基盤地図情報5mメッシュで地形を見る
基盤地図情報5mメッシュ(国土地理院より無償提供されている)をカシミール3D(フリーソフト)で運用して地形の詳細を見てみました。
次の図はカシミール3Dの表示機能で「ランドサットの色分け(レリーフ用)」という標高データパレット項目で作成した2Dレリーフ図です。
レリーフ図
レリーフ化して地形だけを単純化しただけあって、地形の詳細がよくわかります。
この付近を上空から俯瞰する3D俯瞰図を次に作成しました。
俯瞰図1
北柏井の集落の乗る河岸段丘が北方向に続き、その段丘面上に普請の盛土あり、段丘面の存在が隠されているという私の仮説を説明するのに好都合の俯瞰図です。
よく見ると、埋められたと考えた河岸段丘のさらに北の川表斜面に平坦面の存在を暗示する地形があります。
この新発見地形を次に図示しました。
説明俯瞰図1
この斜面に存在する緩斜面の下の凸部分の標高は約17mです。
また、この緩斜面が戦後の印旛沼開発工事で作られたものでないことは、当時の資料(当時の掘削等の情報が掲載されている平面図)から確認しました。(*)
昭和の工事では、この付近では斜面脚部の掘削しか行っていません。
次の説明俯瞰図は別の位置から見たものです。
説明俯瞰図2
今回新たに発見した地形は、現場に入れない場所にあり、貴重な発見です。
古柏井川西岸に河岸段丘が連続して分布していたことを示唆する情報になります。
*
独立行政法人水資源機構千葉用水総合管理所より、昭和40年作成の印旛沼開発工事資料(平面図、縦横断図)を閲覧させていただきました。
昭和20年代から始まった農林省実施の川表斜面掘削工事の結果がわかる資料です。古柏井川の古地理復元の基礎資料の一つとして貴重な情報源となるものです。
閲覧させていただいたことに感謝申し上げます。
2011年12月11日日曜日
2011年12月10日土曜日
成田山参詣記の記事訂正と検討
1 記事訂正
まず、記事の訂正です。
成田山参詣記(2011.11.16記事)に次の誤りがありますので訂正し、このブログを見ていただいている方にお詫びします。
誤 パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲
正 パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲
誤(文章)
この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図に盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察できますので、次にその推察を絵図に書き込んでみました。
正(文章)
この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図には西岸台地とその上の盛土地形が、描かれています。また、勝田川の河岸段丘と考えられる平坦面のスカイラインが意識されて(他の地形線と区分されて)描かれているように推察できます。次にその推察を絵図に書き込んでみました。
誤 パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現
正 パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現
現場で、この視点から、盛土背後の緩斜面を見ることは不可能であることを確認しましたので、上記2つの図版と関連する文章を訂正しました。
2 検討
oryzasan氏のコメント4で次のような指摘を受けました。
この絵図は僕に言わせれば、地形に関しては全くいい加減です。山のように描いてあるのが台地でしょうが、台地の上は平らなはずで、この絵のような山状にはなりません。この絵図は当時の風景画の常套手段で、背景に山、手前に平野を描いて見せたに過ぎません。斜面に刻まれた谷のようなもの、木の高さに対してあまりに高すぎる台地面など、到底現場の忠実なスケッチとは考えられず、まして「盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察」とは見えすぎです。
この指摘について現場で自分なりに感じ、検討したことがありますので報告します。
ア oryzasan氏の指摘は正しい
oryzasan氏の指摘は正しいと思いました。それはこの絵図が、現代技術用語としての「写実的でない」という着眼点に立脚すれば、正しいということです。 確かに写真撮影すれば、このような風景を撮ることはできません。「絵」にならない、のっぺらした風景写真が撮れます。
イ この絵図を見る別の着眼点
この絵図から、当時の絵図作成者が観察したに違いない事実(観察したとき、感じた心理的事実…物理的事実ではなく、心理的事実)を知ろうという「着眼点」に立脚すれば、oryzasan氏とは別の絵図評価になります。
私は、当時の絵図作者が、それなりに地形をよく見て、この絵図を描いたと判断し、記事文章を書きました。
絵図表現上の強調や誇張は当然です。実際には一望できない風景構図を創作することも当然です。しかし、それを持って写実的でないということに「着眼」して論を進めるのか、反対に強調や誇張は作者が捉えた心理的事実の表現方法であると許容し、むしろそれを持って地形の本質を表現しようとしているということに「着眼」するのか、そこに分かれ目があると思います。
どちらが正しいという問題ではありません。その絵図を見る人が、そこからどのような情報を引き出そうとしているのか、立場や価値観の違いに多様性があるということです。
ウ 花見川対岸を「山」と感じた瞬間
河岸段丘の露頭を探して現場を歩いている時、一瞬対岸が100m位の山と感じた時があります。その時の自分の感覚を写真に記録できるかもしれないと思いながら撮った写真が次の2枚です。
いずれも柏井の東岸から西岸を見た風景です。
対岸の台地が山と感じた時撮った写真1
対岸の台地が山と感じた時撮った写真2
錯覚であると切り捨ててしまえばそれまでですが、対岸の風景が中景の樹木で遮られて一部しか見ることができなく、近景にいろいろな地物がある場合、対岸の風景が強調されて、「大きく」見える心理現象があると思います。
地平線近くの月が大きく見えることと原理が同じだと思います。
自分に生じたこの心理的現象が、藪の中を歩き回って沢山のスケッチを描き、架空の視点場から迫力ある構図で絵図を描こうとした絵図作者に生起しないはずはありません。
このような心理現象を活用しながら、迫力ある絵図を作成しようと、絵図作者は活動したに違いありません。もちろん無意識的行動としてです。
一般論として、現代人より江戸時代の人々の方がはるかに地形認識力があったと想像します。現代人は生活環境の都市化や知識増大により、地形認識力が著しく貧困化していると思います。
まず、記事の訂正です。
成田山参詣記(2011.11.16記事)に次の誤りがありますので訂正し、このブログを見ていただいている方にお詫びします。
誤 パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲
正 パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲
誤(文章)
この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図に盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察できますので、次にその推察を絵図に書き込んでみました。
正(文章)
この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図には西岸台地とその上の盛土地形が、描かれています。また、勝田川の河岸段丘と考えられる平坦面のスカイラインが意識されて(他の地形線と区分されて)描かれているように推察できます。次にその推察を絵図に書き込んでみました。
誤 パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現
正 パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現
現場で、この視点から、盛土背後の緩斜面を見ることは不可能であることを確認しましたので、上記2つの図版と関連する文章を訂正しました。
2 検討
oryzasan氏のコメント4で次のような指摘を受けました。
