2014年8月15日金曜日

埋蔵文化財情報から市町村別「歴史濃度」を概観する その1

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その7

1 寄り道をすることにする
「縄文弥生時代の交通」の検討に使うために、「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)から種別埋蔵文化財情報をダウンロードし、そのファイルの中から検討区域の市町村情報だけを抜き出す作業を繰り返していました。検討作業の下ごしらえをしていたのです。
作業をする中で、必然的に千葉県全体の情報にふれることになります。

ふと気がつくと、面積の広狭とは関係なく文化財のとても多い自治体とそうでない自治体があることに気がつきました。

もし単位面積あたりの埋蔵文化財件数を算出すれば、つまり埋蔵文化財密度を算出すれば、それはその場所の「歴史の濃さ」、「歴史濃度」、「歴史密度」といったものをイメージできるのではないだろうかと発想しました。

そこで、せっかく入手した電子ファイルが手元にあり、それから広域的な情報が汲み取れそうなので、「東京湾と香取の海の交通」というメインテーマに入る前に寄り道をして千葉県全体を俯瞰して「歴史濃度」を検討してみることにしました。

自分自身が千葉県全体の埋蔵文化財に関する何らかのイメージを持つことができれば、メインテーマ検討に際しても役立つことになると思います。

寄り道をするなかで、また別の寄り道をするということを繰り返して、いつの間にか迷子になるということがないように気をつけます。

2 埋蔵文化財総数密度の算出と分布図作成
「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした全県の埋蔵文化財リストについて、書式不備等の部分について最低限の調整をしてから、市区町村別埋蔵文化財件数をカウントしました。

千葉県全体の埋蔵文化財箇所数は19905箇所で、1000箇所以上ある自治体は市原市2632箇所、千葉市1320箇所、君津市1265箇所、成田市1184箇所、香取市1014箇所、袖ケ浦市1003箇所でした。少ない方は浦安市1箇所、九十九里町12箇所、長生村22箇所、御宿町27箇所、白子町28箇所などとなっています。

埋蔵文化財19905箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財密度3.9箇所/km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財密度の分級
分級A 7.8~ 箇所/km2
分級B 3.9~7.7 箇所/km2
分級C ~3.8 箇所/km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

市区町村別埋蔵文化財密度

この埋蔵文化材密度図と対比させる目的で参考図として現代人口密度をつくりました。

参考 市区町村別人口密度図
人口密度の分級は、平均値とその倍数を使っています。

3 埋蔵文化財密度図からイメージできること
千葉県の歴史について知識の乏しい私にとって、この分布図から「そうだったのか」というイメージがいくつも浮かんできます。

・袖ヶ浦市、佐倉市、神崎町の埋蔵文化財分布密度が高く(分級A)、この付近3箇所の周辺がついで密度が高く(分級B)なっています。これを、現在の人口密度図と比較すると、埋蔵文化財密度の高い場所は現代人口密度の高い場所と一致ません。従って、埋蔵文化財密度の高い場所は開発との関係で高いのではなく、本来の実態として高いことがわかります。つまり、この埋蔵文化財密度図は過去において土地に刻まれた全歴史の濃さを表現しているとみて差し支えないと思います。

・この埋蔵文化財密度は全ての時代の情報を一括して表現していますから、各時代ごとの情報で密度図を作成すると、時代ごとの特徴が出てくる可能性があります。

・袖ヶ浦市の周辺の市原市、君津市は山林の面積が大きく、もしいくつかの区画別に集計するといまより密度が高い分級の場所が出てくると思います。君津市、袖ケ浦市、木更津市、君津市の一帯は東京湾との関係で歴史が濃い場所であったと考えます。

・佐倉市を中心としてその周辺の千葉市緑区、千葉市若葉区、四街道市、千葉市花見川区、八千代市、印西市、酒々井町、富里市、芝山町、成田市などの密度が高くなっています。この一帯は印旛沼水系(香取の海)との関係で歴史が濃い場所であったと考えます。

