2016年9月11日日曜日

発掘調査報告書における土坑位置パズル解き

2016.09.10記事「上谷池の竪穴住居と土坑の検討」で当初作成した図面「上谷池付近遺構」を2016.09.11に訂正しました。

重要と思われる土坑の位置が間違っていると感じたので、訂正したのです。

現在学習に使っている上谷遺跡の発掘調査報告書のうち第3分冊に上谷池が出てきますので、詳しく読み込んでいるうちに間違いに気が付きました。

間違いとっても、自分の単純なミスではなく、パズル解きをしないと間違いが判らない状況があったのです。

そのパズル解きの様子をまとめてみました。

発掘調査報告書におけるある土坑のパズル解き

編集実務責任者の頭が混乱していて、その状況をチェック統制できない組織が作成した発掘調査報告書が存在するということです。

そのような発掘調査報告書を今後GIS展開する時に、このようなメモが有用な情報になると考えます。

なお、この程度の錯誤は、発掘調査報告書から得られる有用な情報に比べたらほとんど無視してもよいものと考えます。

一方、発掘調査報告書のすべての遺構分布図に遺構番号が掲載されていないものがあります。

2016.08.15記事「上谷遺跡 遺構分布と遺構番号の対照作業」参照

この場合、パズル解きにも限界があります。

折角投じた現場調査の多大なエネルギーと高度な知性の大半が第3者に伝わりません。

第3者どころか調査発注者や調査受注者も詳細情報を利用できないことになります。

結局、発掘調査は確かに実施して分厚く立派な報告書はつくりましたという建設許認可用証拠書類にはなりますが、その情報を後世の人に活用してもらうつもりがないということですから、残念です。



2016年9月10日土曜日

上谷池の竪穴住居と土坑の検討

上谷遺跡の標高25m等高線で囲まれた閉じた凹地を上谷池と仮称しています。

上谷池の底部分から縄文時代住居跡4軒が出てきたので、この場所のどこかに水場があったことを想定してます。

2016.09.08記事「上谷遺跡の縄文時代住居跡と水場」参照

この上谷池ほとりの奈良・平安時代竪穴住居から馬具が出土しています。

その情報から、上谷池付近が牧の一部であったと予想し、それを示すような情報を集めようとしています。

上谷池には奈良・平安時代遺構として2軒の竪穴住居と7つの土坑が存在します。

その遺構について検討してみます。

上谷池付近遺構(2016.09.11訂正)

1 A182竪穴住居と土坑7つについて

A182竪穴住居と6つの土坑が近接してまとまって分布していて、また少し離れた場所に土坑D183が存在し、それらは全体として近隣遺構から離れた場所にあります。

ですからA182竪穴住居と7つの土坑は関連性を持っている可能性が考えられます。

次の2つの解釈をメモしておきます。

1-1 竪穴住居と土坑が牧関連施設であるとする考え

地形の検討から土坑密集地付近は化石谷流下方向の末端部で、最も水湿な環境であると考えられます。

その湿地に浅い土坑を堀り、湧水を貯め、放牧している馬にその水を飲ませたと考えます。

竪穴住居はその馬水飲み施設の管理人家族の住居(管理施設)であったと考えます。

D183土坑は管理人用の井戸であったと考えます。

1-2 竪穴住居と土坑は上谷池で耕作が行われていたことを示すとする考え

上谷池は水場であると考えますが、A182竪穴住居と7つの土坑が密集することからこの付近が水面とか湿地というより、乾いた陸地であったと考えます。

土坑D181は他の土坑と異なり深い穴となっていることから、井戸であったと考えます。

つまり、A182は耕作を生業とする家族の住居であったと考えます。


以上2つの解釈について、現時点では次の点から1-1の方が有力であると考えます。

ア 地形の検討から上谷池では北側ほど水湿環境になると考えられます。従って、この場所は水に関わる機能を有する場であると考えます。

イ 1軒の竪穴住居と7つの土坑のセットが、通常の「農家」としては不自然です。その場所が微高地で周辺で畑作等を行ったと考えると、複数の竪穴住居が存在しているはずです。

