大膳野南貝塚の陥し穴と炉穴(早期後半頃)の学習に区切りをつけ、縄文時代前期後葉の竪穴住居と土坑の学習に移動します。
出土土器から判明する前期後葉の竪穴住居は16軒、土坑は113基です。
発掘調査報告書では「住居の分布範囲がやや散漫ではあるが、環状を呈する集落と考えられ、住居と土坑が場所を区別して構築されたものと推定される。また、遺構から検出された土器は、諸磯b式ないしは浮島Ⅰ~Ⅲ式期にほぼ限定されることから、短期間に営まれた集落祉と考えられる。」と記述されています。
竪穴住居と土坑の分布は次の通りです。
大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 竪穴住居と土坑の分布
竪穴住居と土坑の分析学習に入る前に、この記事で陥し穴との関係について考察します。
次に陥し穴(縄文時代早期後半頃)と前期後葉の竪穴住居・土坑のオーバーレイ図を示します。
大膳野南貝塚 縄文時代早期後半ぼろ陥し穴の分布と前期後葉竪穴住居・土坑の分布 オーバレイ
このオーバーレイ図から次の2点について気が付きましたのでメモしておきます。
1 陥し穴と竪穴住居・土坑の分布は完全に重なりますから竪穴住居・土坑が作られた時期(前期後葉)に陥し穴が罠猟として利用されていたことは完全に否定されます。
陥し穴からは早期後半の土器細片と前期後葉の土器細片が出土しますが、前期後葉の土器細片は竪穴住居・土坑が利用されていた時代に、当時の陥し穴覆土層表面にたまたま落ちたものであることが確認できます。
つまり陥し穴の時期は出土物からみると、早期後半であることが判明します。
2 早期後半に狩場であった大膳野南貝塚発掘区域が前期後葉になると集落区域として開発されてしまったことに着目します。
この場所に集落をつくってしまえば、この場所のみならず周辺の土地が狩場として機能しなくなります。
狩場を失っても集落をつくる必要があったという強い縄文社会要請が働いたということが見て取れます。
早期後半と比べて前期後葉になると人口急増が発生して、これまでの狩場が住居ゾーンとして開発されたものと考えます。
前期後葉113の土坑はほとんど堅果類の貯蔵に使われていたことが判明しています。
これから、狩猟という獲得食物エネルギー総量の劣悪な生業から、植物食という獲得食物エネルギー総量の優良な生業に社会が転換した様子と人口急増が重なっている様子が推察できます。
また竪穴住居からは獣骨や貝が出土していますから、この場所から恐らく東方向に狩場を新規開発し、また海にも出て動物タンパクを補給していたと想定します。
……………………………………………………………………
なお、大膳野南貝塚付近が早期後半頃に狩場であり、炉穴で干し肉や燻製を作っていたころ、その縄文人達の主要な居住地がどこであったのか、検討していないことに気が付きました。
早期後半頃大膳野南貝塚付近で狩をしていた縄文人達の拠点がどこであるか、追って検討することにします。
2017年3月31日金曜日
2017年2月6日月曜日
大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代前期後葉
大膳野南貝塚発掘調査報告書で作成されている遺構分布図を通しで見てみて、自分なりに遺跡概要のイメージを深めようとしています。
2017.02.05記事「大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代早期」では「草創期~前期中葉の遺構と遺物」で掲載されている縄文時代早期遺構分布図を概観しました。
なお、記事掲載後発掘調査報告書の「まとめ」を読むと、旧石器時代、前期後葉の記述はあるのですが、その中間の「草創期~前期中葉」記述がないことに気が付きました。
「まとめ」に「草創期~前期中葉」の記述がないことに、どのような背景があるのか、一般人には理解不能ですので、記録しておきます。
この記事では「前期後葉の遣構と遺物」で掲載されている遺構分布図を概観します。
大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 遺構分布図
竪穴住居祉16軒と土坑113基の分布図が示されています。
発掘調査報告書のまとめでは、竪穴住居祉土坑を合わせた分布が略環状になっていて、それがその時期の集落構造を表しているという分析を行っています。
発掘調査報告書ではサンプル調査した全ての土坑からオニグルミ核が出土していて、土坑は貯蔵庫であると推定しています。
またこの集落の土坑墓は西方隣接遺跡のバクチ穴遺跡にあるのではないかと推定しています。
遺構位置をGISで全てプロットしたので、今後発掘調査報告書記載情報を遺構別に整理して、GIS空間分析をいろいろと試みたいと思っています。
縄文時代草創期~前期中葉までは、遺構分布から大膳野南貝塚遺跡空間は狩場であったと考えることができますが、前期後葉には居住空間(集落空間)に変化したことを理解できました。
また貝層と獣骨の出土がありますから、この時期から海の幸と山の幸の双方を利用していたことが判明します。
この集落の縄文人の狩場はこの集落内でないことは明白になりましたから、どこを狩場にしていたか?、つきとめなければなりません。
また生活における海の幸利用割合がどの程度であったのか、次の時期(貝塚形成期)と比べみたくなります。
今後詳しい検討を行います。
2017.02.05記事「大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代早期」では「草創期~前期中葉の遺構と遺物」で掲載されている縄文時代早期遺構分布図を概観しました。
なお、記事掲載後発掘調査報告書の「まとめ」を読むと、旧石器時代、前期後葉の記述はあるのですが、その中間の「草創期~前期中葉」記述がないことに気が付きました。
「まとめ」に「草創期~前期中葉」の記述がないことに、どのような背景があるのか、一般人には理解不能ですので、記録しておきます。
この記事では「前期後葉の遣構と遺物」で掲載されている遺構分布図を概観します。
大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 遺構分布図
竪穴住居祉16軒と土坑113基の分布図が示されています。
発掘調査報告書のまとめでは、竪穴住居祉土坑を合わせた分布が略環状になっていて、それがその時期の集落構造を表しているという分析を行っています。
発掘調査報告書ではサンプル調査した全ての土坑からオニグルミ核が出土していて、土坑は貯蔵庫であると推定しています。
またこの集落の土坑墓は西方隣接遺跡のバクチ穴遺跡にあるのではないかと推定しています。
遺構位置をGISで全てプロットしたので、今後発掘調査報告書記載情報を遺構別に整理して、GIS空間分析をいろいろと試みたいと思っています。
縄文時代草創期~前期中葉までは、遺構分布から大膳野南貝塚遺跡空間は狩場であったと考えることができますが、前期後葉には居住空間(集落空間)に変化したことを理解できました。
また貝層と獣骨の出土がありますから、この時期から海の幸と山の幸の双方を利用していたことが判明します。
この集落の縄文人の狩場はこの集落内でないことは明白になりましたから、どこを狩場にしていたか?、つきとめなければなりません。
また生活における海の幸利用割合がどの程度であったのか、次の時期(貝塚形成期)と比べみたくなります。
今後詳しい検討を行います。
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