1 鏡味完二の検討 地名型「別所」
鏡味完二が60年前に検討した、地名型「別所」を参考として引用します。
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Bessyoの地名
別所は別府と同類の地名と思われがちであったが,それは全く別個の意味をもっていることが,菊池山哉氏の研究によって明らかになった。
別所という地名は「奥州の夷俘を移配した所」の意味で,平安時代のものであることは,同氏による全国の200余に達ずるこの地名についての,詳細な研究の結論である。
Ezoの俘囚を用いて土地を開墾させたことは,歴史上の顕著な事実であるから,この地名を開墾地名として考えることについては充分の理由となる。
著者は文献によるEzoの移住地(国別)を線影をもって示し,"別所"の地名分布と対照してみた〔地図篇,Fig.54〕が,この両者すなわち,地名の現在の地理的分布と歴史的資料との間に,快よい合致を見出すことができた。
この地名分布の粗密によって地域区分をすれば(Fig.22No.9)広島~利根川の地域が当時の開拓地域で,また開拓縁辺地域は北は遠く陸奥に達し,南は中九州までとなる。
やはり近畿中心の分布Patternであること,前項の地名型と変りはない。
"別府"の地名は柳田説のように,追加開墾の地名であるらしく,福島県では"別符"が慶長4年の荒地開墾であることが知られており,"別府"地名の密集したところが,鹿児島県であることからみても,この地名型は"別所"よりも新らしいものと考えられよう。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
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鏡味完二の説では地名「別所」は蝦夷戦争等で獲得した俘囚を動員して実施した全国僻地の開拓地ということになります。
2 千葉県における地名「別所」の検索結果
千葉県小字データベースから地名「別所」を検索すると次のような結果となります。
「別所」検索結果
地名「別所」の分布をみると、古代郷の境界付近や地形の険しいところ等古代における僻地(開墾対象地)と想定されるようなものが多いので、鏡味完二の説が首肯できるような感覚をもつことができます。
なお、別所と「ウタリ」「コタン」等とは1個所を除いて場所が一致あるいは近接する例がありません。
別所が俘囚蝦夷の所在を、「ウタリ」「コタン」等が在地の縄文人末裔の所在を示すとすると、それが一致しないことは政権の蝦夷政策として当然です。
1個所だけそれが一致する場所があることは不思議です。
もし俘囚蝦夷と在地縄文人末裔が同じ場所で生活すれば、文化的に通じる同族の間柄ですから、政権にとっては好ましくない化学反応が生まれるにちがいありません。
後の時代に俘囚蝦夷と在地縄文人末裔の区別が判らなくなり、政権サイドの呼び名が混乱し、それが地名に反映したのかもしれません。
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