この絵図は僕に言わせれば、地形に関しては全くいい加減です。山のように描いてあるのが台地でしょうが、台地の上は平らなはずで、この絵のような山状にはなりません。この絵図は当時の風景画の常套手段で、背景に山、手前に平野を描いて見せたに過ぎません。斜面に刻まれた谷のようなもの、木の高さに対してあまりに高すぎる台地面など、到底現場の忠実なスケッチとは考えられず、まして「盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察」とは見えすぎです。
この指摘について現場で自分なりに感じ、検討したことがありますので報告します。
ア oryzasan氏の指摘は正しい
oryzasan氏の指摘は正しいと思いました。それはこの絵図が、現代技術用語としての「写実的でない」という着眼点に立脚すれば、正しいということです。 確かに写真撮影すれば、このような風景を撮ることはできません。「絵」にならない、のっぺらした風景写真が撮れます。
イ この絵図を見る別の着眼点
この絵図から、当時の絵図作成者が観察したに違いない事実(観察したとき、感じた心理的事実…物理的事実ではなく、心理的事実)を知ろうという「着眼点」に立脚すれば、oryzasan氏とは別の絵図評価になります。
私は、当時の絵図作者が、それなりに地形をよく見て、この絵図を描いたと判断し、記事文章を書きました。
絵図表現上の強調や誇張は当然です。実際には一望できない風景構図を創作することも当然です。しかし、それを持って写実的でないということに「着眼」して論を進めるのか、反対に強調や誇張は作者が捉えた心理的事実の表現方法であると許容し、むしろそれを持って地形の本質を表現しようとしているということに「着眼」するのか、そこに分かれ目があると思います。
どちらが正しいという問題ではありません。その絵図を見る人が、そこからどのような情報を引き出そうとしているのか、立場や価値観の違いに多様性があるということです。
ウ 花見川対岸を「山」と感じた瞬間
河岸段丘の露頭を探して現場を歩いている時、一瞬対岸が100m位の山と感じた時があります。その時の自分の感覚を写真に記録できるかもしれないと思いながら撮った写真が次の2枚です。
いずれも柏井の東岸から西岸を見た風景です。
対岸の台地が山と感じた時撮った写真1
対岸の台地が山と感じた時撮った写真2
錯覚であると切り捨ててしまえばそれまでですが、対岸の風景が中景の樹木で遮られて一部しか見ることができなく、近景にいろいろな地物がある場合、対岸の風景が強調されて、「大きく」見える心理現象があると思います。
地平線近くの月が大きく見えることと原理が同じだと思います。
自分に生じたこの心理的現象が、藪の中を歩き回って沢山のスケッチを描き、架空の視点場から迫力ある構図で絵図を描こうとした絵図作者に生起しないはずはありません。
このような心理現象を活用しながら、迫力ある絵図を作成しようと、絵図作者は活動したに違いありません。もちろん無意識的行動としてです。
一般論として、現代人より江戸時代の人々の方がはるかに地形認識力があったと想像します。現代人は生活環境の都市化や知識増大により、地形認識力が著しく貧困化していると思います。
2011年12月9日金曜日
oryzasan氏コメント4の感想
oryzasan氏から2011年11月21日に河川争奪に関してコメント4をいただきました。
これは、このブログのページ「oryzasan氏コメント」に掲載させていただきました。
コメント4ではoryzasan氏が現場調査を実施されて、その結果も踏まえて考えを述べられています。
このコメント4をいただいてから、当方も現場である程度納得のいく情報を得てから、感想を述べさせていただきたいと思い、4日間ほど現場を歩きました。
この現場調査の結果は次の記事で既に詳しく報告してあります。
横戸付近の地形地質 (2011.11.28)
横戸付近の今後の地形地質調査について (2011.11.29)
柏井付近の地形地質 上 (2011.11.30)
柏井付近の地形地質 中 (2011.12.3)
柏井付近の地形地質 下 (2011.12.4)
花島は河川争奪の生き証人 (2011.12.5)
この調査結果を次にまとめました。
1 古柏井川に関連する現場観察結果
次のように説明便宜上の区間を設定して、現場観察結果について述べます。
説明のための区間
区間1
ここには勝田川の河岸段丘(千葉第Ⅰ面)があります。 この河岸段丘の現在の姿は次のようになっています。
鷹の台弁天緑地の地形
ここが河岸段丘であることはoryzasan氏資料にも出いています。
この河岸段丘のボーリング資料をoryzasan氏から示していただきました。「oryzasan氏コメント(2011.11.8)」収録の12180番です。
地形(河岸段丘)と地質資料を対応させて考えることができるワンセット(仮に基礎情報1とします)の存在が確認できたことになります。
区間2
勝田川の河岸段丘(千葉第Ⅰ段丘、千葉第Ⅱ段丘)が拡がっています。
区間3
台地が拡がっていて、道路脇の露頭は全て普請盛土の断面です。
ここに河岸段丘存在の証拠はありません。
ボーリング資料もそのことを物語っていると思います。(この区間の地形と地質資料[ボーリング資料12175番、12176番]のセットを仮に基礎資料2とします。)
区間4
千葉第Ⅰ段丘に連続する古柏井川の河岸段丘が帯上に分布し、段丘上の川側には普請盛土が乗っています。
この段丘面を構成する地層は露頭で観察できる可能性が濃厚ですが、残念ながら今回の調査では主に露頭観察スキル未熟のため十分な観察にいたりませんでした。
区間5
ゴルフ場内に河岸段丘状地形が拡がっています。 ここでも、この河岸段丘状地形とそれに対応する地質資料(ボーリング12177番)のセット(仮に基礎情報3とします)の存在を確認できます。
基礎情報1と3、基礎情報2と3を対比させると、層序の類似性、非類似性から、この場所(区間5)が台地面ではなく、河岸段丘であると考える妥当性が増します。
oryzasan氏提供ボーリング資料に地形情報添加
区間6
台地が拡がっていて、河岸段丘存在の証拠はありません。
区間7
台地上の普請盛土は柏井高校敷地内で観察できますが、それ以上の地形や地質の観察は出来ない区間です。私にとって未踏査といえる区間です。
柏井高校敷地内の普請盛土
区間8
台地に特徴的な凹地が存在します。
この凹地から区間9の河岸段丘までの土質が褐色ローム質細砂か灰色中砂で普請盛土起源であることの示唆を受けました。
また近傍住民ヒアリングで、この一帯が普請盛土地帯であるとの証言を得ました。
さらに、区間9の河岸段丘背後の崖が、その平面形状が直角に変わるなど不自然さが目立ちます。
これらの情報から、凹地から区間9までの間は河岸段丘上に普請盛土が乗っているものとの仮説を持ちました。
(もしこの仮説が正しければ、天保普請の資料から、この普請盛土は天明普請の時のものだと考えます。)
区間9
前谷津(西からの流入谷津)の河岸段丘が分布しています。この河岸段丘の構成地層を確認できる露頭を発見できませんでした。
この河岸段丘の平面形状をよく見ると、古柏井川が北流していたことを確認できます。
区間10
後谷津(東からの流入谷津)の河岸段丘が分布しています。
この河岸段丘の構成地層を確認できる可能性のある露頭を発見しました。今回の調査ではその露頭で細砂やシルトを観察していますが、詳細な層の状況は未調査です。露頭観察スキル未熟に加え私有地であるためです。
この河岸段丘の近辺にも区間8と同じく普請盛土で覆われ一見台地状にみえる段丘面の存在を露頭観察から、仮説として持つにいたりました。
区間11
古柏井川の河岸段丘が断片的に分布しています。地形図の誤りに現場で気づいて、発見した河岸段丘もあります。河岸段丘の構成地層を観察できる露頭は発見できませんでした。
区間12
段丘面が連続的に広がっています。低位と高位に分けることができます。河岸段丘の構成地層を明瞭に観察できる場所は見つかりませんでした。断片的な露頭では細砂やシルトを観察しています。
区間13
花島を含む特徴的な河岸段丘が発達しています。地層を観察できる露頭は発見できませんでした。
河岸段丘の詳細な形状から、花島のできた経緯に関する仮説を、河川争奪とのかかわりで考えました。
2 oryzasan氏コメント4の感想
