西根遺跡で縄文時代土器送りが陸域だけでなく、水域(水中)でも行われたことを既に述べました。
2017.05.11記事「西根遺跡 土器集中域詳細把握と問題意識」参照
また水域(水中)の土器送り場(土器集中地点)の分布図を作成して検討しました。
2017.05.12記事「西根遺跡 土器集中域の分類(試案)」参照
この縄文時代水域(水中)土器送りの習俗が平安時代まで受け継がれていたことが発掘調査報告書で判明していますので、メモしておきます。
次の図は西根遺跡の奈良時代後半~平安時代の土器分布と特徴図です。
西根遺跡の奈良時代後半~平安時代の土器分布と特徴
奈良時代後半~平安時代においても盛んに戸神川水面に土器(多くは墨書土器)が置かれて(投げ込まれて)います。
縄文時代後期の土器集中域と同じように生活のなかで実際に使われた実用土器がほとんどで、同時に生活改善祈願の道具と推定される墨書土器が過半以上でもあります。
縄文時代後期の水中土器送りと奈良・平安時代の水中土器投げ込みが全く同じ趣旨であるかどうかという点は大いに検討の余地があると思います。
しかし、縄文時代後期の習俗が奈良・平安時代まで戸神川という同じ舞台で延々と引き継がれてきたことが推察できます。
縄文時代後期の土器送りでの祈願内容は例えば「集落の権威を高める翡翠の入手」といった社会的なものであり、奈良・平安時代の水中土器投げ込みでの祈願内容は「自分や家族の健康や生活向上」といった私的なものであるという違いはありうると考えます。
社会的なものと私的なものという違いはありますが、個々人の切実な祈願であるという点では同じであったと思います。
祈願内容は時間が流れるなかで、いろいろなものに変化するけれども、水中に土器を置いて祈願するという行為(習俗)は連綿と伝わったと考えます。
西根遺跡の中近世流路では銭貨が沢山出土しています。
西根遺跡中近世流路から出土した銭貨
平安時代まで続いた水中土器送り(土器投げ込み)習俗は中近世になると戸神川への銭貨投げ込みに形を変えたものと考えます。
戸神川は縄文時代から中近世まで水際祭祀の場として継続していたのです。
2017年5月13日土曜日
2017年5月12日金曜日
西根遺跡 土器集中域の分類(試案)
1 陸域、想定水面域別にみた土器集中域
土器集中域を陸域と流路1水面想定域別に色分けしてその関係をわかるようにしました。
土器集中域 1
土器集中域 2
土器集中域 3
土器集中域は流路1沿岸に分布し陸域にある部分の面積がほとんどです。
しかし、その一部が水面にかかったり、その近くの水面に土器集中域が存在している所が多くなっています。
水面に存在する土器集中域は発掘調査報告書では陸域からの「流出」として捉えていますが、それは間違いであることを2017.05.11記事「西根遺跡 土器集中域詳細把握と問題意識」で述べました。
そもそもこの付近の戸神川では流水の力が土器を動かせないと考えています。
仮に流水が土器を動かすだけの力をもっているとしても、川沿いの土器は川から離れた場所に運ばれます。(しかし、そのような事例は分布図から見つかりません。)
水面に位置する土器は全て水面で送られたと考えます。
2 土器集中域分類
さて、ほとんどの土器が川沿いの陸域空間で送られたのに、一部の土器が水面で送られています。
そして、よく観察するとほとんどの陸域土器集中は水面にもかかるのですが、水面にかからないものもあります。
土器送りの際の好みがあるようです。
また陸域の土器送りでも、土器を面的に集中させる場合と塊状にあちらこちらに置く場合とがあるようです。これも土器送りの好みです。
この2つの好み(水面にかかるか否か、面的か塊状か)の組み合わせで土器集中域を分類すれば、それが土器送りの好みという合理的理由に基づく土器集中域単位の抽出につながると考えます。
分類結果つまり土器集中域単位は個別の土器送りプロジェクトに対応すると考えます。
このような考えから次の基準で土器集中域を分類してみました。
分類基準 (陸域土器集中の分布形状、流路内に係るか否か)
A 面的、流路内なし
B 面的、流路内あり
C 塊状、流路内なし
D 塊状、流路内あり
E 流路内のみ
