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2023年12月3日日曜日

大膳野南貝塚 集落消長と貝層形成

 Daizenno Minami Shell Mound: Settlement change and shell formation


I have found that the relationship between the evolution and development of the late  Daizenno Minami Shell Mound settlement and the formation of shell layers is almost the same. During the study, it became clear that many of the shellfish produced during the Horinouchi 1st period, when the village was at its peak, may have been taken out of the village, along with their shells.

大膳野南貝塚後期集落の消長と貝層形成の関係が略一致していることを把握しました。検討の中で、集落盛期の堀之内1式期には生産した貝の多くが貝殻ごと集落の外に持ち出された可能性も浮かび上がりました。

1 貝層から出土した土器の時期別点数

北貝層と南貝層について、出土した土器の時期別点数がまとめられています。


貝層から出土した土器の時期別点数

大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

貝層は称名寺式期から始まり、堀之内2式期までつづいたことが出土土器点数からわかります。加曽利EⅣ式土器の出土はないので、加曽利EⅣ式期には貝層は形成されていません。加曽利B式土器出土はわずかですから、加曽利B式期も貝層形成はほとんど無かったと考ええることができます。

北貝層と南貝層の出土土器時期別割合を整理すると次のようになります。


貝層出土土器の時期別割合

出土土器点数の多寡と投棄貝層量は略比例すると想定するならば、このグラフは貝層量の時期別割合を示す大勢情報として見ることができます。そのように考えると、大勢相場観として称名寺と堀之内1古段階合わせてほぼ半分弱の貝層が形成され、堀之内1中~新段階でも同じくほぼ半分弱の貝層が形成され、堀之内2では残りの少しだけ貝層が形成されたと捉えることができます。


北貝層と南貝層の様子

大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用


北貝層と南貝層の様子

大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

2 時期別に見た集落消長と貝層形成

2-1 加曽利EⅣ式、加曽利EⅣ式~称名寺式 竪穴住居と貝層の関係


加曽利EⅣ式、加曽利EⅣ式~称名寺式 竪穴住居と貝層の関係

・加曽利EⅣ式期に竪穴住居漆喰【有】は存在しません。

・貝層から加曽利EⅣ式土器は出土していません。

・加曽利EⅣ式期に貝層は存在していなかったと想定できます。

2-2 称名寺式、称名寺式~堀之内1式古 竪穴住居と貝層の関係


称名寺式、称名寺式~堀之内1式古 竪穴住居と貝層の関係

・称名寺式期から貝層形成が始まります。

・竪穴住居漆喰【有】住民が住居付近に貝投棄したのが貝層形成の始まりと想定できます。

・称名寺~堀之内1古段階の期間に貝層の半分近くが形成されたと推定できます。

・住居軒数の割りに貝層形成のボリュームが大きく、漁労効率がきわめて良かったと推定

します。

2-3 堀之内1式 竪穴住居と貝層の関係


堀之内1式 竪穴住居と貝層の関係

・堀之内1(中~新)に竪穴住居漆喰【有】が急増し、その住民による貝層形成が盛んで

あったと想定できます。

・堀之内1(中~新)に貝層のおよそ半分が形成されました。

・貝層は古い住居を覆って形成されたと想定できます。


参考 堀之内1式+後期 竪穴住居と貝層の関係

2-4 堀之内2式、堀之内2式~加曽利B1式 竪穴住居と貝層の関係


堀之内2式、堀之内2式~加曽利B1式 竪穴住居と貝層の関係

・堀之内2式期の始めにはすでに貝層がほとんど形成されていたと想定できます。

・竪穴住居漆喰【有】も少なく、新たな貝層形成はわずかであったと想定できます。

・この時期には堀之内1までの住居の大半は貝層に覆われていたと想定できます。

・堀之内2式期が貝層形成最終期になります。

2-5 加曽利B1式、加曽利B1式~B2式 竪穴住居と貝層の関係


加曽利B1式、加曽利B1式~B2式 竪穴住居と貝層の関係

・加曽利B1式、B2式期に貝層形成はほとんど無かったと想定できます。

・竪穴住居漆喰【有】も存在していません。

3 メモ

・竪穴住居漆喰【有】の消長と貝層形成プロセスが大勢として略一致していることを把握しました。

・貝層出土土器数から、大勢観として称名寺~堀之内1古段階合わせてほぼ半分弱の貝層が形成され、堀之内1中~新段階でも同じくほぼ半分弱の貝層が形成されたと捉えることができます。

