2015年9月17日木曜日

須恵器窯と土師器焼成遺構 その2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.207 須恵器窯と土師器焼成遺構 その2

2015.09.16記事「須恵器窯と土師器焼成遺構 その1」で房総最大級の土器生産施設である南河原坂窯跡群ではヘラ書き土器が多くつくられ、一方規模の大きくない土師器生産施設である権現後遺跡ではヘラ書き土器が全くつくられていなかったというイメージを持つことができました。

こうしたイメージがそれでよいか、房総の須恵器釜、土師器窯全部の情報について調べてみました。

その結果を次に示します。

出土墨・刻土器におけるヘラ書き土器の割合(表)

出土墨・刻土器におけるヘラ書き土器の割合(グラフ)

須恵器窯跡についてみると、南河原坂窯跡群及び他の遺跡からの土器出土量が判らないので、つくられた土器に占めるヘラ書き土器の割合は判りませんが、情報のある遺跡8件のうち6件からヘラ書き土器が出土し、残る2件も「刻書」あるいは「線刻」「刻印」のものが多くなっていますから土器生産地で工人が生産した土器にヘラ書きあるいは線刻等を施したと考えられます。

つまり、須恵器釜についてみると、どの程度の割合で土器にヘラ書き(あるいは線刻)したかはわかりませんが、全部の遺跡でヘラ書き(あるいは線刻)が行われたと考えて間違いないと思います。

土師器窯についてついてみると、須恵器釜跡と同じく遺跡からの土器出土量が判らないので、つくられた土器に占めるヘラ書き土器の割合は判りません。

しかし、樋爪遺跡、駒形遺跡、権現後遺跡、妙見堂遺跡ではヘラ書き土器はゼロかあるいはほとんどありませんから、これらの遺跡では生産された土器にヘラ書きがほとんど行われなかった可能性が濃厚です。

一方、小谷遺跡、永吉台遺跡、城ノ台遺跡ではヘラ書き土器が一定の%を占めています。

ところが、土師器窯のある遺跡は窯施設だけの遺跡ではなく、それを含む集落全体の遺跡となっていますから、これらのヘラ書き土器が生産した土器にヘラ書きしたものか、それとも外から持ち込まれたものか一義的に判別できません。

しかしヘラ書き土器の出土墨・刻土器の総量に対しての割合が県全体の割合(6.8%)よりはるかに大きな値となっているので、その遺跡で生産した土器にその遺跡の工人がヘラ書きしたと考えることが合理的判断だと考えます。

この統計から土師器窯ではヘラ書きが全く行われなかった窯と行なわれた場合がある窯の2種類の存在が浮かびあがります。

結論として、房総では須恵器釜の全てでヘラ書きが行われていたと考えられ、土師器窯ではヘラ書きが行われた窯と行われなかった窯の2種類があると考えられます。

ヘラ書きした土器の作成土器総量に対する割合は不明ですが、千葉県出土墨・刻土器の総量に対するヘラ書き土器の割合が6.8%です。

そして墨・刻土器の土器総量に対する割合も不明ですが、墨書土器多出遺跡群である萱田遺跡群の例では24.5%です。
2015.08.25記事「萱田遺跡群の墨書土器率」参照

この数値を機械的に利用すると6.8%×24.5%=1.7%になります。

千葉県全体でみると、ヘラ書き土器の(つまり生産地で文字や印が書かれた土器の)割合は全土器に対して1.7%より小さな数値であったということが推定できます。

感想
権現後遺跡で生産された土器にヘラ書きが行われなかった理由として、その窯が白幡前遺跡によって開発された窯であり、白幡前遺跡は軍事・兵站基地であったことに関連すると考えます 。

つまり、権現後遺跡は軍需用品としての土器生産施設であり、発注者名をヘラ書きして製品のブランド価値を高めるとか、あるいは工人サイドの品質管理のために必要な目印(工人識別目印)をつけるなどの場面が入り込む余地のない窯であったと考えます。

