2016.06.13記事「安房国郷名分布基礎データ作成」に引き続いて上総国分の郷名分布基礎データを作成しました。
元となるデータは「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」です。
GIS画面に郷名をプロットした結果は次の通りです。
上総国郷名分布
このGISプロットデータをcsv出力すると緯度・経度情報を得られるので、そのデータを含んだ郷名データベースを作成しています。
古代房総三国の郡と郷
下総国分の作業が済めば、郡名、郷名の文字及びそれらの読みと位置データを含むGISデータベースの基礎資料ができることになります。
なお、位置は元資料情報の概略をプロットしたもので、詳しく検討したものではありません。
今後、郷の領域のイメージが得られるようになったならば、点データではなく、大ざっぱなものであってもよいので、面データに変換したいと考えています。
現状の郷名位置は、郷の相対的空間関係を知ることができる程度の情報です。
なお、郡界線について、転写の際のズレのような問題を除くと、次の図に示すように、周淮郡と天羽郡の境に一部を訂正したほうが良いと考えました。
周淮郡と天羽郡の境で訂正を必要とするところ
大貫駅付近で東京湾に出る「岩瀬川」「小久保川」の流域は天羽郡ではなく、周淮郡であったと考えます。(大日本地名辞書による)
古代の地勢上の境は、現代の国道127号、館山自動車道の線形に踏襲されていると考えます。
2016年6月19日日曜日
2016年6月18日土曜日
地名型「本所、領家、~領」の千葉県検索結果
1 鏡味完二の検討 地名型「本所、領家、~領」
鏡味完二の60年前の検討結果を引用します。
……………………………………………………………………
Honzyo,Ryoke,-ryoの地名
本所と領家の地名には次の意味がある。
渡辺氏は庄園に2種を認め,(1)占野開墾に起原をもつものと,(2)寄進系庄園というべきものとを区別している。
前者は奈良朝後半から平安初期に亘って行われ,前々項に述べた"~庄"という地名は正にこれであったと思われる。
それに対して次の寄進系庄園は,9世紀末すなわち平安初期末から中期にかけての頃に盛行したものである。
それは寄進者が私領の保全を目的として,当地の領主権(土地所有権)を権門にゆづり,領主職その他の司職(領所,庄司などの職)を,自己ないし子孫に保留することを眼目とする契約である。
この寄進が盛行した理由は,荘園の著るしい発達の結果としてあらわれた,政府の私田没収に対する方策としてであって,有勢者の荘園は不輸制であったのを利用して,院宮,摂関家,大臣家,大社寺などの上層貴族を受寄者(保護者)とした場合に,それらの保護者を指して本所といった。
またその保護者が一般有勢家である場合には,それを領家といっていた。
故にそれらの寄進系庄園となった耕地を,本所とか領家とか呼んでいるうちに,ついにそれらが地名となったのであろう。
"~領"の地名,例えば"神領"とか"法領"とかなどいう地名も,この種の荘園に職由するものであったと考えられる。
"領家"の分布は吉備地方と利根川筋までの間に密集しているが,その中央の近畿で少くなっており,"本所"のそれは吉備と濃尾の間,とくに近畿に密集している点で異なっている。
〔地図篇,Fig.104〕
この差異に対しては,"本所"の方が貴族系の庄園であったので,近畿にこの地名が多い結果になったのであろう。
全国におけるこの地名の分布を纏めてみると,Fig.22No.10のように中九州から,越後・関東中央までの広い地城が開拓地城となっている。
この寄進系荘園には,累代相伝のものと並んで新開のものが多数あったから,ここに開拓地域の語を用いても差支えない
であろう。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
2 千葉県における地名型「本所、領家、~領」の検索結果
千葉県小字データベースから検索した結果、「本所」は抽出できませんでした。
「領家」検索結果とその分布は次の通りです。
千葉県における「領家」抽出結果と中世荘園との対応(想定)
「領家」地名分布と中世荘園
袖ヶ浦市の両家地名の場所は菅生荘に近いのですが、郡境を越えますので、とりあえず対応させませんでした。
「~領」検索結果とその分布は次の通りです。
千葉県における「~領」抽出結果と中世荘園との対応(想定)
「~領」地名分布と中世荘園
「~領」地名は中世荘園に対応するものも、そうでないものもあります。
鏡味完二の説のとおり、「~領」は荘園に由来するものもあると思いますが、皇室所有地、幕府直轄領等も含まれています。
「~領」を指標として時代を特定した開発にむすびつけることは困難のように感じますが、一つのヒントにはなると思います。
鏡味完二の60年前の検討結果を引用します。
……………………………………………………………………
Honzyo,Ryoke,-ryoの地名
本所と領家の地名には次の意味がある。
渡辺氏は庄園に2種を認め,(1)占野開墾に起原をもつものと,(2)寄進系庄園というべきものとを区別している。
前者は奈良朝後半から平安初期に亘って行われ,前々項に述べた"~庄"という地名は正にこれであったと思われる。
それに対して次の寄進系庄園は,9世紀末すなわち平安初期末から中期にかけての頃に盛行したものである。
それは寄進者が私領の保全を目的として,当地の領主権(土地所有権)を権門にゆづり,領主職その他の司職(領所,庄司などの職)を,自己ないし子孫に保留することを眼目とする契約である。
この寄進が盛行した理由は,荘園の著るしい発達の結果としてあらわれた,政府の私田没収に対する方策としてであって,有勢者の荘園は不輸制であったのを利用して,院宮,摂関家,大臣家,大社寺などの上層貴族を受寄者(保護者)とした場合に,それらの保護者を指して本所といった。
またその保護者が一般有勢家である場合には,それを領家といっていた。
故にそれらの寄進系庄園となった耕地を,本所とか領家とか呼んでいるうちに,ついにそれらが地名となったのであろう。
"~領"の地名,例えば"神領"とか"法領"とかなどいう地名も,この種の荘園に職由するものであったと考えられる。
"領家"の分布は吉備地方と利根川筋までの間に密集しているが,その中央の近畿で少くなっており,"本所"のそれは吉備と濃尾の間,とくに近畿に密集している点で異なっている。
〔地図篇,Fig.104〕
この差異に対しては,"本所"の方が貴族系の庄園であったので,近畿にこの地名が多い結果になったのであろう。
全国におけるこの地名の分布を纏めてみると,Fig.22No.10のように中九州から,越後・関東中央までの広い地城が開拓地城となっている。
この寄進系荘園には,累代相伝のものと並んで新開のものが多数あったから,ここに開拓地域の語を用いても差支えない
であろう。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
2 千葉県における地名型「本所、領家、~領」の検索結果
千葉県小字データベースから検索した結果、「本所」は抽出できませんでした。
「領家」検索結果とその分布は次の通りです。
千葉県における「領家」抽出結果と中世荘園との対応(想定)
「領家」地名分布と中世荘園
袖ヶ浦市の両家地名の場所は菅生荘に近いのですが、郡境を越えますので、とりあえず対応させませんでした。
「~領」検索結果とその分布は次の通りです。
千葉県における「~領」抽出結果と中世荘園との対応(想定)
鏡味完二の説のとおり、「~領」は荘園に由来するものもあると思いますが、皇室所有地、幕府直轄領等も含まれています。
「~領」を指標として時代を特定した開発にむすびつけることは困難のように感じますが、一つのヒントにはなると思います。
2016年6月17日金曜日
疑問メモ 房総南端に多い語尾ラの地名
千葉県小字データベースの試用を行っていて、これまで気が付かなかった疑問が浮かび上がってきましたので、メモしておきます。
この疑問は花見川流域の問題意識とは関わりはありません。
疑問 房総南端に語尾ラの小字が多い。海人(アマ)の活動に投影して検討した「エラ」「イラ」地名ともかかわるのか?