oryzasan氏はコメントの中で、「花見川開削部の入り口(横戸側)と出口(柏井側)の東西両岸壁面上部にはローム層が分布し、この部分が地山であることを確認しました。従って「古柏井川」の谷は存在しないか、あったとしても、その幅は開削部の内側にとどまっており、Coolerさんの言われるように、外側へ「はみ出る」ことはありません。この問題は結局、振り出しに戻ったことになります。」と述べられました。
しかし、上述(1 古柏井川に関連する現場観察結果)した通り、普請盛土のある場所だけでも区間4、5、8で河岸段丘の存在が確認あるいは仮説されます。
また区間1、2、9、10、11、12、13には現物の河岸段丘が確認できます。
こうした調査結果から、正直にいって「振り出しに戻った」と実感することができませんでした。
oryzasan氏のコメントを学習させていただき、錆びついたギアに油を入れていただいたようになり、知識面で相当ステップアップできたと思います。感謝申し上げます。
自分としては花見川河川争奪について解明したいので、引き続き調査を深めていきたいと思っています。oryzasan氏のアドバイスがまた得られれば、うれしいです。
追伸
⑤谷幅について
「広い谷底と崖錐発達」の崖錐は、西から流入する谷津が本流出口で形成している円錐体の地形を指したものです。
米軍撮影空中写真で立体視すると、教科書にモデルとして出てくるような円錐体に見えます。
扇状地と呼ぶにはあまりにも小さく、段丘と呼ぶにはあまりにも円錐形であるので、崖錐と呼びました。
これは、このブログのページ「oryzasan氏コメント」に掲載させていただきました。
コメント4ではoryzasan氏が現場調査を実施されて、その結果も踏まえて考えを述べられています。
このコメント4をいただいてから、当方も現場である程度納得のいく情報を得てから、感想を述べさせていただきたいと思い、4日間ほど現場を歩きました。
この現場調査の結果は次の記事で既に詳しく報告してあります。
横戸付近の地形地質 (2011.11.28)
横戸付近の今後の地形地質調査について (2011.11.29)
柏井付近の地形地質 上 (2011.11.30)
柏井付近の地形地質 中 (2011.12.3)
柏井付近の地形地質 下 (2011.12.4)
花島は河川争奪の生き証人 (2011.12.5)
この調査結果を次にまとめました。
1 古柏井川に関連する現場観察結果
次のように説明便宜上の区間を設定して、現場観察結果について述べます。
説明のための区間
区間1
ここには勝田川の河岸段丘(千葉第Ⅰ面)があります。 この河岸段丘の現在の姿は次のようになっています。
鷹の台弁天緑地の地形
ここが河岸段丘であることはoryzasan氏資料にも出いています。
この河岸段丘のボーリング資料をoryzasan氏から示していただきました。「oryzasan氏コメント(2011.11.8)」収録の12180番です。
地形(河岸段丘)と地質資料を対応させて考えることができるワンセット(仮に基礎情報1とします)の存在が確認できたことになります。
区間2
勝田川の河岸段丘(千葉第Ⅰ段丘、千葉第Ⅱ段丘)が拡がっています。
区間3
台地が拡がっていて、道路脇の露頭は全て普請盛土の断面です。
ここに河岸段丘存在の証拠はありません。
ボーリング資料もそのことを物語っていると思います。(この区間の地形と地質資料[ボーリング資料12175番、12176番]のセットを仮に基礎資料2とします。)
区間4
千葉第Ⅰ段丘に連続する古柏井川の河岸段丘が帯上に分布し、段丘上の川側には普請盛土が乗っています。
この段丘面を構成する地層は露頭で観察できる可能性が濃厚ですが、残念ながら今回の調査では主に露頭観察スキル未熟のため十分な観察にいたりませんでした。
区間5
ゴルフ場内に河岸段丘状地形が拡がっています。 ここでも、この河岸段丘状地形とそれに対応する地質資料(ボーリング12177番)のセット(仮に基礎情報3とします)の存在を確認できます。
基礎情報1と3、基礎情報2と3を対比させると、層序の類似性、非類似性から、この場所(区間5)が台地面ではなく、河岸段丘であると考える妥当性が増します。
oryzasan氏提供ボーリング資料に地形情報添加
区間6
台地が拡がっていて、河岸段丘存在の証拠はありません。
区間7
台地上の普請盛土は柏井高校敷地内で観察できますが、それ以上の地形や地質の観察は出来ない区間です。私にとって未踏査といえる区間です。
柏井高校敷地内の普請盛土
区間8
台地に特徴的な凹地が存在します。
この凹地から区間9の河岸段丘までの土質が褐色ローム質細砂か灰色中砂で普請盛土起源であることの示唆を受けました。
また近傍住民ヒアリングで、この一帯が普請盛土地帯であるとの証言を得ました。
さらに、区間9の河岸段丘背後の崖が、その平面形状が直角に変わるなど不自然さが目立ちます。
これらの情報から、凹地から区間9までの間は河岸段丘上に普請盛土が乗っているものとの仮説を持ちました。
(もしこの仮説が正しければ、天保普請の資料から、この普請盛土は天明普請の時のものだと考えます。)
区間9
前谷津(西からの流入谷津)の河岸段丘が分布しています。この河岸段丘の構成地層を確認できる露頭を発見できませんでした。
この河岸段丘の平面形状をよく見ると、古柏井川が北流していたことを確認できます。
区間10
後谷津(東からの流入谷津)の河岸段丘が分布しています。
この河岸段丘の構成地層を確認できる可能性のある露頭を発見しました。今回の調査ではその露頭で細砂やシルトを観察していますが、詳細な層の状況は未調査です。露頭観察スキル未熟に加え私有地であるためです。
この河岸段丘の近辺にも区間8と同じく普請盛土で覆われ一見台地状にみえる段丘面の存在を露頭観察から、仮説として持つにいたりました。
区間11
古柏井川の河岸段丘が断片的に分布しています。地形図の誤りに現場で気づいて、発見した河岸段丘もあります。河岸段丘の構成地層を観察できる露頭は発見できませんでした。
区間12
段丘面が連続的に広がっています。低位と高位に分けることができます。河岸段丘の構成地層を明瞭に観察できる場所は見つかりませんでした。断片的な露頭では細砂やシルトを観察しています。
区間13
花島を含む特徴的な河岸段丘が発達しています。地層を観察できる露頭は発見できませんでした。
河岸段丘の詳細な形状から、花島のできた経緯に関する仮説を、河川争奪とのかかわりで考えました。
2 oryzasan氏コメント4の感想
oryzasan氏はコメントの中で、「花見川開削部の入り口(横戸側)と出口(柏井側)の東西両岸壁面上部にはローム層が分布し、この部分が地山であることを確認しました。従って「古柏井川」の谷は存在しないか、あったとしても、その幅は開削部の内側にとどまっており、Coolerさんの言われるように、外側へ「はみ出る」ことはありません。この問題は結局、振り出しに戻ったことになります。」と述べられました。
しかし、上述(1 古柏井川に関連する現場観察結果)した通り、普請盛土のある場所だけでも区間4、5、8で河岸段丘の存在が確認あるいは仮説されます。
また区間1、2、9、10、11、12、13には現物の河岸段丘が確認できます。
こうした調査結果から、正直にいって「振り出しに戻った」と実感することができませんでした。
oryzasan氏のコメントを学習させていただき、錆びついたギアに油を入れていただいたようになり、知識面で相当ステップアップできたと思います。感謝申し上げます。
自分としては花見川河川争奪について解明したいので、引き続き調査を深めていきたいと思っています。oryzasan氏のアドバイスがまた得られれば、うれしいです。
追伸
⑤谷幅について
「広い谷底と崖錐発達」の崖錐は、西から流入する谷津が本流出口で形成している円錐体の地形を指したものです。
米軍撮影空中写真で立体視すると、教科書にモデルとして出てくるような円錐体に見えます。
扇状地と呼ぶにはあまりにも小さく、段丘と呼ぶにはあまりにも円錐形であるので、崖錐と呼びました。
2011年12月8日木曜日
地形断面図のレトロな作成法
このブログではDMデータの等高線情報を利用して地形断面図を作成しています。
紙の地形図から地形断面図を作成する方法と全く同じ原理の手作業です。
ただ、パソコン上で行っているので少しだけ効率的になっており、紙地図で作業するよりもストレスが減じますので紹介します。
用意する情報とソフト等
1 地図情報(画像になっていればよい)
2 GISあるいは距離計測機能のある画像ソフト
3 エクセル
4 メモ用紙と筆記具(!)