・自治体という大きなくくりにもかかわらず、佐倉市-八千代市-千葉市花見川区という歴史の濃い場所(ルート)の存在、佐倉市-四街道市-千葉市若葉区という歴史の濃い場所(ルート)の存在が見えます。何れも印旛沼と東京湾を結ぶルートです。そのルートが歴史の濃い場所であるということです。

・松戸市、市川市、船橋市、習志野市などは埋蔵文化財密度が低く、東京湾と印旛沼(あるいは手賀沼)を結ぶ要衝であったという意味での歴史の濃さはみられません。

・神崎町周辺の香取市、成田市から西へ栄町、我孫子市、柏市、流山市と密度の高い場所が続いています。利根川(流海)との関係で歴史が濃い場所であったと考えます。この連担は利根川と東京湾方面をつないでいることも特徴です。

これらのイメージが結果として実証されていくようなものであるのか、ピンボケであり捨て去るべきものであるかはとりあえず別として、何はともあれ自分の歴史認識を豊かにして、興味をますます深めるきっかけとなったことは確実です。

なお、市区町村単位集計でこれだけの情報を得ることができるのですから、自治体内のブロック(旧市町村や大字)程度別に集計できればより的確な情報となります。

さらに1件ごとの情報には住所が記載されていますから、全箇所情報について住所情報からGISに概略位置を機械的に一括プロットできれば(メッシュ表示などができれば)、大変有用な情報になることが判りました。

次の記事から時代別密度について検討したいと思います。

2014年8月14日木曜日

埋蔵文化財電子ファイルを入手する

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その6

千葉県の埋蔵文化財包蔵地情報を電子ファイル(csvファイル)で入手できましたので報告します。

電子ファイルで入手できたので、自分のパソコン内で自由に検索や集計ができるとともに、GISに取り込んで高効率的に活用できる可能性が高まりました。
「縄文弥生時代の交通」のみならず、「花見川地峡の利用・開発史」全体の検討に大いに役立つことになりそうです。

埋蔵文化財包蔵地情報(電子ファイル)はサイト「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードできますので、その方法を具体的に説明します。

1 埋蔵文化財包蔵地情報のダウンロード方法(全県情報一括)
サイト「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)に入り、最初の検索画面を開きます。

最初の検索画面

何も入力しないで、「実行」をクリックしますと右側にリストの1部が表示されます。。

なにも入力しないで「実行」をクリックしたときの画面

この画面で「検索結果一覧ダウンロード」をクリックすると、このリストのcsvファイルがパソコンにダウンロードされまます。

「検索結果一覧ダウンロード」をクリックする

ダウンロードしたcsvファイルをエクセルで開いて利用します。

エクセルで開いたcsvファイル

2 市町村別、種別、時代別ファイルのダウンロード方法

最初の検索画面で、市町村名だけ選択、種別だけ選択、時代だけ選択あるいは市町村名・種別・時代別を組み合わせて選択して「実行」をクリックすると、その選択に対応したリストの一部が表示されます。この表示の中の「検索結果一覧ダウンロード」をクリックすると選択に対応したcsvファイルがダウンロードされます。

・市町村別…千葉市は6区別とした59市区町村

・種別…包蔵地、集落跡、貝塚、墳墓、古墳、横穴、塚、宗教遺跡、寺院跡、神社跡、祭祀遺跡、城館跡、官衙跡、国府跡、郡衙跡、都城跡、生産遺跡、製鉄跡、水田跡、窯跡、牧、条理跡、洞窟、その他

・時代別…旧石器、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、古代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、中世、江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代、近代

3 個別包蔵地の地図と情報内容を見る
表示されたリストの「詳細」をクリックすると次のような画面になり個別包蔵地の地図と情報内容を見ることができます。

「詳細」をクリックした時に表示される地図と情報

4 電子ファイルを入手したことによる可能性
埋蔵文化財包蔵地に関する電子ファイル入手について知らなかった時は、冊子版の千葉県埋蔵文化財分布地図をスキャンしてGISに取り込んで利用していました。(2011.04.03記事「埋蔵文化財地図のGIS取込」参照)

電子ファイルが入手できたので、また「ふさの国文化財ナビゲーション」に地図が表示されるので、埋蔵文化財包蔵地情報をGISにプロットして効率的に活用できる可能性が大いに拡がりました。

