花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.306 船尾白幡遺跡の支配氏族 大生部
2016.03.15記事「西根遺跡 支配氏族 丈部と大生部」で船尾白幡遺跡の支配氏族は「大生部」「生部」、鳴神山遺跡の支配氏族は「丈部」であると考えました。
鳴神山遺跡の「丈部」(ハセツカベ)は、遺跡からその文字を含む墨書土器が出土しているので問題ありません。
しかし、船尾白幡遺跡の「大生部」「生部」はその遺跡から直接「大生部」「生部」と書かれて墨書土器が出土していませんので、問題が残ります。
しかし墨書土器文字に有力な証拠と考えられるものが存在するので、メモしておきます。
船尾白幡遺跡から「門」と考えられる文字が多数出土しています。
船尾白幡遺跡から出土した「門」と考えられる文字と「任」
一方、「大生部」(オオミブベ)「生部」(ミブベ)とは壬生部(ミブベ)のことです。
壬生部は宮城十二門の守衛に当たった門部(かどべ)です。
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かどべ 【門部】
日本古代,宮城諸門の守衛にあたった武人の集団。古来のカドモリと呼ばれる人々が,7世紀ころ百済の部司制の影響を受け,門部に編成されたと考えられる。令制では衛門府に属する伴部として門部200人があり,その職を世襲する負名氏〘なおいのうじ〙の中から原則として採用された。818年(弘仁9)に中国風に改称される以前の▶宮城十二門には,大伴・佐伯・壬生・建部・丹治比などの氏族の名が冠せられていたが,これらが古来門部として宮城門守衛の任を負ってきた氏族であると推測される。宮城外側の十二門の警衛のほか,践祚,大嘗祭などの儀に諸門の出入糺察〘きゆうさつ〙の任にあたったが,平安時代には,農民出身の衛士の弱体化にともない,宮門(中門)や八省院,大極殿,豊楽院などの守衛にもあたった。しかし氏族的な伝統を維持することは難しく,9世紀には負名氏以外からの採用が増え,職務も儀礼化して武力としての意義を失った。
笹山 晴生
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
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宮城の守衛にあたったその業務を滞りなく完遂することの祈願、あるいはその業務の一環として受け持った船尾白幡遺跡での任務完遂の祈願を上記墨書文字「門」が表現していると考えます。
また、「任」の文字も多数出土しますが、壬生(みぶ)の「壬」の字に「人偏」を付けて、「壬生」の業務に携わる人を表現している可能性があります。
「門」と「任」の出土から船尾白幡遺跡の支配氏族が壬生部(大生部、生部)であることは間違いないところだと考えます。
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