作業手順1
GISあるいは画像ソフト上で地形図に断面線を描く。断面線の一方を始点(原点)、他方を終点とし、印(●)を描く。
作業手順2
断面線と等高線の交わるところに計測点の印(●)を描く。
注1 計測点の追加
注2 水面下の高さ
作業手順3
原点(写真例では断面線右端)の高さを周辺の等高線情報等から内挿法(按分比例法)で求める。その値(距離0と高度)をメモ用紙に記録する。
作業手順4
原点から計測点までの距離を計測して、その値(距離と等高線の値)をメモ用紙に記録する。
以下この作業を終点まで繰り返す。(終点の高度は原点と同じ方法で得る。)
注3 GIS(地図太郎)使用の場合
注4 画像ソフト(フォトショップ)使用の場合
作業手順4の画面
右端をクリックして計測を始め、カーソルを最初の印(●)に合わせて、142mが表示された状況。 この画面はGIS(地図太郎)です。画像ソフト(フォトショップ)でも表示方法と単位は異なりますが、同じ作業になります。
作業手順5
メモ用紙に記録した数値(距離と高度)をキーボードからエクセルに入力する。
作業手順6
数値のセルを範囲指定して、挿入→グラフ→散布図→散布図(直線とマーカー)をクリックすると断面図が作成される。
作業手順6の画面
エクセルによるグラフ作成は申し訳ないほど簡単です。
しかし作業全体を捉えると、まことにレトロな手作業です。紙と鉛筆まで動員しました。
しかし、単なる画像としての等高線情報から地形断面図を作成する方法は、どんなに騒いでみても、世の中にこれ(あるいはこれの変形)しか見つからないのが現実です。
注1 計測点の追加
断面線と等高線の交点以外に計測点を設けて、その高さを周囲の等高線等の情報から内挿法で求め、地形の特徴を浮き彫りにすることも、必要に応じて行います。
注2 水面下の高さ
花見川の水面下標高は、今回は印旛沼開発工事の計画河床高としました。
注3 GIS(地図太郎)使用の場合
GIS(地図太郎)で距離を計測する時、計測点ではクリックしないで画面に表示される値だけを読み取り、その値をメモし、次の計測点にカーソルを移動する。この作業を最後まで継続する。途中クリックしてしまうと、次の計測点では改めて原点からの距離を計測することになり、手戻りになり、作業効率が減じる。(一方、クリックできないから表示された距離と読み取った標高をしかたなしに、メモ用紙に手書きせざるを得ない。)
注4 画像ソフト(フォトショップ)使用の場合
画像ソフト(フォトショップ)ではものさしツールで距離を連続的に表示できるが、その時マウスの左ボタンを押したままにする必要があるので、マウスから手を離せない。右手はマウス左ボタンを押したまま、左手で読み取った距離と標高を手書きできる両手使いの達人以外の人は、計測点毎に距離を測る必要がある。(その場合は手書きメモに値を書く必要はなく、別ウインドウのエクセルに入力すればよい)
紙の地形図から地形断面図を作成する方法と全く同じ原理の手作業です。
ただ、パソコン上で行っているので少しだけ効率的になっており、紙地図で作業するよりもストレスが減じますので紹介します。
用意する情報とソフト等
1 地図情報(画像になっていればよい)
2 GISあるいは距離計測機能のある画像ソフト
3 エクセル
4 メモ用紙と筆記具(!)
作業手順1
GISあるいは画像ソフト上で地形図に断面線を描く。断面線の一方を始点(原点)、他方を終点とし、印(●)を描く。
作業手順2
断面線と等高線の交わるところに計測点の印(●)を描く。
注1 計測点の追加
注2 水面下の高さ
作業手順3
原点(写真例では断面線右端)の高さを周辺の等高線情報等から内挿法(按分比例法)で求める。その値(距離0と高度)をメモ用紙に記録する。
作業手順4
原点から計測点までの距離を計測して、その値(距離と等高線の値)をメモ用紙に記録する。
以下この作業を終点まで繰り返す。(終点の高度は原点と同じ方法で得る。)
注3 GIS(地図太郎)使用の場合
注4 画像ソフト(フォトショップ)使用の場合
作業手順4の画面
右端をクリックして計測を始め、カーソルを最初の印(●)に合わせて、142mが表示された状況。 この画面はGIS(地図太郎)です。画像ソフト(フォトショップ)でも表示方法と単位は異なりますが、同じ作業になります。
作業手順5
メモ用紙に記録した数値(距離と高度)をキーボードからエクセルに入力する。
作業手順6
数値のセルを範囲指定して、挿入→グラフ→散布図→散布図(直線とマーカー)をクリックすると断面図が作成される。
作業手順6の画面
エクセルによるグラフ作成は申し訳ないほど簡単です。
しかし作業全体を捉えると、まことにレトロな手作業です。紙と鉛筆まで動員しました。
しかし、単なる画像としての等高線情報から地形断面図を作成する方法は、どんなに騒いでみても、世の中にこれ(あるいはこれの変形)しか見つからないのが現実です。
注1 計測点の追加
断面線と等高線の交点以外に計測点を設けて、その高さを周囲の等高線等の情報から内挿法で求め、地形の特徴を浮き彫りにすることも、必要に応じて行います。
注2 水面下の高さ
花見川の水面下標高は、今回は印旛沼開発工事の計画河床高としました。
注3 GIS(地図太郎)使用の場合
GIS(地図太郎)で距離を計測する時、計測点ではクリックしないで画面に表示される値だけを読み取り、その値をメモし、次の計測点にカーソルを移動する。この作業を最後まで継続する。途中クリックしてしまうと、次の計測点では改めて原点からの距離を計測することになり、手戻りになり、作業効率が減じる。(一方、クリックできないから表示された距離と読み取った標高をしかたなしに、メモ用紙に手書きせざるを得ない。)
注4 画像ソフト(フォトショップ)使用の場合
画像ソフト(フォトショップ)ではものさしツールで距離を連続的に表示できるが、その時マウスの左ボタンを押したままにする必要があるので、マウスから手を離せない。右手はマウス左ボタンを押したまま、左手で読み取った距離と標高を手書きできる両手使いの達人以外の人は、計測点毎に距離を測る必要がある。(その場合は手書きメモに値を書く必要はなく、別ウインドウのエクセルに入力すればよい)
2011年12月7日水曜日
航空写真測量の限界
花島付近の現場を歩いていて、予察調査では見つけることのできなかった低位段丘面を発見しました。
そしてその段丘面がDMデータでは表現されていないことに気づきました。というか、DMデータ等高線がその部分だけ全く間違っています。
新たに見つけた低位段丘面
現場の状況
理由はすぐにわかりました。
この段丘面が背後の崖とともに完全に樹木に覆われているために、自分が米軍空中写真を実体視したとき見落としました。
そして、航空写真測量技術者も同じく樹木下の地形が不明のため、当たらずとも遠からずという結果になるように「カン」でもっともらしい等高線を引いたものだと思います。