2014年8月13日水曜日

「縄文流通網」に関する論文の学習

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その5

直前2記事に過去記事を再掲して、縄文弥生時代の交通について思考するウォーミングアップを始めました。

ウォーミングアップの一環として、次の論文の学習をしましたので、その結果をメモします

●学習した論文
高橋誠・林田利之・小林園子(2001):縄文集落の領域と「縄文流通網」の継承-佐倉市坂戸草刈堀込遺跡発見の晩期貝層から-、印旛郡市文化財センター研究紀要2、73-105

1 この論文の概要
論文は次の5章から構成されています。
第1章 佐倉市坂戸草刈堀込遺跡の概要
第2章 発見された遺物
第3章 「縄文流通網」
第4章 縄文集落と領域の継続性
第5章 まとめ

論文最初に要旨が掲載されていますので、それを直接引用します。

論文の要旨

2 佐倉市坂戸草刈堀込遺跡の位置
東京湾産貝殻が出土した佐倉市坂戸草刈堀込(さかどくさかりぼつこみ)遺跡の位置を示します。

佐倉市坂戸草刈堀込遺跡の位置

3 私が興味を持った記述
この論文で私が興味をもった主な事項を書きだしてみます。

ア 出土した貝類が東京湾産であること
貝類は台付浅鉢形土器に入って出土し、イボキサゴを主としハマグリ、シオフキガイ、アサリなどを含む組成であり、近隣遺跡出土貝類の組成と近似し、東京湾産であるという可能性を指摘しています。二次的に廃棄した貝を集めて、なぜ土器に入いれて埋納したかその理由は不明であるとしています。

イ 東京湾からの流通ルートは山奥から山奥へという山越えの流通路を考えた方が合理的である
「かつては、東京湾まで川一本くだればよいルート上にある都川最上流域の誉田高田貝塚などから、鹿島川支流最上流域の野呂山田貝塚、八反目台貝塚等を経由した搬入ルートが想定されてきた(阿部1994)が、遺跡分布の位置関係を考慮した場合、分水界を越えた、谷奥から谷奥へという、いわば山越えの流通路を考えた方が合理的である。」と記述しています。

[検討]
この記述の遺跡の位置関係を次に示してみます。

流通路検討に関連する遺跡分布

この論文では「山奥から山奥」へと考えた方が合理的であるとしていますが、東京湾の1集落と山奥の1集落の相対取引ならまだしも、一定の地域規模を有する物資流通の場合、物量が大きくなりますから運搬具として必ず舟を活用することになると思います。生貝を全て人が担いで流通させたとは考えられません。
従って、人が担ぐ距離を最短にして、舟を主要運搬具とした流通路を考える必要があります。

私は野呂山田遺跡を経由して生貝が東京湾から印旛沼水系に流通した可能性が濃いと考えます。

野呂山田遺跡はその位置からして物流中継基地のようにさえ見えてきます。
埋蔵文化財情報(ふさの国文化財ナビゲーション)は次のようになっていて、一過性の居住跡などではなく、ある程度の拠点性を有しています。

●野呂山田遺跡の概要
・種別 集落跡、貝塚
・時代 縄文(中・後・晩)、平安
・遺構・遺物 地点貝塚・縄文土器(勝坂・加曽利E・堀之内・加曽利B・安行1・2・3a)、石器(石鏃・石皿・磨石・凹石・磨製石斧・打製石斧・腰飾)、土製品(土偶・耳飾)、貝製品(貝輪)、魚骨、獣骨、貝(ハマグリ・ツメタガイ・オキシジミ・シオフキ・アカニシ・キサゴ・マテガイ)、土師器