 
A182竪穴住居から出土した遺物は土師器坏(内外面赤彩)1、須恵器坏2、土師器甕1、土師器甑1で、墨書はありません。

この付近の竪穴住居から赤彩土器が出土するので、その意義について、今後別途検討します。

2 A179竪穴住居について

A179竪穴住居は孤立して存在しています。周辺に土坑すらありません。

A179竪穴住居から次の遺物が出土しています。

土器出土15点、うち墨書土器「人」×2、「大井」、「竹」×2、赤彩土器、内黒土器

竪穴住居が存在するのですから、その場が完全なる水面でなかったことはその通りだと考えます。

しかし、低湿地に1軒だけ孤立して存在する竪穴住居に意味があると考えます。

現時点では空想の域をでませんが、次のような推測をメモしておきます。

ア 「大井」はこの場所が水場(それも大きな水場)であったことと関係するのではないか。
この竪穴住居が大きな水場と強く関係していた可能性を感じます。

イ 内黒土器の存在は俘囚の存在と関連するのではないか。

ウ 「人」は俘囚と関連する墨書文字ではないか。

今後他の情報も含めて上谷池付近の遺構・遺物から牧に関する情報を得ることができるか、検討を深めます。

2016年9月9日金曜日

上谷遺跡の台地上農業空間

2016.09.04記事「勘違いにより上谷遺跡の牧空間が判る可能性」で、たまたま作業の一部で間違いがあり、数軒の縄文時代住居跡が奈良・平安時代竪穴住居に混在してしまい、その結果として牧空間の存在をあぶり出すことが可能となる状況を書きました。

早速地形や縄文時代住居を調べ、牧空間の存在を示す材料が集まりつつあります。

この記事では、奈良・平安時代遺構のうち、竪穴住居と掘立柱建物が集中している部分の包絡線を引き、その包絡線で区切られる遺構の存在していない土地を農業空間に見立てて、抽出してみました。

結果は次の通りです。

上谷遺跡 台地上農業空間の抽出 牧、桑等

農業空間と見立てた場所はA~Fまで6個所になります。

このうちA空間については、その空間のなかに2軒の竪穴住居を含むという変則的な抽出となっています。

この場所が上谷池内であり、2軒の竪穴住居は上谷池の利用に関して特別な機能を持っていたと推察するので、このような抽出を行いました。

機械的な包絡線を引くと、牧空間の存在がぼやけると考え、あえてそうしました。

A~F空間はいずれも竪穴住居に囲まれた空間であるという捉え方が成り立つと考えます。

この図に出土遺物や墨書文字をオーバーレイすると、農業空間の意味がある程度浮き彫りになる可能性があります。

今後の作業で上谷遺跡の生業がイメージできるようになる可能性があります。

2016年9月8日木曜日

上谷遺跡の縄文時代住居跡と水場

2016.09.06記事「上谷遺跡の特異な地形特性」で上谷遺跡の地形解釈を次のように行いました。

上谷遺跡遺跡付近の地形解釈(想定)

この地形解釈に従うと、台地表層地下水の流れは次のように想定することができます。

上谷遺跡の地形解釈(想定)に基づく表層地下水の流れ

浅い谷が分断されて化石化して存在しています。

Dは凹地になっているのですが、Dは上流側Eからも表層地下水の供給があります。

一方DからCには小崖が存在しますから表層地下水が流れだしやすい構造にはなっていません。

結局Dには上谷遺跡付近台地の広い範囲から表層地下水が集まってきて、それが滞留するような環境になっていると考えることができます。

次に上谷遺跡の縄文時代住居跡を見てみます。

上谷遺跡の縄文時代住居跡

住居跡と認定された場所では、ある程度定住的な生活が行われたことが判明します。

定住生活を送ったということは、その近くで安定的に飲料水を得ることが出来たということを示しています。

全部で7個所ある住居跡のうち上谷池内4個所と近くの2個所合計6カ所の住居は上谷池を水源にして生活を営んでいた可能性を考えることができます。

特に上谷池内4カ所の中期住居跡は水源をその場の水面あるいは湧水に依存していた可能性が濃厚であると考えて合理性を欠きません。

縄文時代住居跡の情報から上谷池が水源地として機能していたことを推定することができます。

開発前地図ではたった1本の等高線で表現され、標高差1mほどの凹地ですが、それが縄文時代には人々の定住を担保した水場であったと考えることができました。

縄文時代に水場であったのですから、奈良・平安時代にも台地上の貴重な水源であった可能性について検討することは大切なことです。

この上谷池内に奈良・平安時代の土坑が多数ありますので、その機能を次の記事で検討します。



2016年9月7日水曜日

自然・風景編ブログの開設

この度ブログ「花見川流域を歩く 自然・風景編」を開設しましたので報告します。

ブログ「花見川流域を歩く 自然・風景編」画面

これまでこのブログ「花見川流域を歩く」で時々掲載していた自然環境や風景に関する記事は、「花見川流域を歩く 自然・風景編」で掲載します。

ブログ「花見川流域を歩く」(本編)は当面考古歴史・地名などの話題に集中していくつもりです。

ブログ「花見川流域を歩く 自然・風景編」を開設した理由は次の通りです。

1 考古歴史・地名の連載的記事の間に自然・風景記事を挟むと、読みづらい。(ストーリー性が乱れる)