土器集中域分類 1
土器集中域分類 2
土器集中域分類 3
Aが3か所、Bが5か所、Cが7か所、Dが9カ所、Eが2カ所抽出されました。
それぞれの箇所が個別土器送りプロジェクトの結果であると想像します。
それぞれのプロジェクトは準備段階のものから途中のものがほとんどで、ほぼ完成したもの(構想した敷地を全部土器で埋め尽くした場所)は四角形のものを含めて少数だと考えます。
西根遺跡の継続期間は300年間と推定されていますから、土器送りプロジェクトは300/26=11.5年となり約12年間隔で行われたことになります。
左右岸別々に集計すると左岸7、右岸17、河道2となり、左岸は約43年間/1回、右岸は約18年間/1回行われたことになります。
……………………………………………………………………
参考 現在の戸神川
現在の戸神川
現在の戸神川
土器集中域を陸域と流路1水面想定域別に色分けしてその関係をわかるようにしました。
土器集中域 1
土器集中域 2
土器集中域 3
土器集中域は流路1沿岸に分布し陸域にある部分の面積がほとんどです。
しかし、その一部が水面にかかったり、その近くの水面に土器集中域が存在している所が多くなっています。
水面に存在する土器集中域は発掘調査報告書では陸域からの「流出」として捉えていますが、それは間違いであることを2017.05.11記事「西根遺跡 土器集中域詳細把握と問題意識」で述べました。
そもそもこの付近の戸神川では流水の力が土器を動かせないと考えています。
仮に流水が土器を動かすだけの力をもっているとしても、川沿いの土器は川から離れた場所に運ばれます。(しかし、そのような事例は分布図から見つかりません。)
水面に位置する土器は全て水面で送られたと考えます。
2 土器集中域分類
さて、ほとんどの土器が川沿いの陸域空間で送られたのに、一部の土器が水面で送られています。
そして、よく観察するとほとんどの陸域土器集中は水面にもかかるのですが、水面にかからないものもあります。
土器送りの際の好みがあるようです。
また陸域の土器送りでも、土器を面的に集中させる場合と塊状にあちらこちらに置く場合とがあるようです。これも土器送りの好みです。
この2つの好み(水面にかかるか否か、面的か塊状か)の組み合わせで土器集中域を分類すれば、それが土器送りの好みという合理的理由に基づく土器集中域単位の抽出につながると考えます。
分類結果つまり土器集中域単位は個別の土器送りプロジェクトに対応すると考えます。
このような考えから次の基準で土器集中域を分類してみました。
分類基準 (陸域土器集中の分布形状、流路内に係るか否か)
A 面的、流路内なし
B 面的、流路内あり
C 塊状、流路内なし
D 塊状、流路内あり
E 流路内のみ
土器集中域分類 1
土器集中域分類 2
土器集中域分類 3
Aが3か所、Bが5か所、Cが7か所、Dが9カ所、Eが2カ所抽出されました。
それぞれの箇所が個別土器送りプロジェクトの結果であると想像します。
それぞれのプロジェクトは準備段階のものから途中のものがほとんどで、ほぼ完成したもの(構想した敷地を全部土器で埋め尽くした場所)は四角形のものを含めて少数だと考えます。
西根遺跡の継続期間は300年間と推定されていますから、土器送りプロジェクトは300/26=11.5年となり約12年間隔で行われたことになります。
左右岸別々に集計すると左岸7、右岸17、河道2となり、左岸は約43年間/1回、右岸は約18年間/1回行われたことになります。
……………………………………………………………………
参考 現在の戸神川
現在の戸神川
現在の戸神川
2017年5月11日木曜日
西根遺跡 土器集中域詳細把握と問題意識
現在、大膳野南貝塚の学習と西根遺跡に学習を平行して実施しています。
この記事は西根遺跡学習に関するものです。
1 発掘調査報告書における西根遺跡土器集中域情報
発掘調査報告書では土器集中域に関して次の詳細図を掲載しています。とても詳しく内容が豊富な情報です。
土器集中地点検出状況・土層断面図1
「印西市西根遺跡」(2005)より引用
土器集中地点検出状況・土層断面図2
