2016年3月19日土曜日

千葉県全54市町村の小字データベースがついに完成する

小字地名データベース作成活用プロジェクト 47

2016.03.14記事「千葉県50市町村の小字データベース作成」の後、残り作業も少なくなり、最後のエネルギーを絞って作業に集中して、とうとう千葉県全54市町村の小字データベースを完成させました。

千葉県全54市町村小字データベース作成作業の完了(2016.03.19)

千葉県全体で小字数は現時点で93986となりました。

今後データベースのチェック調整の中で小字数は多少変動する可能性がありますが、当初スキャンした画像から簡易的にカウントした千葉県小字数は93000としましたから、その誤差は1%程度でした。

千葉県の小字を検索できる環境を備えたのは、世の中で私一人だけですから、そうした好条件を有効活用して、地名に関わる興味を発展させ、新情報を生産したいと思います。

今後地名そのものの興味とともに、小字データベースのメンテナンス、データベースの有効活用方策、データベースのGIS化等の課題についても検討して、ブログ記事にする予定です。

現時点では、市町村合併の結果を反映させるなどの調整はしていますが、千葉県地名大辞典(角川書店)付録小字一覧をほぼそのまま電子化してFile Makerファイルにしただけのものとなっています。

将来的には各種調整を行い原本の不備を補うとともに、過去の行政区域情報等やGIS位置情報(当面は大字単位)など、他の情報を加えてオリジナルなデータベース化を目指します。

なお、千葉県小字データベース作成作業の経緯は次の通りです。

千葉県小字データベース作成作業経緯

千葉県地名大辞典(角川書店)付録小字一覧の電子化に丸13ヶ月かかったことになります。

参考 千葉県小字データベース(File Makerファイル)の項目
・小字
・小字よみ
・大字
・大字よみ
・市町村
・市町村よみ
・区
・区よみ
・所在地表記
・備考(旧市町村等)

2016年3月18日金曜日

船尾白幡遺跡 古代開発地の空間イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.308 船尾白幡遺跡 古代開発地の空間イメージ

2016.03.17記事「船尾白幡遺跡 銙帯」で船尾白幡遺跡の発掘区域にはその開発地の中枢部分が含まれているけれども、鳴神山遺跡ではその発掘区域に中枢部分が含まれてるかどうか不明であるという趣旨の記述をしました。

その根拠となる思考をメモしておきます。

次の図は船尾白幡遺跡付近の旧版25000分の1地形図に関係情報を記入したものです。

船尾白幡遺跡付近の旧版25000分の1地形図

参考として古代印旛沼の水面の広がりをイメージするために、標高5m以下の土地を青く塗ってみました。

(ちなみに、印旛沼水面はこの地図では標高0.8mです。奈良平安時代の印旛沼水面の高さが標高5mであったと考えているわけではありませんが、この地図の標高5m等高線の平面位置付近に奈良平安時代の湖岸線があったと考えて大きな間違いはないと考えています。)

この図を見ると、古代印旛沼水面を見下ろすような場所に宗像神社と集落があります。この情報は現代(戦前)の情報です。

しかし、私は、古墳時代にあってもほぼ同じような場所に宗像神社と当時の集落があったと仮説します。

そして、船尾白幡遺跡と鳴神山遺跡の発掘区域はそれよりも内陸側にあります。

この現代の地図と発掘情報から、次のような空間イメージを作業仮説として持ちました。

作業仮説としての、船尾白幡遺跡付近空間イメージ

8世紀初頭に始まり、8世紀後半から9世紀初頭にかけて律令国家主導の開発が進み、9世紀に開発が大発展しましたが、その場所(新規開発地)は古墳時代から継続している奈良・平安時代の既存集落とは別の土地に立地したと考えます。

奈良・平安時代にあっては、この土地に旧住民(宗像海洋族の末裔)と新住民(律令国家が全国から集めた人材)が共存していて、空間的に棲み分けしていたと考えます。

新規開発地は既存集落と共存して、既存集落のいわば背後に作られたことは、開発の在り方を考えるときに重要な要素として把握しておく必要があると考えます。

新規開発の中枢部は印旛沼交通と便を考えて、既存集落の近くに造られたと考えます。

その場所が船尾白幡遺跡では発掘区域に含まれていると考えますが、鳴神山遺跡ではその場所が含まれていないと考えます。

従って、竪穴住居100軒当たり銙帯出土数が鳴神山遺跡では小さくなっていると考えます。

なお、新住民のリーダー(つまり開発地のリーダ)は墨書土器文字から、鳴神山遺跡は丈部一族、船尾白幡遺跡は壬生部一族であったと考えます。

新住民のリーダーは律令国家の采配で決まったものであり、近くの旧住民のリーダー出自等とは無関係であったと考えます。(現代風に考えれば、○○事務所長を国土交通大臣が人事発令するようなものと考えます。)

