2014年5月25日日曜日

サイト「花見川地峡史 -メモ・仮説集-」の開設

41日から連載している花見川地峡に関する記事を読みやすくするために、サイト「花見川地峡史 -メモ・仮説集-」を開設しました。


このサイトに、今後ブログ連載記事を順次転載しますので、過去記事を読み返したり、まとめて読む際などに便利になると思います。

このサイトの左サイドバーにはナビゲーションをつけましたので、記事の移動が迅速にできます。

このブログの記事数があと2つで1000記事になります。1000記事通過を一つの節目と考え、その前後にこのブログの利用のし易さを向上させるためのミニリニューアルを集中して実行します。

サイト「花見川地峡史 -メモ・仮説集-」の開設はその一環です。

読みやすく利用しやすいブログにするために、1週間程時間をかけてミニリニューアルを順次行いますのでよろしくお願いします。

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2014年5月23日金曜日

画像内容そのもののWEB検索

画像内容そのもののWEB検索が可能であることを最近知りましたので紹介します。
WEB技術の日進月歩にはただただ驚くばかりです。
                                      
次のGoogle画像検索画面を出します。

Google画像検索画面
この画面にはいろいろの方法で飛ぶことができますが、通常のGoogle検索画面で「画像検索」を検索するとトップにくるサイトがこのサイトです。

この画面のカメラアイコンをクリックすると次の画面になります。

画像情報入力を促す画面
検索する元となる画像のURLか、自分のパソコン内の画像をアップロードするか2つの入力方法をたずねてきます。

例えば、私のブログの次の画面の河川争奪の古典的説明図を例にとってWEB検索してみます。

ブログ「花見川流域を歩く」の1画面
この画面で画像部分にカーソルを当てて、右クリックして出てくる文字列の中の「画像URLをコピー(O)」をクリックすると、この画像のURLを自分のパソコンにコピーできます。

先ほどの画像情報入力を促す画面の「画像のURLを貼り付け」タブの入力欄にカーソルを移動して右クリック→貼り付けすると画像のURLが貼り付けられます。そうしたら、右の青い「画像で検索」をクリックします。これで画像そのもののWEB検索が行われ、その画面が出てきます。

画像検索結果
ブログ「花見川流域を歩く」関連が3件、外国のページが2件ヒットし、類似の画像が出てきました。

外国のページにクリックして飛んでみました。

古典的河川争奪の絵が掲載されている外国のページ
ニュージーランドのブログで、この絵(原画はアメリカ人デービス)を著書に掲載したのはニュージーランド人のコットンです。このブログはオカルト関係のようです。コットンの家系を紹介しているようです。
この検索結果から地形に関する特段の興味を得られたことにはなりませんでしたが、全世界を対象にして(Googleが把握している全世界のWEB上の画像を対象にして)画像そのものの検索ができることを体験し、感動しました。

類似の画像はこの場合モノクロの線画という特徴から類似の事例を無数に列挙しています。

類似の画像

別の例として、このブログオリジナルの画像を検索してみました。

画像検索に用いた画像(地形段彩図)
同じように画面上で右クリックしてこの画像のURLを取得し、画像検索しました。

画像検索結果
ブログ「花見川流域を歩く」関連が3件、PICASAGoogleの画像データベース)関連が1件、にほんブログ村(「花見川流域を歩く」が参加しているコミュニティ)が1件という結果になりました。