房総南端館山市の大字布良(メラ)は「エラ」地名として捉えました。
2016.06.10記事「房総南端の地名 布良(メラ)」参照
この記事を書いたころから、館山市や南房総市では小字名の語尾がラであるものが多いことに気が付きました。
千葉県内のいくつかの市町村で統計を取ってみたところ、房総南端では語尾ラの小字が多い結果になりました。
例として南房総市と千葉県北端の香取市をとり、データを比較してみます。
語尾ラの小字の比較 南房総市と香取市
語尾ラの小字の割合
上記データはいずれも、ルビ(読み)で検索しています。
二つの市を比べて、南房総市で語尾ラの割合が多くなっている様相は主に「○○原」や「○○倉」が多いことによります。
なぜ「○○原」や「○○倉」が多いのか、まだわかりませんが、次のような想念が強まっていますので、とりあえずメモしておきます。
地名に関する知識が増えれば、この疑問を解くことがどれだけ意義があるのかないのかわかり、疑問もある程度解けると思います。
房総南端に語尾ラの小字の割合が多い理由
●「○○原」の意味が原っぱの原、野原の原ではない可能性が濃厚だと考えます。
孕むとか腹という意味で、膨らんだところという地形を表現していて、生産活動の特定場面と関わる意味がある可能性を感じます。
房総南端ですから海人の活動と関わると考えることが順当だと思います。
小字の現地を調査する必要があります。
なお、香取市の「○○原」にはかなりの、原っぱの原、野原の原が混じっているように、結びついている語から感じます。
もし、千葉県内の場所の違いにより、同じ「○○原」の原の意味が異なるとすると、その識別は困難が想定されます。
●「○○倉・蔵」は建物の倉ではなく、磐座(イワクラ)などのクラであり、座る場所という意味で、つまり居住する場所だと考えます。
海人の言葉であると考えたくなります。
小字の現地を調査する必要があります。
「○○倉」も場所によって座る場所であったり、建物の倉であったりその意味が異なるとすると、その識別をどのように行うか、困難が想定されます。
一筋縄では解決できない問題に足を踏み込んでしまったのかもしれません。
しかし、房総南端に語尾ラの小字が多い根本理由を、海人が南方からそれをもたらしたと空想しているので、当面はめげないで問題意識として保持したいと思います。
語尾ラの小字の統計分析を千葉県全体を対象にして徹底して行えば、有用な情報を得ることができるかもしれません。
この疑問は花見川流域の問題意識とは関わりはありません。
疑問 房総南端に語尾ラの小字が多い。海人(アマ)の活動に投影して検討した「エラ」「イラ」地名ともかかわるのか?
房総南端館山市の大字布良(メラ)は「エラ」地名として捉えました。
2016.06.10記事「房総南端の地名 布良(メラ)」参照
この記事を書いたころから、館山市や南房総市では小字名の語尾がラであるものが多いことに気が付きました。
千葉県内のいくつかの市町村で統計を取ってみたところ、房総南端では語尾ラの小字が多い結果になりました。
例として南房総市と千葉県北端の香取市をとり、データを比較してみます。
語尾ラの小字の比較 南房総市と香取市
語尾ラの小字の割合
上記データはいずれも、ルビ(読み)で検索しています。
二つの市を比べて、南房総市で語尾ラの割合が多くなっている様相は主に「○○原」や「○○倉」が多いことによります。
なぜ「○○原」や「○○倉」が多いのか、まだわかりませんが、次のような想念が強まっていますので、とりあえずメモしておきます。
地名に関する知識が増えれば、この疑問を解くことがどれだけ意義があるのかないのかわかり、疑問もある程度解けると思います。
房総南端に語尾ラの小字の割合が多い理由
●「○○原」の意味が原っぱの原、野原の原ではない可能性が濃厚だと考えます。
孕むとか腹という意味で、膨らんだところという地形を表現していて、生産活動の特定場面と関わる意味がある可能性を感じます。
房総南端ですから海人の活動と関わると考えることが順当だと思います。
小字の現地を調査する必要があります。
なお、香取市の「○○原」にはかなりの、原っぱの原、野原の原が混じっているように、結びついている語から感じます。
もし、千葉県内の場所の違いにより、同じ「○○原」の原の意味が異なるとすると、その識別は困難が想定されます。
●「○○倉・蔵」は建物の倉ではなく、磐座(イワクラ)などのクラであり、座る場所という意味で、つまり居住する場所だと考えます。
海人の言葉であると考えたくなります。
小字の現地を調査する必要があります。
「○○倉」も場所によって座る場所であったり、建物の倉であったりその意味が異なるとすると、その識別をどのように行うか、困難が想定されます。
一筋縄では解決できない問題に足を踏み込んでしまったのかもしれません。
しかし、房総南端に語尾ラの小字が多い根本理由を、海人が南方からそれをもたらしたと空想しているので、当面はめげないで問題意識として保持したいと思います。
語尾ラの小字の統計分析を千葉県全体を対象にして徹底して行えば、有用な情報を得ることができるかもしれません。
2016年6月16日木曜日
鏡味完二の地名型「別所」の千葉県検索結果
1 鏡味完二の検討 地名型「別所」
鏡味完二が60年前に検討した、地名型「別所」を参考として引用します。
……………………………………………………………………
Bessyoの地名
別所は別府と同類の地名と思われがちであったが,それは全く別個の意味をもっていることが,菊池山哉氏の研究によって明らかになった。
別所という地名は「奥州の夷俘を移配した所」の意味で,平安時代のものであることは,同氏による全国の200余に達ずるこの地名についての,詳細な研究の結論である。
Ezoの俘囚を用いて土地を開墾させたことは,歴史上の顕著な事実であるから,この地名を開墾地名として考えることについては充分の理由となる。
著者は文献によるEzoの移住地(国別)を線影をもって示し,"別所"の地名分布と対照してみた〔地図篇,Fig.54〕が,この両者すなわち,地名の現在の地理的分布と歴史的資料との間に,快よい合致を見出すことができた。
この地名分布の粗密によって地域区分をすれば(Fig.22No.9)広島~利根川の地域が当時の開拓地域で,また開拓縁辺地域は北は遠く陸奥に達し,南は中九州までとなる。
やはり近畿中心の分布Patternであること,前項の地名型と変りはない。
"別府"の地名は柳田説のように,追加開墾の地名であるらしく,福島県では"別符"が慶長4年の荒地開墾であることが知られており,"別府"地名の密集したところが,鹿児島県であることからみても,この地名型は"別所"よりも新らしいものと考えられよう。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
鏡味完二の説では地名「別所」は蝦夷戦争等で獲得した俘囚を動員して実施した全国僻地の開拓地ということになります。
2 千葉県における地名「別所」の検索結果
千葉県小字データベースから地名「別所」を検索すると次のような結果となります。
「別所」検索結果
地名「別所」の分布をみると、古代郷の境界付近や地形の険しいところ等古代における僻地(開墾対象地)と想定されるようなものが多いので、鏡味完二の説が首肯できるような感覚をもつことができます。
なお、別所と「ウタリ」「コタン」等とは1個所を除いて場所が一致あるいは近接する例がありません。
別所が俘囚蝦夷の所在を、「ウタリ」「コタン」等が在地の縄文人末裔の所在を示すとすると、それが一致しないことは政権の蝦夷政策として当然です。
1個所だけそれが一致する場所があることは不思議です。
