2015年6月19日金曜日

八千代市北海道遺跡 銙帯とハマグリ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.152 八千代市北海道遺跡 銙帯とハマグリ

1 八千代市北海道遺跡から出土した銙帯
銙帯は官人が活動していた証拠であると考え、銙帯出土が官人の活動=律令国家の組織活動の存在の指標になると考え、このブログでは重視しています。

八千代市北海道遺跡から出土した銙帯は次の3点です。

北海道遺跡出土銙帯
参考に大型鉸具出土情報も加えました。大きさから馬具であると考えます。
銙帯・大型馬具スケッチは「八千代市北海道遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅱ- 本文編、図版編」(1985、住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

2点がⅢゾーンから、1点がⅣゾーンから出土しています。
Ⅲゾーンは掘立柱建物が1つだけで、白幡前遺跡・井戸向遺跡の検討ではミッションをもつ職務集団の活動の場ではなく、農業集落的性格がゾーンであると考えていますから違和感が生じます。

参考までに白幡前遺跡と井戸向遺跡の出土情報を再掲します。

井戸向遺跡・白幡前遺跡出土銙帯

井戸向遺跡ではⅣゾーンで掘立柱建物が少ないのですが、銙帯が2点出土し、その理由として、墨書土器文字情報等も踏まえて、そのゾーンが開発中の現場であり、官人が現場事務所に常駐していたというようなイメージで捉え、掘立柱建物が少ないことと銙帯出土の関係を解釈しました。

北海道遺跡のⅢゾーンではどのように考えるべきか、今後別の情報(指標)が揃った段階で検討します。

この記事では、Ⅲゾーンに違和感が生じたことを、遺跡特性を理解する上で重要な手がかりとなる違和感であると予感して、記録しておきます。

2 参考 遺跡別銙帯数の検討
遺跡別出土銙帯数は白幡前遺跡9、井戸向遺跡4、北海道遺跡3となります。先回りして権現後遺跡を調べると7となります。

銙帯出土が官人の活動=律令国家の組織活動の存在の指標になると考えているのですから、銙帯出土数は官人の活動量(官人数)=律令国家の組織活動量(=律令国家からみた拠点重要度)に比例すると考えることは極自然の成り行きです。

参考 萱田地区4遺跡の銙帯出土数

3 八千代市北海道遺跡から出土したハマグリ
萱田地区は東京湾から分水界を隔てた場所であり、東京湾産ハマグリ出土は奢侈活動が行なわれた証拠であり、その背景に権力の存在を感じることができます。銙帯と並び、ハマグリも律令国家の組織活動に関わる指標と考えられます。

八千代市北海道遺跡から出土したハマグリ(ハマグリをメインとした貝層)は次の3箇所です。

北海道遺跡ハマグリ出土竪穴住居跡

出土箇所は何れもⅢゾーンです。

銙帯出土と同じように、白幡前遺跡の検討を踏まえると違和感が生じます。

Ⅲゾーンは掘立柱建物は1つだけだけれども、そこに官人もいれば奢侈行動ができる権力者もいたということです。

Ⅲゾーンは萱田地区全体の中でどのような機能を果たしていたのか、興味がつのります。

白幡前遺跡ではミッションを異にする職務集団がゾーン毎に配置されていたように観察できたのですが、そうした様子とだいぶ趣が異なります。

この違和感・趣が異なることはこの記事に記録しておき、墨書土器の文字情報整理等が済んだ段階で、課題として検討・解決します。

参考として白幡前遺跡貝層出土遺構分布図を示します。

白幡前遺跡貝層出土遺構

井戸向遺跡からハマグリは出土していません。

2015年6月18日木曜日

八千代市北海道遺跡の「竪/掘」値(タテホリチ)

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.151 八千代市北海道遺跡の「竪/掘」値(タテホリチ)

八千代市白幡前遺跡、井戸向遺跡のさらに北に隣接する北海道遺跡の検討に入ります。

白幡前遺跡・井戸向遺跡と北海道遺跡はさらに北に位置する権現後遺跡とともに律令国家が与えた同一のミッションの下に活動が展開していた圏域にあると考えられます。従って、これら4遺跡は、同じような視点・指標で検討し、その中で遺跡(ゾーン)の特性をえぐり出したいと考えています。

検討の基礎資料は「八千代市北海道遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅱ- 本文編」(1985、住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)及び「同 図版編」(同)です。