DMデータは極めて正確であり、一度使いだすとそれ以外の地図を使う気にならなくなりますが、現場を全て確認しているわけではないので、使用する際に注意が必要です。
参考までに国土地理院発行1万分の1地形図「八千代台」(平成20年8月1日)を調べたところ、同じDMデータが使われているようで、全く同じ誤った等高線となっています。
同時に、仔細に現場を観察すれば、さらに段丘面を発見できる可能性に気がつき、自身の調査意欲は増進しました。
そしてその段丘面がDMデータでは表現されていないことに気づきました。というか、DMデータ等高線がその部分だけ全く間違っています。
新たに見つけた低位段丘面
現場の状況
理由はすぐにわかりました。
この段丘面が背後の崖とともに完全に樹木に覆われているために、自分が米軍空中写真を実体視したとき見落としました。
そして、航空写真測量技術者も同じく樹木下の地形が不明のため、当たらずとも遠からずという結果になるように「カン」でもっともらしい等高線を引いたものだと思います。
DMデータは極めて正確であり、一度使いだすとそれ以外の地図を使う気にならなくなりますが、現場を全て確認しているわけではないので、使用する際に注意が必要です。
参考までに国土地理院発行1万分の1地形図「八千代台」(平成20年8月1日)を調べたところ、同じDMデータが使われているようで、全く同じ誤った等高線となっています。
同時に、仔細に現場を観察すれば、さらに段丘面を発見できる可能性に気がつき、自身の調査意欲は増進しました。
2011年12月6日火曜日
GPSとカメラの新現場活用法
地形地質の現場調査をし出してから、散歩がすっかり調査研究モードになってしまいました。
いままで、趣味の散歩=受身的観察でした。
現在は、趣味の調査研究=能動的観察に変質しています。
調査研究モードで能動的観察を始めると、現場調査の効率的方法が気になりだします。
次のような解決すべき課題を感じています。
課題
●調査ポイントの正確な位置測定
地層や土質を観察する場合、その場所の番号(ロケーション番号)を地図にプロットして、野帳に番号とその観察記録を記入します。
しかし、樹木の生い茂った急斜面で露頭を観察したり、藪の中で土質を観察したとき、十分な見通しが得られないため、目測ではその場所の地図プロットが正確に出来ない場合があります。
あるいは見通しは良いが、地図に目標物が掲載されていない広大な土地では、やはり目測で正確な場所をプロットできない場合があります。
現場では、最大限の確からしさを自分に納得させて位置情報を書き込みますが、心理的不安定感が残ることもあります。
このような目測で位置を判断しづらい場合の正確な位置測定の必要性を現場で感じ、解決すべき課題だと思いました。
解決策
●GPSとカメラを使った正確な位置測定
私は小型GPSロガーを帽子ポケットに入れて頭のてっぺんに乗せ、1秒毎の位置ログを調査中記録しています。
このログと撮った風景写真ファイルの時刻を同期させ、風景写真ファイルのexif情報に位置情報を書き込んでいます。
これにより、写真の撮影場所が正確(感覚的には0.5m程度の誤差範囲内)にわかります。写真ファイルをグーグルアースやGISにその精度で機械的にプロットできます。
この方法を調査ポイントの位置測定に応用できることに、気がつきました。
観察場所でロケーション番号を含む野帳ページそのものを撮影しておけば、あとでその写真から撮影位置が正確に把握できます。
極端にいえば、現場で地図にロケーション番号を書き込まなくてもよいことに気がつきました。
野帳ページを撮影することにより、現場では相対的で大ざっぱな位置測定をして地図に記入しておけばよく、大半のエネルギーを対象物観察に集中できます。
今後、野帳の書き方を工夫して(見開きページは1つのロケーション番号とその記載だけにするなど)、現場で野帳内容の撮影をして、位置測定に活用したいと思います。
もちろん、露頭や表層土質の写真もその正確な位置はGPSログにより特定しています。
しかし、露頭や表層土質の写真は風景写真と異なり、後で見ると似たりよったりです。また、多数の写真撮影を行うため、その写真位置が正確にわかっても、写真と野帳記載内容との対比が意外と困難です。
そのため、現場で野帳記載内容そのものを撮影しておけば、後で観察内容の位置プロットが効率的で正確にできると思います。
今後このアイディアの有効性を現場で検証したいと思います。
私の使っているGPSロガー
いままで、趣味の散歩=受身的観察でした。
現在は、趣味の調査研究=能動的観察に変質しています。
調査研究モードで能動的観察を始めると、現場調査の効率的方法が気になりだします。
次のような解決すべき課題を感じています。
課題
●調査ポイントの正確な位置測定
地層や土質を観察する場合、その場所の番号(ロケーション番号)を地図にプロットして、野帳に番号とその観察記録を記入します。
しかし、樹木の生い茂った急斜面で露頭を観察したり、藪の中で土質を観察したとき、十分な見通しが得られないため、目測ではその場所の地図プロットが正確に出来ない場合があります。
あるいは見通しは良いが、地図に目標物が掲載されていない広大な土地では、やはり目測で正確な場所をプロットできない場合があります。
現場では、最大限の確からしさを自分に納得させて位置情報を書き込みますが、心理的不安定感が残ることもあります。
このような目測で位置を判断しづらい場合の正確な位置測定の必要性を現場で感じ、解決すべき課題だと思いました。
解決策
●GPSとカメラを使った正確な位置測定
私は小型GPSロガーを帽子ポケットに入れて頭のてっぺんに乗せ、1秒毎の位置ログを調査中記録しています。
このログと撮った風景写真ファイルの時刻を同期させ、風景写真ファイルのexif情報に位置情報を書き込んでいます。
これにより、写真の撮影場所が正確(感覚的には0.5m程度の誤差範囲内)にわかります。写真ファイルをグーグルアースやGISにその精度で機械的にプロットできます。
この方法を調査ポイントの位置測定に応用できることに、気がつきました。
観察場所でロケーション番号を含む野帳ページそのものを撮影しておけば、あとでその写真から撮影位置が正確に把握できます。
極端にいえば、現場で地図にロケーション番号を書き込まなくてもよいことに気がつきました。
野帳ページを撮影することにより、現場では相対的で大ざっぱな位置測定をして地図に記入しておけばよく、大半のエネルギーを対象物観察に集中できます。
今後、野帳の書き方を工夫して(見開きページは1つのロケーション番号とその記載だけにするなど)、現場で野帳内容の撮影をして、位置測定に活用したいと思います。
もちろん、露頭や表層土質の写真もその正確な位置はGPSログにより特定しています。
しかし、露頭や表層土質の写真は風景写真と異なり、後で見ると似たりよったりです。また、多数の写真撮影を行うため、その写真位置が正確にわかっても、写真と野帳記載内容との対比が意外と困難です。
そのため、現場で野帳記載内容そのものを撮影しておけば、後で観察内容の位置プロットが効率的で正確にできると思います。