2 上記と関連して、自然・風景記事が少なくなる。自然・風景記事に力が入らなくなる。

3 一方、日々の早朝散歩などで自分に培われる花見川自然・風景に対する興味は深まっていて、情報発信を望んでいる。

ブログを分けることによって、考古歴史・地名の検討ストーリーとは独立して、自由気ままに自然・風景のことを考えることが担保されます。

また、ブログを分けることで自分の中の思考ギアチェンジが円滑になるためだと思いますが、記事作成効率が高まることを「花見川流域を歩く 番外編」開設の時などに体験しています。

このような事情から思い切ってブログ「花見川流域を歩く 自然・風景編」を開設した次第です。

ご愛顧の程よろしくお願いします。

なお、ブログ「花見川流域を歩く」(本編)は高頻度記事更新、他のファミリーブログは可能な範囲内での記事更新ができればよいと思っています。

2016年9月6日火曜日

上谷遺跡の特異な地形特性

2016.09.04記事「勘違いにより上谷遺跡の牧空間が判る可能性」で上谷遺跡に水場が存在することが想定されました。

そこで、上谷遺跡付近の地形を急遽検討します。

これまでこのブログではこの付近の地形について詳細に検討してきていて、印旛沼筋河川争奪として地形発達を考えています。

その既検討が大いに役立ちます。

2014.06.06記事「印旛沼筋河川争奪成因モデルに関する思考実験」など多数

1 上谷遺跡付近の浅い谷

上谷遺跡付近の地形面は下総下位面(A面)の地域です。

この付近の台地面には凹地が分布します。

同時に凹地は北西から南東に向かって発達する谷津によって浸食されだしているように観察できます。

このブログにおける過去の検討から、凹地は下総下位面が陸化した最初期に北西方向に下る傾斜に必従的に生まれた浅い谷の一部であると考えることができます。

上谷遺跡付近の下総下位面上の凹地と方向性

上谷遺跡に存在する凹地は下総台地に無数に存在する浅い谷地形(化石的地形)の一つであり、地殻変動で孤立化(閉じた凹地化)した例です。

浅い谷が地殻変動で孤立化して湖や池が生まれた例は多数あり、戦後開発以前の下総台地上の湖・池は珍しものではありませんでした。(代表例 長沼)