もし俘囚蝦夷と在地縄文人末裔が同じ場所で生活すれば、文化的に通じる同族の間柄ですから、政権にとっては好ましくない化学反応が生まれるにちがいありません。
後の時代に俘囚蝦夷と在地縄文人末裔の区別が判らなくなり、政権サイドの呼び名が混乱し、それが地名に反映したのかもしれません。
鏡味完二が60年前に検討した、地名型「別所」を参考として引用します。
……………………………………………………………………
Bessyoの地名
別所は別府と同類の地名と思われがちであったが,それは全く別個の意味をもっていることが,菊池山哉氏の研究によって明らかになった。
別所という地名は「奥州の夷俘を移配した所」の意味で,平安時代のものであることは,同氏による全国の200余に達ずるこの地名についての,詳細な研究の結論である。
Ezoの俘囚を用いて土地を開墾させたことは,歴史上の顕著な事実であるから,この地名を開墾地名として考えることについては充分の理由となる。
著者は文献によるEzoの移住地(国別)を線影をもって示し,"別所"の地名分布と対照してみた〔地図篇,Fig.54〕が,この両者すなわち,地名の現在の地理的分布と歴史的資料との間に,快よい合致を見出すことができた。
この地名分布の粗密によって地域区分をすれば(Fig.22No.9)広島~利根川の地域が当時の開拓地域で,また開拓縁辺地域は北は遠く陸奥に達し,南は中九州までとなる。
やはり近畿中心の分布Patternであること,前項の地名型と変りはない。
"別府"の地名は柳田説のように,追加開墾の地名であるらしく,福島県では"別符"が慶長4年の荒地開墾であることが知られており,"別府"地名の密集したところが,鹿児島県であることからみても,この地名型は"別所"よりも新らしいものと考えられよう。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
鏡味完二の説では地名「別所」は蝦夷戦争等で獲得した俘囚を動員して実施した全国僻地の開拓地ということになります。
2 千葉県における地名「別所」の検索結果
千葉県小字データベースから地名「別所」を検索すると次のような結果となります。
「別所」検索結果
地名「別所」の分布をみると、古代郷の境界付近や地形の険しいところ等古代における僻地(開墾対象地)と想定されるようなものが多いので、鏡味完二の説が首肯できるような感覚をもつことができます。
なお、別所と「ウタリ」「コタン」等とは1個所を除いて場所が一致あるいは近接する例がありません。
別所が俘囚蝦夷の所在を、「ウタリ」「コタン」等が在地の縄文人末裔の所在を示すとすると、それが一致しないことは政権の蝦夷政策として当然です。
1個所だけそれが一致する場所があることは不思議です。
もし俘囚蝦夷と在地縄文人末裔が同じ場所で生活すれば、文化的に通じる同族の間柄ですから、政権にとっては好ましくない化学反応が生まれるにちがいありません。
後の時代に俘囚蝦夷と在地縄文人末裔の区別が判らなくなり、政権サイドの呼び名が混乱し、それが地名に反映したのかもしれません。
2016年6月15日水曜日
「~庄」地名の千葉県検索結果
1 鏡味完二の「~庄」地名に関する検討
鏡味完二の「~庄」地名に関する検討結果を参考として示します。
……………………………………………………………………
-no・syoの地名
"~庄"の地名は,荘園に関する地名である。
この地名は近畿を中心に,東西に対称的な分布の体勢をとり,西は瀬戸内の中央,東はフォッサマグナまでの間に密集して開拓地域をなし,それにつづく開拓縁辺地域は,九州の南端と仙台までの地域である。
この分布の様相から判断すれば,この地名の盛んに成立した年代は800年頃,すなわち平安初期と推定することができ,この時期は史家の研究によれば,初期荘園発達の時代である。
このように地名の分布のパータンの推定と,荘園発達の史的研究の結論とが年代的一致をみることは洵に興味がある。
〔地図篇,Fig.256〕
(Fig.22 No.8)
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
鏡味完二は「~庄」を荘園に関係する地名としています。
2 千葉県における「~庄」地名と荘園との関係
2016.06.14記事「房総中世荘園の概略位置GISデータ作成」で作成した中世荘園GISデータと対照させるべく、千葉県の「~庄」地名を千葉県小字データベースから検索抽出しました。
「~庄」地名をアドレスマッチングでGISにプロットして、中世荘園分布図と対照させました。
その結果を次に示します。
千葉県内におけえる「~庄」地名抽出結果と中世荘園との対応(想定)
「~庄」地名分布と中世荘園との対応(想定)
「~庄」地名が12抽出されて、そのうち10が中世荘園と関わりがあると考えることができます。
「~庄」地名と荘園との関わりは千葉県では強いといえると考えます。
なお、鏡味完二は「~庄」地名を800年頃としていますが、この記事で対照した中世荘園リストの根拠となる史料はすべて12世紀以降のものです。
鏡味完二の「~庄」地名に関する検討結果を参考として示します。
……………………………………………………………………
-no・syoの地名
"~庄"の地名は,荘園に関する地名である。
この地名は近畿を中心に,東西に対称的な分布の体勢をとり,西は瀬戸内の中央,東はフォッサマグナまでの間に密集して開拓地域をなし,それにつづく開拓縁辺地域は,九州の南端と仙台までの地域である。
この分布の様相から判断すれば,この地名の盛んに成立した年代は800年頃,すなわち平安初期と推定することができ,この時期は史家の研究によれば,初期荘園発達の時代である。
このように地名の分布のパータンの推定と,荘園発達の史的研究の結論とが年代的一致をみることは洵に興味がある。
〔地図篇,Fig.256〕
(Fig.22 No.8)
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
鏡味完二は「~庄」を荘園に関係する地名としています。
2 千葉県における「~庄」地名と荘園との関係
2016.06.14記事「房総中世荘園の概略位置GISデータ作成」で作成した中世荘園GISデータと対照させるべく、千葉県の「~庄」地名を千葉県小字データベースから検索抽出しました。
「~庄」地名をアドレスマッチングでGISにプロットして、中世荘園分布図と対照させました。
その結果を次に示します。
千葉県内におけえる「~庄」地名抽出結果と中世荘園との対応(想定)
「~庄」地名分布と中世荘園との対応(想定)
「~庄」地名が12抽出されて、そのうち10が中世荘園と関わりがあると考えることができます。
「~庄」地名と荘園との関わりは千葉県では強いといえると考えます。
なお、鏡味完二は「~庄」地名を800年頃としていますが、この記事で対照した中世荘園リストの根拠となる史料はすべて12世紀以降のものです。
2016年6月14日火曜日
房総中世荘園の概略位置GISデータ作成
2016.06.13記事「安房国郷名分布基礎データ作成」の上総国分、下総国分の作業は継続して行うこととします。
一気に自分の地名知識が増大しています。
このような基礎作業はそれとして行いつつ、鏡味完二の地名型検討をスピードアップします。
この記事では地名型21の7番目の「~庄」の検討を行うための中世荘園データについてGISプロットをおこないましたので、メモします。
1 中世荘園リスト
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載の「表74 1179年までに確認できる中世荘園と公領」に詳しい中世荘園リストが掲載されています。