・称名寺~堀之内1古段階の竪穴住居漆喰【有】は5軒、堀之内1中~新段階の竪穴住居漆喰【有】は25軒(「後期」を含めると29軒)であり、竪穴住居漆喰【有】の軒数が大きく異なります。竪穴住居漆喰【有】1軒当りが海から採取した貝量がどこ時期でもほぼ同じであったと仮定すると、堀之内1中~新段階では貝層に投棄した量が極端に少なくなり、その理由を考える必要が生まれます。(この思考では称名寺~堀之内1古段階と堀之内1中~新段階の年数の違いは考慮していません。)

・堀之内1中~新段階では採取された貝の多くが貝層形成に回らなかった可能性が浮かび上がります。貝殻ごと集落の外に持ち出されたのかもしれません。


2022年10月2日日曜日

有吉北貝塚 集落消長と北斜面貝層出土土器の関係

 Ariyoshi Kita Shell Mound: The relationship between the development of the settlement and the pottery excavated from the northern slope shell layer


Ariyoshi Kita Shell Mound seems to have been used as a water source before the shell layer was formed. In the final stage of shell layer formation (Kasori E3 period), the village was uninhabited, and it seems that people came from the neighboring Ariyoshi Minami Shell Mound to dump pottery and form the shell layer.


北斜面貝層出土土器破片の分布やそれと貝層との関係を、Blender3D空間の中でミクロ分析を繰り返しています。そうした中で、北斜面貝層と縄文人の関わりが少しずつ見えてきましたので、メモします。この記事では北斜面貝層出土土器と集落消長との関係大局をメモします。

有吉北貝塚は貝層が形成される前は水場として利用されていたようです。また、貝層形成の最終段階(加曽利EⅢ式期)の集落は無人で、隣の有吉南貝塚から人々がやってきて土器投棄と貝層形成をしたようです。

1 北斜面貝層出土土器数の推移

北斜面貝層出土土器数の正確なデータは発掘調査報告書には掲載されていません。しかし、発掘調査報告書掲載土器数や土器破片分布図、及び文章記述からおおよその傾向を読み取ることはできます。

1-1 発掘調査報告書掲載土器数


発掘調査報告書掲載土器数

早期、前期、後期は全数が記載されているようです。それ以外の期はサンプリングして記載されているようですが、加曽利EⅡ式土器については出土数が多く、他の期と比べてその掲載抽出率は特段に小さくなっているようです。

期別土器出土数は期別の北斜面貝層(あるいはその場所)に対する集落の関わり強さを指標していると考えます。

早期及び前期にすでにこの場所に縄文人が関わっていたことは注目すべき情報です。水場としての関わりを想定しています。(追って情報をメモします。)

阿玉台式・中峠式期にはこの場所に人々が強く関わります。水場として関わり、火を使った跡が残っています。貝層との関わりは現時点作業では希薄な印象を持っています。

加曽利EⅠ式期には人々の関わりは急減します。水場機能が無くなったのでしょうか。

加曽利EⅡ式期になると廃用土器の集中的投棄がガリー侵食地形谷底付近に見られ、この期が人々と北斜面貝層との関係が最も濃密になります。加曽利EⅡ式と次の加曽利EⅢ式にかけて大量の混貝土層と純貝層・混土貝層が形成しましたが、その詳細プロセスは検討中です。

加曽利EⅢ式期には加曽利EⅡ式期より土器破片投棄と貝層形成は弱まり、終焉します。

人々の活動はいったん途切れ、土層に覆われた中期貝層の上に後期貝層が形成されます。

【メモ】

学習を始めた当初は、加曽利EⅡ式期に多量の土器が北斜面貝層に持ち込まれた際に、集落に存在する過去の土器(早期、前期、阿玉台式・中峠式、加曽利EⅠ式)も一緒に持ち込まれた可能性もあるのではないだろうかと想像していました。しかし、個別土器片分布のミクロ分析を行ううちに、そのような可能性はほとんどないという印象を持つようになりました。各期の土器片は基本的に当該各期に北斜面貝層(あるいはその場所)に持ち込まれたことを追って証拠立てたいと思います。

