河川争奪に直接関係するものではありませんが、地形がある程度写実的に表現されているので取り上げました。
成田山参詣記は成田山名所図会ともいわれ、江戸時代末期に成田山の寺侍の中路定俊、定得父子によってまとめられたものとされています。このなかに「印旛沼鑿開趾(いんばぬまほりわりあと)」の絵図2葉が収録されていて、つなげるとパノラマ絵図になります。
パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾(いんばぬまほりわりあと)」
現代語訳成田山参詣記(大本山成田山新勝寺成田山仏教研究所発行、平成10年)より引用
このパノラマ絵図で眺望している概略範囲を地形分類図に示してみました。
この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図には西岸台地とその上の盛土地形が、描かれています。また、勝田川の河岸段丘と考えられる平坦面のスカイラインが意識されて(他の地形線と区分されて)描かれているように推察できます。
次にその推察を絵図に書き込んでみました。
この絵図から、地形以外に次のような興味深い情報を得ることができます。
ア 弁天社の様子
イ 弁天池を渡る土橋の様子
ウ 解説文にある埋木の件
解説文には、天明普請の際に高台では巨木が出土することも多く、そのうちよさそうなものは碁盤にして、惣深新田(現印西市草深)の某家にあり、材質は欅のようであるという趣旨のことが書いてあります。
追記 2011.12.10 記事の一部を訂正しました。
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