新住民リーダー(支配者)を補佐する官僚が配置されたと考えます。(その官僚が着帯した銙帯が出土している。)

官僚は恐らく西から転勤してきた転勤族であると考えます。新住民は全員外部からやってきたと考えます。

(鳴神山遺跡に「久弥良」(クビラ)と墨書する、当時西日本で始まってまだ時間が経過していない金毘羅信仰をもった住民がいたことなどがその状況を如実に示します。)

旧住民のリーダーは自分が支配する既存集落や信仰(宗像神社)を安堵してもらう見返りに、新規開発に協力する関係にあったと考えます。


2016年3月17日木曜日

船尾白幡遺跡 銙帯

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.307 船尾白幡遺跡 銙帯

船尾白幡遺跡の検討に入ります。

西根遺跡の検討をすることにより、船尾白幡遺跡の検討の視点を明瞭にできると考えたのですが、その試みは見事に的中したと考えています。

西根遺跡の検討から、鳴神山遺跡は丈部氏族が主導し、船尾白幡遺跡は大生部氏族が主導しているということが判りました。

印旛浦における2つの主要氏族が戸神川を挟んで競争的に開発をしていたという状況が判ったことから、船尾白幡遺跡の特徴と鳴神山遺跡の特徴を比べて、その違いを見つけることができるか、検討を進めます。

この記事では銙帯の出土状況を検討します。

銙帯は官人が着装するものですから、官人つまり律令国家の関与の指標になると考えます。

船尾白幡遺跡からは3点の銙帯が出土しています。その出土場所を示します。

船尾白幡遺跡の銙帯出土場所(8世紀後葉~9世紀初頭)

船尾白幡遺跡の銙帯出土場所(9世紀第3四半期)

船尾白幡遺跡も鳴神山遺跡と同じく8世紀に入り開発に着手し、8世紀後葉~9世紀初頭の蝦夷戦争準備期、蝦夷戦争期に律令国家による開発が進み、その後9世紀に入ると戦争による動員が解除され開発が大発展したと考えます。

官人つまり律令国家の関与を示す銙帯が8世紀後葉~9世紀初頭と9世紀第3四半期に出土していることことから、船尾白幡遺跡の開発に官人(律令国家)が深く関与していたことが判ります。

鳴神山遺跡の検討では、9世紀初頭の蝦夷戦争終結までの期間と9世紀の経済発展期では官人の役割が大いに異なっていたと考えましたが、船尾白幡遺跡でもそのような傾向がみられるか、今後検討します。

(鳴神山遺跡では蝦夷戦争終結までは官人(律令国家)が計画的かつ強制的にプロジェクトを進めたが、蝦夷戦争終結後はそのような上からのプロジェクトではなく、地元経済発展のプロジェクトが進み、在地勢力が官人(律令国家)の権威を利用して開発を進めたとイメージしました。)