恐らく品質はあまり問題にしないで、画一的土師器量産に励んだのだとおもいます。

このように考えると、鳴神山遺跡が遠くの南河原坂窯跡群から自分のロゴ入り土器を購入したという行為と、6㎞しか離れていない萱田遺跡群ではヘラ書き土器が全くつくられなかったという行為の間に大きな落差があることを感じます。鳴神山遺跡と萱田遺跡群との間には埋めがたい心理的溝があるように感じます。

2015年9月16日水曜日

須恵器窯と土師器焼成遺構 その1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.206 須恵器窯と土師器焼成遺構 その1

鳴神山遺跡出土土器の中に南河原坂窯跡群に特注して納品されれた遺物が含まれていることがヘラ書き土器の文字によってわかったという調査結果を知りました。
2015.09.15記事「鳴神山遺跡の特注品であることを示すヘラ書き土器(追補情報)

鳴神山遺跡と南河原坂窯跡群は直線距離33㎞はなれ、かつ下総国と上総国という国の違いを乗越えた交易であり、興味を引きます。

ヘラ書き土器は土器生産地で書かれ、墨書土器は土器消費地で書かれたという違いに立脚して始めてわかった事実です。

このような興味深い事実を十分に咀嚼するために、寄り道になりますが、鳴神山遺跡の検討から少し離れて、ヘラ書き土器について学習することにします。

学習は、房総における須恵器釜と土師器焼成遺構について全体像を把握し、それとヘラ書き土器の関係を分析してみたいと思います。

1 房総における須恵器釜と土師器焼成遺構の分布

「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)掲載の「須恵器釜と土師器焼成遺構の分布」を示します。

須恵器釜と土師器焼成遺構の分布
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

この情報は今後GISに取り込み、詳しく検討したいと思います。

2 南河原坂窯跡群と権現後遺跡のヘラ書き土器の割合

南河原坂窯跡群は須恵器釜と土師器焼成遺構の双方を有する房総で最大級の土器生産施設です。
また権現後遺跡は鳴神山遺跡直線距離6㎞という近い位置にある土師器焼成遺構7基を擁する遺跡です。

この2つの遺跡出土墨・刻土器に占めるヘラ書き土器率を調べてみました。

出土墨・刻土器におけるヘラ書き土器の割合(表)

出土墨・刻土器におけるヘラ書き土器の割合(グラフ)

参考 南河原坂窯群、権現後遺跡、鳴神山遺跡の位置

南河原坂窯跡群出土墨書・刻書土器に占めるヘラ書き土器率はなんと97.5%で残りは「印」です。

南河原坂窯跡群出土の土器全体数を知らないので断定できませんが、生産した須恵器・土師器の多くに「銘」が入れられていたと考えて間違いありません。

その「銘」は鳴神山遺跡の場合は発注者を識別するためのものでした。

一方土師器焼成遺構が存在する権現後遺跡出土墨書・刻書土器に占めるヘラ書き土器率は何と0.5%です。

権現後遺跡で生産された土師器にはヘラ書きは全くされなかったと考えて間違いないと思います。

この二つの遺跡の例から、(発見されていないだけで多数あったと考えられる)土師器焼成遺構ではヘラ書きはほとんどなく、大規模土器生産施設では生産物にヘラ書きをする場合があったという想定が生れます。

ヘラ書き土器はブランド品であるとの考えと整合します。

こうした考えが他の遺跡にも当てはまるのかなどについて、詳しく検討してみます。

つづく

2015年9月15日火曜日

鳴神山遺跡の特注品であることを示すヘラ書き土器(追補情報)

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.205 鳴神山遺跡の特注品であることを示すヘラ書き土器(追補情報)

2015.09.14記事「鳴神山遺跡のヘラ書き土器の割合」で「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から得た情報として次の記述をしました。