この遺跡については立地条件等を含めて詳細に検討したいと思います。

縄文時代だけでなく、律令国家になってからの時代にもここが幹線交通の結節点であった可能性を検討したいと思います。

花見川地峡と同じように、野呂山田遺跡のある場所が、舟運が主要運搬ツールであった時代の東京湾と香取の海をつなぐ数少ない交通要衝地峡であったと考えています。

縄文時代において、丸木舟が活用できる谷津の上流範囲がどこら辺までであったのか、縄文海進をふまえた検討をしたいと思います。

ウ 貝類は「縄文流通網」によってもたらされた
「内陸集落に残された鹹水産貝類は、彼らが自ら獲得していた可能性は非常に薄い。…集落間に張り巡らされた互酬関係=交易により重層的に食料経済を補完・維持していたことが明確なのである。そのような集落間の密接な関係を、本論では「縄文流通網」と呼ぶこととしたい。…「縄文流通網」がすでに中期後半段階で構築されていた…」

[検討]
「縄文流通網」の提案はその通りだと思いますが、この論文の流通網のイメージには幹線物流ルートの存在とか物流をなかば生業とする集団(行商人みたいな人)の存在はイメージしていないようです。

エ 東京湾と印旛沼をつなぐ拠点集落が重要な中継地としての役割を担っていた
「先の報告(高橋1999)において、吉見台遺跡などの印旛沼沿岸の汽水貝塚に含まれる鹹水産貝類は、千葉市北部以北から持ち込まれたことを想定したが、後期後半以降のこうした状況を考慮すると、実は、千代田遺跡(八木原貝塚)などの、東京湾と印旛沼をつなぐ位置に所在する拠点集落が重要な中継地の役割を担っていたことも想定される。注)
注)というよりも、流通の発達した社会においては、物資搬送ルートの中間地点に位置していることは地理的に大きな利点であり、周辺の集落との関係においては、何らかの形でイニシャチブをもっていた可能性すら考えられる。早くから千代田遺跡(八木原貝塚)に目を向けて物資の流れを考察した阿部芳郎の先見性(阿部1994)は評価されてよい。と同時に、そのような遺跡の大部分を未調査のまま失ってしまったことは心底悔やまれる。」

[検討]
理解できない箇所です。

まず、千代田遺跡が東京湾と印旛沼をつなぐ重要な中継地であったことを想定できる根拠が、地図をみても直感的にわかりません。(上図参照)
この論文の対象遺跡(坂戸草刈堀込遺跡)より東京湾から離れています。

また千代田遺跡は台地の真ん中にあります。このような立地条件の遺跡が生貝などの物資搬送を考察している時、なぜその搬送ルートの中継地になりえたのか?

縄文時代に関する一般人には理解しがたい特殊情報があるのかもしれません。その場合、それを理解した時は、自分の知識レベルが飛躍的に向上しているはずですから楽しみです。

関係論文を読んで学習を深めたいと思います。

オ 印旛沼南岸地域では縄文集落の領域の継承がみられ、3点セットとなっている
「縄文流通網」のコミュニケーション構築が、集落の領域の安定的な等間隔配置を可能ならしめた。…中期後半、後・晩期、中期末葉から後期初頭の集落分布は時代が異なるにもかかわらず位置的に近接する。これを3点セットとして捉えられる。集落の「領域」には、財産の総体としての意味が付与される。「縄文流通網」は、まさしくそうした財産の一つであった。

印旛沼南岸地域の中・後・晩期拠点集落分布
高橋誠・林田利之・小林園子(2001):縄文集落の領域と「縄文流通網」の継承-佐倉市坂戸草刈堀込遺跡発見の晩期貝層から-、印旛郡市文化財センター研究紀要2、73-105 より引用

[検討]
この論文の結論部分です。とてもわかりやすく、参考になる部分です。
この論文を読んで私が得た最大の収穫がこの結論です。


この論文を引き金にして、縄文時代等の流通や交通に関する論文や図書を芋づる式に読みたいと思っています。

2014年8月12日火曜日

弥生時代、古墳時代遺跡の分布 (過去記事再掲)

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その4

前記事に引き続き、ここでは弥生時代、古墳時代の遺跡分布検討記事を1記事に編集して、再掲します。

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2012.07.08記事「花見川流域の弥生時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の弥生時代遺跡合計11個所を地形段彩図にプロットしてみました。