1 北海道遺跡のゾーン区分
報告書では遺構をⅠ~Ⅷの群に分けて記述しています。
このブログではこの遺構群を地域的なゾーン区分に見立てて利用することにします。

八千代市北海道遺跡のゾーン区分

2 北海道遺跡の地形
現在地地形(開発後地形)とゾーン区分図を重ねると次のようになります。

現在地形とゾーン区分図のオーバーレイ
Ⅰゾーンが台地面、ⅡゾーンとⅢゾーンが台地面と河岸段丘面との境付近、Ⅳ~Ⅷゾーンが河岸段丘面に位置します。

白幡前遺跡と井戸向遺跡は同じ平戸川の津(寺谷津河口の津)を利用していましたが、北海道遺跡はそれとは別の須久茂谷津河口の津を利用していたと考えられます。

3 北海道遺跡の「竪/掘」値(タテホリチ)
ゾーン別の竪穴住居跡、掘立柱建物跡、竪穴住居跡/掘立柱建物跡の値を、白幡前遺跡、井戸向遺跡の値と一緒に次に示します。

北海道遺跡及び白幡前遺跡・井戸向遺跡の建物指標

竪穴住居跡/掘立柱建物跡の値は1棟の掘立柱建物を支える(あるいは利用する)竪穴住居の数であると考えることができます。
この数値が大きければ竪穴住居数に対して掘立柱建物数が少ないことを示し、反対に数値が小さければ竪穴住居数に対して掘立柱建物数が多いことを示しています。

この数値(竪穴住居跡数/掘立柱建物跡数)をこのブログでは仮に「竪/掘」値(タテホリチ)と呼んでいます。

奈良時代・平安時代にあっては、「竪/掘」値が大きい集落は一般農業集落的性格が強く、「竪/掘」値が小さい集落は掘立柱建物を居住や業務・倉庫としてとりわけ多数利用していることから、支配層居住地域、業務地域、職能集団活動地域、寺院地域などの性格が強いと考えます。

北海道遺跡ではそもそも掘立柱建物が存在しないゾーンが多く、「竪/掘」値が小さいゾーンはⅢゾーンだけで、その分級はbとなります。

「竪/掘」値という指標からは、遺跡全体としては一般農業集落的性格が強いと考えます。

北海道遺跡の「竪/掘」値を図化すると次のようになります。

北海道遺跡の「竪/掘」値の図化

参考 白幡前遺跡・井戸向遺跡の「竪/掘」値の図化

「竪/掘」値により遺跡概況のイメージができました。

次の記事では別の指標で北海道遺跡を捉えてみます。

2015年6月17日水曜日

遺跡文献閲覧から得る情報のパターン化とその活用

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.150 遺跡文献閲覧から得る情報のパターン化とその活用

このブログでは2015.01.18記事「遺跡文献の悉皆閲覧計画」で報告した計画にもとづいて、古代遺跡発掘調査報告書を閲覧して東海道水運支路(仮説)を補強できる材料を探しています。

検討対象遺跡は次の範囲をイメージしています。

遺跡文献閲覧範囲のイメージ
■は報告書有り、▲は報告書無し

これまで花見川流域の文献閲覧がだいたい終わり、現在は平戸川(新川)流域の萱田地区の文献を閲覧しています。

これまでの遺跡文献閲覧では、私にとって珍しく興味深い情報が多く、「何でも見てやろう」ということで、手当たり次第に情報を咀嚼してきました。門外漢素人にとっては大変よい学習になっています。

ここまでの検討で東海道水運支路仮説に関して、次のような感触を持ってきています。

1 東海道水運支路仮説のメインの検討時期は奈良時代であると考えるようになってきています。
船越陸路がつくられ、活用されたのは奈良時代のようであるという印象を持っています。

2 東海道水運支路は蝦夷戦争のために東京湾と香取の海を結ぶ軍事輸送路として建設されたと考えるようになってきています。
東海道水運支路が建設されたので、それに沿って(花見川・平戸川に沿って)蝦夷戦争のための軍事兵站基地・輸送基地、馬牧・牛牧等が建設されたと考えます。
さらに軍事兵站基地・輸送基地、馬牧・牛牧等を支えるための地域開発(農業開発等)が行われたと考えます。

参考 古代遺跡密度図(ヒートマップ)と古代想定地物

このような感触を踏まえて、今後の遺跡文献閲覧活動(=情報収集活動)を次のようにパターン化し効率化したいと考え、メモしておきます。

1 遺跡文献は「奈良時代・平安時代」の情報に限定して閲覧(情報収集)します。

2 閲覧では主に次の情報を収集します。(パターン化することにより効率化します。)
・遺跡内ゾーン区分
・ゾーン別建物情報(竪穴住居数、掘立柱建物数)
・銙帯出土情報
・墨書土器出土ゾーン情報(墨書土器情報そのものは千葉県墨書土器データベースから入手します)
・ハマグリ出土情報
・寺院遺構や仏器等出土情報
・鍛冶遺構出土情報
・鉄製品出土状況(武器・道具等)
・その他特記すべき出土物