蝦夷戦争終結前と後の2時点の銙帯出土場所がほぼ同じ場所です。

この銙帯出土場所が船尾白幡遺跡の政治の中枢部であったことが推察できます。

その場所から戸神川のミナトにすぐ降りられることからも、そこが集落中心部であったことが推察できます。

参考までに鳴神山遺跡の銙帯出土状況を示します。

参考 鳴神山遺跡の銙帯出土状況

鳴神山遺跡の銙帯出土場所は離れた場所にあり、それぞれ拠点的な場所であると考えました。

これらの銙帯出土場所が船尾白幡遺跡の銙帯出土場所のように、遺跡全体を統括するような中枢機能を有していたかどうかは不明です。

次に萱田遺跡群を含めて銙帯出土数を検討してみました。

萱田遺跡群と鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡の銙帯出土数

萱田遺跡群と鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡の竪穴住居100軒あたり銙帯出土数

「竪穴住居100軒あたり銙帯出土数」という指標は大ざっぱですが、その遺跡にどれだけ官人(律令国家)が関与したかということを表すと考えます。

白幡前遺跡・井戸向遺跡と船尾白幡遺跡の値が似通っていることは、同じような開発型遺跡であることから、その意味を首肯できます。

それに比べて鳴神山遺跡の値が低くなってます。この意味を次のように解釈します。

鳴神山遺跡の遺跡として発掘された場所が集落の現場に当たる場所(牧など現場)であり、集落の中枢部が含まれていないから、銙帯出土数が相対的に少ない。

北海道遺跡は現場的様相が強い遺跡であると検討しました。

権現後遺跡は土器生産工業団地という単機能集落であり、官人(律令国家)の関与が強く、他遺跡のような多機能(一般的居住、諸開発)集落でなかったため、「竪穴住居100軒あたり銙帯出土数」の値が大きくなっていると考えました。






2016年3月16日水曜日

船尾白幡遺跡の支配氏族 大生部

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.306 船尾白幡遺跡の支配氏族 大生部

2016.03.15記事「西根遺跡 支配氏族 丈部と大生部」で船尾白幡遺跡の支配氏族は「大生部」「生部」、鳴神山遺跡の支配氏族は「丈部」であると考えました。

鳴神山遺跡の「丈部」(ハセツカベ)は、遺跡からその文字を含む墨書土器が出土しているので問題ありません。

しかし、船尾白幡遺跡の「大生部」「生部」はその遺跡から直接「大生部」「生部」と書かれて墨書土器が出土していませんので、問題が残ります。

しかし墨書土器文字に有力な証拠と考えられるものが存在するので、メモしておきます。

船尾白幡遺跡から「門」と考えられる文字が多数出土しています。

船尾白幡遺跡から出土した「門」と考えられる文字と「任」

一方、「大生部」(オオミブベ)「生部」(ミブベ)とは壬生部(ミブベ)のことです。

壬生部は宮城十二門の守衛に当たった門部(かどべ)です。

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かどべ 【門部】

日本古代,宮城諸門の守衛にあたった武人の集団。古来のカドモリと呼ばれる人々が,7世紀ころ百済の部司制の影響を受け,門部に編成されたと考えられる。令制では衛門府に属する伴部として門部200人があり,その職を世襲する負名氏〘なおいのうじ〙の中から原則として採用された。818年(弘仁9)に中国風に改称される以前の▶宮城十二門には,大伴・佐伯・壬生・建部・丹治比などの氏族の名が冠せられていたが,これらが古来門部として宮城門守衛の任を負ってきた氏族であると推測される。宮城外側の十二門の警衛のほか,践祚,大嘗祭などの儀に諸門の出入糺察〘きゆうさつ〙の任にあたったが,平安時代には,農民出身の衛士の弱体化にともない,宮門(中門)や八省院,大極殿,豊楽院などの守衛にもあたった。しかし氏族的な伝統を維持することは難しく,9世紀には負名氏以外からの採用が増え,職務も儀礼化して武力としての意義を失った。
笹山 晴生
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
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宮城の守衛にあたったその業務を滞りなく完遂することの祈願、あるいはその業務の一環として受け持った船尾白幡遺跡での任務完遂の祈願を上記墨書文字「門」が表現していると考えます。

また、「任」の文字も多数出土しますが、壬生(みぶ)の「壬」の字に「人偏」を付けて、「壬生」の業務に携わる人を表現している可能性があります。

「門」と「任」の出土から船尾白幡遺跡の支配氏族が壬生部(大生部、生部)であることは間違いないところだと考えます。

2016年3月15日火曜日

西根遺跡 支配氏族 丈部と大生部

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.305 西根遺跡 支配氏族 丈部と大生部

西根遺跡の上流部から氏族名「大生部」「生部」が書かれた墨書土器が出土し、その上流部は船尾白幡遺跡の住民が利用していたと考えますから、船尾白幡遺跡の支配氏族は「大生部」「生部」であると考えます。

西根遺跡の中下流部から「丈部」が書かれた墨書土器が出土し、その中下流部は鳴神山遺跡住民が利用していたと考えます。また鳴神山遺跡から「丈部」の墨書が出土しています。したがって、鳴神山遺跡の支配氏族は「丈部」です。