勝田川(=新川あるいは平戸川)の沖積地平野に関わる3遺跡と花見川の沖積平野に関わる8遺跡の2群として認識することができます。

花見川流域の弥生時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

2点について予察します。

1 水田耕作が始まっているのに、遺跡発見場所はほとんど台地上である理由
弥生時代遺跡の分布を地形との関係でみると、ほとんど台地上であり、水田耕作が始まったにも関わらず、低地や河岸段丘上の遺跡がほとんどないことは極めて不自然です。
2012.7.2記事「弥生時代遺跡が極端に少ない理由」では、「弥生時代の居住地の大半は現在の集落と重なる」ため遺跡が消滅し発見されることがないという推測をしました。
こうした問題意識で「千葉市史 通史 原始古代中世編」(昭和49年、千葉市発行)をめくっていると、次のような記述を見つけました。
(沖積低地に立地する弥生遺跡が昭和49年ごろほとんど見つかっていなかった理由として)「それは、当時にあって沖積低地内での集落立地の条件を満たす微高地が、それ以後の時代、特に近・現代においても早くから市街地として発達したために姻滅してしまったためとも考えられる。
だいたい自分の考えと同じであり、情報の少ない約40年前の記述とはいえ、なんとなく自分の思考がむちゃくちゃ間違っていることはないと感じました。

台地上に発見された弥生時代遺跡は、地域の高度な社会機能(祭祀等)に関わる遺跡(別表現すれば、支配者層に関わる遺跡)であり、一般民衆の居住遺跡は沖積地微高地等にあり、その多くは現在も集落となっているため、遺跡としては「発見」されていないと感じています。

2 発見遺跡数が少ない理由
頭の体操で、遺跡の時代区分別の「1遺跡の代表年数(A/B)」を計算してみました。この指標は「時代の長さを考慮して、どれだけ遺跡が発見されているか」を知るために考えたものです。

結果は次の通りとなりました。
花見川流域の1遺跡が代表する年数(その1)


時代

時代の年数

(単位:年)

A

花見川流域の遺跡数

(単位:箇所)

B

1遺跡の代表年数

(単位:年/箇所)

A÷B

(参考)Aの想定

旧石器時代

14000

10

1400

3万年前(※)から16千年前まで

縄文時代

13600

105

130

16千年前(紀元前140世紀)から紀元前4世紀ごろまで

弥生時代

650

11

59

紀元前4世紀ごろから紀元後3世紀中ごろまで

古墳時代

450

68

7

3世紀半ば過ぎから7世紀末ごろまで
※「八千代市の歴史 通史編 上」(八千代市発行)によれば、千葉県内の旧石器時代遺跡はほとんど全て立川ローム層から発見されている。

時代の時間を考慮すると、弥生時代の遺跡数が特別少ないとはいえないかもしれないと感じるようになりました。
弥生時代と古墳時代は同じ水田耕作が行われた時期ですから、合わせてみると次のようになります。

花見川流域の1遺跡が代表する年数(その2)


時代

時代の年数

(単位:年)

A

花見川流域の遺跡数

(単位:箇所)

B

1遺跡の代表年数

(単位:年/箇所)

A÷B

(参考)Aの想定

旧石器時代

14000

10

1400

3万年前(※)から16千年前まで

縄文時代

13600

105

130

16千年前(紀元前140世紀)から紀元前4世紀ごろまで

弥生時代+古墳時代

1100

79

14

紀元前4世紀ごろから紀元後7世紀末ごろまで

丁度一桁ずつ変化し、なにか理由は言葉ですぐ表現できませんが、「やっぱりそうか」と納得できるような感情になりました。

結論から言えば、弥生時代遺跡数が「極端に少ない」と思ったのは、縄文:弥生=1:1という言葉の重さの先入観念を時間にも誤って適用していた自分に気がついたことです。

時代の時間を考慮すれば、花見川流域の縄文時代遺跡105に対して弥生時代遺跡11は「極端に」少ないとは必ずしも言えないと思うようになりました。 発見遺跡数に着目するのではなく、1で述べた地形との関係からみた分布特性に着目していきたいと思います。

……………………………………………………………………
2012.07.19記事「花見川流域の古墳時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の古墳時代遺跡合計68個所を地形段彩図にプロットしてみました。