そのリストの項目の一部を省略して抜き書きします。
表74 1179年までに確認できる中世荘園と公領(抜き書き)
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から抜き書きして引用
22の荘園・公領が確認できます。
元資料には荘園領主、比定地のほか成立年、初見年次、初見史料などの情報が掲載されています。
2 中世荘園の空間概略位置のGISプロット
この比定地情報をGISにプロットしました。
プロットの趣旨は律令制郡と比定地現代地名から、荘園の大ざっぱな概略位置を面情報として描き出したものです。
千葉県内のどのあたりにあるのか判ればよいという趣旨です。
1179年までに確認できる中世荘園と公領
リストがあると、情報収集が完了したような錯覚に陥りますが、それをGISにプロットすると、これまでさまざま情報をGISにプロットしてきた記憶が走馬灯のように思い出され、その空間的位置が持つ意味について知りたいという意欲が湧き出します。
中世荘園について学習意欲が増大します。
実際に「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)を読むと、極めて興味深い解説が続きます。
恐らく中世に近づくにしたがって史料(文書)情報が格段に増大しているのだと思います。
中世荘園に関する空間情報が概略とはいえできましたので、この情報と「~庄」地名情報とを空間的に突き合わせて、その関係について次の記事で検討します。
一気に自分の地名知識が増大しています。
このような基礎作業はそれとして行いつつ、鏡味完二の地名型検討をスピードアップします。
この記事では地名型21の7番目の「~庄」の検討を行うための中世荘園データについてGISプロットをおこないましたので、メモします。
1 中世荘園リスト
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載の「表74 1179年までに確認できる中世荘園と公領」に詳しい中世荘園リストが掲載されています。
そのリストの項目の一部を省略して抜き書きします。
表74 1179年までに確認できる中世荘園と公領(抜き書き)
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から抜き書きして引用
22の荘園・公領が確認できます。
元資料には荘園領主、比定地のほか成立年、初見年次、初見史料などの情報が掲載されています。
2 中世荘園の空間概略位置のGISプロット
この比定地情報をGISにプロットしました。
プロットの趣旨は律令制郡と比定地現代地名から、荘園の大ざっぱな概略位置を面情報として描き出したものです。
千葉県内のどのあたりにあるのか判ればよいという趣旨です。
1179年までに確認できる中世荘園と公領
リストがあると、情報収集が完了したような錯覚に陥りますが、それをGISにプロットすると、これまでさまざま情報をGISにプロットしてきた記憶が走馬灯のように思い出され、その空間的位置が持つ意味について知りたいという意欲が湧き出します。
中世荘園について学習意欲が増大します。
実際に「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)を読むと、極めて興味深い解説が続きます。
恐らく中世に近づくにしたがって史料(文書)情報が格段に増大しているのだと思います。
中世荘園に関する空間情報が概略とはいえできましたので、この情報と「~庄」地名情報とを空間的に突き合わせて、その関係について次の記事で検討します。
2016年6月13日月曜日
安房国郷名分布基礎データ作成
2016.06.11記事「房総三国分郡図の学習用GISデータ作成」で分郷図のGISデータを作成しましたが、続いて分郷図作成のための基礎データを作成することとします。
まず手始めに安房国の郷名分布基礎データを作成しました。
既存の郷名分布資料として、千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編集)の付録である千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)が存在します。
しかし、この郷名分布史料は誤りが多く、信頼がおけません。
原典の邨岡良弼著日本地理志料では「造郷」つまり、解釈の整合をはかるために、史料には存在しない「郷」を創作してしまっています。
しかし、郷名が分布図になっているものは他にはありませんから、参考資料の一つとして、安房国分について郷名を書き込んで、示します。
参考 安房国郷名分布図
安房国郷名分布基礎データは「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」に基づいて作成しました。
房総の郡・郷リストは次の通りです。
「和名類聚抄」にみえる房総三国の郡と郷
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
このうち、安房国分4郡33郷の位置をGISにプロットしました。
ただし、平群郡駅家、朝夷郡大津については位置未詳のためプロットできませんでした。
位置プロットは想定される比定地の中央付近を念頭に行いましたが、厳密な検討は行っていません。
従ってあくまでも概略の位置を示すものです。
安房国郷名分布図
引き続いて、この形式で上総国、下総国分についてもデータを作成する予定です。
点プロットではありますが、千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編集)付録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)以外では初めての郷名分布データになると考えます。
現在は郷名を1点にプロットしていますが、今後空間的広がりがイメージできる情報にもとづいて、ある程度面的情報に変換していけたらより使い勝手のよいものになると考えます。
なお、郷名プロットと同時に郡界線の不合理部分(転写に伴うズレなど)を修正しました。
まず手始めに安房国の郷名分布基礎データを作成しました。
既存の郷名分布資料として、千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編集)の付録である千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)が存在します。
しかし、この郷名分布史料は誤りが多く、信頼がおけません。
原典の邨岡良弼著日本地理志料では「造郷」つまり、解釈の整合をはかるために、史料には存在しない「郷」を創作してしまっています。
しかし、郷名が分布図になっているものは他にはありませんから、参考資料の一つとして、安房国分について郷名を書き込んで、示します。
参考 安房国郷名分布図
安房国郷名分布基礎データは「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」に基づいて作成しました。
房総の郡・郷リストは次の通りです。
「和名類聚抄」にみえる房総三国の郡と郷
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
このうち、安房国分4郡33郷の位置をGISにプロットしました。
ただし、平群郡駅家、朝夷郡大津については位置未詳のためプロットできませんでした。
位置プロットは想定される比定地の中央付近を念頭に行いましたが、厳密な検討は行っていません。