「印西市西根遺跡」(2005)より引用
土器集中地点検出状況・土層断面図3
「印西市西根遺跡」(2005)より引用
土器集中域の平面分布を見ると大変変化に富んでいます。
点線のように分布していて、それが円環状になっていたり、線上になっているものもあります。
直角がみられる分布域もあります。
さらに水域に孤立して分布しているものあります。
河川ですから洪水で土器が流されたとも考えますがあまりに不自然です。
2 情報整理
平面分布形だけからでは理解が深まりませんので、土層断面図を詳細に検討してみました。
上記図面では断面図が二つに分断されていたり、断面位置と断面図のページがことなっていたり、土層断面図とその凡例の場所がずれています。
そのため、私の頭脳容量では全体像を直観的に把握できないので、情報を一目でわかるように図面を整理しました。
情報整理図1
情報整理図2
情報整理図3
この情報整理図を熟読して、さらに発掘調査報告書文章記述を熟読して、同時に過去のさまざま河道との位置関係との対応を子細に検討しました。
その結果、判ったことや問題意識が芽生えたので、とりあえずそれをメモとして次に生でまとめました。
3 土器集中域に関する問題意識
私の「問題意識」図1
2017.05.11
私の「問題意識」図2
2017.05.11
私の「問題意識」図3
2017.05.11
図の番号について説明します。
1 水路「流出」は間違い
発掘調査報告書では流路1(縄文時代河道)に存在する土器は全て陸域からの「流出」として記述しています。
この記述は次の理由から間違いであることに気が付きました。
・この付近の戸神川は緩勾配で普段は水量が少なく、水流は土器を流せない。
・洪水時には印旛沼と同じ水位になり、流れがなく、土器を動かせない。
・発掘調査報告書では、流水中に土器を置いて「送る」という行為の存在に気が付いていない。
奈良平安時代の墨書土器もその時代の流路内に(復元すれば)ほぼ完形(になる姿)で沢山置かれています。
2016.06.10記事「西根遺跡 出土物から見る空間特性 その2」参照
水路内の土器集中はほとんど全て流水中に土器を置いて送ったものと考えます。
今後詳しく検討します。
2 円形境界線
土器を円形に置いて、その範囲内を土器送り場とするプロジェクトがあって、順次土器を持ち込んだ跡であるように想像しています。
円形が完成する前にプロジェクトは消滅したのだと思います。
円形境界線は発掘調査報告書では触れられていません。
3 直線境界線
土器を直線状において、土器送り場の境界を示したものであると想像します。
線状に並んだ土器が流水によってもたらされたという考えは完全に否定できると考えます。
直線境界線は発掘調査報告書では触れられていません。
4 四辺形
四辺形の存在は発掘調査報告書で着目しています。
なぜ四辺形になるのか興味が深まります。
四辺形は2円形境界線の下流に位置しています。
土器送り場の空間設計が、時代の流れの中で円形から四辺形に変化したことが想定できます。
社会の激しい変化を象徴しているように感得できます。
また円形は完成していないのに、四辺形は完成しているものもあり、さらに勢いが感じられます。
さらに四辺形は右岸(西岸)だけで、両岸ペアになっていません。
右岸(西岸)の土器送り場を担当した母集落がどこであるか、興味が湧きます。
5 散漫分布
土器集中が塊になるのではなく、散漫に分布することの意味について今後検討を深めていきます。
端から土器を隙間なく並べる方法と、好き勝手にあちらこちらに並べる方法の違いの背後にあるものに興味が湧きます。
6 両岸ペア
7 片岸偏在
上流域では両岸ペア、中下流域では片岸偏在のようになっていて、最初は仲良く両岸で土器送り場を作っていたのが、途中から右岸と左岸の土器送り場の場所を一緒にしなくなったように感じられます。
右岸側(西岸側)の土器送り場は印旛沼右岸(南岸)に位置する集落が、左岸側(東岸側)の土器送り場は印旛沼左岸(北岸)に位置する集落が担当していたと空想すると、印旛沼圏社会統制の時代変化があったのかもしれません。
印旛沼圏社会における集落間力関係の変化があったのかもしれません。