1-2 土器破片分布図掲載破片数

発掘調査報告書掲載土器破片分布図に掲載されている破片数をカウントすると次のようになります。


土器破片分布図掲載破片数

このグラフの期別変化は、実数はともあれ、その傾向は出土土器数の実体を良く反映しているのではないかと想像します。その傾向は発掘調査報告書掲載土器数と似ていますが、加曽利EⅡ式期に特段に土器投棄が活発であった実体を表現していると想像します。

1-3 参考 北斜面貝層 土器破片分布図


北斜面貝層 土器破片分布図 全体


北斜面貝層 土器破片分布図 第1群~6群土器


北斜面貝層 土器破片分布図 第7群~8群土器


北斜面貝層 土器破片分布図 第9群土器


北斜面貝層 土器破片分布図 第10・11群土器


北斜面貝層 土器破片分布図 第12群土器

2 有吉北貝塚集落の消長

有吉北貝塚中期の竪穴住居数を見て集落の消長を把握しました。


有吉北貝塚 中期 竪穴住居数

阿玉台式・中峠式期に初めて竪穴住居・集落が出現し、加曽利EⅠ式期にピークを迎え、加曽利EⅡ式期に少し衰え、加曽利EⅢ式期に急減凋落します。

3 指標「投棄土器数/竪穴住居数」による考察

「(北斜面貝層に投棄する土器数)÷(竪穴住居数)=集落の北斜面貝層に関わる熱心さの指標」と考えて、次のグラフをつくりました。

3-1 報告書掲載土器数(北斜面貝層)/竪穴住居数


報告書掲載土器数(北斜面貝層)/竪穴住居数

阿玉台式・中峠式期と加曽利EⅡ式期では集落が北斜面貝層に熱心に関わり、加曽利EⅠ式期では熱心ではない様子は予想通りです。しかし、加曽利EⅢ式期の集落熱心さは値が大きすぎて「異常」です。

3-2 分布図掲載土器破片数/竪穴住居数


分布図掲載土器破片数/竪穴住居数

3-1以上に加曽利EⅢ式期集落の北斜面貝層に対する熱の入れようが「異常」です。

3-3 考察

集落分布図をつくることにより「異常」の解釈方向が見つかりました。


有吉北貝塚 加曽利EⅡ式期の竪穴住居


有吉北貝塚 加曽利EⅢ式期の竪穴住居


有吉北貝塚と有吉南貝塚

「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

加曽利EⅡ式期には有吉北貝塚に集落が存在していたのですが、加曽利EⅢ式期には集落は消滅したのだと考えます。恐らく住民は有吉南貝塚に移動(引っ越し)したと想像します。有吉北貝塚加曽利EⅢ式期の竪穴住居3軒は、現代文化行政の遺跡範囲とは異なり、有吉南貝塚集落の一部であったと空想します。

このような状況から、加曽利EⅢ式期における土器投棄と貝層形成は有吉南貝塚集落の人々が「わざわざ出かけてきて」行ったのだと想像します。恐らくは有吉北貝塚集落から有吉南貝塚集落に移動(引っ越し)した人々が継続して「北斜面貝層活動」に取り組んだのだと想像します。

このように考えると、次のような感想を持ちます。

・北斜面貝層の土器投棄・貝層形成はその場所が生活空間近くの便利な場所だから行われただけではなく、特別な意味のある場所なので、引っ越した後、離れた所からわざわざ出かけてきて行われたと考えます。。

次のような空想にどれほどの確からしさがあるか、今後材料を集めたいと思います。

・加曽利EⅡ式にガリー侵食が激しくなり、集落中央部まで侵食される恐れが出てきた。集落中央部は集落の祭祀場所であり、集落のアイデンティティそのものだから、住民はガリー侵食拡大防止を意識して、谷底に土器破片を投棄して、「床固」したり、混貝土層(難浸食材)で空間を充填する「充填工法」を実施した。一方別の社会要因により有吉北貝塚集落と有吉南貝塚集落が有吉南貝塚の地で合併することになった。有吉北貝塚集落の人々は有吉南貝塚に引っ越しした後も北斜面貝層のガリー侵食拡大防止活動を継続して、ガリー侵食地形を貝層で埋め尽くして「工事」を完成させた。引っ越しした後も「工事」を継続したのは、それが先祖の眠る場所を安全に保つことが自分たちの生活維持と同等の重要性を感じる人生観を当時の人々がもっていたからである。

次の記事では北斜面貝層の貝層発達史イメージをメモします。