花見川流域の古墳時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

古墳時代遺跡分布図と弥生時代遺跡分布図を比較すると、弥生時代遺跡の分布地点はその近傍を含めると、全て古墳時代遺跡の分布域と重なることが判りました。(図面は省略します。)

古墳時代遺跡分布図と縄文時代遺跡分布図を重ねて比較すると、古墳時代遺跡分布の特徴が浮かび上がります。

花見川流域の古墳時代遺跡と縄文時代遺跡の分布重ね図
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

この重ね図から古墳時代遺跡の特徴の予察を行います。

なお、この予察は個々の遺跡についてその種別、出土物や報告書記載情報を踏まえていません。これまでこのブログの活動で得た花見川流域の地形特性の情報と、遺跡分布そのものの情報に基づいて行っています。 この予察(問題意識)が本当であるかどうかについて、これから各遺跡の情報を詳しく吟味して行うつもりです。

予察の結果を次の図と表に表しました。

予察図

予察結果
1 古墳時代遺跡はほとんど全て台地上にある。
これはこれまで何回か述べているように、沖積地微高地や河岸段丘上の古墳時代集落が現在まで集落として継続していて、遺跡として発見できないこと(遺跡としては消滅していること)が主因であると考えます。
統治の場(支配層の居住地)や祭祀の場など特別な社会的機能が台地上にあり、それだけが古墳時代遺跡として現在発見されているのだと思います。

2 古墳時代遺跡は縄文時代遺跡よりその分布が集約されている
予察図に白い楕円で4個所を囲みました。その場所は縄文時代遺跡はあるが、古墳時代遺跡はない場所です。
それら4個所は谷津の上流部や小さい谷津の部分です。
これらの場所は飲料水を得られ、なおかつ狩猟基地としては好適な場所であるが、水田耕作ができる広い谷底平野が無い場所です。 つまり、古墳時代になると水田耕作適地の周辺にその時代の統治や祭祀の場が集約されていったと考えます。

3 東京湾水系流域の遺跡が増大し、印旛沼水系流域の遺跡が減少した
縄文時代遺跡の東京湾水系流域の分布と印旛沼水系流域の分布を比較すると、直感的には大きな差異を感じません。
ところが、古墳時代遺跡の東京湾水系流域の分布と印旛沼水系流域の分布を比較すると、東京湾水系流域の分布が濃いことが直感的にわかります。
なぜ東京湾水系流域の分布の方が多いのか、とても興味深い現象です。
おそらく東京湾側の方は東京湾各地との交流があり、農業だけでなく、交易、広域的統治(地方・国家レベルでの支配-非支配関係)、文化、軍事等の面で印旛沼水系側より地域開発が進んだものと考えます。
(統治、経済交易、軍事、文化などの諸側面で、東京湾側から受ける刺激のほうが印旛沼側から受けるものより大きかったと考えられます。)

4 古墳時代遺跡分布の特性

古墳時代遺跡分布の特性を次のように予察してみました。



予察図内の記号

分布特性(予察)

A

新川(平戸川)谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)

B

高津川谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)

C

勝田川谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)

D

花見川及び犢橋川の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)

E

花見川の源流部に立地した遺跡(祭祀機能?)

F

犢橋川の源流部に立地した遺跡(祭祀機能?)

G

東京湾(幕張湾)の古代湊付近に立地した遺跡(交易機能?)

H

幕張湾口に立地した遺跡(軍事機能?)

I

幕張湾口に立地した遺跡(軍事機能?)

J

台地内陸に立地した遺跡(?)

K

谷津奥に孤立して立地した遺跡(?)

L

台地奥に立地した遺跡(?)

