2011年10月6日木曜日

花見川河川争奪の証明

花見川河川争奪を知る6 花見川河川争奪の証明

花見川河川争奪による水系の変化

白鳥孝治氏の論文では、古絵図から判る堀割普請前の水系分布から、2つの理由により河川争奪を説明(証明)しています。
その2つの理由を私の言葉で表現すると次のようなります。

1 谷津地形の違い
花見川周辺の谷津地形は次の明瞭な特徴を持っている。
印旛沼水系…浅谷津
東京湾水系…深谷
ところが、花見川の花島の谷津、柏井で合流する2つの谷津は浅谷津であり、平仄が合わない。

2 河川の方向の違い
花見川周辺の河川方向は次の明瞭な特徴を持っている。
印旛沼水系…印旛沼方向(北北東)に流下する。
東京湾水系…東京湾方向(南南西)に流下する。
ところが、花見川の花島の谷津、柏井で合流する2つの谷津は印旛沼方向(北北東)に流下する傾向を有しており、平仄があわない。

白鳥孝治氏は以上2つの理由から、
このことから,少なくとも花島,柏井の枝谷津が形成された時代の初期の河川は,印旛沼方向に流れていたと考えられる。したがって,花島付近の花見川は,ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。」と説明しています。

以上の白鳥孝治氏の説明で、花見川河川争奪の存在が証明されていると思います。
おそらく、はじめて花見川河川争奪が記載されたものと思います。

なお、付け加えれば、より決定的証拠になりますが、次の第3の理由を挙げることができます。


3 谷底縦断面上の段差(地形面の非整合)
花見川谷底面と花島の谷津、柏井で合流する2つの谷津の谷底面との間に地形上の段差があり、花見川が花島の谷津、柏井で合流する2つの谷津を切った関係にあることが認められること。


この段差は、現在の地形で見られ、その段差の規模(花見川と前谷津の谷底面の段差は約10m)からして、堀割普請の影響(河床最大掘削深5m程度)を除去しても、自然の段差として認められるものと考えます。


第1、第2の理由は定性的理由ですから、これ以上の検討はさして必要ないと思います。しかし、第3の理由は堀割普請の影響を除去するという定量的な検討を内在することから、その精査を行い、堀割普請前の河川縦断形を定量的に復元することが、今後必要であると考えます。(現在分析作業中です。)


第3の理由は、河川争奪の直接証拠になりますが、それだけでなく、この河川争奪の成因検討のキーになるのではないかと考えています。

(2011.10.18 否定線部分を削除します。)

2011年10月5日水曜日

堀割普請前の河川地形の復元

花見川河川争奪を知る5 堀割普請前の河川地形の復元

古絵図情報の地図対比

上図は、「小金牧周辺野絵図」(「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」456ページ掲載、「17世紀中ごろか」の注釈付、)を大正6年測量の旧版1万分の1地形図と対比した資料です。

絵図から、堀割普請前の花見川源流は、柏井付近で前谷津、後谷津、西谷津に分岐します。西谷津は、大和田方面から南南東に直線状に伸びる旧柏井村の境界(現在の柏井町の境界として引き継がれてきている)が現在の花見川を横断する付近まで進出しています。(前谷津、後谷津、西谷津の名称は小字名によりました。)

前谷津、後谷津、西谷津はそれぞれ現在の谷津、堀割と確実に対比できますから、堀割普請前の地形を確実に復元することができます。

西谷津の源頭(河川争奪の最前線であるウインドギャップ[風隙])の位置も正確に把握できます。

堀割普請前の水系復元図

2011年10月4日火曜日

花見川河川争奪に言及した既存資料

花見川河川争奪を知る4 花見川河川争奪に言及した既存資料


花見川河川争奪の地形復元や成因について検討する前に、花見川河川争奪に言及した既存資料について確認しておきます。

私がこれまで得た情報の範囲内では、次の論文でのみ花見川河川争奪に言及しています。

白鳥孝治(1998):印旛沼落掘難工事現場の地理地質的特徴、印旛沼自然と文化第5号、pp43~48

この論文の花見川河川争奪に関連する部分を引用します。
……………………………………………………………………
掘り割る以前の花見川について、天明期の掘割絵図をみると、花見川は柏井を谷頭として花島を南流する東京湾水系の河川になっている。したがって、掘り割る以前から花見川は周辺の谷津とは異なり、図1の分水界よりさらに北上していたと思われる。