今後このアイディアの有効性を現場で検証したいと思います。
私の使っているGPSロガー
2011年12月5日月曜日
花島は河川争奪の生き証人
花見川現地調査報告6
1 花島付近の地形
花島付近の地形分類図(予察図)と地形横断図を示します。
花島付近地形分類図(予察図)
地形横断図
次の写真は花島橋の袂から花島の斜面をみた風景です。
笹と斜面保護工に覆われていて、地層を観察できる露頭は残念ながらありません。斜面の表土は褐色シルト質細砂です。ロームそのものはないようです。
花島の川表斜面
花島は川表だけなく、全体が周辺より1m程度高くなっていて、現地でよく見ると、軍艦のように見えます。
周辺の低位面であると予察した平坦面も意外と高低が目立ちます。
このような明瞭な高低は柏井付近の低位段丘ではほとんどありませんでした。
次の図にこの観察結果を示します。
花島付近の地形詳細図
この図では、低位段丘と予察した平坦面を等高線高度別に区分するとともに、池縁の標高11m等高線で囲まれる範囲を抽出しました。また花島周囲の崖を示しました。
2 花島の不思議
●花島の谷津(*)の出口を塞ぐような形で花島があること自体が大いに不思議です。河岸段丘ができていく過程で、その出口を塞ぐ位置に半島状に地形面がのこり、一部が島状になることなど普通はあり得ません。普通は真っ先に侵食されてしまう場所です。
●さらに、柏井の段丘分布からみたように川は北方向に流れていました。ところが、池の形と地形面の高低からわかるとおり、段丘形成後の花島の谷津の水流は南に向かって流れて本川に合流しています。
この2つの不思議について、現場で地形を見ながら、河川争奪とのかかわりから、次のような地形発達の仮説を考えてみました。
*この場所の地名は「谷津」ですが、一般名称と混同するので、「花島の谷津」とします
3 河川争奪と関わる花島の地形発達
現場を歩いていると、デスクでパソコンにかじりついている時と違って、思いもよらない斬新な発想が湧くことが多くあります。
花島付近を歩いていて、花島の不思議について考えた、現場生まれの仮説を紹介します。
今後この仮説を実証するような証拠を集めたいと思います。
3-1 河岸段丘低位面が河床(谷底)であった時代
河岸段丘低位面が河床(谷底)であった時代があります。
V字谷の谷底が埋積されていた時代です。 川(古柏井川)は北流しています。
河川争奪前の花島付近
3-2 河川争奪が始まった頃
東京湾側水系が古柏井川の河床(谷底)を谷頭侵食により争奪しはじめ、谷頭侵食の前線が南から北に向かいます。 谷頭侵食の前線が花島に近づいたころの説明図を次に示します。
河川争奪進行中の花島付近
古柏井川の上流(南側)は争奪されてなくなっているので、川に流れはほとんどありません。
このような時、数十年に1度とか数百年に1度の大雨が降り、花島の谷津から多量の水が流れ出したとします。その時、本流に流れはありませんから、また河床の勾配はわずかですから、谷津から流れ出した水は北方向にも、南方向にもあふれるように流れ出すと思います。
南方向にあふれ流れだした水が谷頭侵食の前線に到達すれば、そこから新たな谷頭侵食が派生します。一つの流路ができます。
こうした大雨を何度か経て花島の谷津の水が南方向に流れる流路ができてしまいます。
花島の不思議(谷津を塞ぐ段丘の存在と谷津出口における南流)はこのような出来事で説明できると想像します。
3-3 河川争奪のクライマックス期
河川争奪のクライマックス期には、谷頭侵食前線は柏井を通りすぎて北上しています。柏井で合流する前谷津、後谷津にも入っています。
その頃(谷頭侵食前線が花島を通りすぎた頃)の花島付近の説明図を次にしめします。
谷頭侵食前線が通過後の花島付近
もともとあったV字谷の古柏井川の河床に新たなV字谷(谷中V字谷)が形成されました。
花島の谷津にも同じく谷中V字谷がされました。
谷中V字谷の谷底の標高はボーリング資料から花島付近で-2m前後と想定しています。
旧河床の標高が14m~16mですから、谷中V字谷が作った崖の比高は16m~18mくらいになります。
旧河床は谷中V字谷形成のため破壊が進み一部が河岸段丘となりました。花島の谷津の流域規模が小さく、流量が少ないため、谷中V字谷による旧河床の侵食破壊が中途半端におわり、現在のような花島と高度の低い(10m程度)平坦面も合わせて残りました。
(花島の低位面の高度が低いのは地殻変動によるものと最近まで考えていましたが、現場を見て、そうではなく、中途半端な侵食・・・崖による谷頭侵食だけでなく、平面を削るような侵食を含めて・・・によるものであると考えを変えました。)
3-4 縄文海進期
最終氷期が終わり、後氷期になると縄文海進により、河川争奪により形成された谷中V字谷が埋積され、現在の地形の原型ができました。埋積された谷底の標高は4~5mくらいです。
縄文海進期の花島付近
1 花島付近の地形
花島付近の地形分類図(予察図)と地形横断図を示します。
花島付近地形分類図(予察図)
地形横断図
次の写真は花島橋の袂から花島の斜面をみた風景です。
笹と斜面保護工に覆われていて、地層を観察できる露頭は残念ながらありません。斜面の表土は褐色シルト質細砂です。ロームそのものはないようです。
花島の川表斜面
花島は川表だけなく、全体が周辺より1m程度高くなっていて、現地でよく見ると、軍艦のように見えます。
周辺の低位面であると予察した平坦面も意外と高低が目立ちます。
このような明瞭な高低は柏井付近の低位段丘ではほとんどありませんでした。
次の図にこの観察結果を示します。
花島付近の地形詳細図
この図では、低位段丘と予察した平坦面を等高線高度別に区分するとともに、池縁の標高11m等高線で囲まれる範囲を抽出しました。また花島周囲の崖を示しました。
2 花島の不思議
●花島の谷津(*)の出口を塞ぐような形で花島があること自体が大いに不思議です。河岸段丘ができていく過程で、その出口を塞ぐ位置に半島状に地形面がのこり、一部が島状になることなど普通はあり得ません。普通は真っ先に侵食されてしまう場所です。
●さらに、柏井の段丘分布からみたように川は北方向に流れていました。ところが、池の形と地形面の高低からわかるとおり、段丘形成後の花島の谷津の水流は南に向かって流れて本川に合流しています。
この2つの不思議について、現場で地形を見ながら、河川争奪とのかかわりから、次のような地形発達の仮説を考えてみました。
*この場所の地名は「谷津」ですが、一般名称と混同するので、「花島の谷津」とします
3 河川争奪と関わる花島の地形発達
現場を歩いていると、デスクでパソコンにかじりついている時と違って、思いもよらない斬新な発想が湧くことが多くあります。
花島付近を歩いていて、花島の不思議について考えた、現場生まれの仮説を紹介します。
今後この仮説を実証するような証拠を集めたいと思います。
3-1 河岸段丘低位面が河床(谷底)であった時代