戸神川を境に右岸と左岸で支配氏族が異なります。

また戸神川谷津の利用もはっきりとした棲み分けが行われています。

この関係をイメージすると次のようになります。

戸神川を境に対峙する二つの氏族

戸神にも船尾にも宗像神社があり、もともと古墳時代に九州の宗像海洋族が入植した場所であると考えます。

しかし、蝦夷戦争に備えて律令国家が大規模な地域開発をこの地で行った時、律令国家の采配で支配者(支配氏族)が赴任し、その支配者の下で地域開発が始まったと考えます。

支配者はもともと戸神なり船尾なりに存在した在地リーダーを使ったと考えますが、地域開発に参加する人間の多くは外部から来た新住民であったと考えます。

元々、戸神なり、船尾に存在した在地リーダーが鳴神山遺跡なり、船尾白幡遺跡の地域開発の真のリーダであったとは考えません。

支配氏族は宗像神社の信仰を否定するようなことはしなかったけれど(だから現在まで存在している)、地域開発の旗印に宗像三女神を立てるようなことはせず、全国のどこから来ても受け入れてもらえる大国主神や天照大御神を旗印にしたと考えます。

同時に鎮護国家の観点から仏教寺院の建立(鳴神山遺跡)も行ったと考えます。


2016年3月14日月曜日

千葉県50市町村の小字データベース作成

小字地名データベース作成活用プロジェクト 46

2016.03.02記事「千葉県39市町の小字データベース作成」の後、11市町村の作業を終え、千葉県50市町村の小字データベース作成にまでたどり着きました。

残りは4市町です。

追い詰めましたので、3月中に確実に作業を完結できそうです。

千葉県小字データベース作成市町村(2016.03.14)

ここまでの50市町村で小字数は85954になります。

作業をする中で、興味深い地名が次々に出てきますが、立ち止まって検討を楽しむと3月中に作業を完成できませんから、それは完成後に行うことにします。

データベース完成後に、このデータベースから有用な情報をどのように引き出すか、その方法をじっくり検討します。

また、GISとの連携策も検討し、汎用アドレスマッチングによらないより精度の高い大字レベルの空間プロットを実現したいと考えています。

個別地名興味における事例検討等は日常的にこのデータベースを使って行う予定です。



2016年3月13日日曜日

西根遺跡 墨書文字「大」と「天」に関する空想的検討

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.304 西根遺跡 墨書文字「大」と「天」に関する空想的検討

2016.03.11記事「西根遺跡 墨書文字「大」と「天」」の続きです。

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私の場合、考えたこと(気が付いたこと)をただそれだけで済ませてしまうと、結局考えなかったことと同じになってしまうことが多いです。

考えたことを、ブログ記事に書いておけば、後日それを読んで、必ず「それは違うぞ」とか「その通りだからもっと詳しく調べたい」とか評価に関わる感想を持つことができます。

間違っているにせよ、当たっているにせよ、その時直観レベルで正しいと感じたことをブログ記事にすることは、私にとって、大いに意義があります。学習を促進できます。

そうした観点から、専門的知識がほとんど無いにも関わらず、西根遺跡の墨書文字「大」と「天」の意味を考察してみました。
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次の図は現代の宗像神社(13社)分布を示したものです。

宗像神社(13社)の分布

宗像神社は古墳時代には既に立地していたと考えられています。
2015.10.26記事「鳴神山遺跡と宗像神社の関係」参照

従って、西根遺跡の時代、つまり奈良時代・平安時代の戸神・船尾地域の住民は宗像神社を信仰のよりどころとしていたはずです。

その宗像神社の位置をこれまでの検討図に書き込んでみました。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 近隣遺跡の関わりイメージ

鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡に対応する戸神川西岸に宗像神社(戸神)が、船尾白幡遺跡に対応する戸神川東岸に宗像神社(船尾)が立地しています。

鳴神山遺跡も船尾白幡遺跡も当時の住民は宗像神社を信仰のよりどころとしていたことが直観できます。

そして、鳴神山遺跡では墨書文字「大」が代表文字であり、つまり祈願成就文字の代表が「大」であり、船尾白幡遺跡ではそれが「天(則天文字」であったといことです。

この「大」、「天(則天文字」と宗像神社の存在から、その関係を空想を交えて行い、次のようにまとめました。

墨書文字「大」「天(則天文字)」の意味(2016.03.13検討)

奈良時代後半から平安時代にかけて、古墳時代の印旛沼開発に関わった九州宗像海洋族の末裔が、その信仰を守って、ローカルで局限的な圏域を形成していたと考えます。(現代でも!)