3 上記情報を指標として遺跡(ゾーン)の評価を行い、東海道水運支路仮説の確からしさを高める情報を得ます。
花見川-平戸川の交通を示唆する情報
直接情報例 ハマグリ出土
間接情報例 馬牧・牛牧の存在、軍事基地の存在(軍事兵站機能の存在)、交通運輸施設の存在

4 墨書土器、銙帯、寺院、鍛冶遺構等の情報は広域検討も合せて行うこととします。

高津・萱田・村上地区の遺跡文献閲覧の後は八千代市の上谷遺跡、栗谷遺跡、境堀遺跡、間見穴遺跡、印西市の鳴神山遺跡、船穂白幡遺跡などの文献閲覧に取り組みます。

2015年6月16日火曜日

改訂 千葉県墨書土器出土数上位遺跡の把握

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.149 改訂 千葉県墨書土器出土数上位遺跡の把握

2015.05.03記事「千葉県における墨書土器出土件数上位25遺跡の把握」の内容が時代遅れの情報でしたので、大いに遅れましたが、この記事で訂正します。

同上記事では「千葉県の歴史 資料編 古代 別冊 出土文字資料集成」(千葉県発行、1996)のデータに基づいて千葉県内墨書土器出土数上位遺跡のリスト、グラフ、分布図を示しました。

一方、専門家の方から教えていただいた全国墨書土器・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所webサイトで公開)に慣れて、ある程度自由に使えるようになってみると、上記図書の情報はあまりに古く、現在の情報は膨大な量に変化していることに気が付きました。

そこで、千葉県内の墨書土器出土数上位遺跡の情報をつくり直して、掲載します。

次の表は千葉県墨書土器出土数上位遺跡リストです。

千葉県墨書土器出土数上位遺跡リスト
注)「○○遺跡 △地点」、「○○遺跡 △次調査」等の情報は「○○遺跡」に統合しました。「○○遺跡群 △遺跡」はそのままとしました。

1996年図書で作成したリストでは上位25遺跡を抽出し、結果として25位遺跡の出土数が100でした。
今回は出土数100以上の遺跡を抽出しました。
54遺跡が並び、遺跡数は倍増しました。
千葉県の墨書土器情報量は著しく増大しました。

なお、18位高津新山遺跡の情報だけは、データベースにほとんど掲載されていないため、1996年図書の情報をその位置に差し込みました。
この処理により、非の打ちどころの無い統計情報となりませんが、高津新山遺跡が高津馬牧と関連する遺跡であることと、白幡遺跡・井戸向遺跡等との関連が強い遺跡であり、このブログのテーマである東海道水運支路仮説検討に欠かせない遺跡になっています。そのため、墨書土器229点出土が間違いない情報ですので、データベースには掲載されていませんが、このリストに含めました。自分の検討に必要な情報であることをしっかりと確認しておくためです。

このリストをグラフにすると次のようになります。

千葉県内墨書土器出土数上位遺跡

遺跡別に全国と比較すると、鳴神山遺跡は全国5位、上谷遺跡は7位、白幡前遺跡は10位となります。
ちなみに、全国1位は奈良県の平城宮跡(3319)、2位は宮城県の山王遺跡(3064)、3位は福島県の上吉田遺跡(1914)です。
全国墨書土器出土件数ベスト20遺跡の情報は番外編2015.06.04記事「全国 墨書土器出土件数ベスト20遺跡」に掲載しています。

千葉県情報を分布図にすると次のようになります。

墨書土器出土数上位遺跡分布図

この分布図のプロットは正確なものです。(アドレスマッチングによるものではありません。)

分布図を見ると、遺跡が連担(密集)しているところが多いことに気が付きます。

その遺跡連担の様子を分布図に描きこんでみました。

墨書土器出土数上位遺跡の連担分布域

遺跡が連担(密集)している領域は、律令国家の組織活動が濃密に行われていた領域を示すものと考えます。

より具体的には、官人の下で働いたホワイトカラー的人口が一定以上存在した領域を示すものと考えます。

組織活動がある領域に集中して存在していたために、その場所が結果として、上記遺跡連担分布域として表現されたと考えます。

律令国家の組織活動が行われた領域は、風景的には掘立柱建物をメインとする集落が連担していた場所であると考えます。

その場所は建物利用的にはゾーン毎に機能を異にする計画的建物利用が行われていたと考えます。

組織活動の内容としては、連担分域毎に政治行政、軍事・輸送、鉄・食料・衣服等生産などのいずれかに特化していたような印象を受けます。連担分布域はそれぞれメインの役割が明確であったと考えます。