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報告書の中で、鳴神山遺跡Ⅲ225竪穴住居出土須恵器甕底部の「弓」字形と全く同一の記号が千葉市緑区南河原坂窯跡群30号・35号住居出土坏に見られること及び、鳴神山遺跡Ⅰ・Ⅱでは「弓」字形が墨書と線刻の史料が見られることを指摘しています。

同時に、鳴神山遺跡Ⅲ251竪穴住居検出の皿型土器の同一個体表裏面に見られるヘラ書き「工万」がやはり千葉市緑区南河原坂窯跡群63号土壙出土坏底部に同様のヘラ書きが見えることを指摘し、文字を見る限りでは同筆である可能性も否定できないとしています。

この2つの指摘を論拠として、ヘラ書きは生産地において記されるものであり、製品の発注者を表示するものである可能性と製作工人を表示する可能性の双方を検討しています。
……………………………………………………………………

この興味深い発掘調査報告書の記述の素となった史料をデータベースから探して見ましたのでその情報を1枚の絵にまとめてみました。

鳴神山遺跡と南河原坂窯跡群の位置

「弓」字形史料

「工万」史料

ヘラ書き文字は確かに「工万」ですが、漢字知識のない土器製作工人が「千万」の図柄を転写する時に「工万」になってしまった可能性も有り得ると思います。

直線距離で南河原坂窯跡群と33㎞離れた鳴神山遺跡が土器生産を発注し、その特注品に発注者のロゴを入れて納品したという事実は大変興味深い事実です。

なお、鳴神山遺跡出土ヘラ書き土器の文字には上記以外に「万」、「八」、「大ヵ」、「久」などが含まれます。

そして、鳴神山遺跡から「万」が書かれた墨書土器(千万など)が48件、「八」が書かれた墨書土器(大八)が7件、「大」が書かれた墨書土器(大、大加、大八など)が228件、「久」が書かれた墨書土器(久、久弥、久弥良)が27件出土しています。

このデータから、「万」、「八」、「大」、「久」などのヘラ書き文字は生産地で製品の発注者識別のために使われた可能性を濃厚に感じます。

このデータからはヘラ書きの文字が生産地の工人識別用であった可能性は全く感じられません。

もし、ヘラ書き文字が生産地の工人識別用であったなら、上記のような対応はあり得ません。

さらに検討を深めると、もし「弓」、「万」、「八」、「大」、「久」などのヘラ書き文字が発注者識別用であるならば、それらの文字を墨書土器に使った集団毎に土器を特注していたことになります。

萱田遺跡群の検討では、墨書土器の文字を共有する集団はそれぞれ特定の使命を持つプロジェクト集団(職能集団)であるというイメージを持ちました。

墨書土器の文字を共有する集団が33㎞離れた土器生産地に各々別々に土器生産を特注していたとすれば、その集団(プロジェクト集団、職能集団)の独立性を考える上で重要な情報になります。


2015年9月14日月曜日

鳴神山遺跡のヘラ書き土器の割合

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.204 鳴神山遺跡のヘラ書き土器の割合

これまでこのブログでは墨書土器の検討では主に千葉県墨書土器・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)を使ってきています。

このデータベースには墨書土器、刻書土器、ヘラ書き土器が含まれていて、その区別に今までの私は無頓着でした。

しかし、「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)を読むとヘラ書き土器について興味深い記述があります。

その中で、鳴神山遺跡Ⅲ225竪穴住居出土須恵器甕底部の「弓」字形と全く同一の記号が千葉市緑区南河原坂窯跡群30号・35号住居出土坏に見られること及び、鳴神山遺跡Ⅰ・Ⅱでは「弓」字形が墨書と線刻の史料が見られることを指摘しています。

同時に、鳴神山遺跡Ⅲ251竪穴住居検出の皿型土器の同一個体表裏面に見られるヘラ書き「工万」がやはり千葉市緑区南河原坂窯跡群63号土壙出土坏底部に同様のヘラ書きが見えることを指摘し、文字を見る限りでは同筆である可能性も否定できないとしています。

