1 堀割普請前の地形記述
論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」は、下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市指定文化財)について説明したものですが、堀割普請前地形に関する次のような興味深い情報が掲載されています。
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この工事で最も重要で、かつ難工事の箇所である勝田村と花島村の間で新川と花見川を繋げる箇所に、「□□ 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と書かれ、二つの川を繋げるところが約1.4㎞の芝地で、台地と川の水面までの高さ(深さ)が約21mであることが判明した。
写真3 新川と花見川を繋ぐ掘割箇所
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この写真を拡大して読むと、私には「ここより 拾四丁芝地 高○○○尺」と読めました。○○○は画像が不鮮明で確認できないのですが、この論文通りとすると、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」となります。
2度目の普請である天明の普請前の地形の記述が残っていたことを指摘したという点でこの論文は画期的であると思います。
この部分の意味として次の「ア」あるいは「イ」が考えられるように感じました。
ア 地形的凹部の存在を意味に含んでいない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この台地は)ここから拾四丁が芝地であり、その高さは(新川の低地からみて)七丈壱尺である。」
イ 地形的凹部の存在を言外に意味しているかもしれない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この眼前にある堀割は)ここから拾四丁が芝地であり、(眼前の堀割の底面から、先に広がる台地の最高点までの)高さは七丈壱尺である。」
私は、この絵図が堀割の普請のために作られたので、この説明記述を書いた人の視点が(空間位置に台地ではなく)堀割にあるということと、河川争奪後の無能谷がそこに在ったことを想定しているので、「イ」のように解釈することができるのではないかと考えています。
なお、○○○が七丈壱とすると、七丈壱尺=約21mで、新川低地標高約10m、台地最高地点標高約30mですから、値そのものは、その差分とほぼ一致する値です。
2 溜池存在の表現
上記写真の地形説明文章の上に「溜井」という表現で溜池の存在がわざわざ表現されています。村名と同じ字の大きさになっていることから、絵図作成者は溜池の存在を堀割普請の開始地点として捉えていたことがうかがえます。
溜池の存在はそこが谷津の出口であることを想起させます。そのくくり線も北に向かって開いた凹みの開口部を堤防で塞いでいる様子が表現されています。
同時に水田ではなく、溜池になっているということは、その谷津が空谷であることを示しています。
また、溜池の形が谷津の奥深くに伸びた細長いものになっていないことから、その空谷の勾配が、その場所では、急であることを物語っているように感じます。
さらに、表現が溜「池」ではなく、溜「井」になっているところにも注目します。「井」とは「泉や流水から、水をくみとる所」(国語大辞典、小学館)です。溜池表現より溜井表現の方がより流水流入、湧泉の存在を念頭に置いた言葉だと思います。そこが谷津(と言っても無能谷ですが)の出口であることを強く示唆します。
* 印旛沼開削工事は享保、天明、天保の3回行われています。上記記述は最初の享保における印旛沼開削工事で、台地部の堀割普請がほとんど行われていないという前提で思考しています。
余談
なお、溜池は3度目の普請である天保の堀割普請前の絵図にも出ています。
印旛沼干拓工事関係図(部分)
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載
この絵図の溜池は天明普請で出来た堀割の出口を塞いでつくられています。
天明堀割普請地形の表現
同時に天明普請でできた堀割跡(古堀)の地形が絵図では下記のように表現されています。絵図の表現一つ一つに現場の事実が反映されていることを確認できます。印旛沼干拓工事関係図(部分)の地形対比
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載及び旧版1万分の1地形図に加筆
(2011.10.15 記事アップ後一部訂正しました。)
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