花見川と隣接するその他の谷津の形をみると,東京湾水系の谷津と,印旛沼水系の谷津とは,明らかに異なった形をしている。前者は谷頭に至るまで深く刻み込まれた深谷津の形をしているのに対して,後者は浅谷津の形をとって,谷頭はほとんど台地面近くまで上っている。花見川は掘り割られているので,原地形の谷頭が深谷津タイプか,浅谷津タイプか不明であるが,花島から西に派生する花見川の枝谷津と,柏井から東西両方向に派生する枝谷津は,いずれも浅谷津タイプであり,しかも両枝谷津の流れの方向は印旛沼の方向をとっている。このことから,少なくとも花島,柏井の枝谷津が形成された時代の初期の河川は,印旛沼方向に流れていたと考えられる。したがって,花島付近の花見川は,ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。


この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。


隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。天保期の工事の際に,花島付近は多量の湧水のために難工事を極めたことは,沈降帯であるために台地の地下水がここに集中するためであり,また,花見川が,分水界を越えて北に延びた理由のひとつも,多量の湧水による侵食にあったと考えられる。
(図1、図2略)
……………………………………………………………………

私が白鳥孝治氏の論文に気がついた経緯等は次の記事に書きました。
2011年3月7日記事「花見川中流紀行17河川争奪に関する先行記述

この論文による花見川河川争奪の成因については、追って検討したいと思います。

なお、この白鳥孝治氏の論文以外にも、花見川河川争奪に言及した資料・論文があるかもしれませんので、機会を見つけて調べたいと思います。

2011年10月3日月曜日

ようやくベールがとれた花見川河川争奪

花見川河川争奪を知る3 ようやくベールがとれた花見川河川争奪

地形図を見ているだけでは、あるいは現場を歩いても、それだけの情報では、花見川に河川争奪があることをズバリ直感できた人は少なかったと思います。たとえ直感できても証明できません。

その理由は江戸時代の堀割普請により、地形改変(堀割が掘り割られた)があったのだから、それにより、印旛沼方向に流れていた河川が東京湾方向に流れを変えるという、「流域変更」が行われたと考えることが自然の思考だからです。

河川争奪がもともと存在していて、それを活用して堀割普請が行われたと思考することは、決めてとなる情報が与えられていなければ、通常困難です。

このような理由から花見川河川争奪の存在は戦後にいたるまでベールに包まれてきたのではないかと思います。

次の資料は、花見川河川争奪の存在がベールに包まれていた時代に作成された地形分類図です。決めてとなる情報がなければ、地形の専門家といえども河川争奪の存在を識別することができなかったという証拠の一つです。

「土地分類基本調査 佐倉 5万分の1 国土調査」(千葉県、1980)

*   *   *

「下総国印旛沼御普請堀割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新堀割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼堀割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。

下総国印旛沼御普請堀割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー

この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。

*   *   *

千葉市教育委員会は近年、地域誌、地域史の調査研究活動を積極的に展開し、その成果の一部は「絵にみる図でよむ千葉市図誌」(千葉市発行)、「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)として結実しています。この千葉市教育委員会の活動で、「小金牧周辺野絵図」の存在が一般に広く知られるようになりました。

小金牧周辺野絵図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」456ページ

この絵図により、その説明に書かれているように、「当時はまだ印旛沼掘割り工事が行われておらず、図では川が完全に分断している。」状況がわかります。この絵図は、柏井で花見川に流入する河川が、江戸時代の印旛沼堀割普請前に既に花見川水系であり、河川争奪を確認できる資料です。

八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。

(2011.10.14 一部追記しました)

2011年10月2日日曜日

河川争奪とは

花見川河川争奪を知る2 河川争奪とは

河川争奪という地学用語について、事典により簡単に復習しておきます。

河川争奪 piracy、capture 河川が流域を越えて隣の河川の水流を奪う現象。流域境界の位置は、河川の浸食力の違いを反映し、一方の河川の浸食が激しく、河床高度が低い場合には、他方の河川流域に食い込み、ついにはその水流を奪う。水流を争奪した河川では、流量の増加で下刻が進む。争奪された河川では、争奪地点から上流流域がなくなり、谷の大きさに対して流量が少ない川となる。そのような河川を無能河川、谷が切断された争奪地点をウィンドギャップ(風隙)という。(新版地学事典、平凡社)

河川争奪の説明イメージとして、デービス原画の次の絵をよく見かけます。

「geomorphology」(c.a.cotton 1958)より

2011年10月1日土曜日

花見川河川争奪に関するoryzasanさんからのコメント

花見川河川争奪を知る1 oryzasanさんからのコメント

「お知らせ」で書いたようにoryzasanさんから2011年1月28日記事「花見川流域紀行10河川争奪の見立て」にコメントをいただきました。
この記事がブログの奥深いところにあり、目立ちにくいので、改めてこのコメントを記事として掲載させていただき、紹介いたします。