類似の画像は類似の色彩で模様が細かい画像が多数列挙されました。

類似の画像

画像検索の感想
キーワードとか諸元での検索ではなく、画像コンテンツそのもので検索できるということを知らなかったので、純粋に驚きました。

いろいろな画像を検索してみて、これまでは得られないとあきらめていた情報を得られる可能性を感じました。

例えば、ある程度知られている有名な画像なら、その画像がどのように使われているか、直ぐにわかります。

あまり知られていない画像なら、それを使っているサイトがあるかどうかわかります。

あるいは、自分のつくった画像を転載引用しているサイトがあるかどうか確かめることもできます。

また類似事例を見ることによって、オリジナル画像をつくる際の配色や構図などのヒントを得ることもできそうです。

これからは画像検索を多用したいと思います。


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2014年5月22日木曜日

フクロウの羽を拾う

今朝の散歩でフクロウの羽を拾いましたので、記録しておきます。

路上のフクロウの羽 2014.05.22 4:08
街灯と自動販売機のある明るい路上でしたので、直ぐにカラスではない別の鳥の羽であることが判りました。

路上のフクロウの羽
大きさはフクロウかオオタカのどちらかのものになりますが、色と模様からフクロウの羽とわかります。

この場所は2014.03.29記事「フクロウを見かける」に書いた場所です。

この場所にある林にフクロウが棲んでいる可能性が大です。

羽を見つけた場所の林

本日は4時前にフクロウは棲みかの林に戻ったことになります。

2014.04.26記事「フクロウと対面」に書いたフクロウ観察時間は524分です。
2014.05.11記事「フクロウの狩場はサイクリングロード」に書いたフクロウ観察時間は441分です。

いつもより、今日は早めに狩りを切り上げ、星が出ているうちに棲みかに戻っています。

想像ですが、昨日一日雨が降り、夜半から晴れたので、水浸しの地中にいたネズミやモグラが一斉に地上に出て、フクロウは大猟だったのだと思います。
散歩人に出会うような朝まで狩をしなくても腹一杯になったのだと思います。

ちなみに、3月29日に棲みかと考える林でフクロウを見かけた時間は5時26分です。この頃はまだ日の出が遅い時期でした。この日は狩が出来たので、星が出ているまだ薄暗いうちに棲みかに帰れたのかもしれません。

持ち帰ったフクロウの羽

ホトトギスが飛びながら鳴いていました。夏到来です。

ホトトギスの鳴き声 2014.05.22 16秒、鳥は写っていません

コジュケイにも会いました。
コジュケイ
コジュケイは警戒心が強く、私はこれまでまともな写真を撮ったことがありません。

弁天橋から上流

弁天橋から下流

弁天橋上の月

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2014年5月21日水曜日

花島の風景

花島から花見川谷津上流方向(柏井方向)を見た風景構図が絵になりますので紹介します。

花島橋から上流方向(柏井方向) 2014.05.12 アートモード
左手の樹林に隠れて花島観音があります。その場所が「島」(島状に残った河岸段丘)です。(地名の原義は花見川のハナと同じで、鼻・端のように突き出しているのでハナ島だと思います。)
この付近の左岸一帯は花島公園になっています。

花島公園から上流方向(柏井方向) 2014.05.12 アートモード

花島公園から上流方向(柏井方向)上記写真のズームアップ写真 2014.05.12 アートモード

花島公園付近は河岸段丘と狭い谷底平野があり、広々とした空間の雰囲気がありますが、それより上流は川に斜面がせまり狭窄部のような見え方になります。

つまり、この場の風景は川が山から平野に出るときの風景に似ています。「龍の口」などと呼ばれる風景と似ています。

東京湾から花見川を舟で遡ってやって来て、「平野」が終わるのが、この場所です。

私は花島観音がこの場に立地した理由の一つにこの風景の存在があったものと考えています。

花島公園の風景 2014.05.12 アートモード

柏井橋から下流方向の風景 2014.05.12 アートモード
この場所から花島公園は見えません。建物は最成病院です。

参考 普通モード写真
上記写真と同時に撮影した普通モード写真を参考に掲載します。

花島橋から上流方向(柏井方向) 2014.05.12 普通モード

花島公園から上流方向(柏井方向) 2014.05.12 普通モード

花島公園から上流方向(柏井方向)上記写真のズームアップ写真 2014.05.12 普通モード

花島公園の風景 2014.05.12 普通モード

柏井橋から下流方向の風景 2014.05.12 普通モード

普通モード写真よりアートモード写真による方が、私が感じる風景の雰囲気をより的確に味付けできると思っています。

審美的側面だけでなく、一瞬で理解すべき情報の伝達という点でアートモードの方が有利です。

例えば空や山の影部分など、明るすぎたり、暗すぎるところは普通モードでは十分な表現が出来ませんが、アートモードでは現場全体の雰囲気をよりリアルに伝えます。

そのため、このブログでは最近の写真は、特段にことわっていませんが、殆ど全てアートモード写真を使っています。

なお、使っているコンパクトカメラ(カシオ EX-ZR700)では1シャッターでアートモードと普通モードの2枚の写真が同時に撮影できます。この機能を重宝して使っています。
アートモード写真はブログ用、普通モード写真は記録用として使い分けています。

