、井戸尻
【橋戸】大橋戸
※ 太字は大字、それ以外は小字

この場で明確な根拠を示すことは困難ですが、木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸は、植民された土地を農民が耕作するようになった以降に付けれれた地名であるように考えます。

ところが、それ以外の戸地名のなかには、海の民が土地を初めて植民しようとしたとき、つまりその付近の土地を自らのものであると宣言した時の地名が含まれているように考えます。

極めて主観的な分類ですがそれでよいと思っています。なんとなれば、地名の検討は自分自身の密かなかつ確信のある仮説(公表を前提としない心に秘めた仮説)を持つために行うのですから、自分以外の方に理路整然とした説明ができなくてもよいと思っています。
地名の検討はそれだけでは成果物としないこととしました。
地名の検討は、それで生まれた仮説をツールにして調査し、新たな発見等により事実が判明したとき、成果になると思います。

3 木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名
木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名分布図を作成してみました。
この分布図の中にはまだ木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸と同類の農民が土地を耕作するようになって以降の地名も含まれていますが、大半は海の民が土地を自らのものであると宣言した時の地名であると考えます。

木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名分布図

この図を印西市、佐倉市、酒々井町、栄町、成田市、四街道市も含めて作成することにより、花見川地峡の交通に関する有力な仮説を生み出せると考えています。

(人に示すようなレベルにない、直感的な)仮説検討例
天戸の近くに三戸作があります。
この付近は花見川と犢橋川が合流する水運交通の要衝です。
天戸の天は海に通じ、海の民の植民場所として解釈できるようなストーリーが、今後情報を調べれば、展開できると直感できます。
三戸作の三戸は水戸であり、港(船着場)という意味です。
さらにこの場所に「なぎ」という小字もあります。渚という意味であり、高津にもあったように、岸部を港として利用しているため、その地形を意識して地名にしたものと考えます。
これらの情報から、天戸に航海にたけた海の民が植民し、港が出来ていたと仮説します。

4 木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸
それぞれ多数の地名があることから、それぞれの地名のでき方について検討すると有用な情報を得られると考えています。

特に木戸は軍事拠点、支配関係施設、重要施設などと関連するので貴重な情報源になりそうです。

つづく

2013年8月26日月曜日

花見川の上ガスが激しくなる

今朝の散歩は天気快晴、気温冷涼で気持ちのよいものでした。

さて、弁天橋から上流を望むと、遠くの水面の一部だけが白く淀んで、ゴミが沢山浮いていました。
逆光でよく見えないので、カメラを望遠にして画面を見ると、大きな水紋がいくつも見えました。
上ガス(※)にしては水紋が大きすぎるので、近くまで行き観察してみました。
結果次のようにこれまで見たことがない、盛んな上ガス現象が発生していました。

※上ガス:天然ガス(メタンガス)の湧出

1 激しい上ガスの場所
次の図に示すように、弁天橋と勝田川合流部の間付近の花見川水面です。

激しい上ガスの場所
空中写真は電子国土ポータルによる。(2012年撮影)

2 激しい上ガスの様子
次の動画に示すようにこれまで見たことが無いような激しい上ガス現象です。

激しい上ガスの様子(2013.08.26撮影)
(カメラが自動的に焦点をあわすのですが、水面が揺れるたびにピントが合わなくなり、鮮明な動画になっていません。)
水面が濁っている様子もわかります。

激しい上ガスの様子(2013.08.26撮影)

いつも見るような規模の上ガスは次の通りです。

いつもの規模の上ガスの小湧出(2013.08.26撮影)
水面が濁っている様子もわかります。

3 水面が濁っている
激しい上ガスのある場所だけ水面が濁っている、あるいは淀んでいるように見えます。
水面をよく見ると、白い細かい粒も見えます。
水面の上が鍋料理の上澄みみたいになり、膜のように見えます。上流から流れてきたゴミもこの部分に引っかかり、ゴミが多い水面にもなっています。

水面が濁っている様子
画面上部は水面が濁っていない。境が明瞭になっている。

水面が白く濁っているのはメタンガスが地層から花見川の底に湧出する際、メタンガスを含む地層水も多量に湧出し、そこに含まれる不純物が原因ではないかと思います。
白く濁っているところは粘性があるように見えますので、その部分では、何らかの化学変化があるのかもしれません。

今後も引き続き、上ガスの状況に注目していきたいと思います。

追記 未明に強い雨が降り、今朝の花見川は増水して、茶色に濁った水の流れが速い状態でした。昨日の白濁や膜は一切ありませんでした。上ガスは盛んです。(2013.08.27)