そして、oryzasanさんにコメントしていただいたことをきっかけにして、改めて花見川河川争奪について考えてみて、シリーズ記事として情報発信したいと思います。

1 2011年1月28日記事「花見川流域紀行10河川争奪の見立て」(再掲)
河川争奪前の水系想像
河川争奪後の水系
もともと花見川団地付近を源流とする水系(柏井の谷津)、花島公園の谷津を源流とする水系、柏井浄水場付近を源流とする水系の3つが柏井橋付近で合流して印旛沼方向に流れる水系があったと考えます。この河川を仮に古柏井川と呼ぶことにします。一方、東京湾方向に流れていた古花見川の最上流部の頭部侵食力が旺盛になり(おそらく海面低下や低温化に起因)、花島公園の谷津はおろか、二つの支流をも争奪し、さらに横戸台南端(「高台」と呼ばれる場所)付近まで古柏井川谷底を奪ったのだと思います。結果として、古柏井川は流域面積のほとんどを取られ、そこに流れる水の量と較べると著しく大きな空堀みたいな広い谷が下流の一部に残ったのだと思います。
後世になり、人々が印旛沼干拓を課題とした時、願ってもいない大きな空堀みたいな谷があり、それは「高台」で突然花見川によって下からちょん切られている光景をみて、堀割普請の意欲が大いに湧いたのだと思います。
堀割普請で難渋した化灯土も、こうした地形発達を想定すると、その成因や分布が合理的に説明できそうです。
河川争奪箇所だったから堀割普請が行われたという仮説については、現場をくまなく散歩してみたり、情報を集めて分析し、今後検証していきたいと思います。

2 oryzasanさんからのコメント
花見川上流部の河川争奪に関する文章を読ませていただきました。「古柏井川」の流域を「古花見川」の頭部侵食で奪った結果が現在の花見川の水系であるとのことですが、僕は違う見方をしています。
この地域には関東ローム層の下部に「常総粘土層」という火山灰層が分布しますが、この地層は「古東京湾」と呼ばれる海が退いた後に生じた湿地に堆積したものです。花見川流域でのこの地層の層相分布を見ると、下流の天戸-長作地域には同時期の陸成の火山灰層(下末吉ローム層)が分布しますが、上流の花島-横戸では湿地堆積の層相を示し、天戸-長作地域の陸化・離水の時期が早かったことを示しています。もちろん現在では花島-横戸地域の方が高いのですが、古東京湾の海退直後は逆だったことになり、その後花島-横戸地域の隆起が始まって現在の分水嶺が形成されたのではないかと思います。柏井の谷津を作った川は、この海退直後の地面の傾きに従って、印旛沼に向かう流路を形成した後、分水嶺地域の隆起の開始によって行く手を阻まれて東へ曲がり、更に南へと流れて、現在の花見川の流路を作ったのではないでしょうか。このような最初の離水域を示す、陸成の下末吉ローム層の分布域は、分水嶺地域の東京湾側に平行に、松戸付近まで追跡することが出来、隆起軸の内陸側への移動を示しています。
詳細は下記
http://homepage3.nifty.com/sayamanaturalhistory/geology/shicchinojidai/shimosueyoshi/page-rikukatochikakuhendou.html

3 花見川河川争奪に関する興味
oryzasanさんのコメントをきっかけにして、次のインタレストについてシリーズ記事を作成して情報発信したいと思います。

ア 花見川河川争奪地形の復元
・江戸時代の印旛沼堀割普請の影響を除去して、自然地形としての花見川河川争奪地形を復元する方法とその結果について考える。

イ 花見川河川争奪の成因
・oryzasanさんの調査結果や他の既存文献、私の見立て・調査を並べてみて、花見川河川争奪の地学的成因を考える。

ウ 縄文人以来の花見川河川争奪地形の利用
・縄文時代以降の人による花見川河川争奪地形利用の歴史をまとめてみる。(印旛沼と東京湾の古代における交流、霊的空間の立地、印旛沼堀割普請、印旛沼開発事業等)

エ 花見川河川争奪地形の価値
・花見川河川争奪地形そのものと、それを利用した土木遺構等の文化財的価値について検討する。

オ 花見川河川争奪を知る意義
・河川争奪が、花見川の自然地理的出自(成り立ち)の理解や、これからの花見川流域の保全と開発の思考の基礎知識として必須であることについて考える。

