2016年1月4日月曜日

鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.258 鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その1

鳴神山遺跡の中央に直線道路が走っているのですが、その古代道路と鳴神山遺跡の集落の関係がどのようなものであるか検討したいと思います。

この記事では検討基礎資料として鳴神山遺跡竪穴住居の年代を図化しましたので紹介します。

鳴神山遺跡のど真ん中を横断する直線道路遺構からは8世紀末から9世紀初頭の遺物が出土しているので、その頃直線道路が廃棄されたと考えられます。

直線道路は廃棄後埋め立てられて、その上に廃棄物が捨てられたと発掘調査報告書には書かれています。

蝦夷戦争が収束に向かうのは9世紀初頭ですから、直線道路の廃棄は蝦夷戦争の収束と期を一にしている(ほぼ同時期である)と考えることができます。

このブログでは直線道路は蝦夷戦争のために牛馬を陸奥国へ搬送する専用道路であったと考えていますが、そうであれば、蝦夷戦争終結と同時に直線道路が無用の長物になり、埋め立て廃棄された意味が納得できます。

台地上に大きな溝があっては地域開発が進みませんから、無用の長物になったとたんに埋め立てたのだと考えます。

8世紀末から9世紀初頭の時期を境にして、鳴神山遺跡集落の在り方が決定的に変化したのではないかと想像します。

そのような状況把握を念頭に鳴神山遺跡竪穴住居分布図を年代別に作成してみました。

1 元データ
平成11年発掘調査報告書に掲載されている次のサンプリング竪穴住居183軒を対象に年代別分布図を作成しました。(注 位置を把握できなかった竪穴住居が2軒あり、実際の図化は181軒です。)

主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代
鳴神山遺跡の主な竪穴住居の時期資料が「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用

このデータを年代別グラフにすると次の様になります。

鳴神山遺跡 主な竪穴住居の年代

8世紀末から9世紀初頭頃に直線道路が廃棄埋め立てられ、9世紀初頭に蝦夷戦争が収束に向かったという時期の後、9世紀第2四半期に鳴神山遺跡竪穴住居数のピークが訪れます。

その竪穴住居数ピーク時期である9世紀第2四半期にはすでに直線道路は埋め立てられています。
直線道路という地域分断施設を除去した後に竪穴住居数ピークがあるという事実は注目すべきであると考えます。

2 竪穴住居年代別分布図

鳴神山遺跡 竪穴住居年代別分布図 1

鳴神山遺跡 竪穴住居年代別分布図 2

参考 鳴神山遺跡 竪穴住居年代別分布図(2秒間隔アニメ)

8世紀第1四半期~8世紀第4四半期までの期間、つまり直線道路が活用されていた時期に、竪穴住居が道路沿いに密に分布することはありません。

遺構密度だけから見ると、直線道路と鳴神山遺跡集落の間に特別強い関係を見ることができません。

9世紀第1四半期~9世紀第3四半期の期間、つまり直線道路が廃棄され埋め立てられ、地域分断施設が除去された後に、直線道路付近の空間の竪穴住居密度が高まります。

戦争動員がなくなって、また邪魔な施設を除去して、地域開発が最も進んだ時期です。

9世紀第4四半期になると鳴神山遺跡は衰退します。

この竪穴住居年代別分布図を参考にして、出土遺物情報も踏まえて、鳴神山遺跡集落と直線道路の関係をさらに検討してみます。

つづく

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2016.01.05追記 アニメの見苦しさ(文字が動いてしまう)を調整しました。


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