8 北北西方向
直線境界線と土器集中域の離れた二つの方向が北北西を向いていて一致します。
何か意味があるものと考えます。
これらの問題意識は今後土器形式等の学習を踏まえて、順次詳しく検討します。
この記事は西根遺跡学習に関するものです。
1 発掘調査報告書における西根遺跡土器集中域情報
発掘調査報告書では土器集中域に関して次の詳細図を掲載しています。とても詳しく内容が豊富な情報です。
土器集中地点検出状況・土層断面図1
「印西市西根遺跡」(2005)より引用
土器集中地点検出状況・土層断面図2
「印西市西根遺跡」(2005)より引用
土器集中地点検出状況・土層断面図3
「印西市西根遺跡」(2005)より引用
土器集中域の平面分布を見ると大変変化に富んでいます。
点線のように分布していて、それが円環状になっていたり、線上になっているものもあります。
直角がみられる分布域もあります。
さらに水域に孤立して分布しているものあります。
河川ですから洪水で土器が流されたとも考えますがあまりに不自然です。
2 情報整理
平面分布形だけからでは理解が深まりませんので、土層断面図を詳細に検討してみました。
上記図面では断面図が二つに分断されていたり、断面位置と断面図のページがことなっていたり、土層断面図とその凡例の場所がずれています。
そのため、私の頭脳容量では全体像を直観的に把握できないので、情報を一目でわかるように図面を整理しました。
情報整理図1
情報整理図2
情報整理図3
この情報整理図を熟読して、さらに発掘調査報告書文章記述を熟読して、同時に過去のさまざま河道との位置関係との対応を子細に検討しました。
その結果、判ったことや問題意識が芽生えたので、とりあえずそれをメモとして次に生でまとめました。
3 土器集中域に関する問題意識
私の「問題意識」図1
2017.05.11
私の「問題意識」図2
2017.05.11
私の「問題意識」図3
2017.05.11
図の番号について説明します。
1 水路「流出」は間違い
発掘調査報告書では流路1(縄文時代河道)に存在する土器は全て陸域からの「流出」として記述しています。
この記述は次の理由から間違いであることに気が付きました。
・この付近の戸神川は緩勾配で普段は水量が少なく、水流は土器を流せない。
・洪水時には印旛沼と同じ水位になり、流れがなく、土器を動かせない。
・発掘調査報告書では、流水中に土器を置いて「送る」という行為の存在に気が付いていない。
奈良平安時代の墨書土器もその時代の流路内に(復元すれば)ほぼ完形(になる姿)で沢山置かれています。
2016.06.10記事「西根遺跡 出土物から見る空間特性 その2」参照
水路内の土器集中はほとんど全て流水中に土器を置いて送ったものと考えます。
今後詳しく検討します。
2 円形境界線
土器を円形に置いて、その範囲内を土器送り場とするプロジェクトがあって、順次土器を持ち込んだ跡であるように想像しています。
円形が完成する前にプロジェクトは消滅したのだと思います。
円形境界線は発掘調査報告書では触れられていません。
3 直線境界線
土器を直線状において、土器送り場の境界を示したものであると想像します。
線状に並んだ土器が流水によってもたらされたという考えは完全に否定できると考えます。
直線境界線は発掘調査報告書では触れられていません。
4 四辺形
四辺形の存在は発掘調査報告書で着目しています。
なぜ四辺形になるのか興味が深まります。
四辺形は2円形境界線の下流に位置しています。
土器送り場の空間設計が、時代の流れの中で円形から四辺形に変化したことが想定できます。
社会の激しい変化を象徴しているように感得できます。
また円形は完成していないのに、四辺形は完成しているものもあり、さらに勢いが感じられます。
さらに四辺形は右岸(西岸)だけで、両岸ペアになっていません。
右岸(西岸)の土器送り場を担当した母集落がどこであるか、興味が湧きます。
5 散漫分布
土器集中が塊になるのではなく、散漫に分布することの意味について今後検討を深めていきます。
端から土器を隙間なく並べる方法と、好き勝手にあちらこちらに並べる方法の違いの背後にあるものに興味が湧きます。