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2014年5月20日火曜日

初夏の花見川

昨日の早朝、ホトトギスのギョッ、ギョッ、ギョッという特徴的な鳴き声を聞きました。初夏の雰囲気がはっきりしました。

花見川の風景も夏の樹木と草から立ち上る蒸し暑さを感じるようになりました。
実際は早朝に暑いわけではありませんが、風景からはそのような感覚を覚えるようになりました。樹勢が盛んになったからだと思います。

花見川の早朝風景(2014.05.20

花見川の早朝風景(2014.05.20

花見川の早朝風景(2014.05.20

3日ほど前、オオタカを観察しました。

瞬間撮った写真が次です。

オオタカ飛翔の写真

1ピクセルが正方形で出てくるまで拡大すると次のようになります。

オオタカ写真(拡大)

このシルエットは次のようなオオタカの姿であったと思います。

オオタカ写真のシルエット説明

アクションカメラ(※)を用意できれば、その飛翔の動画が得られるので、もっといろいろな情報を得ることが出来ます。はやくアクションカメラを標準装備品にしたいと思います。

※ 散歩で見たもの全部を動画で記録する装置がアクションカメラというジャンルであることにやっとたどりつきました。これまでライフログカメラとか超小型カメラ(探偵カメラ)などのキーワードでウエアラブルカメラを探していたのですが、少しピントのずれた探し物をしていたようです。

最近はボートで釣りをしている人が増えました。

ボートで釣りをする人(2014.05.18

路傍の桃の木の果実が桃の形になり出しました。

桃の木の果実

この桃は誰も収穫しないのですが、食い跡などから私はこの付近に生息するハクビシンが食べているようだと感じています。


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2014年5月19日月曜日

印旛沼筋河川争奪の成因モデル

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その8

2014.05.18記事「地殻変動による利根川出口の閉塞」で示した河川争奪の様子を利根川出口付近だけでなく、印旛沼筋全体で表現してみました。
印旛沼筋河川争奪の成因モデルの最初のバージョンです。

1 下総下位面出来た最初期の様子

下総下位面が出来た最初期の様子
古平戸川、鹿島川はそれぞれ別の河川として利根川平野に流下していました。この頃は平坦な氾濫原が下総下位面全体の地形であったと考えます。

2 地殻変動が生じた頃の様子

地殻変動が生じた頃の様子
地殻変動が生じ様々な地形変化が生じたのですが、その一つとして古平戸川の平野出口を塞ぐ隆起帯ができました。そのため古平戸川流域は利根川の営力の影響をうけなくなりなりました。一方利根川は下方浸食により河床低下が進み、鹿島川の谷津にも谷底平野ができました。

3 河川争奪(河道逆行争奪)が生じた頃の様子

河川争奪(河道逆行争奪)が生じた頃の様子
古平戸川の河床は低下しないのに、鹿島川の河床は低下し、その差が大きくなりました。その河床高度の差は侵蝕力の差となり、二つの流域が接する場所で河川争奪が生じたと考えます。

鹿島川の頭方侵蝕により古平戸川の河床(氾濫原)が争奪されていきました。この時、古平戸川の河床(氾濫原)の澪筋を中心とする場所が侵蝕されていきましたから、古平戸川には河床(氾濫原)とそれを侵蝕した谷底の二つの地形面が残りました。

