宇那谷川流域紀行5 長沼池の成因
迅速図に表現された長沼池
宇那谷川上流にはもととも広い長沼池がありました。この長沼池は戦後農地となり、その後住宅地へと土地利用が変貌しています。
近代地形図で描かれた最初の長沼池は、明治前期に作成された迅速図においてです。ここで描かれた長沼池の面積を図上計測したところ、約7.6haでした。
江戸時代には長沼池は下流の宇那谷村の水源として使われる一方、付近の原野が長沼新田として開発されました。この時、宇那谷村と長沼新田との間で長沼池にかかる争論がありました。この時つくられたと考えられる「六方野開墾絵図」(1672年5月作成、1765年写、宇那谷町内会所蔵、「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」収録)によれば、まだ長沼池の水田開発が行われる前の状況が描かれており、御成り街道より南まで池が広がっています。名前のとおり「長沼」になっています。この絵図に描かれた長沼池が、人がこの池を改変する前の状態を表しているとみてよいと思います。絵図に描かれた長沼池を地図のプロットしてその面積を測定すると、約26haであり、明治時代の池面積の3.4倍ありました。
六方野開墾絵図(宇那谷町内会所蔵、「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」より転載)
この長沼池のほとりに縄文遺跡(屋敷遺跡)があります。台地の真ん中では飲料水を得られませんから、台地上に縄文遺跡はほとんどありませんが、この長沼池のほとりに縄文遺跡があるのは、その時代から長沼池があったことを物語っていると思います。長沼池が飲料水の確保に使われるとともに、魚介等の採取地としても利用されていたと考えられます。
※屋敷遺跡〔種別:包蔵地、時代:縄文(中・後)、遺構・遺物:縄文土器(加曾利E、加曾利B)〕(千葉県教育委員会WEB情報「ふさの国文化財ナビゲーション」による)
次に台地でありながら、なぜ長沼池ができたのか、その成因を考えてみました。
次の図には旧版1万分の1地形図「三角原」「六方野原」(ともに大正6年測図)の等高線から閉曲線となっている凹地を抜き出してみました。この図からわかるとおり、長沼池の西側に浅い谷を連想させる台地上の凹地が連続的に分布しています。その凹地は宇那谷川と横戸川の支川谷津の上流部に該当します。同時に凹地の北側の終端は直線状の分布となり、等高線の形状から崖線の存在を確認できます。つまり、台地に谷津が形成された後、崖線を境に北側が相対的に地盤隆起し、南側(谷津の上流側、源流側)が取り残されたような状況が生まれたと想像できます。崖線が直線状ではっきり表現されているので、断層崖かもしれません。
つまり台地に谷津が刻まれた後の地盤の運動で、上流部が相対的に沈下したため、長沼池ができたと考えることが出来ます。
長沼付近の微地形(基図は旧版1万分の1地形図)
長沼付近の微地形(基図は現代2.5万分の1地形図)
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