2013年8月25日日曜日

古代東海道水運支路が機能していた時代推測

花見川地峡の自然史と交通の記憶 64

1 古代東海道水運支路がつくられた時代推測
古代東海道水運支路がつくられた時期は、次の理由から8世紀頃と考えています。

ア 井上駅から浮嶋駅を通り河曲駅に通じる道路が東海道本路となったのがこの時期であり、この時期に水運支路を設ける必然性があること。

イ この時期の官道は地形を無視した直線道路であるが、古代東海道水運支路の陸路部分(柏井・高津古代官道)も地形を無視した直線道路であること。

古代(768年~796年頃)の道路体系と東海道水運支路(想定)
基図は「衣河流海古代(約千年)水脈想定図」(吉田東伍著「利根治水論考」、日本歴史地理学会発行、明治43121日)

2 古代東海道水運支路が機能していた時代推測
東京湾から花見川を遡り、狭い花見川谷津の奥の花島に行基開基伝承のある花島観音があります。千葉市内で行基開基伝承があるのは千葉寺と花島観音の2ケ所です。行基開基はあくまで伝承で史実ではないのですが、花島観音が千葉市付近では古来からの有数の信仰場所であったことは間違いありません。

花島観音の位置

花島観音ができた当時、花見川に舟運があり、花見川から平戸川(新川)に抜ける交通ルートが使われていたと考えます。
花見川という幹線交通ルートが存在していたので、それを立地条件として花見川観音が現在の場所につくられたと考えます。

行止りの場所に花島観音がつくられたと考えることはできません。

花島観音の秘仏(木造十一面観音立像)は胎内に墨書で、建長8年(1256)に仏師賢光が制作したと記されています。花島観音が置かれている天福寺は天福元年寺とも呼ばれます。天福元年は西暦1233年です。これらの情報から花島観音は13世紀初めごろ開かれたことがわかります。ちなみにこのころは行基信仰の盛んな時代です。

参考 花島観音の秘仏
出典:「天福寺再興落慶供養記念 天福寺本尊十一面観音像」(昭和48年、天福寺)附録写真

これらの情報から、古代東海道水運支路のルートのうち、花見川から平戸川(新川)に抜ける部分の交通は13世紀頃までは機能していたと考えます。


3 まとめ
古代東海道水運支路は8世紀頃つくられ、そのルートのうち、花見川から平戸川(新川)に抜ける部分は少なくとも13世紀頃までの500年間は交通路として機能していたと考えます。

近世(江戸時代)には陸路部分(柏井・高津古代官道)が馬防土手として使われ、花見川から平戸川(新川)に抜ける交通ルートは廃絶していました。

この廃絶した交通ルート(古代東海道水運支路のルート)は人々の記憶(伝承や文書記録)から完全に消え去りました。

この交通ルート廃絶の主な理由は、舟運水利条件が失われたこと(海面低下進行に伴う海岸線後退による湛水面の湿地化・陸化)と台地上の道路網発達の2点にあると考えます。

つづく


2013年8月24日土曜日

古代東海道水運支路仮説と杵隈駅駅家・高津土塁

花見川地峡の自然史と交通の記憶 63

杵隈駅駅家と高津土塁についてわかってきたことを私が考えている古代東海道水運支路仮説に投影して、仮説の充実を図りました。

1 古代東海道水運支路の全体イメージ
古代東海道水運支路の全体イメージを次のように考えます。

古代東海道水運支路の3つの津(古代直轄港湾)(仮説)
基図は「千葉県地名変遷総覧附録 千葉県郷名分布図」

駅と津の意義を次のように捉えています。

駅と津の意義
駅・津
基本機能
浮嶋駅
東海道本路と東海道水運支路が交差する乗換駅
杵隈駅(仮説)
水運路と陸路の乗換駅
高津(仮説)
高津馬牧開発の防衛軍事拠点
直轄港湾
水運路と陸路の乗換駅
志津(仮説)
植民地志津開発の防衛軍事拠点
直轄港湾
水運路の駅
公津
植民地公津開発の防衛軍事拠点
直轄港湾
水運路の駅

2 杵隈駅駅家と高津土塁の対比と考察
2-1 規模
二つの施設の面積を比較すると次のようになります。

杵隈駅駅家と高津土塁の規模比較

杵隈駅駅家:1.1h
高津土塁:3.5h

高津土塁は杵隈駅駅家の約3倍の面積があります。
これは、杵隈駅駅家が純粋な水陸乗換駅であるのに対して、高津土塁の最大の意義が高津馬牧防衛の軍事拠点であり、それに併設して水陸乗換駅であったためであると考えます。