この関係を模式的地形断面図で表現すると次のようになります。

河川争奪(河道逆行争奪)の頃の地形模式断面図

このような印旛沼筋河川争奪モデル(大局的な視点からのモデル=仮説)はこれまでの観察結果(データ)に基づいて作成しました。
今後(後日)、その詳細な説明(証明)をしていきたいと思います。


1000記事というキリの良い記事数に向けて一人カウントダウンを楽しんでいます。

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1000記事前後にささやかなリニューアルと記念記事掲載を予定しています。

2014年5月18日日曜日

地殻変動による利根川平野出口の閉塞

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その7

このブログでは、古平戸川の利根川平野出口は、もともと手賀沼付近にあったのですが、河川争奪により河道が真逆に変化し、印旛沼の方に流れるようになったことを説明しています。

古平戸川の利根川出口が失われた様子(現在そのような地形が見当たらない様子)の説明を、2014.05.17記事「古平戸川の利根川平野出口付近の地形」でしました。地殻変動により出口が失われ、その後の侵蝕ですっかり地形の様子が変わってしまったのです。

その地形変化の様子をこの記事で補足します。

1 下総下位面(氾濫原)が最初に出来た頃
下総下位面(氾濫原)が最初に出来た頃の様子を平面図と断面図で示します。想像図といっていいものです。

下総下位面(氾濫原)が最初に出来た頃の様子(平面図)

下総下位面(氾濫原)が最初に出来た頃の様子(断面図)
(断面図は前記事の同じ図を少しもっともらしく変更しまた。)
氾濫原には凹凸がほとんど無かったと考えます。
極めて浅い谷である澪筋を通って水が流れていたと考えます。深い谷は無かった時代です。

2 地殻変動が生じた頃
地殻変動が生じた頃の様子を平面図と断面図で示します。

地殻変動が生じた頃の地形の様子(平面図)

地殻変動が生じた頃の地形の様子(断面図)
平面図に主な地殻変動としての隆起軸、沈降軸、断層を描きこみました。

古平戸川の利根川平野出口を塞ぐように隆起軸が生じました。
断面図でみると、現在の地形では3m程の壁が出来ています。

地殻変動スピードがどれくらいであったかという検討はまだしていませんが、地殻変動が始まってから古平戸川の水は利根川平野に流れにくくなり、ついには全く流れなくなったというプロセスを踏んだと思います。
水が流れにくくなった期間と水が全く流れなくなり、ダムができるような期間は川のアクティブさが失われたことになります。

一方地殻変動によるダムアップのような影響を受けなかった川は本来のアクティブさを保持しています。

私は地殻変動が生じた頃、アクティブな河川は下方浸食を行い谷底をつくったと考えています。
一方古平戸川は非アクティブな河川となり、下方浸食能力を失い、深い谷とその谷底をつくる機会を失ったと考えます。

3 河川争奪が生じた頃
河川争奪が生じた頃の様子を平面図と断面図で示します。

河川争奪が生じた頃の地形の様子(平面図)

河川争奪が生じた頃の地形の様子(断面図)

地殻変動で利根川平野への出口を失い、古平戸川は下方浸食能力を失ってしまいました。

一方、鹿島川は下方浸食を進めたため、古平戸川の河床高度は相対的に高くなり(つまり侵蝕能力が劣るようになり)、最後には鹿島川が古平戸川を争奪をしたのだと思います。

このような思考が成り立つ証拠として、鹿島川流域の下総下位面は1面であるのに、古平戸川流域の下総下位面は上下2面あることが挙げられます。

つまり、鹿島川流域の下総下位面は昔の谷底平野ですから1面なのですが、古平戸川流域の下総下位面はアクティブさを失った時代の氾濫原の面と、それを刻む谷底状の面の2面に分かれるのです。下位の谷底状の面は鹿島川流域の下総下位面と連続します。(詳細は後日記事にします。)

海老川乱歩さんの質問に答える中で、それが自分の思考を整理する強制力となりました。
結果として、あいまいであった印旛沼筋河川争奪の成因がだんだん明らかになってきたという印象を持ち始めています。