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2014年8月11日月曜日

旧石器時代、縄文時代遺跡の分布 (過去記事再掲)

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その3

●このブログにおけるこれまでの検討
このブログにおける、縄文弥生時代の交通に関連する主要過去記事はサイト「花見川流域地誌素材集」の「3-2-1遺跡に対する興味」から「3-9古代における花見川地峡の役割」に掲載してあります。
記事数が多数になるので全部紹介しきれませんが、ここでは花見川流域を対象とした旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡分布検討記事を2記事に編集して、再掲します。

これからこのブログで行う検証作業のウォーミングアップみたいなものになっているので、紹介するのです。

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2012.07.06記事「花見川流域の旧石器時代遺跡の予察
千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の旧石器時代遺跡合計10個所を地形段彩図にプロットしてみました。

花見川流域の旧石器時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

旧石器時代遺跡を地形との関係で見ると、次のように3分類できるような気がしてきました。

A 谷津源頭部の湧泉を利用していると考えられる遺跡。奥まった場所の台地上にあります。(定住的な地域拠点?)
B 東京湾の幕張の入り江に直接面した台地上の遺跡。(海岸付近の猟に関係?)
C 河川の合流部(川付近の猟に関係?)

具体的には次のようになります。

花見川流域の旧石器時代遺跡の特徴(予察)


仮番号

遺跡名

特徴(予察)

所在市

1

子和清水遺跡

A 犢橋川の谷津源頭部(湧泉)

千葉市

2

武石遺跡

B 東京湾(幕張の入り江)

千葉市

3

箕輪遺跡

A 畑川の谷津源頭部(湧泉)

千葉市

4

居寒台遺跡

B 東京湾(幕張の入り江)

千葉市

5

直道遺跡

B 東京湾(幕張の入り江)

千葉市

6

玄蕃所遺跡

B 東京湾(幕張の入り江)

千葉市

7

上志津大堀遺跡

A 勝田川右岸支川の谷津源頭部(湧泉)

佐倉市

8

桜ケ丘遺跡

A 小深川の谷津源頭部(湧泉)

四街道市

9

高津新山遺跡

C 高津川と北高津川の合流部

八千代市

10

高津新田遺跡

A 芦太川の谷津源頭部(湧泉)

八千代市
このような予察が果たして妥当なものなのか、各遺跡の詳細を既存の調査報告書等を学習して検証していきます。(検証はできなくとも自分なりに合理的思考ができるようにしたいと思います。)

同時に、これらの旧石器時代遺跡の年代が判っているものであるのか、学習します。
これらの遺跡はおそらく3万年前頃から1万6千年前頃だと思いますが、遺跡とその年代の地形(現在より100m以上海面が低い時期もあり、立川面〔千葉第2段丘〕が形成されていた頃)との関係について合理的にイメージできるようになりたいと思います。

旧石器時代の東京湾幕張の入り江は、現在より深い谷であったことは間違いありません。
最終氷期最盛期には海面はそこになかったのですが、1万6千年前頃にはフィヨルドみたいな海があったかもしれません。
Bと分類した遺跡の意味は「海」そのもの(海の猟)ではなく、海岸近くの「深い谷地形」(大型獣の狩猟の場)にあったのかもしれません。

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2012.07.07記事「花見川流域の縄文時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の縄文時代遺跡合計105個所を地形段彩図にプロットしてみました。

花見川流域の縄文時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

縄文時代遺跡を地形との関係で見ると、大ざっぱにみて、次のように5分類できるような気がしてきました。

A 高津川沿い台地縁辺部に立地しているもの
B 勝田川(横戸川、宇那谷川、小深川、西小深川)沿い台地縁辺部に立地しているもの(密集分布)
C 花見川源頭部付近の台地縁辺部に立地しているもの
D 花見川、犢橋川、長作川沿いの台地縁辺部に立地しているもの(密集分布)
E 台地の内陸部に孤立して立地しているもの(オアシスのように孤立して存在する水に依拠していたもの)

流域でみるとAとBは印旛沼流域、CとDは東京湾流域です。Cは花見川河川争奪により台地内陸深くに立地している縄文遺跡であり、位置的にA、BとDの中間に存在することからし、A、BとDの人的・物質的・文化的交流の中継地であった可能性を感じさせます。