2-2 軍事性
杵隈駅駅家は築地、後谷津水面、台地部空堀など施設自体の防衛を意識した造りになっています。しかし、軍事的拠点性(砦機能等)は希薄です。
一方高津土塁は人工的に大規模な土木工事を行って、高津川、平戸川を視界に収める砦をつくり、また周辺の土地と地形的に切り離した構造としており、きわめて軍事的拠点性が強いものです。

2-3 考察
杵隈駅駅家は軍事的拠点性が希薄であるのに対して、印旛沼水系に入ると高津、志津、公津と直轄港湾(軍事港湾)が続くことから、東京湾水系の土地における律令国家の支配力と印旛沼水系における支配力が異なっていたことが推測できます。

印旛沼水系の香取の海は一種の公海であり、水面は律令国家の支配が及んでいなかったものと考えます。

一方花見川は律令国家が完全に支配していたものと考えます。

律令国家は、植民場所を確保するためには公海である香取の海に流入する小水系の河口部に軍事拠点を設けるという方法を執ったものと考えます。

律令国家は、高津や志津という直轄港湾(軍事港湾)を設け、高津馬牧の開発や植民地志津の開発を行ったのですが、その開発のメインルートは浮嶋駅→杵隈駅→高津→志津であったと考えます。東京湾から出向いて上流から下流に向かって開発していったのだと考えます。

高津馬牧や植民地志津は、流海(利根川)方面から印旛沼水系を上流に遡って開発したのではないのです。

律令国家形成時代において、杵隈駅と高津を結ぶ陸路(柏井・高津古代官道)の意義は極めて大きなものがあったと考えます。


つづく

2013年8月23日金曜日

「杵隈(かしわい)=船着場」仮説の増補改訂

花見川地峡の自然史と交通の記憶 62

1 「杵隈(かしわい)=船着場」仮説の増補改訂
2013.08.14記事「杵隈(かしわい)=船着場の遺跡発見」と2013.08.14記事「杵隈(かしわい)のイメージ」で考察した船着場のイメージを増補改訂します。

増補改訂の理由は、最初に発見した土塁のうち、南側の土塁(関所機能を想定)が含まれる旧家屋敷が杵隈駅駅家(かしわいえきうまや)と判明したため、この駅家(うまや)機能と船着場機能を統合して捉えることが可能となったためです。

2 杵隈駅(かしわいえき)船着場のイメージ

杵隈駅(かしわいえき)船着場のイメージ

2-1 メイン船着場
駅家(うまや)の正面は花見川に向いていて、花見川にメインの船着場があったと考えることが自然です。浮嶋駅から舟で着た駅使は駅家前の花見川東岸にあった船着場で舟を降り、正面にあった門をくぐり駅家(うまや)の入り、出発する時は、駅家から直接橋を渡り、陸路高津へ向かったのだと思います。
メイン船着場は印旛沼堀割普請で失われています。

2-2 メイン船着場前の広場
メイン船着場前に広場があったものと考えます。

現在の地図に見る広場の想定
広場想定場所は黄色の部分
地図はDMデータ(千葉市提供)

2-3 サブ船着場、船溜まり
駅家(うまや)関係者専用のサブ船着場や船溜まりが後谷津にあったと考えられます。

この水面や船着場、船溜まりは軍事的役割(防衛的役割等)も果たしていたと考えられます。

2-4 後谷津を渡る橋
駅家(うまや)から陸路高津方面に出発するとき、後谷津を渡らなければなりませんが、ここに橋が架けれれていたと考えます。
後谷津の出口を狭めるようにつくられた土塁の一つの意味は橋を架ける際に橋の距離を短くするためにつくられた突堤(※)であったと考えます。

※谷津の両側に土の突堤を設け、木橋部分を短くした橋を土橋ともいいます。木橋を落とせば防衛上の機能を発揮できます。

突堤の幅は十分に広く(40mくらい)、したがって、橋の幅も広く、また道も広かったことが判ります。(橋及び道の幅員は10m以上を想定しています。)

広幅員の木橋は律令国家の威信を誇示していたものと考えます。

谷津の両側から突堤を出すことによって水面環境をつくりだし、ここに船溜まりとサブの船着場を設けていたものと考えます。

後谷津を渡る橋は格好の関所機能を有していたものと考えます。


つづく

2013年8月22日木曜日

杵隈駅駅家(かしわいえきうまや)(仮称)の特徴

花見川地峡の自然史と交通の記憶 61

このブログではここまで花見川区柏井町にある古代東海道水運支路の船着場を「杵隈(かしわい)=船着場」として記述してきましたが、駅家(うまや)の存在を想定することとなりましたので、杵隈駅(かしわいえき)と仮称することとします。