6 両岸ペア
7 片岸偏在
上流域では両岸ペア、中下流域では片岸偏在のようになっていて、最初は仲良く両岸で土器送り場を作っていたのが、途中から右岸と左岸の土器送り場の場所を一緒にしなくなったように感じられます。
右岸側(西岸側)の土器送り場は印旛沼右岸(南岸)に位置する集落が、左岸側(東岸側)の土器送り場は印旛沼左岸(北岸)に位置する集落が担当していたと空想すると、印旛沼圏社会統制の時代変化があったのかもしれません。
印旛沼圏社会における集落間力関係の変化があったのかもしれません。
8 北北西方向
直線境界線と土器集中域の離れた二つの方向が北北西を向いていて一致します。
何か意味があるものと考えます。
これらの問題意識は今後土器形式等の学習を踏まえて、順次詳しく検討します。
2017年5月9日火曜日
西根遺跡の母体となる周辺遺跡
西根遺跡から大量出土(102100片、想定土器個体数1150個体~1200個体)する土器は全て加曽利B式期のものです。
発掘調査報告書では西根遺跡周辺の縄文時代後期加曽利B式期遺跡情報が掲載されているので学習します。
1 発掘調査報告書の記述
発掘調査報告書の図及び文章から西根遺跡付近の加曽利B式期の遺跡を図示してみました。
縄文時代後期加曽利B式期の遺跡
「印西市西根遺跡」(2005)から引用追記
発掘調査報告書では次のような説明を行っています。
……………………………………………………………………
(1)縄文時代後期加曽利B式期の遺跡
この時期の遺跡については、まとまった資料がみられる遺跡としては、昭和49年に発掘調査、昭和58年に分布調査が行われた佐山貝塚(62)が挙げられる。
縄文時代後期称名寺式~晩期前浦式にわたる土器がみられ、その中でも加曽利B式土器の散布が多い遺跡である。
貝塚は東西約140m、南北200mの範囲にわたって形成されており、加曽利B式期の拠点的な遺跡と考えられ、注目される。
分布図の中で発掘調査報告書が刊行され、加曽利B式土器の出土が報じられている遺跡を列記すると、船尾白幡遺跡(31)では竪穴住居跡1軒と土坑1基、加曽利B式土器Ⅰ~Ⅱ式の土器が検出され、注口土器と考えられる小破片が出土している。
鳴神山遺跡(30)は遺構はみられず、加曽利B式土器は5片の報告であり、極めて微弱な散布傾向である。
印西市松崎Ⅱ遺跡(38)からは18個体分、91片の土器がグリッドからややまとまった形で検出されている。
印西市松崎Ⅰ遺跡(37)では26片の出土報告がなされ、八千代市島田込の内遺跡(72)からは4片の粗製土器片の報告例、八千代市向境遺跡(82)からは数片、八千代市真木野向山遺跡(59)では小破片、八千代市間見穴遺跡(67)では18個体分、印西市船尾町田遺跡(32)から11個体分、印西市向新田遺跡(28)では1片の出土が報告されている。
本遺跡に関連する集落については、上流域の船尾白幡遺跡周辺に求められる可能性がある。
土器については、上記のように周辺には当該期の遺跡が数多く点在するが、本遺跡の土器群と対比できるような遺物を有する遺跡は見当たらないのが現状である。
「印西市西根遺跡」(2005)から引用
…………………………………………………………………
加曽利B式土器出土状況等を分布図に記入すると次のようになります。
縄文時代後期加曽利B式期の遺跡と加曽利B式期遺構・遺物
「印西市西根遺跡」(2005)から引用追記
2 西根遺跡と周辺遺跡との関係考察
発掘調査報告書では「本遺跡に関連する集落については、上流域の船尾白幡遺跡周辺に求められる可能性がある。」と見立てています。
その見立ての根拠が薄弱である理由をメモしておきます。
2-1 船尾白幡遺跡周辺に加曽利B式期集落が見当たらない。
船尾白幡遺跡から出土した竪穴住居祉は1軒だけです。調査面積が拡大すれば加曽利B式期の竪穴住居祉は増える可能性はありますが、その増大分の数が飛躍的なものになる可能性は望み薄であると考えます。
鳴神山遺跡では遺構が見つかっていません。
船尾白幡遺跡付近で今後拠点的な縄文時代遺跡が見つかる可能性は無いと考えられます。