次に縄文遺跡が発見されていないゾーンについて、その理由を考えたところ、次に5つの理由が脳裏に浮かびました。

ア 習志野演習場が存在するため、遺跡調査がおこなわれたことがない地域(縄文遺跡は存在すると考えられる)
イ 空川の古柏井川が存在していたため、水に不自由であり、縄文遺跡がない地域
ウ 水が少ない台地中央部
エ 水が少ない台地中央部
オ 砂丘により遺跡が隠されている地域(縄文遺跡は存在すると考えられる)

これらの予察を次の図にまとめました。

縄文遺跡予察図
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

縄文遺跡といっても時期の違い、遺構種類の違い等別に詳しく見ていくことが必要であり、そうした視点から今後詳細に検討する予定です。
また、千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)より新しい情報を入手できましたので、詳細検討は最新情報で行う予定です。

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次記事でつづきを再掲します。

2014年8月10日日曜日

縄文弥生時代の花見川筋の交通 検討を始めるにあたって

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その2

「シリーズ 花見川地峡の利用・開発史」の「第1部 縄文弥生時代の交通」を始めます。

1 「第1部 縄文弥生時代の交通」で扱う時代
「第1部 縄文弥生時代の交通」では次の時代を扱います。

● 「第1部 縄文弥生時代の交通」で扱う時代
旧石器時代
縄文時代
弥生時代
古墳時代

2 「第1部 縄文弥生時代の交通」における問題意識
「第1部 縄文弥生時代の交通」の問題意識は、次のような仮説を検証するためのデータ収集を行うということです。この検証プロセスを記事にします。

●問題意識 仮説「縄文弥生時代において、東京湾と香取の海を結ぶ主要交通路は花見川筋であった」を検証するための情報を集める。

結果として仮説が検証されたかどうかという評価は読者や専門家にお任せすることにします。

3 「第1部 縄文弥生時代の交通」の検討範囲
仮説「縄文弥生時代において、東京湾と香取の海を結ぶ主要交通路は花見川筋であった」を検証するためには、花見川筋だけの検討では不十分です。東京湾と香取の海を結ぶ可能性のある他の場所との比較対比が必要です。
そのために次の谷津の組み合わせを対象として、その交通について検証します。

「第1部 縄文弥生時代の交通」の検証対象とする谷津の組み合わせ
地形段彩図表示

「第1部 縄文弥生時代の交通」の検証対象とする谷津の組み合わせ
基図は標高8m以下の土地を海面であったと見立てた場合のイメージ図
2014.04.08記事「縄文海進クライマックス期の海陸分布」参照

この図を見ただけで、東京湾と香取の海の水面間距離が最も近いのが、花見川-新川の組み合わせであることが判ります。

参考 「第1部 縄文弥生時代の交通」の検証対象とする谷津の組み合わせ
基図は標準地図

4 仮説検証の成算
このブログのこれまでの検討で、花見川筋が東京湾と香取の海の幹線交通路であったという各種情報を得てきていて、記事にしています。
しかし、花見川筋以外の場所がどうであったのかという比較対象の検討は行っていません。
これからの検討で東京湾と香取の海との関係のありそうな場所について全部検討しますから、花見川筋以外の場所の交通に関する情報が得られれば、花見川筋の交通の特性をあぶり出すことができると思っています。

検討は次の2点について行います。

●仮説検証の2項目
・東京湾と香取の海を結ぶルートの地形詳細による検証
・遺跡分布や遺物による検証

地形の検討はGISを駆使して可能であり、一定の成果を得られると予想します。
遺跡分布や遺物による検証は専門家からみれば表面的な検討に終始してしまう可能性もありますが、とにかくチャレンジしてみます。

予定調和的に仮説を検証できるという保証はありませんが、検討作業を楽しみ、興味を深めたいと思います。

なお幸いなことに、以前財団法人印旛郡市文化財センターを訪れた際いただいた「印旛郡市文化財センター研究紀要2」に収録されている次の論文がとても参考になりそうなので、この論文の学習を行い、その学習も記事にしたいと思っています。

高橋誠・林田利之・小林園子(2001):縄文集落の領域と「縄文流通網」の継承-佐倉市坂戸草刈堀込遺跡発見の晩期貝層から-、印旛郡市文化財センター研究紀要2、73-105

次の記事ではこのブログにおけるこのテーマの過去記事をまとめます。