その地で律令国家がかかわる地域開発が始まり、外部から多くの人が入り込んだと考えます。

その際、印旛浦では特殊な宗像三女神信仰を地域開発における旗印にすることが出来なかったと考えます。

そこで、苦肉の策として、宗像三女神に通じる「天照大御神」(船尾白幡遺跡)、「大国主神」(鳴神山遺跡)を地域開発の旗印にして、祈願語(墨書文字)を「天(則天文字)」、「大」にしたのだと思います。

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後日、この記事を読み返したとき、どれだけ無知識の自分にがっかりするのか、あるいは想定外のヒットではないかと喜ぶのか、生起する感情が楽しみです。

2016年3月12日土曜日

2016.03.12 今朝の花見川

今朝の空は雲が多く、雲がちぎれているのではなく、雲の間にちぎれた青空の断片が見えるような不思議な空でした。

花見川風景

花見川風景

いままで黄色とか褐色だった枯草のところに新しい草が生えだし、緑色になっています。
日々緑色が濃くなると思います。
よく見ると、枝にも新しい芽が出ています。
樹木もそのうち急速に緑色になります。

花見川風景

花見川風景

花見川風景

よく見ると、枝にも新しい芽が出ています。
樹木もそのうち急速に緑色になります。

木の新芽

弁天橋

弁天橋から上流

畑の空

2016年3月11日金曜日

西根遺跡 墨書文字「大」と「天」

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.303 西根遺跡 墨書文字「大」と「天」

2016.03.10記事「西根遺跡 出土物から見る空間特性 その2」で墨書文字「大」(オオ、オホ)と「天」(アメ、アマ、則天文字)に着目し、その二つの文字が空間的に棲み分けして出土していて、その文字が異なる近隣遺跡の代表文字であることを示しました。

この記事ではその検討の基礎となるデータ・情報を示します。

1 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の墨書文字

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の全出土墨書土器データの釈文をソート集計して、上位40位までを一覧表に示しました。

鳴神山遺跡 墨書土器文字(釈文)の数(上位40まで)
千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所から集計

船尾白幡遺跡 墨書土器文字(釈文)の数(上位40まで)
千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所から集計

鳴神山遺跡の代表的墨書土器文字は「大」(オオ、オホ)であり、船尾白幡遺跡の代表的墨書土器文字は「天」(アメ、アマ、則天文字)であることを確認できます。

2 「天」(アメ、アマ、則天文字)について
発掘調査報告書や墨書土器データベースでは「帀」という見た目が似ている活字で「天」(アメ、アマ、則天文字)を表現しています。

「帀」は見た目が似ているので苦肉の策として便宜上使っているのであって、漢字で表現するとすると「天」になります。

西根遺跡から出土した「天」(アメ、アマ、則天文字)の例
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

この文字を「天」(アメ、アマ、則天文字)とした理由は次の通りです。

・発掘調査報告書でこの文字が則天文字の「天」に似ていると記述しています。

則天文字「天」の手書き
ウィキメディア・コモンズからダウンロード・引用


・千葉県の他遺跡で「天」(則天文字)として扱っている例が多くあります。

釈文が「天」(則天文字)の例 片又木遺跡(千葉県市原市)
千葉県墨書土器データベース 明治大学日本古代学研究所から引用

「天」(則天文字)をアメあるいはアマと読んでいて、それをエンブレムのようにデザインして「帀」のように書き、「雨」という漢字を念頭に置いて、その4つの点(雨粒)がない字という意識で使っていたと想像します。

3 「天」(アメ、アマ、則天文字)が意味するもの

「大」(オオ、オホ)は大国玉、大神などが出土することから大国魂神つまり大国主神を意味していると考えました。

それから類推すると、「天」(アメ、アマ)を神様の名前に当てはめたくなります。

はたして、「天」(アメ、アマ)が天照大御神を意味するような言葉であるのかどうか、今後検討を深めたいと思います。

船尾白幡遺跡があるこの地域は古墳時代から宗像神社が集中して存在しています。
宗像神社はイチキシマヒメノミコト、タキリビメノミコト、タキツヒメノミコトを祭っています。その3女神を生んだのが天照大御神です。