河岸段丘低位面が河床(谷底)であった時代があります。
V字谷の谷底が埋積されていた時代です。 川(古柏井川)は北流しています。
河川争奪前の花島付近
3-2 河川争奪が始まった頃
東京湾側水系が古柏井川の河床(谷底)を谷頭侵食により争奪しはじめ、谷頭侵食の前線が南から北に向かいます。 谷頭侵食の前線が花島に近づいたころの説明図を次に示します。
古柏井川の上流(南側)は争奪されてなくなっているので、川に流れはほとんどありません。
このような時、数十年に1度とか数百年に1度の大雨が降り、花島の谷津から多量の水が流れ出したとします。その時、本流に流れはありませんから、また河床の勾配はわずかですから、谷津から流れ出した水は北方向にも、南方向にもあふれるように流れ出すと思います。
南方向にあふれ流れだした水が谷頭侵食の前線に到達すれば、そこから新たな谷頭侵食が派生します。一つの流路ができます。
こうした大雨を何度か経て花島の谷津の水が南方向に流れる流路ができてしまいます。
花島の不思議(谷津を塞ぐ段丘の存在と谷津出口における南流)はこのような出来事で説明できると想像します。
3-3 河川争奪のクライマックス期
河川争奪のクライマックス期には、谷頭侵食前線は柏井を通りすぎて北上しています。柏井で合流する前谷津、後谷津にも入っています。
その頃(谷頭侵食前線が花島を通りすぎた頃)の花島付近の説明図を次にしめします。
もともとあったV字谷の古柏井川の河床に新たなV字谷(谷中V字谷)が形成されました。
花島の谷津にも同じく谷中V字谷がされました。
谷中V字谷の谷底の標高はボーリング資料から花島付近で-2m前後と想定しています。
旧河床の標高が14m~16mですから、谷中V字谷が作った崖の比高は16m~18mくらいになります。
旧河床は谷中V字谷形成のため破壊が進み一部が河岸段丘となりました。花島の谷津の流域規模が小さく、流量が少ないため、谷中V字谷による旧河床の侵食破壊が中途半端におわり、現在のような花島と高度の低い(10m程度)平坦面も合わせて残りました。
(花島の低位面の高度が低いのは地殻変動によるものと最近まで考えていましたが、現場を見て、そうではなく、中途半端な侵食・・・崖による谷頭侵食だけでなく、平面を削るような侵食を含めて・・・によるものであると考えを変えました。)
3-4 縄文海進期
最終氷期が終わり、後氷期になると縄文海進により、河川争奪により形成された谷中V字谷が埋積され、現在の地形の原型ができました。埋積された谷底の標高は4~5mくらいです。
縄文海進期の花島付近
2011年12月4日日曜日
柏井付近の地形地質 下
花見川現地調査報告5
V字谷形成前の浅い谷地形の発見
東岸の台地上の広い緩斜面の存在は空中写真実体視でわかっていたのですが、現地を歩いて対岸(最成病院付近)にも同様の緩斜面が広がっていることを確認しました。
早速空中写真を見ると、樹木の存在に騙されて、緩斜面の存在を見落としていたようです。
この調査結果を地形分類図(予察図)に反映させてみました。
地形分類図(予察図を一部修正)
断面図
その分布から両岸に広がる緩斜面は、V字谷形成前の古柏井川の浅い谷であると考えました。
下総台地が形成されて最初に刻まれた谷地形(古柏井川)が、化石のように残っていたものと考えられます。
同様の緩斜面は東岸の北400m(柏井ポンプ場付近)にもあり、さらに北の西岸にも分布しています。
古柏井川の浅い谷地形
V字谷形成前の浅い谷地形の発見
東岸の台地上の広い緩斜面の存在は空中写真実体視でわかっていたのですが、現地を歩いて対岸(最成病院付近)にも同様の緩斜面が広がっていることを確認しました。
早速空中写真を見ると、樹木の存在に騙されて、緩斜面の存在を見落としていたようです。
この調査結果を地形分類図(予察図)に反映させてみました。
地形分類図(予察図を一部修正)
断面図
その分布から両岸に広がる緩斜面は、V字谷形成前の古柏井川の浅い谷であると考えました。
下総台地が形成されて最初に刻まれた谷地形(古柏井川)が、化石のように残っていたものと考えられます。
同様の緩斜面は東岸の北400m(柏井ポンプ場付近)にもあり、さらに北の西岸にも分布しています。
古柏井川の浅い谷地形
2011年12月3日土曜日
柏井付近の地形地質 中
花見川現地調査報告4
1 調査地点情報
次に調査地点の位置図を示しました。
調査地点位置図
基図は千葉市提供DMデータを使用しました。
事前に米軍が昭和24年に撮影した空中写真の実体視により作成した地形分類図(予察図)を次に示します。
事前に作成した地形分類図(予察図)
地形断面を次に示します。
断面1
千葉市提供DMデータ等高線情報から作成しました。
断面2
千葉市提供DMデータ等高線情報から作成しました。
2 高度から段丘面を2区分する
現地では高度から、河岸段丘がほぼ14mから16mの高さの低位面とほぼ18mから20mの高位面に区分できることが判りました。
事前に作成した地形分類図(予察図)の一部を修正する必要が生じました。
低位面と高位面が接するところには1m~2m程度の小崖が確認できます。
現地で予想した段丘面の分布と区分
3 高位面の露頭
露頭1、2は高位面を切っている断面です。
露頭1
露頭の上部は未固結黒色腐植質細砂、中下部は未固結褐色細砂になっています。
段丘面上は人為の影響を強く受けているので、この露頭がフレッシュな地層断面を表現していない可能性を排除できません。
露頭2
ローム質シルトが観察できます。
周辺の人為改変により、観察しているものが真に地層構成物であるか100%の確信を得られません。
想像たくましく考えれば露頭1、2の細砂、シルトは人為の攪乱を受けていたとしても、もともとの段丘堆積物であると思います。
露頭3
高位面背後の段丘崖付近の露頭です。斜面に堆積したロームのようです。
集落が立地してフレッシュな露頭が皆無の地域の段丘堆積物調査方法について、どのような専門的調査方法があるのか、情報収集してみたいと思います。
現場調査経験を積むことが一番大事だと判りますが、それ以外の方法(住民ヒアリング、井戸やボーリング資料入手、ハンドオーガー調査、…)について検討してみたいと思います。
4 段丘を作った古柏井川の流向
河岸段丘を作った古柏井川の流向を証明する方法として、地質面からの方法としては、段丘堆積物が礫である場合、その地層断面を観察できれば、インブリケイションの方向で流向を直接明らかにすることができます。
しかし、古柏井川の段丘堆積物は細砂やシルトであることが判ってきたので、この方法は使えない可能性が大です。
地形面からみると、谷津流心線の方向、段丘面分布から北に向かって流れていたことが証明できます。
段丘を形成した当時の古柏井川の流向
仮に異をとなえて、河岸段丘を作ったころの川の流向を、現在と同じ南方向に流れていたとすると、次のようなあり得ない地形形成を説明しなければならなくなります。
あり得ない古柏井川の流向
1 調査地点情報
次に調査地点の位置図を示しました。
調査地点位置図
