2016.01.15がこのブログ開設5周年通過日となります。
2011.01.15にこのブログ「花見川流域を歩く」が開設しました。
区切りがよいので、過去5年間を振り返ってみました。
次の表は過去5年間、1600記事の主なテーマです。
ブログ「花見川流域を歩く」過去5年間の主な記事テーマ等
過去記事表題のデータベースを作成して、それから作成した資料です。
自分で書いた記事ですが、同じテーマを少しずつ掘り下げて書いている場合もあり、記事の内容や順番は表題だけでは思い出せないものも既に存在しています。
この表を作って感じる最大の感想は、花見川流域とその周辺地域というものが大変特異な地形的、歴史的特性を有しているにもかかわらず、それが現代社会ではほとんど認識されていないという状況があるということです。
自分が居住する地域の状況を予備知識ゼロで歩き、それをブログ記事とすることから始めました。
花見川流域とかその周辺の下総台地に特段の興味があったわけではありません。自分の住宅の回りを調べてみようという趣旨から始まった活動です。
全く白紙状況から出発して、自分の居住地域の自然・歴史をブログ記事にして、それを紹介できればそれでよいだけでした。
しかし、ブログ記事を書きだすと、次々に学術界や一般社会で知られていない事象を多数発見してしまいました。
結果的に新発見的に感じた事象のうち大きなものは次のようなものになります。
・花見川河川争奪
・小崖地形(断層地形)
・印旛沼筋河川争奪
・花見川と平戸川(新川)を結ぶ陸路(船越)存在の各種兆候(東海道水運支路仮説)
・トーチカの存在
・上ガスの存在
こうした観察事象は、この地に引っ越してきた自分からみれば偶然なことだったのですが、花見川流域というものが自然的・歴史的に特異な性格を有している地域だったからであったのでした。
私の主観や興味の特性がこのような新発見的事象をみつけたのではなく(主観によるものではなく)、空間そのものの特性を私が理解したということです(客観事象を理解しただけです)。
「まてよ、花見川流域というのは自然的・歴史的に特別地域じゃないか!」という感じを、ブログ活動3年目に「花見川地峡」という概念で表現しました。
花見川河川争奪という地象と縄文海進という事象が重なって、その時文字通りの地峡が生まれました。
その地峡という空間特性が奈良時代の東海道水運支路、近世の印旛沼堀割普請、現代の印旛沼開発で活用されてきたということです。
(花見川地峡を活用した人は河川争奪とか縄文海進とか全く知らないことは、現代人も含めていうまでもありません。)
2011年、2012年、2013年のブログ活動で地形、考古歴史、地名、近現代史、行政、自然環境・風景等のテーマに取り組み、花見川流域とその周辺地域の空間基本特性を捉えることができました。
その後2014年には地形分野についてある程度(自分にとって)専門的に、2015年に東海道水運支路仮説と地名データベースについて同じくある程度(自分にとって)専門的に取り組んできました。
2014年、2015年の取り組みの中で、さらに細分化された新発見的事象を多数見つけ、興味を深めています。
全ての新発見的事象についてさらに詳細検討することは、残された想定人生時間を考えると、無理であると考えますから、今後は取り組むテーマについて、選択と集中を意識的に行うことが大切であると考えます。
現在、東海道水運支路仮説ということで奈良時代に焦点を当てた検討を継続していますが、奈良時代の検討をできるだけ早く切り上げ、縄文時代検討に移動したいと考えています。
縄文時代検討と同時に縄文時代をよく理解するために必要な旧石器時代の検討にも興味があります。
今後は、考古歴史を軸に地形、地名の情報をGIS上で有効活用して検討することによって、自分の探求欲を満たしていこうと思います。
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