従ってあくまでも概略の位置を示すものです。
安房国郷名分布図
引き続いて、この形式で上総国、下総国分についてもデータを作成する予定です。
現在は郷名を1点にプロットしていますが、今後空間的広がりがイメージできる情報にもとづいて、ある程度面的情報に変換していけたらより使い勝手のよいものになると考えます。
なお、郷名プロットと同時に郡界線の不合理部分(転写に伴うズレなど)を修正しました。
2016年6月12日日曜日
上代地名(倭名鈔)と現代地名
上代地名(倭名鈔)と現代地名に関する鏡味完二の検討を学習しました。
まず鏡味完二の検討を引用します。
……………………………………………………………………
上代の地名(倭名鈔)と現在の地名の比較
今度は観方を変えて,昔と今の比較を行ってみる。
昔の地名として「倭名鈔」から求めたものを用いよう。
「倭名鈔」は今から1,000年余り前に著された文献であり,万葉仮名で地名の発音が示してあるから,古代の地名研究には重宝である。
それと現在の地名とを比較する場合に,各種の「倭名鈔」の地名のうち,個数は相当多くて,同時にその分布地域のはっきりした個性のあるものが適当である。
反対に広い地域に疎らに分布する地名は最も不適当である。
このような条件に合う地名として,余戸(Amarube)と神戸(Kambe,Kobe)と賀茂(Kamo)の3つをえらんだ。
余戸は最も減少した例,神戸は少し減つた例,賀茂は増加した例である。
余戸という地名は喜田博士によると,公民籍に漏れた者の総称として,「余り者」の義を以てよびならわしたものであるらしい。
余目,余部(Amabe),余戸の地名は,その賎民落伍者の集落であるとみるのである。
これに対して金沢博士は,孝徳天皇大化2年改新之詔中に,戸令に,凡戸以五十戸為里と定められその註釈として,「若満六十戸,割十戸立一里置長一人」とあるのを余戸と見るのである。
この両説を如何に見るべきかは,史家に委ねるとして,その何れにせよ,地名に佳字を用いる世の傾向からすれば,余戸は余りかんばしくない表記であったので,余吾などの文字に転ずる一方においては,この地名は改廃の運命を辿ったと思われる。
「倭名紗」に96郷あったこの地名が,余吾と淀を合せて53例の55%に減少している。
金沢博士によれば,YobeYokoの地名も同類であるとされるが,それらの地名は地図上に発見しえなかった。
余部 倭名鈔 現存
次に神戸(Kambe)の地名を調べてみよう。
コーベ(神戸)はカンベの詑りであり,それにKobeという別の意味の方言はないから,ここに一緒に考えて差支ないであろう。
Godo(神戸,川渡,顔戸,…)は別の意味をもった言葉だから文字は神戸でもとらない。
それはGodoに佳字の「神戸」を宛てたのであって,佳字「神戸」を平凡な「谷川」の意味のGodoの訓みにすることは,地名発達の逆コ一スであるから認め難い。
果せるかなGodoはKambeとは異り関東山地を中心に集団する別の分布型である。(地図篇Fig.77)
「倭名鈔」の地名55に対して,現在とり出しえたもの35で,66%の減少である。
神戸とはロ分田を耕作する丈けの民であり,律令制(大宝令701年,倭名鈔の著されたより凡そ100年前)の神戸の制に基き,国家を通じて神社に奉仕したものをいうのである。
神戸 倭名鈔 現存
参考 ゴード
以上AmarubeとKambeの例では,恐らく「5万分の1地形図」に洩れているのではなく,共に減少したのであろう。
最も多く減少したAmarubeの分布にあっても,分布の形態には大した変化がなかったことに注目される。
その西南日本の分布限界線は,多少の異動をしているが,東北限界線は完全に1,000年前と一致している。
紳戸の分布でも,山口県の「倭名鈔」の地名が無くなっている外は,分布地城と分布密度に大した変化はない。
この2例で明らかなように,「5万分の1地形図」で得た資料を以て,1,000年前の地名を論じても,殆んど大過のないことが解るであろう。
最後にKamoの地名をみよう。
KamoはKami(神)と同根であるが,地名としては鳥の名の鴨の意もあり,蒲生(Gamou)という地名もあるから,ここではいま加茂,賀茂と鴨部の地名のみをとることとした。
「倭名鈔」の地名は30に対して,「5万分の1地形図」112で,3.7倍の増加である。
加茂は文字も語義も立派であるから,好んで地名に用いられたらしく,また恐らく加茂神社の勧請によって,地名が広がっていったものであろう。
この両分布図を較べてみると,3.7倍の著るしい個数の増加にも拘らず,その分布の形態が維持されてきたこと,東北日本への地名の伝播が大きかったこと,特に出雲から伊予に至る,「倭名鈔」Kamo・Kamobeの地名の西方限界線が,そのまま今も存在していること,「倭名鈔」のこの地名の1つ1つの位置に,現在もなおその地名が殆んど対照的に認められることなどを見ると,「5万分の1地形図」が古代の地名研究に役立つこと,また地名の土地定着性の強いことを充分承認しうるのである。
賀茂 倭名鈔 現存
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(初版1957年)(東洋書林)から引用
……………………………………………………………………
検討(感想)
1 全国レベルの倭名鈔地名検討文献の検索
鏡味完二の検討は60年前の検討です。
そのとき上記のような分布検討ができています。
その後の科学の進歩は著しいと考えますから、現在では倭名鈔地名のデータベースが構築され、あるいは誰かが作っていて、その空間的検討が進んでいると空想します。
素人なので、そのあたりの情報は全くないのですが、60年という歳月を考えると、そのように空想せざるをえません。
機会を見つけて、全国レベルでの倭名鈔地名の検討文献を検索してい見たいと思います。
2 倭名鈔地名データベースの入手
千葉県では倭名鈔の多数の版(異本)を検討して、郡・郷のリストを作成して、比定地の検討が行われています。(「千葉県の歴史 通史編 古代2」付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」)
現在この情報をGIS情報化しようとしてます。
この史料は地名に関わる史料を逐一リストアップしていて詳しいものです。
しかし、そのような詳しさではない、郡・郷名と比定地の概略程度の情報なら、全国レベルでつくられたものが必ずあるのではないかと想像します。
そのような全国レベルの倭名鈔地名リストを使って、鏡味完二と同じような問題意識で、検討が出来れば、大変興味深いことになります。
千葉県の古代地名(倭名鈔)を詳しく知るためには、倭名鈔による全国の古代地名情報が不可欠です。
万が一、倭名鈔地名の全国レベルリストが無ければ、自分で作りたいと思います。
3 地名の意味と残存しやすさの関係
鏡味完二の検討から、地域住民にとって好ましい意味・イメージの地名は残存しやすく、さらに拡散し、好ましくない意味・イメージの地名は残存しにくく、従って拡散も少ないということが判りました。
もし、全国レベルの倭名鈔地名データベースと現在地名データベースがあれば、特定の代表地名の検討ではなく、全地名について悉皆的に検討して、どのような意味・イメージの地名が残りやすいか、あるいは残りにくいかが、体系知識としてわかるようになると思います。
千葉県を対象にしたこの検討は既に可能です。
なお、この検討を深めていけば、地名が残存する要因として、単純な「好み」だけではない別のファクターについても思考を深めざるを得なくなると直観します。
地名というものが社会で果たす役割が浮かび上がるような気がします。