また東内野遺跡(富里市)のように旧石器時代の台地上の湖(東内野湖)古環境が復元された例もあります。

2 上谷遺跡の地形解釈

上谷遺跡付の開発前地形(地表の起伏)を知るために1947年撮影米軍空中写真を実体視してみました。

参考 上谷遺跡付近の開発前空中写真 裸眼実体視資料
米軍 M504-9、M504-10 国土地理院サイトからダウンロード

黒シミで汚れている場所が浅い谷起源の閉じた凹地です。

この観察に基づいて、上谷遺跡の地形を次のように解釈します。

上谷遺跡付近の地形解釈 (想定

Aは谷津沖積平野です。

Bはその谷頭ですがV字谷になっています。

沖積層基底面に連続する地形と考えます。

AとBの向きが異なるのは、台地上に既に存在していた浅い谷の部分を選択的に沖積谷津が侵食したためであると考えます。

恐らくE、D、Cの部分に浅い谷が走っていたと考えますが、地殻変動で細かく分断されて相対的に落ち込んだ部分がD、相対的に隆起した部分がC、Eであると考えます。

CとEでは火山灰降灰により浅い谷地形が見分けずらくなったと考えます。

Dは閉じた凹地として池あるいは湿地環境として持続残存したと考えます。

このような場所が下総台地には無数に存在しています。

3 「上谷池」の命名

縄文時代及びその後古代を含めて現代まで継続した浅い谷地形起源の閉じた凹地Dにいて、その作業名称を「上谷池」とします。

縄文時代及びその後の時代にあってもその場所が閉じた池あるいは湿地であったことを示すために池をつけました。

Dが道路建設の関係の埋め立てで形成されたとする考えは破棄します。


上谷遺跡は縄文遺構(住居遺構)が存在するので、水面が存在していたかあるいは潤沢な湧き水があったと考えます。

この情報に基づいて、次の記事で上谷池の環境について検討します。

2016年9月4日日曜日

勘違いにより上谷遺跡の牧空間が判る可能性

上谷遺跡の遺物や墨書土器情報をGISデータベース化していますから、遺物種類ごとに検討して、次々に記事にする予定です。

その一環として出土馬具について検討し、できれば牧空間の存在やその場所推定を記事にしようとしました。

上谷遺跡出土馬具(A177竪穴住居)
ハミの一部
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用


馬具出土竪穴住居付近は遺構の密度が低く、恐らくその付近が牧空間に違いないと直観しました。

しかし、その付近にいくつかの竪穴住居が存在していて「邪魔」です。

何故そのような場所に竪穴住居が3軒あるのか、その竪穴住居の特性はどのようなものであるのか知るために発掘調査報告書を調べました。

そうすると、なんとその「邪魔」な場所にある竪穴住居は縄文時代のものでした。

上谷遺跡検討は奈良・平安時代に絞っていて、遺構・遺物も全部奈良・平安時代のものに限定して作業しています。

自分の不注意が残念でした。

発掘調査報告書第3分冊には全時代の遺構分布図と時代別遺構分布図が存在していて、私は勘違いにより全時代遺構分布図をGISにプロットしていたのでした。

勘違いは残念で、これから行うデータ修正作業は手間がかかりますが、「邪魔」という自分の感覚が間違っていなかった可能性が高まりましたので、内心「やっぱり」という感じを持ちました。

同時に「まてよ」という思考が突然生まれました。

縄文時代住居がそこにあるということは、その場所に水が必ずあるという証拠です。

水があるということはその場所の地形が谷頭であるということです。

谷頭で水が出るから奈良・平安時代土坑がその場所に集中している。

つまりその土坑は馬の水飲み場。

そういえば、発掘調査報告書に竪穴住居を穴として認めないような埋め戻しがみられる。

それは牧空間だから、馬が穴に落ちないようにしたに違いない。

つまり縄文時代住居を勘違いして書き込んだ場所は、牧空間にちがいない。

このようなイメージが一気に頭をよぎりました。

勘違いから思考が大発展する可能性(2016.09.04)(2016.09.09訂正)

これから詳しく検討しますが、上谷遺跡の牧空間の場所を発見したようです。

上谷遺跡付近の地形は次のように解釈できます。

上谷遺跡付近の開発前現代地形の解釈

八千代市都市計画課から複製承認をいただいた開発前地図が大いに役立ちます。

旧版2万5千分の1地形図ではこのような思考は無理です。

鳴神山遺跡では牧空間を自分が満足するような情報として抽出することは、結局出来ませんでしたが、上谷遺跡では成功できそうです。

なお、牧空間の検討だけでなく、縄文時代の遺構情報、地形情報が古代遺跡検討と結びついたので、その点で自分の検討意欲が急増大します。



2016年9月3日土曜日

上谷遺跡 穂積具、鉄製鍬の出土状況

1 穂積具、鉄製鍬の意味

穂積具、鉄製鍬は稲作や雑穀栽培における刈り取りや耕うんに使われたと考えます。

穂積具の例 (A209)
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

鉄製鍬の例 (A206)
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

2 穂積具の出土状況

穂積具の出土状況は次の通りです。

上谷遺跡 穂積具出土状況

発掘区域の2個所に見られる掘立柱建物集中域の間に出土が限定されているように観察できます。

また竹集団からの出土が多くなっています。

穂積具は主に稲穂の刈り取り用であったと考えます。

集落の東と南を区切る印旛沼へつながる支谷津が主な耕作水田であり、その水田分布に穂積具分布が対応していると考えます。

3 鉄製鍬の出土状況

鉄製鍬の出土状況は次の通りです。

上谷遺跡 鉄製鍬出土状況

出土数が4点と少なくなっています。

それだけ希少品であったということですが、穂積具とくらべて利用面における切実性、必須性が低かったとも考えられます。

分布が発掘区域の端に偏ることから、鉄製鍬は台地上における雑穀や野菜あるいは麻栽培等に使われた可能性が考えられます。

4 墨書文字集団別統計

穂積具と鉄製鍬を一緒にして墨書文字集団別の統計を取ると次のようになります。

上谷遺跡 主要墨書文字別 鉄鍬、穂積具出土数

竹集団からの出土が特段に多くなっています。

水田耕作を墨書文字集団別にみると竹集団がその中心があったと考えて間違いなさそうです。

6 水田耕作の発展を祈願した墨書土器

上谷遺跡から墨書・刻書文字「田」が5点出土しているので、これらは水田耕作祈願(水田開発地拡大祈願、米増収祈願)であった可能性があります。

上谷遺跡 墨書文字 田 出土遺跡

ただし、A136釈文「田」は図像では「木(あるいは本)甲」のように見えてしまいます。発掘調査報告書には「田」以外の説明がありません。

またA226釈文線刻「田ヵ」はその線刻の様子が図像からは判りません。

A177竪穴住居から2点出土した墨書文字「田」は間違いない情報であり、その場所が竹集団の領域ですから、穂積具出土情報と合わせると、竹集団が水田耕作に取り組んでいたという思考を補強します。