参考 鳴神山遺跡と南河原坂窯跡群の位置

この2つの指摘を論拠として、ヘラ書きは生産地において記されるものであり、製品の発注者を表示するものである可能性と製作工人を表示する可能性の双方を検討しています。

そして、「弓」字形のヘラ書きは墨書・線刻土器が鳴神山遺跡で出土していることから発注者を示している可能性が高いと結論付けています。

また、「工万」は発注者を表示している可能性を全面に出すことは難しいが、生産地と消費地を直接結ぶ資料として注目すべきであると結論付けています。

私はこの検討から、ヘラ書きが発注者を示すものならば特注品であることを直接示すものであり、生産者サイドの符合であっても生産者がわざわざ符合を付けて出荷したということはそれなりに意味のあることであると考えます。

生産者サイドの符合であっても、それは生産者が自信を持って出荷する製品であるからこそ「サイン」入り、「銘」入りであり、はやり言葉でいえば「エンブレム」入りです。一種のブランド品であると考えます。

ヘラ書き土器が発注者の銘をいれた特注品であるならば、生産者銘入りより一層高級感のあるブランド品であったと考えます。

そうしたブランド感は古代も現代もあまり変わらないと思います。

つまり、ヘラ書き土器というものが全体として高級品・ブランド品であると見てよいのではないかと考えます。

このような考えを踏まえて、早速鳴神山遺跡及び萱田遺跡群などのヘラ書き土器数を調べてみました。

ヘラ書き土器数

銙帯出土や掘立柱建物が多く、周溝を巡らした寺院がある白幡前遺跡より鳴神山遺跡の方がヘラ書き土器が3倍近く多くなっています。

実数ではなく、墨書土器数に対する比率を求めると次のようになります。

ヘラ書き土器の割合

率でみてもヘラ書き土器(つまりブランド品・高級品)の割合は鳴神山遺跡は白幡前遺跡の倍になります。

なお、参考として村神込の内遺跡のヘラ書き土器の割合は白幡前遺跡の5倍になります。

この情報から白幡前遺跡と鳴神山遺跡の違いが少しわかってきたような気がします。

白幡前遺跡は新興開発地であり、軍事・兵站基地であり、兵や軍需物資を動員したり備蓄したりする機能がメインであったと考えます。

多数の官僚が各種具体的プロジェクトを動かしていたと思います。寺院もありますがあくまでも鎮護国家の観点から戦争勝利のための祈祷施設だったと思います。古墳時代からそこにいた支配層はゼロです。

白幡前遺跡は実務(事業)の空間だったのです。

一方、鳴神山遺跡は古墳時代から支配層が居住していて、その支配層は房総各地の勢力と人間関係があり、利用する物品も支配層はブランド品(特注品)を使っていたということです。その集落には官人は少ないけれど、活動アクティビティは大変強かったということです。

鳴神山遺跡は実務(事業)では割り切れない伝統とか文化とかが根付いている空間だったのです。

参考として挙げた村神込の内遺跡は村神郷の中心集落と考えられます。この遺跡のへら書き土器率が高いということは、古墳時代以来の村神郷の政治的中心として、房総各地勢力との関係が深く、また財力も大きいことを示していると考えます。

今後折に触れて、ヘラ書き土器の指標性について検討を深めていきたいと思います。

2015年9月13日日曜日

鳴神山遺跡の竪穴住居1軒あたり墨書土器数

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.203 鳴神山遺跡の竪穴住居1軒あたり墨書土器数

鳴神山遺跡の竪穴住居1軒あたり墨書土器数を算出して萱田遺跡群と比較してみました。

鳴神山遺跡と萱田遺跡群遺跡の竪穴住居1軒あたり墨書土器数。

竪穴住居1軒あたり墨書土器数

参考 竪穴住居1軒あたり墨書土器数グラフの分布

萱田遺跡群の白幡前遺跡、井戸向遺跡、権現後遺跡と比べておよそ2倍近くの値となっています。極めて特徴的な情報となっています。

竪穴住居1軒あたり墨書土器数が大きいということの意味はこれまで次のように考えてきています。
……………………………………………………………………
墨書土器がはやった頃の住宅は、極一部の支配層トップを除いて、官人を含めてほとんど全員が竪穴住居に居住していたと想定してみます。