まず鏡味完二の検討を引用します。
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上代の地名(倭名鈔)と現在の地名の比較
今度は観方を変えて,昔と今の比較を行ってみる。
昔の地名として「倭名鈔」から求めたものを用いよう。
「倭名鈔」は今から1,000年余り前に著された文献であり,万葉仮名で地名の発音が示してあるから,古代の地名研究には重宝である。
それと現在の地名とを比較する場合に,各種の「倭名鈔」の地名のうち,個数は相当多くて,同時にその分布地域のはっきりした個性のあるものが適当である。
反対に広い地域に疎らに分布する地名は最も不適当である。
このような条件に合う地名として,余戸(Amarube)と神戸(Kambe,Kobe)と賀茂(Kamo)の3つをえらんだ。
余戸は最も減少した例,神戸は少し減つた例,賀茂は増加した例である。
余戸という地名は喜田博士によると,公民籍に漏れた者の総称として,「余り者」の義を以てよびならわしたものであるらしい。
余目,余部(Amabe),余戸の地名は,その賎民落伍者の集落であるとみるのである。
これに対して金沢博士は,孝徳天皇大化2年改新之詔中に,戸令に,凡戸以五十戸為里と定められその註釈として,「若満六十戸,割十戸立一里置長一人」とあるのを余戸と見るのである。
この両説を如何に見るべきかは,史家に委ねるとして,その何れにせよ,地名に佳字を用いる世の傾向からすれば,余戸は余りかんばしくない表記であったので,余吾などの文字に転ずる一方においては,この地名は改廃の運命を辿ったと思われる。
「倭名紗」に96郷あったこの地名が,余吾と淀を合せて53例の55%に減少している。
金沢博士によれば,YobeYokoの地名も同類であるとされるが,それらの地名は地図上に発見しえなかった。
次に神戸(Kambe)の地名を調べてみよう。
コーベ(神戸)はカンベの詑りであり,それにKobeという別の意味の方言はないから,ここに一緒に考えて差支ないであろう。
Godo(神戸,川渡,顔戸,…)は別の意味をもった言葉だから文字は神戸でもとらない。
それはGodoに佳字の「神戸」を宛てたのであって,佳字「神戸」を平凡な「谷川」の意味のGodoの訓みにすることは,地名発達の逆コ一スであるから認め難い。
果せるかなGodoはKambeとは異り関東山地を中心に集団する別の分布型である。(地図篇Fig.77)
「倭名鈔」の地名55に対して,現在とり出しえたもの35で,66%の減少である。
神戸とはロ分田を耕作する丈けの民であり,律令制(大宝令701年,倭名鈔の著されたより凡そ100年前)の神戸の制に基き,国家を通じて神社に奉仕したものをいうのである。
参考 ゴード
以上AmarubeとKambeの例では,恐らく「5万分の1地形図」に洩れているのではなく,共に減少したのであろう。
最も多く減少したAmarubeの分布にあっても,分布の形態には大した変化がなかったことに注目される。
その西南日本の分布限界線は,多少の異動をしているが,東北限界線は完全に1,000年前と一致している。
紳戸の分布でも,山口県の「倭名鈔」の地名が無くなっている外は,分布地城と分布密度に大した変化はない。
この2例で明らかなように,「5万分の1地形図」で得た資料を以て,1,000年前の地名を論じても,殆んど大過のないことが解るであろう。
最後にKamoの地名をみよう。
KamoはKami(神)と同根であるが,地名としては鳥の名の鴨の意もあり,蒲生(Gamou)という地名もあるから,ここではいま加茂,賀茂と鴨部の地名のみをとることとした。
「倭名鈔」の地名は30に対して,「5万分の1地形図」112で,3.7倍の増加である。
加茂は文字も語義も立派であるから,好んで地名に用いられたらしく,また恐らく加茂神社の勧請によって,地名が広がっていったものであろう。
この両分布図を較べてみると,3.7倍の著るしい個数の増加にも拘らず,その分布の形態が維持されてきたこと,東北日本への地名の伝播が大きかったこと,特に出雲から伊予に至る,「倭名鈔」Kamo・Kamobeの地名の西方限界線が,そのまま今も存在していること,「倭名鈔」のこの地名の1つ1つの位置に,現在もなおその地名が殆んど対照的に認められることなどを見ると,「5万分の1地形図」が古代の地名研究に役立つこと,また地名の土地定着性の強いことを充分承認しうるのである。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(初版1957年)(東洋書林)から引用
……………………………………………………………………
検討(感想)
1 全国レベルの倭名鈔地名検討文献の検索
鏡味完二の検討は60年前の検討です。
そのとき上記のような分布検討ができています。
その後の科学の進歩は著しいと考えますから、現在では倭名鈔地名のデータベースが構築され、あるいは誰かが作っていて、その空間的検討が進んでいると空想します。
素人なので、そのあたりの情報は全くないのですが、60年という歳月を考えると、そのように空想せざるをえません。
機会を見つけて、全国レベルでの倭名鈔地名の検討文献を検索してい見たいと思います。
2 倭名鈔地名データベースの入手
千葉県では倭名鈔の多数の版(異本)を検討して、郡・郷のリストを作成して、比定地の検討が行われています。(「千葉県の歴史 通史編 古代2」付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」)
現在この情報をGIS情報化しようとしてます。
この史料は地名に関わる史料を逐一リストアップしていて詳しいものです。
しかし、そのような詳しさではない、郡・郷名と比定地の概略程度の情報なら、全国レベルでつくられたものが必ずあるのではないかと想像します。
そのような全国レベルの倭名鈔地名リストを使って、鏡味完二と同じような問題意識で、検討が出来れば、大変興味深いことになります。
千葉県の古代地名(倭名鈔)を詳しく知るためには、倭名鈔による全国の古代地名情報が不可欠です。
万が一、倭名鈔地名の全国レベルリストが無ければ、自分で作りたいと思います。
3 地名の意味と残存しやすさの関係
鏡味完二の検討から、地域住民にとって好ましい意味・イメージの地名は残存しやすく、さらに拡散し、好ましくない意味・イメージの地名は残存しにくく、従って拡散も少ないということが判りました。
もし、全国レベルの倭名鈔地名データベースと現在地名データベースがあれば、特定の代表地名の検討ではなく、全地名について悉皆的に検討して、どのような意味・イメージの地名が残りやすいか、あるいは残りにくいかが、体系知識としてわかるようになると思います。
千葉県を対象にしたこの検討は既に可能です。
なお、この検討を深めていけば、地名が残存する要因として、単純な「好み」だけではない別のファクターについても思考を深めざるを得なくなると直観します。
地名というものが社会で果たす役割が浮かび上がるような気がします。
2016年6月11日土曜日
房総三国分郡図の学習用GISデータ作成
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)に掲載されている房総三国分郡図を、学習における各種作業用としてGISにプロットしました。
房総三国分郡図をGISに張り付けた様子
GISプロットは分郡図をGISに張り付け、界線をなぞって郡毎の面データを作成しました。
作成した分郡図のGISデータ
このGISデータにより、地名や遺跡などのデータをいつでも古代の郡と空間的に対応させて把握できますから、学習に大いに役立つと考えます。
