西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代)の土器出土状況を次に示します。
西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 土器の出土位置
ほぼ全川にわたって多量の土器が出土します。坏類が主な器種です。
馬形・人形という祭祀を示す出土物、石製品や獣骨の出土状況などと比べるとその出土状況が大いに異なります。
土器はどのような状況で戸神川に持ち込まれたのか、興味が沸きます。
馬形・人形の出土は「馬形・人形流し」という祭祀が、獣骨の出土が牛や馬を食った祭祀を暗示していますが、その分布は上流部に限られています。
ところが、土器出土は上流部に限られたものではありません。
次の図は上流部を例に、より詳細に土器出土ポイントを示したものです。
土器分布特性
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用書き込み
土器は左岸(東岸)縁から右岸(西岸)方向に投げ込まれたような分布をします。
また出土土器は完形のものも多く、壊れているものもその破片が一定範囲に集中していて、投げ込まれる前は完形だったように考えられます。
上流部に限らず、西根遺跡全体で、流路5の流路部分に収まる土器が多いことから、出土土器は使える状態の土器を川辺に持ってきて、水面に投げ込んだ状況を想像することができます。
この土器投げ込みは現代人も行う泉・池・湿地・水面にコインを投げ込み祈願する行為と類似の行為と推定します。
奈良時代の一般民衆は銭貨を手にすることも少なく、有価物としての大切な土器(それも自分が常日頃祈願行為に使っている墨書土器)を戸神川に投げ込み、願い事をしたのだと思います。
中近世の流路からは銭貨が多数出土していますから、このような推定は成り立ちうると考えます。
参考 西根遺跡の中近世流路から出土した銭貨
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用
次に、土器の投げ込みで祈願した事柄は何であるかということが大きな問題となります。
投げ込まれた土器の多くが墨書土器であり、その墨書内容には祈願内容が書かれているのですが、その祈願内容と、戸神川で(西根遺跡で)土器が投げ込まれた時の祈願内容は異なると考えます。
台地の竪穴住居から、常日頃祈願に使っている坏を手に持って、戸神川にわざわざ来て、その坏を川に投げて祈願する内容は、川に関わる祈願内容であると考えます。
具体的には「水田耕作のための水利が安泰であり、洪水による被害が少ない」とか「舟運が効率的に行われ、洪水による危険と中断が少ない」などであると考えます。
延命を祈願した長文土器も出土していますが、そのような延命祈願が書かれた貴重な土器を川に投げ込んで、川に関わる水利、交通の安泰・安全を祈願したものと推定します。
土器を川に投げ込んだ理由は以上のように水田耕作や水運に関わると考えますが、次に、投げ込まれた土器の墨書内容から投げ込んだ集団の特定を検討します。
次の図は墨書「天」(アメ、則天文字)、「大」と長文土器の出土状況です。
西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 墨書文字「天」(アメ、則天文字)と「大」及び長文の出土位置
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から画像引用
「天」(アメ、則天文字)の詳しい説明・検討は別記事で行います。
ここでは「天」(アメ、則天文字)と「大」の分布が棲み分けしていることに注目します。
「天」(あめ、則天文字)は船尾白幡遺跡の代表文字です。
一方、「大」は鳴神山遺跡の代表文字です。
同時に「天」(アメ、則天文字)の分布域に「大生部」「生部」を含む長文墨書土器が、「大」の分布域に「丈部」を含む長文墨書土器が出土しています。
このような墨書文字の棲み分けから、土器投げ込み集団を次のように推定しました。
西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 墨書文字「天」(アメ、則天文字)と「大」及び長文の出土位置からみた土器投げ込み集団の推定
この推定結果を広域図で表現すると次のようになります。
西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 近隣遺跡の関わりイメージ
西根遺跡の上流部の土器投げ込みは船尾白幡遺跡の住民が、中下流部の土器投げ込みは鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡住民が行っていたと考えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