2-2 船尾白幡遺跡の少数竪穴住居が300年間に土器を少しずつ貯めた可能性はない
発掘調査報告書では少数の竪穴住居から毎年少しずつ土器を出せば、300年間の間にはこれだけの土器が貯まるという思考を文章にしています。
しかしそのような事象は土器送りに次のような強い社会規制が働いていることからあり得ないと考えます。
・祭祀用土器が全く出土しない。
・土製品がほとんど出土しない。
・石器がほとんど出土しない。
河川沿岸という特殊な土器送り場に強い特殊な社会規制が300年間にわたって働いているのですが、このような社会規制を数軒とか多くて10軒とかの縄文集落が300年間保持し続け、毎年4個の使用済み土器を並べたということは到底考えられません。
拠点的集落とか拠点的集落の連合である地域そのものでないとこれだけの社会規制を300年間保持し続けることは不可能であると考えます。
船尾白幡遺跡に存在する加曽利B式期竪穴住居は、西根遺跡という広域土器送り場の管理人居住地であったとイメージします。
河川水際に存在する加曽利B式期イベント会場(西根遺跡)の管理人集落が、直ぐ近くの台地に(船尾白幡遺跡に)存在していたと考えます。
2-3 西根遺跡という土器送り場の主催者は佐山貝塚や神野遺跡・神野貝塚
西根遺跡という巨大な土器送り場に対応する主催者は佐山貝塚や神野遺跡・神野貝塚など印旛沼対岸社会であると考えます。
佐山貝塚は拠点であるし、神野遺跡は玉製作遺跡であり、これらの拠点集落連合社会(印旛沼西部圏)が西根遺跡の巨大土器送り場を主催していたと考えます。
それ以外の集落なり拠点なり社会なりが西根遺跡を作ったと考える材料がどこにも見当たりません。
3 今後の周辺遺跡学習
西根遺跡発掘調査報告書における周辺遺跡整理以降に新たな情報が生まれている可能性が大です。
そこで発掘調査報告書が刊行されている遺跡については悉皆的に、加曽利B式期を中心にして縄文時代の記述を詳しく閲覧して情報を整理することにします。
特に佐山貝塚、神野遺跡・神野貝塚などに着目します。
佐山貝塚、神野遺跡・神野貝塚などと西根遺跡を直接結びつける何かを何としてでも見つけたいと考えます。
発掘調査報告書では西根遺跡周辺の縄文時代後期加曽利B式期遺跡情報が掲載されているので学習します。
1 発掘調査報告書の記述
発掘調査報告書の図及び文章から西根遺跡付近の加曽利B式期の遺跡を図示してみました。
縄文時代後期加曽利B式期の遺跡
「印西市西根遺跡」(2005)から引用追記
発掘調査報告書では次のような説明を行っています。
……………………………………………………………………
(1)縄文時代後期加曽利B式期の遺跡
この時期の遺跡については、まとまった資料がみられる遺跡としては、昭和49年に発掘調査、昭和58年に分布調査が行われた佐山貝塚(62)が挙げられる。
縄文時代後期称名寺式~晩期前浦式にわたる土器がみられ、その中でも加曽利B式土器の散布が多い遺跡である。
貝塚は東西約140m、南北200mの範囲にわたって形成されており、加曽利B式期の拠点的な遺跡と考えられ、注目される。
分布図の中で発掘調査報告書が刊行され、加曽利B式土器の出土が報じられている遺跡を列記すると、船尾白幡遺跡(31)では竪穴住居跡1軒と土坑1基、加曽利B式土器Ⅰ~Ⅱ式の土器が検出され、注口土器と考えられる小破片が出土している。
鳴神山遺跡(30)は遺構はみられず、加曽利B式土器は5片の報告であり、極めて微弱な散布傾向である。
印西市松崎Ⅱ遺跡(38)からは18個体分、91片の土器がグリッドからややまとまった形で検出されている。
印西市松崎Ⅰ遺跡(37)では26片の出土報告がなされ、八千代市島田込の内遺跡(72)からは4片の粗製土器片の報告例、八千代市向境遺跡(82)からは数片、八千代市真木野向山遺跡(59)では小破片、八千代市間見穴遺跡(67)では18個体分、印西市船尾町田遺跡(32)から11個体分、印西市向新田遺跡(28)では1片の出土が報告されている。
本遺跡に関連する集落については、上流域の船尾白幡遺跡周辺に求められる可能性がある。
土器については、上記のように周辺には当該期の遺跡が数多く点在するが、本遺跡の土器群と対比できるような遺物を有する遺跡は見当たらないのが現状である。