律令国家の組織活動が行なわれた領域は、官人の活動領域ですから銙帯の出土と重なり、鎮護国家の観点からの活動により寺院遺構等の出土と重なると考えます。


2015年6月15日月曜日

墨書土器文字から見たゾーン特性 八千代市井戸向遺跡

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.148 墨書土器文字から見たゾーン特性 八千代市井戸向遺跡

1 ゾーン別出土文字
八千代市井戸向遺跡墨書土器の文字を整理して一覧表にしました。

井戸向遺跡ゾーン別墨書土器の文字

参考 ゾーン区分図

1 Ⅰゾーンの出土文字
●冨
冨の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

冨が数的にダントツな出土となっています。
冨は豊かな財産をつくることを祈願した言葉であると考えます。
冨は公共的な冨を増やしたいという願いではなく、個人家族の私有の冨を増やしたいという祈願であると考えます。それは同時に出土している文字として「加□ 家此盛加」、「大家」などがあることから裏付けられます。

白幡前遺跡では個人レベルの祈願語は少なく、ほとんどが組織のミッションに関わる祈願語でした。

しかし、井戸向遺跡Ⅰゾーンでは個人レベルの祈願語が主要なものとなっていて、このゾーンの性格を表現していると考えます。

冨は一般住民が使った祈願語であると考えます。

なお、冨を祈願したということは生活実態が貧しかったことを物語っていると考えます。

白幡前遺跡では大量に出土するハマグリの出土が井戸向遺跡では有りませんから、そうした奢侈にありつくこともない、一般人の貧しい生活がこの祈願語で浮かびあがります。

●万に○
万に○の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

万に○は○(則天文字の星=白星=勝利)と万(全部)の意味だと考えます。全部勝利するという戦勝祈願語であると考えます。
ですからこの文字を墨書したのは将兵であり組織人であり、一般住民ではなかったと考えます。

井戸向遺跡Ⅰゾーンには一般人ととともに将兵(組織人)がいたことになります。銙帯がⅠゾーンから出土していることからも裏付けられます。

井戸向遺跡Ⅰゾーンは将兵(組織人)が一般人を指導監督して白幡前遺跡(軍事兵站・輸送基地)の諸業務をサポートさせていたゾーンだと考えます。
一般人は墨書土器を使っているのですから文字を知らない農民(ブルーカラー)ではなく、ホワイトカラー的仕事をしていたのだと思います。
一言で言えば基地業務というサービス業務に従事する一般人中心の集落が井戸向遺跡Ⅰゾーンであったと考えます。

●生
生の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)
一般人を指導監督する将兵の使った祈願語であると考えます。

●仁
仁の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

中国古代孔子が提唱した道徳観念の「仁」が祈願語になったのだと思います。
井戸向遺跡Ⅰゾーンが軍事基地そのものではなく、一般人中心の集落であるために、そこには文化人のような人(※)もいて、この道徳的な祈願語が使われたのだと思います。

※ 墨書土器を使う人は文字を知っているということであり、住民のほとんどが文盲の時代に、それだけで文化人であり、孔子の教えてを知っている人が含まれていても、それ自体は驚くべきことではなかったのかもしれません。

参考 仁の説明例
中国思想史上この仁に深遠な内容が付与されて重要な意味をもつようになったのは春秋時代前後からである。孔子が仁を自己の思想の核心を表現する概念として定立してより,孔子学派では〈人間らしさの極致〉を表徴する最高の徳目となった。仁の内容について孔子自身いろいろに説くが,〈己立たんと欲して人を立てる〉ことと説かれ,〈己の欲せざる所は人に施すことなかれ〉という〈恕〘じよ〙〉の精神をうちに含む愛を基本として,〈人を愛する〉ことと一般化される。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ

●×
×の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

災厄防除のまじないの記号であると考えます。×(バツ)を書いて災厄を打ち消す。

●禾
禾の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

禾(カ)は穀類の意味でその収穫増大を願ったか、商業活動での獲得増大を願ったのどちらかだと考えます。

●中
中の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

中(アタリ)は自分の○○という祈願内容が的中してほしいという言葉だと思います。

2 Ⅱゾーンの出土文字
Ⅰゾーンと同じように冨、万に○が出土します。また×もⅠゾーンに出土します。
このような文字出土状況から、ⅡゾーンはⅠゾーンと区別しがたく、文字からだけみると、ゾーンを統合してもよいのかもしれません。