1 杵隈駅駅家(かしわいえきうまや)の地形的特徴

1-1 検討に用いた地形段彩図
地形段彩図をつくり、そこに杵隈駅駅家の築地と想定する現在の築地を赤線でプロットしました。立体表示した時に立体感がよくわかるように1秒間隔経緯線も書き込みました。この図を立体表示して検討することとします。

地形段彩図
5mメッシュ(標高)から地図太郎PLUSにより作成

1-2 杵隈駅駅家の位置

杵隈駅駅家の位置
立体図はカシミール3Dにより作成
(注意 3D図は現在の地形によるので、花見川は印旛沼堀割普請と戦後印旛沼開発で深く掘り下げられています。古代の花見川の河床は後谷津、前谷津と整合的な高さにありました。)

花見川を使った水運とここから高津までの陸運の結節場所がこの杵隈駅駅家の位置です。
浮嶋から高津に行くためには、花見川東岸のこの場所で舟から降りて、馬に乗るとか牛車に乗るとか、あるいは歩くしかありません。(2013.08.16記事「杵隈(かしわい)と双子塚古墳を結ぶ官道(想定)」参照)

1-3 駅家地形の特徴

駅家地形
カシミール3Dにより作成

駅家地形
カシミール3Dにより作成

花見川や後谷津に面した河岸段丘だけでなく、台地(下総下位面)も取り込んでいることが特徴です。

台地は駅楼代わりに使い、また防衛上の理由から取り込み、河岸段丘の平坦面には建物を建て、宿泊等ができるようになっていたものと考えます。馬もおいていたと思います。

1-4 駅家内の台地縁からの眺望
台地面を取り込んで駅家をつくった主な理由は、台地の端からの眺望がよく、駅楼の代わりとしてここを使ったものと考えます。
水路あるいは陸路で駅家の近くまで駅使が近づいた時、この台地縁から見つけ、太鼓をたたくなどして急ぎ出迎えの準備等をしたものと考えます。

駅家の台地縁からの眺望
カシミール3Dにより作成
(注意 古代の花見川の河床は後谷津、前谷津と整合的な高さにありました。)

駅家の台地縁からの眺望
カシミール3Dにより作成
(注意 古代の花見川の河床は後谷津、前谷津と整合的な高さにありました。)

現在の眺望
樹木が邪魔をしているが、当時の花見川河床が遠方までよく見えたことが確認できる。

1-5 台地取り込みの軍事上の理由
台地を取り込んだもう一つの理由は、軍事上台地背後から襲われることを防ぐためであったものと考えます。台地の一部を駅家に取り込み、駅家と駅家ではない台地との間に空堀を設けています。

現在の空堀の様子
左が旧家屋敷

2 考察
現存する旧家屋敷を杵隈駅駅家と考えた主な理由は、上記の位置関係及び台地縁を取り込みなおかつ敷地外との間に空堀を設けたことです。

近世にはこの屋敷は現在と同じ外構で存在していたと考えます。(2012.10.13記事「「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影」参照)

近世に、いくら名主であるとはいっても、百姓がこのような築地で囲まれて軍事的配慮をしている屋敷を新たにつくれる条件は無かったとおもいます。
それ以前からこの屋敷が在ったから、近世にお上からお咎めなしで存在できたのだと思います。

ですから、中世か古代にこの施設ができ、その意義が忘れられ、近世に至ったと考えます。

中世にこのような施設ができる可能性についての知識は残念ながら持ち合わせていませんが、中世になると陸上の道が発達するとともに、海面の低下により花見川のような小さな河川では水運の条件が劣悪化したと考えます。
ですから、水運と陸運をこの場所でつなぐ施設が中世になってからできたとは考えにくいと思います。

古代に、律令国家が成立した当初、全国に広幅員幹線直線道路を国家の権威を示すために建設した時に、その一環として、この場所に東海道水運支路の駅家が造られたと考えます。そう考える以外にこの築地で囲まれた台地付屋敷の起原を考えることは困難であると思います。

現存する旧家屋敷の外構が古代の駅家そのものであるということは驚くべき発見です。

古墳が現代まで残るように、築地という土木構造物が残ったのです。しかも、生活で使われながら残ったということは大変稀であると思います。


つづく