「印西市西根遺跡」(2005)から引用
…………………………………………………………………
加曽利B式土器出土状況等を分布図に記入すると次のようになります。
縄文時代後期加曽利B式期の遺跡と加曽利B式期遺構・遺物
「印西市西根遺跡」(2005)から引用追記
2 西根遺跡と周辺遺跡との関係考察
発掘調査報告書では「本遺跡に関連する集落については、上流域の船尾白幡遺跡周辺に求められる可能性がある。」と見立てています。
その見立ての根拠が薄弱である理由をメモしておきます。
2-1 船尾白幡遺跡周辺に加曽利B式期集落が見当たらない。
船尾白幡遺跡から出土した竪穴住居祉は1軒だけです。調査面積が拡大すれば加曽利B式期の竪穴住居祉は増える可能性はありますが、その増大分の数が飛躍的なものになる可能性は望み薄であると考えます。
鳴神山遺跡では遺構が見つかっていません。
船尾白幡遺跡付近で今後拠点的な縄文時代遺跡が見つかる可能性は無いと考えられます。
2-2 船尾白幡遺跡の少数竪穴住居が300年間に土器を少しずつ貯めた可能性はない
発掘調査報告書では少数の竪穴住居から毎年少しずつ土器を出せば、300年間の間にはこれだけの土器が貯まるという思考を文章にしています。
しかしそのような事象は土器送りに次のような強い社会規制が働いていることからあり得ないと考えます。
・祭祀用土器が全く出土しない。
・土製品がほとんど出土しない。
・石器がほとんど出土しない。
河川沿岸という特殊な土器送り場に強い特殊な社会規制が300年間にわたって働いているのですが、このような社会規制を数軒とか多くて10軒とかの縄文集落が300年間保持し続け、毎年4個の使用済み土器を並べたということは到底考えられません。
拠点的集落とか拠点的集落の連合である地域そのものでないとこれだけの社会規制を300年間保持し続けることは不可能であると考えます。
船尾白幡遺跡に存在する加曽利B式期竪穴住居は、西根遺跡という広域土器送り場の管理人居住地であったとイメージします。
河川水際に存在する加曽利B式期イベント会場(西根遺跡)の管理人集落が、直ぐ近くの台地に(船尾白幡遺跡に)存在していたと考えます。
2-3 西根遺跡という土器送り場の主催者は佐山貝塚や神野遺跡・神野貝塚
西根遺跡という巨大な土器送り場に対応する主催者は佐山貝塚や神野遺跡・神野貝塚など印旛沼対岸社会であると考えます。
佐山貝塚は拠点であるし、神野遺跡は玉製作遺跡であり、これらの拠点集落連合社会(印旛沼西部圏)が西根遺跡の巨大土器送り場を主催していたと考えます。
それ以外の集落なり拠点なり社会なりが西根遺跡を作ったと考える材料がどこにも見当たりません。
3 今後の周辺遺跡学習
西根遺跡発掘調査報告書における周辺遺跡整理以降に新たな情報が生まれている可能性が大です。
そこで発掘調査報告書が刊行されている遺跡については悉皆的に、加曽利B式期を中心にして縄文時代の記述を詳しく閲覧して情報を整理することにします。
特に佐山貝塚、神野遺跡・神野貝塚などに着目します。
佐山貝塚、神野遺跡・神野貝塚などと西根遺跡を直接結びつける何かを何としてでも見つけたいと考えます。
2017年5月8日月曜日
後期集落竪穴住居の柱穴予察検討
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 後期集落竪穴住居の柱穴予察検討
中期末葉~後期中葉集落竪穴住居は93あります。その柱穴分析は数が多く労力がかかるため、予期するような成果を生みだしそうかどうか予察検討してみて、その検討により作業の実施を判断することにしました。
面積の大きいもの、小さいもの、中間のものを6つ選んで、前期後葉集落でおこなったのと同じ方法で分析してみました。
予察検討対象
発掘調査報告書に記載されてる通りの分類で柱穴を色分けしてみました。
面積の大きいもの
J52号住居祉
J41号住居祉
面積の小さいもの
J8号住居祉
J47号住居祉
面積の中間のもの
J37号住居祉
J75号住居祉
考察
1 構造柱