なお、ⅠゾーンとⅡゾーンに寺、Ⅱゾーンに佛という文字が出土します。

Ⅰゾーンには遺物として小金銅仏が出土していますから、この付近に仏寺かそれに類する施設があったのだと思います。その施設と寺、佛という言葉が対応するのだと思います。

なお、一般人中心の集落であることが想定されますので、白幡前遺跡2Aゾーンにあるような周溝を有する立派な寺院がここに存在しない理由が判るような気がします。

3 Ⅲゾーンの出土文字
●入
入の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

入を軍隊入隊(官の軍事組織に入る)祈願として想定しました。
Ⅲゾーンは白幡前遺跡(軍事兵站・輸送基地)に付随する関連施設であると想定し、具体的には兵員養成施設のような場所であったと想像します。
2015.06.14記事「墨書土器代表文字の意味」参照

●鬼
鬼の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

鬼神・悪神からの災厄から逃れる祈願語であると考えます。

4 Ⅳゾーンの出土文字
ゾーンを代表するような多出文字がありません。しかし「山」、「大田」などからこのゾーンが開拓地であることが浮かびあがります。
万に○や生も出土しますから将兵・官人・組織人等が開拓指導者・監督者として存在していたことが想定されます。
なお、開拓現場の肉体労働をする人びとは社会の下層に位置していて、恐らく墨書土器を使う習慣が無かったと考えます。

●山
山の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

山は台地開拓地の意味であり、その開拓が成功するように祈願したものと考えます。

●朝日
朝日の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

朝日は開運祈願語であると考えます。

……………………………………………………………………
あさ‐ひ【朝日・旭】
1 〖名〗
① 朝の太陽。朝方の日。
※古事記(712)下・歌謡「纏向(まきむく)の 日代(ひしろ)の宮は 阿佐比(アサヒ)の 日照る宮 夕日の 日影(かげ)る宮」
※源氏(1001‐14頃)末摘花「あさひさす軒のたるひは解けながらなどかつららのむすぼほるらむ」
② (①から転じて) 運が開けることのたとえ。開運。
※浮世草子・男色大鑑(1687)一「家老職のものとの口論、是非なく城下は闇に立のき、時節の朝(アサ)日を待(まち)ぬ」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
……………………………………………………………………

●豊
豊の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

冨と同様に豊かな財産を願う言葉であると考えます。

●大田
大田の画像事例(出典:千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所)

水田を拡げたいという開拓祈願語であると考えます。

2015年6月14日日曜日

墨書土器代表文字の意味

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.147 墨書土器代表文字の意味

八千代市井戸向遺跡の墨書土器データを整理して、ゾーン毎に検討することにします。

この記事ではその前段として、ゾーン毎の代表的文字を抽出して、代表的文字の意味を検討して遺跡全体のイメージを豊かなものにしたいと思います。

次の表はゾーン毎の代表的文字を抽出したものです。

白幡前遺跡と井戸向遺跡の墨書土器の代表的文字

注1)「夫※」は大一を重ねて書いた文字(大一 たいいつ)です。

次の注記は自分の誤解でしたので、訂正します。(2015.06.21追記) 注2)「廾」(キョウ)は出土文字の画像イメージに似ていますが、間違った漢字あてはめであると考えます。元情報源である「八千代市白幡前遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ- 本文編」(1991、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)では「廿」を用いています。画像と漢字(活字)との対応を取るつもりなら、出土文字の画像イメージとずれますが、「廿」(読みはツヅラ)が正解であると考えます。千葉県墨書土器データベースを作成する際に、間違った類似文字にわざわざ安易に変更してしまったようです。

注2)「廾」(キョウ)は出土文字の画像イメージに似ています。このブログでは、現代利用されている漢字活字に当てはめると、「廿」(読みはツヅラ)が正解であると考えています。

代表的文字はその文字が出てくる史料は全部含めてカウントしました。(例 「生」は「生ヵ」、「□生」、「生生」などを含む)

代表文字を1つに絞ることができるゾーンと1つには絞れないゾーンがあります。

代表文字の分布を地図にすると次のようになります。

ゾーン別墨書土器の代表文字

白幡前遺跡では墨書土器の文字について詳しく検討してきていますので、その検討結果を踏まえて代表文字の意味イメージを簡潔に地図に書きこんでみました。

ゾーン別墨書土器代表文字の意味イメージ(想定)