そうした想定をしてみると、墨書土器数/竪穴住居跡数という数値は、墨書土器を使った階層の人々の竪穴住居1軒あたりの居住人数に比例する指標になる可能性があります。

あるいは竪穴住居に居住する人数を一定と考えると、竪穴住居に居住した人々の転居率(利用回転数)に比例する指標になるかもしれません。

さらには、1人の人間がかかわるプロジェクト(物件)が次々と立ち上がることにより、1人の人間が複数の墨書土器を使ったのかもしれません。

どのように考えるにしても、墨書土器数/竪穴住居跡数という数値は墨書土器を使った階層の人々(官人及び官人に組織されてプロジェクトに従事する人びと)の人数の多さ、あるいは活動の活発さ(入れ替わり立ち替わり活動した異なる個人の延べ人数の多さ)(人々を組織するプロジェクトの開始-終了の期間の短縮性)に比例すると考えます。

ですから墨書土器数/竪穴住居跡数は単純な墨書土器出土数よりはるかに意味のある指標になります。
2015.06.11記事「墨書土器に関する新しい統計指標を考案する
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一言でいうと、竪穴住居1軒あたり墨書土器数という指標は組織活動のアクティビティの強度を示していると考えます。

つまり、鳴神山遺跡は銙帯出土状況や竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数からみて近隣遺跡(集落)の配下にあったと考えられますが、組織活動アクティビティ強度という点から見ると、近隣で特段の指導性のある白幡前遺跡の倍近くあるという一種の異常情報の存在が見つかったということです。

これまで鳴神山遺跡は律令国家の成すプロジェクトの最前線の現場であると考えてきました。その考えは組織活動アクティビティ強度が白幡前遺跡の倍近くあるということでさらに首肯されました。

しかし、鳴神山遺跡がどのような種類のプロジェクトの最前線の現場であったのか、輸送業務がその一つであるとは思いますが、それで正答なのか、残念ながら現時点ではまだ確信を持てていません。

今後の検討で、近々鳴神山遺跡の特性が浮き彫りになると思います。

2015年9月12日土曜日

獣の魚猟の跡

今朝の散歩でいつも川岸に降りている場所に来ると、昨日までの水が引いていました。

水が引いた花見川の様子

参考 昨日(2015.09.11)の同じ場所の様子

下に降りていくと、溜まった泥に多数の獣の足跡が残っていました。

大小3種類くらいの足跡があります。

泥に残った足跡 1
Aは5本指で爪の跡があるのでハクビシンだと思います。足跡の大きさから小型のようです。
Cは4本指で爪の跡がなく、猫だと思います。

泥に残った足跡 2
Aはハクビシンの足跡だと思います。
Bは5本指で爪跡がありますが、指の幅が8㎜程度で大型のネズミだと思います。右足、左足の2列になっています。
その左足と右足の間の泥に筋Dがついています。ネズミが尾を引きづった跡だと思います。

泥に残った足跡 3
Bはネズミの足跡(2列)、Dは尾の引きずり跡です。
Cは猫の足跡です。猫の足跡がネズミの足跡を切っていますから、ネズミがいなくなってから猫が訪れたようです。