2011年9月29日木曜日

花見川石油パイプライン

花見川河床の地下約35mに内径2.5mの頑丈なトンネルがあり、成田国際空港で使う航空燃料を運ぶパイプラインが敷設されていますので紹介します。

この施設は石油パイプライン事業法により設置された施設で、千葉埠頭石油ターミナルで荷揚げされた航空燃料を成田国際空港まで輸送する延長約47㎞のパイプラインの一部です。

トンネルが花見川を通る部分は河口から京葉道路までの約4.7㎞の区間です。

石油パイプラインルート図
成田空港給油施設株式会社提供

石油パイプラインルートのイメージ(花見川付近)

トンネルの中には口径14インチ(外径355.6㎜)のパイプ2条が配置されています。

トンネルの様子
成田国際空港株式会社パンフレットより

成田国際空港株式会社パンフレットによると、パイプ1条あたり約700kl/hの輸送能力があり、流速は約2.2m/sです。

このように花見川は、成田国際空港の存在に欠かすことのできない石油パイプラインを通すという重要な機能を、空間上果たしています。

畑川の散歩で見かけた石油パイプライン関連施設

2011年9月28日水曜日

「印旛放水路(下流部)」から「花見川」へ


恥ずかしい告白ですが、最近千葉県河川整備課で教えていただくまで、花見川の河川整備計画が利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画の一部として策定済みであることを知りませんでした。

利根川水系河川整備計画が策定されていないので、利根川水系の一部である花見川も策定されていないと思い込んでいたのです。

「花見川流域を歩く」という趣味活動は焦点を現場の散歩に合わせていますので、資料や書物は二の次です。と理屈づけるにしても、不勉強のそしりは免れないと思います。

さて、その利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画はWEBを見ると流域委員会を設けて策定されたようです。

流域委員会の議論の中では、河川名称に関する話題はなかったそうです。

有識者や地域を代表される方も、河川管理者も、「印旛放水路(下流部)」名称の不合理さまでは気が回らず、手賀沼や印旛沼本体の議論にエネルギーのほとんどを費やしたものと推察します。

仮に、上記流域委員会が「印旛放水路(下流部)」を、印旛沼の付録としてではなく、それ自身を抜き出し対象として考察する機会があったとします。
そうすれば、必ずや「その河川名称で住民が納得しているのか」「本当に人工河川と言えるのか」「なぜ高津川と勝田川を流域変更したのか」など、花見川の沢山の不思議が議論されたに違いありません。
そして、「確かに、花見川流域という存在があるんだ!」という再認識が深まったと思います。

*   *   *

WEBで検索すると、たまたま見つけた例ですが、県が「『河川名の変更』に対する意見募集」を行って、多数の賛成を得、地元市の賛成や名称変更要望活動を踏まえて、国交省に名称変更の要望をして正式決定した例が出ていました。(鳥取県、鳥取市の旧袋川→袋川)

地元住民が使っている河川名称に変更した例は渡川→四万十川、派川利根川→利根運河、荒川放水路→荒川など多数あると思います。

「印旛放水路(下流部)」→「花見川」という名称変更を実現させるにはどのようにしたらよいか、そのきっかけやプロセスを考えたいと思います。

2011年9月27日火曜日

河川名称「印旛放水路(下流部)」では合理的対応が困難


河川法名称「印旛放水路(下流部)」では外部要請に対して、合理的対応が困難であるという懸念を持っていますので、今後の検討のために考えたことを記録しておきます。

たとえば、治水面で利根川水系サイドから「印旛放水路(下流部)に1000トン流すから大規模開削よろしく」と言われたとします。

地元千葉の人々がこの川を「印旛放水路(下流部)」と呼び、「人工河川」と認識していて、納得してしまっていては、「堀割の自然環境が優れている」という程度の議論はできますが、花見川流域の自然的、歴史文化的価値全般についての議論は困難です。
「放水路」「人工河川」と流域の自然、歴史、文化は結びついていません。

「印旛放水路(下流部)」という名称では流域概念がほとんど無いに等しいので、外部要請を流域全体の問題として捉えるという視点も脆弱になります。

「印旛放水路(下流部)」という名称では、問題が起こったとき、流域全体の人が当事者意識を持つことはほとんど不可能です。「放水路」のすぐ近くの人しか当事者意識を持つことができないに違いありません。

第一、流域住民は「印旛放水路(下流部)」と聞いてもどこの河川だかわからない始末です。

おそらく、議論も「自然保護か工事か」といった矮小化した、貧しいものになると思います。

「印旛放水路(下流部)」ではなく、花見川(高津川、勝田川を含む)としてこの川を捉え、その流域を意識した河川管理が行われていれば、外部要請と花見川流域の自然的価値、歴史文化的価値を総合的に評価するという合理的検討を行うことができます。