1 井戸向遺跡と白幡前遺跡の違い
井戸向遺跡は「冨」(経済繁栄)がⅠゾーン、Ⅱゾーンで代表文字になっています。
Ⅰゾーンは組織活動が行われ、業務地区であると考えていますが、軍事基地というよりも経済活動を行っていたようです。
白幡前遺跡の軍事一色と趣が異なります。
この違いをこれから検討して、自分なりに納得できる理由を考えたいと思います。

2 「入」の意味
これまでの検討と異なる点が1つあります。
「入」(井戸向遺跡Ⅲゾーン、白幡前遺跡2Eゾーン)は次のように解釈してきました。
「入(ニュウ)は納入の入の意味で、おさめる、献ずるという意味になります。提、奉と同義です。」(2015.05.11記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その1」参照)

この記事では「入」を軍隊入隊(官の軍事組織入隊)祈願として捉えてみました。

そのように捉えると、井戸向遺跡Ⅲゾーンを新兵候補の訓練施設、白幡前遺跡2Eゾーンが軍隊従軍文官候補の訓練施設として捉えることができます。

白幡前遺跡2Eゾーンでは「圓」(財務管理の成功の祈願)、「文」(正しい文書を作成する祈願)が出土し、会計係とか書記官の活動が想定されます。

同時に、「遺構は竪穴住居・掘立柱建物とも集中して建てられ、建物の軸方向もよく揃えられている。2群DグループからFグループは同じような規模の建物群が並んでおり、この中では最も整った建物配置を採っている。」(「八千代市白幡前遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ- 本文編」(1991、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター))としています。

このような情報から、白幡前遺跡2Eゾーンは軍事基地における事務ゾーンであり、その事務ゾーンで官人の下で下働きや小間使いなどで働く者が軍事組織の事務部門に正式に「入」(ハイル)(官として採用される)ことを祈願したと考えました。

井戸向遺跡Ⅲゾーンでは「入」(ハイル)と「生」(イキル)が一緒に代表文字になっていますから、軍事部門のゾーンで、かつ兵として正式登用されていない人間が多いと考え、そのゾーンが新兵訓練地みたいなところと、仮説してみました。

2015.06.14 今朝の花見川

ザ・梅雨空という風景の早朝花見川でしたが、この風景を撮った写真に意味があるような気がして、この記事にアップします。

花見川
まだ光量が少ないです。

花見川

弁天橋から下流

参考 2014.11.22 今朝の花見川

弁天橋から上流

ボートで釣りに出る人がいました。

弁天橋

これまでのブログ記事「今朝の花見川」ではだいたいコレゾと自分が感じたきれいな写真をアップしています。花見川の魅力を少しでも紹介したいという潜在意識があるのだと思います。

しかし、きれいな写真とは、きれいでない写真(ごく当たり前の写真)があってはじめて成り立つものです。

一般にはごく当たり前の風景は日々だれでも感じていますから、示す必要はありません。当たり前でないきれいな写真を示せばそれでよいと思います。

しかし、花見川をターゲットにしてブログ開設して4年半たち、きれいな写真ばかりこれでもか、これでもかとアップしているのも能がないような気がします。

きれいに撮れた風景写真は、普通に撮れた風景写真と対照して初めてその意義が判るというものです。

このブログでは、一般的なきれいな川の風景写真を通りすがりにアップしているのではなく、花見川やその流域にこだわって情報発信しているのですから、きれいな花見川風景を紹介するのに、きれいな写真だけでは片手落ちだと考えます。