2016年9月2日金曜日

千葉県墨書土器 絹織物生産祈願語「後」(キヌ)の分布

上谷遺跡出土墨書文字「後」が読みキヌで絹織物生産祈願語であることを次の記事で想定しました。


後をキヌと読む言葉の用例根拠は恋歌に出てくる「きぬぎぬ」です。

……………………………………………………………………
後をキヌと読む用例

きぬ‐ぎぬ【衣衣・後朝】

〖名〗 (「衣(きぬ)」を重ねた語で、それぞれの衣服の意)

① 男女が共寝をして、ふたりの衣を重ねてかけて寝たのが、翌朝別れる時それぞれ自分の衣をとって身につけた、その互いの衣。衣が、共寝のあとの離別の象徴となっている。

*古今(905‐914)恋三・六三七「しののめのほがらほがらとあけゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき〈よみ人しらず〉」

② 男女が共寝して過ごした翌朝。またその朝の別れ。きぬぎぬの別れ。こうちょう。ごちょう。

*新勅撰(1235)恋三・七九一「後朝の心を きぬぎぬになるともきかぬとりだにもあけゆくほどぞこゑもおしまぬ〈源通親〉」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
……………………………………………………………………

また、後(キヌ)と一緒に家(ヤ)が同じ土器に墨書されているものがあることから、家は機織用家屋(掘立柱建物)であると考えました。

この上谷遺跡における検討を千葉県全体に広げて、墨書文字「後」と「家」の出土状況を俯瞰してみました。

「後」の出土リストは次の通りです。

千葉県 墨書文字「後」出土リスト

上谷遺跡以外に「後(キヌ)」と「家(カ)」が同じ土器に墨書されている例が2例(ヵを含めると3例)あります。

また子(蚕)と後が一緒に書かれている例もあります。

これらの事例から後をキヌと読み、絹織物生産祈願語であるという想定が、想定以上の確からしさを持ったことになると考えます。

「後」の分布は次の通りです。

千葉県 墨書文字「後」出土遺跡

墨書文字「後」出土遺跡は絹の機織りが行われていたと考えます。

当然ですが、同時に養蚕も行われていたと考えます。

なお、大山遺跡の「真後家」は「マ・キヌ・カ」と読み、真(マ)は麻を意味し、麻織物と絹織物の産業発展と、その産業用家屋としての掘立柱建物の建設(建て替え)を祈願したものと考えます。

「家」の出土リストは次の通りです。

千葉県墨書文字「家」出土リスト

「家」は69遺跡から155点出土しています。

大家などの出土も多く、「家」(カ)とは掘立柱建物を意味してしていて、その建設祈願語であった可能性が濃厚です。

このうち養蚕や漆業務を示す墨書文字と一緒に出土する「家」の分布図を作成しました。

千葉県 墨書文字「家」出土遺跡(養蚕・漆関連文字を伴うもののみ)

子・小(=蚕(コ))、後(キヌ)=絹機織祈願と「家」が一緒に墨書されている土器出土遺跡が9、息(ソク)(=乾漆)と「家」が一緒に墨書されている土器出土遺跡が1つあります。

これらの「家」は養蚕あるいは絹機織産業の発展とその施設である掘立柱建物の建設(建て替え)、あるいは乾漆産業の発展とその作業場施設としての掘立柱建物建設(建て替え)を祈願したものと考えます。

2016年9月1日木曜日

上谷遺跡の開発前地形が判る地図

上谷遺跡付近の開発前地形が判る地図が利用可能となりました。

八千代市都市整備部都市計画課に測量成果の複製承認願の手続きを行い、昭和53年八千代市都市計画基本図(1/2500)の利用が可能となりました。

八千代市のご好意に感謝します。

昭和53年八千代市都市計画基本図の例

この地図を利用して上谷遺跡付近の検討図作成のための基図を作成しました。

昭和53年八千代市都市計画基本図を利用した検討図 例

これまで利用した旧版25000分の1地形図と比べて土地のイメージをより的確に把握することが可能となりました。

参考 旧版25000分の1地形図

現代地図では開発が進み地形が大幅に改変されているので、開発前地形が判る昭和53年八千代市都市計画基本図の価値は大きなものがあります。

参考 現代標準地図