泥に残った足跡 4
Bネズミの足跡とその間のD尾引きずり跡です。

花見川が増水して多数の魚が川岸近くの流速の弱い水面に避難していて、水位が低下する時にハクビシン、ネズミ、猫などが弱ったり死んだ魚を獲ったのだと思います。

時間が経った足跡は泥で半分埋まっているものもありますので、そうした状況から判断すると、ハクビシン→ネズミ→猫の順番に魚を獲っていったようです。


水が引いた河岸の様子

この場所にいる時、地震があり、泥に足をとられている時で、一瞬ヒヤリとしました。

弁天橋から下流

弁天橋から上流

2015年9月11日金曜日

2015.09.11 今朝の花見川

昨日の雨のため大和田排水機場から花見川に放水があり、いつもより1.5m程水位が高くなり、茶色い水が静かな音を立て、渦を巻きながら流れていました。

大和田排水機場からの放水はゴミが有りませんから、その増水が放水によるものか、勝田川や高津川からのものであるか一目でわかります。

増水した花見川

放水を知らせる警報局のランプが点灯回転していました。

横戸警報局

いつもは釣り人がいる岸部が水面になっています。

弁天橋から下流

参考 いつもの弁天橋から下流風景(2015.09.06)

弁天橋から下流の空が青空で気分爽快になりました。

弁天橋から下流の空

弁天橋から上流

参考 いつもの弁天橋から上流風景(2015.09.06)

水面の様子

小さな渦を巻いて早い流速で水が流れています。

ブログ花見川流域を歩く番外編にポンプ排水の記録を掲載しました。2015.09.11記事「2015.09.11 花見川へのポンプ排水の記録

2015年9月10日木曜日

鳴神山遺跡の時期

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.202 鳴神山遺跡の時期

鳴神山遺跡の主な竪穴住居の時期資料が発掘調査報告書に掲載されていますので紹介します。

主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代
鳴神山遺跡の主な竪穴住居の時期資料が「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用

この表をグラフにすると次のようになります。

鳴神山遺跡 主な竪穴住居の年代

鳴神山遺跡は8世紀から始まり、9世紀第2四半期をピークに9世紀一杯でほぼ終焉している様子がわかります。

この遺跡消長は萱田遺跡群消長と似ています。

萱田遺跡群の竪穴住居消長

鳴神山遺跡が展開した期間つまり8世紀から9世紀は萱田遺跡群では0期から7期に該当し、遺跡(集落)展開期間がほぼ一致します。

鳴神山遺跡が竪穴住居数ピークとなる9世紀第2四半期は萱田遺跡群では4b期頃で、萱田遺跡群盛期の終わり頃に該当します。

鳴神山遺跡及び萱田遺跡群ともにその遺跡消長は、律令国家の蝦夷戦争政策と強く関連していると考えています。

感想
鳴神山遺跡、萱田遺跡群及び恐らく下総国のこの時代の多くの墨書土器多出遺跡(あるいは銙帯出土遺跡)は、ことばは悪いですが、「戦争特需」で栄えた集落であると考えています。

「戦争特需」で栄えたが故に、蝦夷戦争が終息して律令国家の国家政策の重点が陸奥国から離れると、軍事・兵站基地としての意義を失い、鳴神山遺跡や萱田遺跡群は終焉してしまいます。


2015年9月9日水曜日

遺構(建物)からみた鳴神山遺跡の特性

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.201 遺構(建物)からみた鳴神山遺跡の特性

2015.09.10
大きなミス(鳴神山遺跡掘立柱建物数の間違い)がありましたので、図表を含めて訂正しました。
……………………………………………………………………

鳴神山遺跡の竪穴住居及び掘立柱建物の数を萱田遺跡群遺跡と比較してみました。

鳴神山遺跡と萱田遺跡群遺跡の建物情報比較
小数点第2位で四捨五入。


竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数

「竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数」((掘立柱建物棟数/竪穴住居件数)×10)という指標で見ると鳴神山遺跡の数値は北海道遺跡の倍以上で権現後遺跡に近い値となっています。