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2014年5月17日土曜日

古平戸川の利根川平野出口付近の地形

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その6

海老川乱歩さんから2014.05.13記事「印旛沼筋河川争奪の証拠1 -水系パターン異常-」に次のようなコメントをいただきました。
……………………………………………………………………
海老川(Ebigawa) 乱歩(Ranpo) です。

地形を見ると水のはけ口が見えないので大昔は、
古手賀沼?もしくは、古印旛沼?とも言うべき湖なり沼なりが
白井市民プールの北西側の谷の行き止まり近辺に
(もしくは神埼川の谷に一帯に)存在したのでしょうか。
……………………………………………………………………

地図を使わないとこのコメントに回答の説明できませんので、この記事で説明します。

1 問題の場所
次の地図の中央付近が問題の場所です。

第1図 現在の印旛沼水系北端付近の地図(地形段彩図+標準地図)

「白井市」の文字のところは印旛沼水系ですが、そこから北に向かう川や谷津地形がありません。
それなのに、前記記事でもともとは川(古平戸川)が北に流れていたと説明したことに対する疑問だと思います。

2 地形断面
同じ場所の地形段彩図に断面図位置を示しました。

第2図 地形断面図位置

次の地形断面図と地形面区分を示します。

第3図 地形断面と地形面分布
地形面分布では下総上位面と下総下位面のみを抽出し、それより新しい地形面は無視しました。

この図を見ると、下総下位面の標高が18~24mの間にあり、細かく切れています。
細かく切れている様子の平面分布は上記地形段彩図で確認できます。
先ほどの「白井市」文字の北側にはアーチダムのような茶色表示の凸地形などもあります。

3 下総下位面形成時代の想像
さて、私は、細かく切れている、標高がバラバラの下総下位面は全て地殻変動(規模の小さな断層や沈降・隆起等)の結果であると考えています。

下総下位面が形成された頃、下総下位面は澪筋が通る広々として平坦な氾濫原であったと考えています。

第4図 下総下位面が形成された頃の様子

その頃の地形断面を大胆に想像すると次のようになります。

第5図 下総下位面が氾濫原であった頃の地形断面想像

4 回答
これでわかっていただいと思いますが、次のような地形変化のステップがあって「水のはけ口」がなくなったのです。

1 第4図、第5図に示すような地形があり、印旛沼筋から利根川平野へ水が流れていた。

2 地形をズタズタにするような地殻変動があり、印旛沼筋と利根川平野の間に地形障壁(凸地形)できた。

3 ズタズタになった地形(そのパターンは水系パターンとは無関係)が侵蝕作用を受けて谷津となり、現在の地形ができた。

以上のように考えています。

それまでの地形をズタズタにした地殻変動のパターン(断層、沈降・隆起等)は次の記事で説明します。

5 印旛沼筋河川争奪と地殻変動との関係
なお、このような地形の変化のなかで、印旛沼筋河川争奪が起こった時期の順番は次のように考えています。

【2014.05.18追記 2014.05.17の次の記述は間違っていました。下記のように訂正します。】
1 第4図、第5図に示すような地形があり、印旛沼筋から利根川平野へ水が流れていた。

2 印旛沼筋河川争奪が発生した。(鹿島川が古平戸川を争奪した。)

3 地形をズタズタにするような地殻変動があり、印旛沼筋と利根川平野の間に地形障壁(凸地形)できた。

4 ズタズタになった地形(そのパターンは水系パターンとは無関係)が侵蝕作用を受けて谷津となり、現在の地形ができた。

1 第4図、第5図に示すような地形があり、印旛沼筋から利根川平野へ水が流れていた。

2 地形をズタズタにするような地殻変動があり、印旛沼筋と利根川平野の間に地形障壁(凸地形)できた。
3 印旛沼筋河川争奪が発生した。(鹿島川が古平戸川を争奪した。)

4 ズタズタになった地形(そのパターンは水系パターンとは無関係)が侵蝕作用を受けて谷津となり、現在の地形ができた。


このような順番で地形変化が生じたことの証拠が集まってきています。

つづく

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