同時に、今後より詳細な分郡図や郷分布図作成の基礎資料になると考えます。
なお、この分郡図の千葉郡と印播郡(文字「播」は「千葉県の歴史 通史編 古代2」による)の境をよく見ると、平戸川(現在の新川)付近が千葉郡になっていて、発掘から得られている情報と異なっていて、訂正されるべき情報のようです。
千葉郡と印播郡の境
なお、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)に掲載されている「国造の分布と主要な房総の古墳」図から、学習用GISデータとして国造の分布図も作成しました。
国造分布図
房総三国分郡図をGISに張り付けた様子
GISプロットは分郡図をGISに張り付け、界線をなぞって郡毎の面データを作成しました。
作成した分郡図のGISデータ
このGISデータにより、地名や遺跡などのデータをいつでも古代の郡と空間的に対応させて把握できますから、学習に大いに役立つと考えます。
同時に、今後より詳細な分郡図や郷分布図作成の基礎資料になると考えます。
なお、この分郡図の千葉郡と印播郡(文字「播」は「千葉県の歴史 通史編 古代2」による)の境をよく見ると、平戸川(現在の新川)付近が千葉郡になっていて、発掘から得られている情報と異なっていて、訂正されるべき情報のようです。
なお、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)に掲載されている「国造の分布と主要な房総の古墳」図から、学習用GISデータとして国造の分布図も作成しました。
国造分布図
2016年6月10日金曜日
房総南端の地名 布良(メラ)
2016.06.09記事「発想メモ 古代地名「イラ」の意味に関する疑問」でイラは崖、エラは洞穴であると考えました。
イラの房総例として「イラゴ」「イラセ」「イラタ」を挙げ、エラの例として「メラ」(布良)を挙げました。
この記事ではメラについて検討します。
1 メラが洞穴を指す言葉である理由
布良(メラ)がエラと同根の言葉で洞穴を表す理由は次の2点です。
1 音韻的にエラ、メラが似ている。(古代人が使った洞穴を表現する言葉Xが、瀬戸内海西部ではエラとなり、近畿から東日本ではメラとなったと考えます。)
2 布良(メラ)付近に考古・歴史的意義の大きな洞穴遺跡が3つ存在していて、地名との関わりが示唆される。
1は専門的知識がないので、現時点ではそれ以上の検討はできません。
2の地名と関わると考えられる洞穴遺跡を紹介します。
ア 布良洞穴遺跡
縄文時代石斧出土
イ 布良の海食洞と鐘乳石
昭和52年、「安房自然村」内で、土木工事の際に発見された海食洞穴群で、崩壊土砂に入口をふさがれていた。
旧海食崖の基部、標高23.5メートルの所にあり、大小7洞が確認された。
このうち3洞に鍾乳石が発達していた。
この海食洞群は、沖積世に海食崖基部に作られた洞穴が隆起したもので、奥行12.5メートル、奥行7.8メートルの規模の大きな2洞には、鍾乳石の発達がよく、鍾乳石、石柱、石筍(じゅん)、ひだ状、カーテン状の石灰幕等がよく発達している。
これらの鍾乳石等は、洞穴の周囲の中新世千倉累層の畑互層に含まれる石灰分が地下水により洞穴壁に浸み出し折出(せきしゅつ)した結果形成されたものである。
県指定文化財
ウ 安房神社洞窟遺跡
房総半島の南端、安房神社の境内に所在するこの洞窟は、全長約11メートル、高さ約2メートル、幅約1.5メートルで、東北部に開口部をもつ海蝕洞であるが、現在は地表面から約1メートル下方にある。
昭和7年に井戸の開削工事をおこなったとき始めて洞窟が発見され、昭和7年に緊急学術調査が実施された結果、人骨22体、貝輪、(193個)、小玉(3個)と弥生式土器若干が発見された。
特に、人骨の成人骨中、齶骨(かくこつ)15例に抜歯の痕跡が認められたことは、当時の習俗を知るうえで貴重な資料として注目されている。
県指定文化財
(アイウとも「ふさの国ナビゲーション」から引用)
この3つの洞穴遺跡の場所を次に示します。
布良と洞穴遺跡
Google Earth引用
洞穴遺跡の位置
Google Earth引用
洞穴遺跡の位置
Google Earth引用
メラは房総だけでなく、伊豆半島、紀伊半島にもあり、そこから人々が房総まで移動したと昔から考えられてきています。
動画 紀伊半島-伊豆半島-房総のメラ
2 谷川健一のメラ=布浦(めうら)説について
谷川健一の「日本の地名」(岩波新書、1997)に「「メラ」の地名」という小項目があり、メラ地名の由来に触れています。
谷川健一「日本の地名」(岩波新書)
……………………………………………………………………
「メラ」の地名
南伊豆町にある妻良(めら)の名は「東鑑」にも見える。
一つの湾の中に妻良と子浦が向い会っている。
その双方に日和山のあることはすでに述べた。
妻良は妻浦(めうら)とも言う。
妻浦と子浦とは三島大神の后神と御子神の鎮座するところから起った名であるという説がある。
伊豆の地名を三島神と関連させて説明する例は多い。
たとえば、下田市の吉佐美(きさみ)は、鉗(きさ)すなわち赤貝がこの地に多いところから鉗の海と称していたのが短縮したものという説がある。
その一方では「増訂豆州史稿」に記されているように吉佐美は后宮(きさきみや)の省略で、三島大神の后神の鎮座地から起った名だという説もある。
私にはこのほうが説得的に見える。
吉佐美はともかくとして、妻良のばあいは安房にも布良(めら)があることから、それを三島神の妻と結びつけて済ますわけにはいかない。
房州の布良は房総半島の突端にあって館山市に属し、近くに太玉命(ふとだまのみこと)をまつる安房神社がある。
「古語拾遺」には、天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部をひきいて東国に移住し、安房の国に太玉命の神社をたてたとある。
これは海上の道を通って、西国から東国へ移住のおこなわれたことを示すものであろう。
ここで思い起こされるのは、三島大神の本后で神津島に鎮座する阿波神のことである。
「三宅記」には新島は潮の泡をあつめてつくった島と説明されているが、阿波神のばあいは潮の泡とも思われない。
やはりなにがしか、阿波の国の人びとの移住と関連があるのではなかろうか。
安房の布良は伊豆の妻良とをつなげるだけでなく、さらに紀伊の目良(めら)(和歌山県田辺市)からの住人が移住したという説もある。
しかし布(め)は一般にアラメ・ワカメなど食用になる海藻をさす。
そこで海藻のよく採れる浦が布浦(めうら)であって、それが布良になったとも考えられる。
そうすると伊豆の妻良も、紀伊の目良ももとは布良であったのではないかと思われないでもない。
いずれにしても同じ地名があるからといってそれをそのまま西から東へと移住した人びとの足跡と断ずるのはむずかしいのである。
しかし安房と伊豆が三浦半島を媒介として交流があったことはたしかである。
下田から江戸へいく廻船は沖に出るか、伊豆半島に上陸して網代から三浦半島の三崎へと十九里の海をわたったという。
館山市の川名という地名も伊東市の川奈(川名とも書く)と関連があり、人の移動もあったと考えられる。
川奈という姓は安房に多く、三浦半島にも見受けられる。
館山市川名の北にある須崎も下田市の須崎と交流があったと見るのは自然である。
谷川健一「日本の地名」(岩波新書)から引用
太字は引用者
……………………………………………………………………
布良のめ(布)は食用となる海藻をさすから、海藻のよくとれる浦を布浦(めうら)と呼び、それが短縮してメラになった「とも考えられる」という説です。