宗像3女神を信仰する船尾白幡遺跡住民が、そのローカルな信仰を直接外部に持ち出すことをはばかり、だれにでも通じる天照大御神を象徴するエンブレムを使ったのかもしれません。

関連記事 2015.10.26記事「鳴神山遺跡と宗像神社の関係」など

2016年3月10日木曜日

西根遺跡 出土物から見る空間特性 その2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.302 西根遺跡 出土物から見る空間特性 その2

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代)の土器出土状況を次に示します。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 土器の出土位置

ほぼ全川にわたって多量の土器が出土します。坏類が主な器種です。

馬形・人形という祭祀を示す出土物、石製品や獣骨の出土状況などと比べるとその出土状況が大いに異なります。

土器はどのような状況で戸神川に持ち込まれたのか、興味が沸きます。

馬形・人形の出土は「馬形・人形流し」という祭祀が、獣骨の出土が牛や馬を食った祭祀を暗示していますが、その分布は上流部に限られています。

ところが、土器出土は上流部に限られたものではありません。

次の図は上流部を例に、より詳細に土器出土ポイントを示したものです。

土器分布特性
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用書き込み

土器は左岸(東岸)縁から右岸(西岸)方向に投げ込まれたような分布をします。

また出土土器は完形のものも多く、壊れているものもその破片が一定範囲に集中していて、投げ込まれる前は完形だったように考えられます。

上流部に限らず、西根遺跡全体で、流路5の流路部分に収まる土器が多いことから、出土土器は使える状態の土器を川辺に持ってきて、水面に投げ込んだ状況を想像することができます。

この土器投げ込みは現代人も行う泉・池・湿地・水面にコインを投げ込み祈願する行為と類似の行為と推定します。

奈良時代の一般民衆は銭貨を手にすることも少なく、有価物としての大切な土器(それも自分が常日頃祈願行為に使っている墨書土器)を戸神川に投げ込み、願い事をしたのだと思います。

中近世の流路からは銭貨が多数出土していますから、このような推定は成り立ちうると考えます。

参考 西根遺跡の中近世流路から出土した銭貨
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

次に、土器の投げ込みで祈願した事柄は何であるかということが大きな問題となります。

投げ込まれた土器の多くが墨書土器であり、その墨書内容には祈願内容が書かれているのですが、その祈願内容と、戸神川で(西根遺跡で)土器が投げ込まれた時の祈願内容は異なると考えます。

台地の竪穴住居から、常日頃祈願に使っている坏を手に持って、戸神川にわざわざ来て、その坏を川に投げて祈願する内容は、川に関わる祈願内容であると考えます。

具体的には「水田耕作のための水利が安泰であり、洪水による被害が少ない」とか「舟運が効率的に行われ、洪水による危険と中断が少ない」などであると考えます。

延命を祈願した長文土器も出土していますが、そのような延命祈願が書かれた貴重な土器を川に投げ込んで、川に関わる水利、交通の安泰・安全を祈願したものと推定します。

土器を川に投げ込んだ理由は以上のように水田耕作や水運に関わると考えますが、次に、投げ込まれた土器の墨書内容から投げ込んだ集団の特定を検討します。

次の図は墨書「天」(アメ、則天文字)、「大」と長文土器の出土状況です。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 墨書文字「天」(アメ、則天文字)と「大」及び長文の出土位置
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から画像引用

「天」(アメ、則天文字)の詳しい説明・検討は別記事で行います。

ここでは「天」(アメ、則天文字)と「大」の分布が棲み分けしていることに注目します。

「天」(あめ、則天文字)は船尾白幡遺跡の代表文字です。

一方、「大」は鳴神山遺跡の代表文字です。

同時に「天」(アメ、則天文字)の分布域に「大生部」「生部」を含む長文墨書土器が、「大」の分布域に「丈部」を含む長文墨書土器が出土しています。

このような墨書文字の棲み分けから、土器投げ込み集団を次のように推定しました。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 墨書文字「天」(アメ、則天文字)と「大」及び長文の出土位置からみた土器投げ込み集団の推定

この推定結果を広域図で表現すると次のようになります。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 近隣遺跡の関わりイメージ

西根遺跡の上流部の土器投げ込みは船尾白幡遺跡の住民が、中下流部の土器投げ込みは鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡住民が行っていたと考えます。