基図は千葉市提供DMデータを使用しました。
事前に米軍が昭和24年に撮影した空中写真の実体視により作成した地形分類図(予察図)を次に示します。
事前に作成した地形分類図(予察図)
地形断面を次に示します。
断面1
千葉市提供DMデータ等高線情報から作成しました。
断面2
千葉市提供DMデータ等高線情報から作成しました。
2 高度から段丘面を2区分する
現地では高度から、河岸段丘がほぼ14mから16mの高さの低位面とほぼ18mから20mの高位面に区分できることが判りました。
事前に作成した地形分類図(予察図)の一部を修正する必要が生じました。
低位面と高位面が接するところには1m~2m程度の小崖が確認できます。
現地で予想した段丘面の分布と区分
3 高位面の露頭
露頭1、2は高位面を切っている断面です。
露頭1
露頭の上部は未固結黒色腐植質細砂、中下部は未固結褐色細砂になっています。
段丘面上は人為の影響を強く受けているので、この露頭がフレッシュな地層断面を表現していない可能性を排除できません。
露頭2
ローム質シルトが観察できます。
周辺の人為改変により、観察しているものが真に地層構成物であるか100%の確信を得られません。
想像たくましく考えれば露頭1、2の細砂、シルトは人為の攪乱を受けていたとしても、もともとの段丘堆積物であると思います。
露頭3
高位面背後の段丘崖付近の露頭です。斜面に堆積したロームのようです。
集落が立地してフレッシュな露頭が皆無の地域の段丘堆積物調査方法について、どのような専門的調査方法があるのか、情報収集してみたいと思います。
現場調査経験を積むことが一番大事だと判りますが、それ以外の方法(住民ヒアリング、井戸やボーリング資料入手、ハンドオーガー調査、…)について検討してみたいと思います。
4 段丘を作った古柏井川の流向
河岸段丘を作った古柏井川の流向を証明する方法として、地質面からの方法としては、段丘堆積物が礫である場合、その地層断面を観察できれば、インブリケイションの方向で流向を直接明らかにすることができます。
しかし、古柏井川の段丘堆積物は細砂やシルトであることが判ってきたので、この方法は使えない可能性が大です。
地形面からみると、谷津流心線の方向、段丘面分布から北に向かって流れていたことが証明できます。
段丘を形成した当時の古柏井川の流向
仮に異をとなえて、河岸段丘を作ったころの川の流向を、現在と同じ南方向に流れていたとすると、次のようなあり得ない地形形成を説明しなければならなくなります。
あり得ない古柏井川の流向
2011年12月2日金曜日
犢橋小学校柏井分校
柏井付近の地形地質調査をしている時、自分にとって予期せぬ場所に犢橋小学校柏井分校跡地を見つけました。
南柏井公園の看板があり、分校敷地跡をそのまま千葉市立公園にしたものであるようです。露頭をもとめて普段の散歩では入らない小径の先で見つけました。
この公園の情報は千葉市等のホームページからは得ることができませんでした。
柏井分校跡地の全景
柏井分校跡地の説明板
北柏井、南柏井の集落の人以外で、この分校跡の存在を知る人は、教育関係者を除いて、おそらくほとんどいないのではないかと想像しました。
近くの新興住宅団地に住んでいる自分がこの分校跡地の存在を知ることができたことは、言葉で十分説明できませんが、なにかラッキーな感じがしました。
現地の説明板には次の文章が書かれています。 ……………………………………………………………………
明治31年(1898年)、泉蔵寺におかれた柏井分教場が昭和5年(1930年)の、この地に移りました。
昭和22年(1947年)教育制度が改められ、柏井分教場は柏井分校と名前が変更されました。分校では、1年生から3年生までの子供が学び、4年生以上の子供は犢橋小学校に通いました。
昭和43年(1968年)、花見川団地内に千葉市立花見川第二小学校ができ、分校で学んでいた子供達は花見川第二小学校に通うことになりました。それにともない柏井分校は廃止され、70年もの長い歴史を閉じました。
……………………………………………………………………
柏井分校の位置とこの説明に出てくる二つの小学校の位置を地図にプロットしてみました。
柏井分校等の位置図
北柏井と南柏井の集落の人々にとって柏井分校の存在は子弟の教育をする上で、近距離に学校を確保するという意味で重要な役割を果たしていたことがこのマップから推察されます。
また、花見川第二小学校ができて北柏井と南柏井の子供の通学距離と施設面の教育環境改善が図られてことが判ります。
しかし、柏井橋が歩行者に危険な現状では、南柏井(花見川東岸)の子供の通学上の安全に重大な問題があります。
大人の私でも、柏井橋を歩行で通過することは危険を感じます。
花見川第二小学校の校区
花見川第二小学校ホームページより
南柏井公園の看板があり、分校敷地跡をそのまま千葉市立公園にしたものであるようです。露頭をもとめて普段の散歩では入らない小径の先で見つけました。
この公園の情報は千葉市等のホームページからは得ることができませんでした。
柏井分校跡地の全景
柏井分校跡地の説明板
北柏井、南柏井の集落の人以外で、この分校跡の存在を知る人は、教育関係者を除いて、おそらくほとんどいないのではないかと想像しました。
近くの新興住宅団地に住んでいる自分がこの分校跡地の存在を知ることができたことは、言葉で十分説明できませんが、なにかラッキーな感じがしました。
現地の説明板には次の文章が書かれています。 ……………………………………………………………………
明治31年(1898年)、泉蔵寺におかれた柏井分教場が昭和5年(1930年)の、この地に移りました。
昭和22年(1947年)教育制度が改められ、柏井分教場は柏井分校と名前が変更されました。分校では、1年生から3年生までの子供が学び、4年生以上の子供は犢橋小学校に通いました。
昭和43年(1968年)、花見川団地内に千葉市立花見川第二小学校ができ、分校で学んでいた子供達は花見川第二小学校に通うことになりました。それにともない柏井分校は廃止され、70年もの長い歴史を閉じました。
……………………………………………………………………
柏井分校の位置とこの説明に出てくる二つの小学校の位置を地図にプロットしてみました。
柏井分校等の位置図
北柏井と南柏井の集落の人々にとって柏井分校の存在は子弟の教育をする上で、近距離に学校を確保するという意味で重要な役割を果たしていたことがこのマップから推察されます。
また、花見川第二小学校ができて北柏井と南柏井の子供の通学距離と施設面の教育環境改善が図られてことが判ります。
しかし、柏井橋が歩行者に危険な現状では、南柏井(花見川東岸)の子供の通学上の安全に重大な問題があります。
大人の私でも、柏井橋を歩行で通過することは危険を感じます。
花見川第二小学校の校区
花見川第二小学校ホームページより
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