地名学大家の説を素人が批判するドン・キホーテとなりますが、この説はいただけないと思います。
紀伊、伊豆、安房と人々が移住してきて、最初に見つけた岬付近の地名に、食用となる海藻に因んだ言葉を付けるとは、あまりに萎縮した発想です。
人々は食用となる海藻を求めて移住してきたわけではありませんから、たとえ食用になる海藻が豊富でも、それを地名につけることはないと思います。
海藻が採れやすい、採れにくいという条件の相違は海岸毎にあるとは思いますが、それを遠方からやってきた移住者が最初に地名で表現するとは考え難いことです。
移住した場所で確実に生活・生存するために、最も切実な条件が整っていることを地名にしたと考えるのが妥当であると考えます。
そのような観点から、布良(メラ)は生活の本拠地である洞穴の存在を意味すると考えることが妥当であると考えます。
イラの房総例として「イラゴ」「イラセ」「イラタ」を挙げ、エラの例として「メラ」(布良)を挙げました。
この記事ではメラについて検討します。
1 メラが洞穴を指す言葉である理由
布良(メラ)がエラと同根の言葉で洞穴を表す理由は次の2点です。
1 音韻的にエラ、メラが似ている。(古代人が使った洞穴を表現する言葉Xが、瀬戸内海西部ではエラとなり、近畿から東日本ではメラとなったと考えます。)
2 布良(メラ)付近に考古・歴史的意義の大きな洞穴遺跡が3つ存在していて、地名との関わりが示唆される。
1は専門的知識がないので、現時点ではそれ以上の検討はできません。
2の地名と関わると考えられる洞穴遺跡を紹介します。
ア 布良洞穴遺跡
縄文時代石斧出土
イ 布良の海食洞と鐘乳石
昭和52年、「安房自然村」内で、土木工事の際に発見された海食洞穴群で、崩壊土砂に入口をふさがれていた。
旧海食崖の基部、標高23.5メートルの所にあり、大小7洞が確認された。
このうち3洞に鍾乳石が発達していた。
この海食洞群は、沖積世に海食崖基部に作られた洞穴が隆起したもので、奥行12.5メートル、奥行7.8メートルの規模の大きな2洞には、鍾乳石の発達がよく、鍾乳石、石柱、石筍(じゅん)、ひだ状、カーテン状の石灰幕等がよく発達している。
これらの鍾乳石等は、洞穴の周囲の中新世千倉累層の畑互層に含まれる石灰分が地下水により洞穴壁に浸み出し折出(せきしゅつ)した結果形成されたものである。
県指定文化財
ウ 安房神社洞窟遺跡
房総半島の南端、安房神社の境内に所在するこの洞窟は、全長約11メートル、高さ約2メートル、幅約1.5メートルで、東北部に開口部をもつ海蝕洞であるが、現在は地表面から約1メートル下方にある。
昭和7年に井戸の開削工事をおこなったとき始めて洞窟が発見され、昭和7年に緊急学術調査が実施された結果、人骨22体、貝輪、(193個)、小玉(3個)と弥生式土器若干が発見された。
特に、人骨の成人骨中、齶骨(かくこつ)15例に抜歯の痕跡が認められたことは、当時の習俗を知るうえで貴重な資料として注目されている。
県指定文化財
(アイウとも「ふさの国ナビゲーション」から引用)
この3つの洞穴遺跡の場所を次に示します。
布良と洞穴遺跡
Google Earth引用
洞穴遺跡の位置
Google Earth引用
洞穴遺跡の位置
Google Earth引用
動画 紀伊半島-伊豆半島-房総のメラ
2 谷川健一のメラ=布浦(めうら)説について
谷川健一の「日本の地名」(岩波新書、1997)に「「メラ」の地名」という小項目があり、メラ地名の由来に触れています。
谷川健一「日本の地名」(岩波新書)
……………………………………………………………………
「メラ」の地名
南伊豆町にある妻良(めら)の名は「東鑑」にも見える。
一つの湾の中に妻良と子浦が向い会っている。
その双方に日和山のあることはすでに述べた。
妻良は妻浦(めうら)とも言う。
妻浦と子浦とは三島大神の后神と御子神の鎮座するところから起った名であるという説がある。
伊豆の地名を三島神と関連させて説明する例は多い。
たとえば、下田市の吉佐美(きさみ)は、鉗(きさ)すなわち赤貝がこの地に多いところから鉗の海と称していたのが短縮したものという説がある。
その一方では「増訂豆州史稿」に記されているように吉佐美は后宮(きさきみや)の省略で、三島大神の后神の鎮座地から起った名だという説もある。
私にはこのほうが説得的に見える。
吉佐美はともかくとして、妻良のばあいは安房にも布良(めら)があることから、それを三島神の妻と結びつけて済ますわけにはいかない。
房州の布良は房総半島の突端にあって館山市に属し、近くに太玉命(ふとだまのみこと)をまつる安房神社がある。
「古語拾遺」には、天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部をひきいて東国に移住し、安房の国に太玉命の神社をたてたとある。
これは海上の道を通って、西国から東国へ移住のおこなわれたことを示すものであろう。
ここで思い起こされるのは、三島大神の本后で神津島に鎮座する阿波神のことである。
「三宅記」には新島は潮の泡をあつめてつくった島と説明されているが、阿波神のばあいは潮の泡とも思われない。
やはりなにがしか、阿波の国の人びとの移住と関連があるのではなかろうか。
安房の布良は伊豆の妻良とをつなげるだけでなく、さらに紀伊の目良(めら)(和歌山県田辺市)からの住人が移住したという説もある。
しかし布(め)は一般にアラメ・ワカメなど食用になる海藻をさす。
そこで海藻のよく採れる浦が布浦(めうら)であって、それが布良になったとも考えられる。
そうすると伊豆の妻良も、紀伊の目良ももとは布良であったのではないかと思われないでもない。
いずれにしても同じ地名があるからといってそれをそのまま西から東へと移住した人びとの足跡と断ずるのはむずかしいのである。
しかし安房と伊豆が三浦半島を媒介として交流があったことはたしかである。
下田から江戸へいく廻船は沖に出るか、伊豆半島に上陸して網代から三浦半島の三崎へと十九里の海をわたったという。
館山市の川名という地名も伊東市の川奈(川名とも書く)と関連があり、人の移動もあったと考えられる。
川奈という姓は安房に多く、三浦半島にも見受けられる。
館山市川名の北にある須崎も下田市の須崎と交流があったと見るのは自然である。
谷川健一「日本の地名」(岩波新書)から引用
太字は引用者
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布良のめ(布)は食用となる海藻をさすから、海藻のよくとれる浦を布浦(めうら)と呼び、それが短縮してメラになった「とも考えられる」という説です。
地名学大家の説を素人が批判するドン・キホーテとなりますが、この説はいただけないと思います。
紀伊、伊豆、安房と人々が移住してきて、最初に見つけた岬付近の地名に、食用となる海藻に因んだ言葉を付けるとは、あまりに萎縮した発想です。
人々は食用となる海藻を求めて移住してきたわけではありませんから、たとえ食用になる海藻が豊富でも、それを地名につけることはないと思います。
海藻が採れやすい、採れにくいという条件の相違は海岸毎にあるとは思いますが、それを遠方からやってきた移住者が最初に地名で表現するとは考え難いことです。
移住した場所で確実に生活・生存するために、最も切実な条件が整っていることを地名にしたと考えるのが妥当であると考えます。
そのような観点から、布良(メラ)は生活の本拠地である洞穴の存在を意味すると考えることが妥当であると考えます。
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