10回に1回ぐらいは、特段きれいとか魅力的だとかの感情と結びつかないようなありふれた写真も、対照用として(比較評価用として)示すことが必要だと思います。

2015年6月12日金曜日

墨書土器指標を用いた遺跡評価思考実験

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.146 墨書土器指標を用いた遺跡評価思考実験

八千代市井戸向遺跡と八千代市白幡前遺跡のゾーン別墨書土器統計、建物統計が揃いましたので、その統計資料を活用して遺跡評価に関する思考実験をしてみました。

1 「竪/掘」値(T)の把握、分級、分布
次に「竪/掘」値(タテホリチと呼ぶことにします。)の値とその分級基準を示します。

「竪/掘」値(T)の値、分級基準

竪穴住居跡及び掘立柱建物跡の数値は各発掘調査報告書掲載の数値を用いています。

分級基準の設定の仕方の厳密な裏付けはありませんが、ここではデータを3分割することに意義があると考えておきます。

このゾーン別分級結果を分布図にすると次のようになります。

ゾーン別「竪/掘」値(T)分級図

分級は次のようなイメージでとらえることができます。

分級c………分級b………分級a
居住イメージ←→業務イメージ


2 墨書土器対竪穴住居出土率(S)の把握、分級、分布
墨書土器対竪穴住居出土率(S)の値とその分級基準を示します。

墨書土器対竪穴住居出土率(S)の値、分級基準

墨書土器出土数の値はwebサイト明治大学日本古代学研究所で公表している千葉県墨書土器データベースファイルを用いました。(2015.06.11記事「墨書土器に関する新しい統計指標を考案する」掲載の白幡前遺跡のデータは別の資料によるもので、この記事のデータと異なります。この記事のデータが最も正確です。)

分級基準の設定の仕方の厳密な裏付けはありませんが、ここではデータを3分割することに意義があると考えておきます。

このゾーン別分級結果を分布図にすると次のようになります。

ゾーン別墨書土器対竪穴住居出土率(S)分級図

分級は次のようなイメージでとらえることができます。

分級a…………………分級b…………………分級c
組織活動活発イメージ←→組織活動虚弱イメージ

3 TとSのクロスによるゾーン評価
TとSのクロスによるゾーン評価を次の評価基準により行いました。

TとSのクロスによるゾーン評価基準(試案)と評価結果

TとSをクロスさせることにより、評価結果として業務地区、特殊地区1、特殊地区2、一般集落地区の4領域を設定することができました。

評価結果を分布図にすると次のようになります。

TとSのクロスによるゾーン特性の検討

業務地区として評価した領域は、竪穴住居(居住用建物)に対して掘立柱建物(業務用建物)が多く、また単位竪穴住居当り墨書土器出土量が多い領域です。
具体的には井戸向遺跡Ⅲ、Ⅰゾーン、白幡前遺跡3、1A、1B、2D、2E、2Fゾーンが該当します。

特殊地区1として評価した領域は、竪穴住居(居住用建物)に対して掘立柱建物(業務用建物)がある程度多いのですが、単位竪穴住居当り墨書土器出土量が少ない領域です。
具体的には寺院と接待施設(支配機能施設)がある白幡前遺跡2Aゾーンが該当します。

特殊地区2として評価した領域は、竪穴住居(居住用建物)に対して掘立柱建物(業務用建物)が少なく、単位竪穴住居当り墨書土器出土量がある程度多い領域です。
具体的には陰陽師活動域であると考えた白幡前遺跡2Cゾーンと井戸向遺跡Ⅱゾーンです。
井戸向遺跡Ⅱゾーンは掘立柱建物がゼロで不自然であり、たまたま掘立柱建物が発掘調査域外にある可能性もあり、業務地区に評価される可能性もあります。

一般集落地区として評価した領域は、竪穴住居(居住用建物)に対して掘立柱建物(業務用建物)が少なく、また単位竪穴住居当り墨書土器出土量が少ない領域です。
具体的には井戸向遺跡Ⅳゾーン、白幡前遺跡2Bゾーンが該当します。いわゆる一般農業集落として捉えることができるゾーンです。
ただし、井戸向遺跡Ⅳゾーンは一般農業集落ですが官人や僧侶の指導監督により開拓事業が進んでいたゾーンであると考えます。