北海道遺跡は萱田遺跡群の中では比較劣位な権力関係位置にあったと考え、奴隷労働なども想定される農業生産中心の集落であると想定してきています。

北海道遺跡には集落生産活動の再生産に必要な限りでのベーシックな数の掘立柱建物が存在していたけれども、白幡前遺跡や井戸向遺跡に想定されたような戦略的兵站備蓄倉庫や軍事活動に必要な建物は無かったと考えました。

鳴神山遺跡の指標値はそのような想定をした北海道遺跡のレベルでないことが確認できました。

権現後遺跡は遺構・遺物から土師器生産団地であることは確実です。白幡前遺跡が周辺に持つ特定プロジェクト開発地の一つであると想定しています。

「竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数」という指標値だけから見て、また、鳴神山遺跡は銙帯出土数が少ないこと(配置された官人が少なかったこと)などの情報も勘案して、鳴神山遺跡はより上位拠点の支配下にあったものと考えます。

鳴神山遺跡を支配していた上位拠点が白幡前遺跡であるのか、あるいは別の場所にある拠点であるのか、これから検討を深めたいと思います。

鳴神山遺跡は墨書土器出土が多いので、組織された集団が活発に活動していたと考えられます。

現時点では組織集団の活動内容の1つに印旛浦と於賦駅家方面(布佐付近)を結ぶ台地越えの輸送活動があったと想定しています。

輸送活動というサービス業務以外にどのような活動を行っていたのか、どのような生業で暮らしていたのか、今後検討を深めたいと思います。

参考 鳴神山遺跡の位置

参考 鳴神山遺跡遺構配置図
赤丸は掘立柱建物、青丸は竪穴住居を示す

「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用した図をGIS画面に埋め込み

2015年9月8日火曜日

銙帯出土数と墨書土器出土数のアンバランス

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.200 銙帯出土数と墨書土器出土数のアンバランス

2015.09.05記事「墨書土器出土数からみた鳴神山遺跡」で鳴神山遺跡が墨書土器出土数でトップであり、集団組織活動が盛んであったことを推察しました。

一方、2015.09.07記事「銙帯出土情報から考える鳴神山遺跡の意義」で鳴神山遺跡の銙帯出土数が少なく、支配統治機構の中でみると鳴神山遺跡は労働実働部隊中心の現場(出先)であることを想定しました。

律令国家の実施するプロジェクトの現場最前線では官人の数が少ない割(銙帯出土が少ない割)に労働実働部隊が多い(墨書土器出土が多い)というアンバランスが生じていると想定しました。

このアンバランスを銙帯分布イメージ図と墨書土器分布イメージを対照することによって示します。

1 千葉県全体の銙帯出土イメージと墨書土器出土イメージの対照

千葉県の遺跡別銙帯出土数

千葉県墨書土器出土イメージ

二つの分布図のイメージは似ていますが、鳴神山遺跡付近だけ墨書土器分布が突出している点が異なります。
墨書土器出土に関して、鳴神山遺跡付近がY圏域(萱田遺跡群など)とグラフが重なっていまい、まるで千葉県中心のような様相を呈しています。

2 印旛浦付近の銙帯出土イメージと墨書土器出土イメージの対照

銙帯出土集中圏域と鳴神山遺跡

千葉県墨書土器出土イメージと鳴神山遺跡

銙帯出土数が4であった鳴神山遺跡と隣接する船尾白幡遺跡の墨書土器出土が目立つとともに、その印旛浦対岸の上谷遺跡の墨書土器出土も際立ちます。上谷遺跡から銙帯は出土していません。

銙帯の出土は少ないが(あるいは無いが)、墨書土器出土は極めて多いというアンバランスが見られる遺跡の千葉県における代表が鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡と印旛浦をはさんで対岸の上谷遺跡ということになります。

なぜこれらの遺跡にアンバランスが生じたのか、つまりこれらの遺跡がどのような律令国家プロジェクトの最前線現場であったのか、今後検討を深めたいと思います。

アンバランスの程度が大きいので、その理由を見つけることは早晩可能であると予想します。