花見川ならだれでも知っています。大体からして、花見川は花見川区という行政区域の名称にもなっています。

花見川名称ならば、自然環境の大切さだけではなく、河川争奪現象地形の存在、縄文時代から利用された古代人の印旛沼-東京湾回廊として利用、堀割に立地する霊的空間、土木遺構としての素掘堀割の存在など、多様な価値を、外部要請と対置して、総合検討できます。

「印旛放水路(下流部)」という名称では住民のほとんどがそっぽを向く問題も、花見川という名称なら自分たちの問題として捉えることができます。

私が危惧することは、「印旛放水路(下流部)」という名称使用(その背後には人工河川という誤った思考が存在している)により、地元千葉が本来備えているべき論理展開力の一部を放棄してしまっているということです。外部要請にたいして本来行われるべき総合的合理的議論をする能力を最初から制限しているという、一種の思考上の武装解除状態にあることを危惧します。

また、花見川名称なら実現できる豊かな住民参加が、「印旛放水路(下流部)」という名称で貧困な住民参加になってしまうことを危惧します。

こうした危惧に気がつくのが遅ければ、地元千葉は結果として後で、ほぞをかみます。

私は花見川堀割部分の自然や土木遺構としての文化財的価値を大切にしたいと思っています。
しかし、なにがなんでも外部要請は阻止したいという立場ではありません。

国策としての外部要請があれば、地元千葉はそれに対して正々堂々と受けて立ち、あるべき総合的合理的議論をつくすことを願うものです。
あるべき総合的合理的議論がつくされれば、外部要請と花見川整備との調和点をみつけることが可能になるかもしれません。少なくとも、多くの人が受け入れることができる結論を得ることができると思います。

残念ながら、「印旛放水路(下流部)」と「人工河川」ではあるべき総合的合理的議論は最初から不可能です。

2011年9月26日月曜日

河川名称「印旛放水路(下流部)」の違和感


河川法に基づく名称である「印旛放水路(下流部)」に強い違和感を覚えます。
違和感の内容がどのようなものであるか列挙してみて、今後の検討のために記録します。

1 名称が河川法の目的に対応していない
平成9年の河川法改正により、河川の目的に環境が加えられ、治水・利水・環境の3つの河川管理により河川の目的を達成することになりました。

ところが、「印旛放水路(下流部)」という名称は、治水と利水を主軸に活動を展開するという旗印を掲げたこということです。

治水・利水を主軸に活動を展開するということは、人工河川ならまだしも、自然河川である花見川(とその支流の勝田川、高津川)の健全な河川管理と相いれません。

「印旛放水路(下流部)」という名称には「この河川は治水・利水を主軸に事業活動を展開するという強い事業指向」が内在しています。まるで事業者専用の名称のようになっています。あたかも花見川を事業者が独占してしまったという印象の名称です。

事業を否定する立場から述べているのではありません。
花見川を「人工河川」と定義し、「印旛放水路(下流部)」と名付けてしまえば、その河川管理はおのずと治水、利水(の事業)に偏向していってしまうことになる、という跛行性を心配しているのです。

自然河川花見川に「印旛放水路(下流部)」という名称がふさわしいものであるのか、平成9年河川法改正の趣旨に照らして再検討する必要があると思います。

2 名称が人々の発想を貧困にしている
「印旛放水路(下流部)」という名称は、花見川の自然、歴史、流域に関する発想をとても貧困なものにしているように感じます。

「川」という言葉は「自然」「歴史」「流域」などの言葉と自然に結びついています。「川」から「自然」「歴史」「流域」の発想に移動するためにさしたるエネルギーは必要としません。

千葉を流れるこの川を「花見川」として呼べば、花見川の自然、花見川の歴史、花見川流域の出来事・地物について様々な思考の展開を図ることは容易です。

そもそも「ハナミガワ」という名称が縄文語由来であり、古代から人々の生活を支えた河川であり、珍しい河川争奪現象地形が存在し、縄文時代以来印旛沼と東京湾をつなぐ古代人の回廊であった地形があり、江戸時代の堀割普請など様々な歴史のページをめくることができます。花見川に積み重なっている自然的、文化的価値を見出すことができます。

ところが「放水路」からその「自然」「歴史」「流域」の発想に移動することは困難です。

千葉を流れるこの川を「印旛放水路(下流部)」として呼べば、放水機能の思考は大いに展開できます。事業者の仕事には好都合です。しかしその流域に積み重なっている自然的、文化的価値を見出すような発想に至ることは至難の業になります。

流域の自然的、文化的価値を見出すことが困難であるということは、流域の地域づくり、特に川を生かした地域づくりが貧困化するということに帰結します。