4 思考実験結果の考察
思考実験として、TとSという統計指標を使って遺跡ゾーンの分級評価をしてみました。

分級評価結果は遺跡ゾーンの特性をクリアーにあぶりだすことができたと考えます。

今後隣接する北海道遺跡、権現後遺跡も含めてこの思考実験を拡大してみたいと思います。

2015年6月11日木曜日

墨書土器に関する新しい統計指標を考案する

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.145 墨書土器に関する新しい統計指標を考案する

八千代市白幡前遺跡の検討地域を拡大するような視点から八千代市井戸向遺跡の検討を進めています。

この記事から墨書土器の検討に入ります。

墨書土器の詳細データがwebサイト明治大学日本古代学研究所にデータベースとして公開されていますので、その情報を基本に検討することにします。

八千代市井戸向遺跡の検討は上記サイトから入手した「千葉県墨書土器データベース」ファイルを利用します。

井戸向遺跡出土墨書土器データは全部で276件あります。

このデータに記載されている出土遺構の場所を発掘調査報告書の図面と照合してデータをゾーン毎に集計してみました。

1 ゾーン別墨書土器出土件数
次のグラフはゾーン別墨書土器出土件数のグラフです。

ゾーン別墨書土器出土件数グラフ

井戸向遺跡ではⅠゾーンのデータが177件で、他のゾーンの4倍~8倍以上となっています。
白幡前遺跡の最多出土ゾーン1Bよりも多くなっています。

このグラフを分布図にしてみると次のようになります。

ゾーン別墨書土器出土数

2 ゾーン別墨書土器数/竪穴住居跡数

ゾーン別に墨書土器数/竪穴住居跡数を集計してみました。

ゾーン別墨書土器数/竪穴住居跡数

このグラフを分布図にしてみると次のようになります。

ゾーン別墨書土器数/竪穴住居跡数

墨書土器がはやった頃の住宅は、極一部の支配層トップを除いて、官人を含めてほとんど全員が竪穴住居に居住していたと想定してみます。

そうした想定をしてみると、墨書土器数/竪穴住居跡数という数値は、墨書土器を使った階層の人々の竪穴住居1軒あたりの居住人数に比例する指標になる可能性があります。

あるいは竪穴住居に居住する人数を一定と考えると、竪穴住居に居住した人々の転居率(利用回転数)に比例する指標になるかもしれません。

さらには、1人の人間がかかわるプロジェクト(物件)が次々と立ち上がることにより、1人の人間が複数の墨書土器を使ったのかもしれません。

どのように考えるにしても、墨書土器数/竪穴住居跡数という数値は墨書土器を使った階層の人々(官人及び官人に組織されてプロジェクトに従事する人びと)の人数の多さ、あるいは活動の活発さ(入れ替わり立ち替わり活動した異なる個人の延べ人数の多さ)(人々を組織するプロジェクトの開始-終了の期間の短縮性)に比例すると考えます。

ですから墨書土器数/竪穴住居跡数は単純な墨書土器出土数よりはるかに意味のある指標になります。

このブログではとりあえず「墨書土器数/竪穴住居跡数」を「竪穴住居1軒当りの墨書土器出土率」と考え、記載を簡潔にするために単純に墨書土器の「対竪穴住居出土率」(S)と表現することにします。

グラフをみると、井戸向遺跡のⅠゾーンとⅢゾーンの対竪穴住居出土率が4.9、5.0と高く、白幡前遺跡の1Aゾーンの値以上になっています。

白幡前遺跡の1Aゾーンは陸奥国へ向かう将兵の一時逗留地と考えましたが、井戸向遺跡のⅠゾーンも同じような機能の想定をしてよいか、今後検討します。

井戸向遺跡のⅢゾーンは内陸に入り込んでいて津(港湾 志津)から離れていて、おそらく別のニュアンスの機能(組織活動)を考えることができるのではないかと考えます。今後検討します。

井戸向遺跡Ⅱゾーンの対竪穴住居出土率は、白幡前遺跡の1B、2C~2F,3ゾーンと同レベルの水準です。ですから、Ⅱゾーンも組織活動が行われていたと考えることができると思います。
しかし、このゾーンには掘立柱建物がゼロで出土していません。対竪穴住居出土率が高いので、遺跡発掘地域の制約から、たまたま掘立柱建物が見つかっていないのではないかと想像します。

井戸向遺跡Ⅳゾーンの対竪穴住居出土率は0.9で白幡前遺跡2B、2Cゾーンと同水準です。

白幡前遺跡2Bゾーンは寺院と中央貴族接待施設が存在していて、この集落全体の支配機能がある場所です。
ですから支配層が酔にまかせて書いたような人面墨書土器は出土しますが、官人に組織されて労働するものが、その労働の辛さを少しでも軽減したり、活動のやる気を起こすために使った祈願ツールとしての墨書土器は、その出土が少ないです。

白幡前遺跡2Cゾーンは寺院をささえる、いわゆる一般農業集落のように感じられます。このゾーンで墨書土器出土が少ないのは、官人の組織活動がこのゾーンで行われていなかったからだと考えます。

井戸向遺跡Ⅳゾーンは白幡前遺跡2Cゾーンと同じような状況にあったと考えます。

しかし、Ⅳゾーンからは銙帯や三彩陶器托・小壺や燧鉄・燧石が出土していて官人や僧侶の活動が見えてきます。
Ⅳゾーンは地域開発(農業開拓)が行われていた現場であると考えます。

このような状況から、官人に指導監督されていても、開拓の現場で働く階層(ブルーカラー)は墨書土器との関わりは弱く(そもそも字を読めるような階層ではなく)、官人の組織活動(将兵の輸送・軍需物資の集積管理、公文書作成等々のいわばサービス業務)の中で働く階層(ホワイトカラー)は墨書土器との関わりが強かったと考えます。