前期後葉集落の竪穴住居は壁柱とは別に竪穴内に主柱穴が存在していたのですが、中期末葉~後期中葉集落の竪穴住居では主柱穴と呼ばれるような柱は存在しないようです。
壁柱と張出部柱が構造柱であるようです。
J37では「中心に位置するもの」が存在します。発掘調査報告書では柱と明示していません。これが構造柱であるか、次述する非構造柱穴であるか興味が湧きます。
2 非構造柱穴
J75竪穴内の説明の無い柱穴は非構造柱穴であると考えられます。
その分布はシンメトリーを感じることができることも踏まえ、次のような竪穴住居廃絶後の故人送りのおける祭壇である可能性を感じます。
J75 非構造柱穴が竪穴住居廃絶後の祭壇である可能性
J75が祭壇設置であるとすれば、略北方向を拝むことができる祭壇です。
北極星信仰の関わるものかもしれません。
前期後葉集落J50号住居祉と類似の祭壇になります。
参考 前期後葉集落J50 祭壇空想図
2017.04.19記事「竪穴住居廃絶時の祭壇跡か」参照
J37の中心に位置する柱穴は珍しい構造柱(大黒柱)かもしれませんが、竪穴住居上屋が取り払われた後の送り場を象徴する柱(吹き流しなどの設置柱)かもしれません。
J37の例やJ75の例が観察できましたので、93竪穴住居全部について柱穴分析を行ってみることにします。
なお、柱穴分析は出土物検討と一緒に行った方が遺跡理解を深めると考えますので、出土物に関する着目竪穴住居について随時行い、竪穴住居の検討の最後には全部の竪穴住居の柱穴分析が済むようにします。
中期末葉~後期中葉集落竪穴住居は93あります。その柱穴分析は数が多く労力がかかるため、予期するような成果を生みだしそうかどうか予察検討してみて、その検討により作業の実施を判断することにしました。
面積の大きいもの、小さいもの、中間のものを6つ選んで、前期後葉集落でおこなったのと同じ方法で分析してみました。
予察検討対象
発掘調査報告書に記載されてる通りの分類で柱穴を色分けしてみました。
面積の大きいもの
J52号住居祉
J41号住居祉
J8号住居祉
J47号住居祉
面積の中間のもの
J37号住居祉
J75号住居祉
考察
1 構造柱
前期後葉集落の竪穴住居は壁柱とは別に竪穴内に主柱穴が存在していたのですが、中期末葉~後期中葉集落の竪穴住居では主柱穴と呼ばれるような柱は存在しないようです。
壁柱と張出部柱が構造柱であるようです。
J37では「中心に位置するもの」が存在します。発掘調査報告書では柱と明示していません。これが構造柱であるか、次述する非構造柱穴であるか興味が湧きます。
2 非構造柱穴
J75竪穴内の説明の無い柱穴は非構造柱穴であると考えられます。
その分布はシンメトリーを感じることができることも踏まえ、次のような竪穴住居廃絶後の故人送りのおける祭壇である可能性を感じます。
J75 非構造柱穴が竪穴住居廃絶後の祭壇である可能性
J75が祭壇設置であるとすれば、略北方向を拝むことができる祭壇です。
北極星信仰の関わるものかもしれません。
前期後葉集落J50号住居祉と類似の祭壇になります。
参考 前期後葉集落J50 祭壇空想図
2017.04.19記事「竪穴住居廃絶時の祭壇跡か」参照
J37の中心に位置する柱穴は珍しい構造柱(大黒柱)かもしれませんが、竪穴住居上屋が取り払われた後の送り場を象徴する柱(吹き流しなどの設置柱)かもしれません。
J37の例やJ75の例が観察できましたので、93竪穴住居全部について柱穴分析を行ってみることにします。
なお、柱穴分析は出土物検討と一緒に行った方が遺跡理解を深めると考えますので、出土物に関する着目竪穴住居について随時行い、竪穴住居の検討の最後には全部の竪穴住居の柱穴分析が済むようにします。
2017年5月7日日曜日
縄文時代後期集落は格差拡大社会
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 縄文時代後期集落は格差拡大社会
竪穴住居面積を前期後葉集落(竪穴住居祉16)と中期末葉~後期中葉集落(竪穴住居祉93)で比較してみました。
2つの時期集落の竪穴住居面積イメージを直観的に把握するために、面積-順位グラフを作成して並べてみました。
2つの時期の竪穴住居面積-順位グラフ
順位最下位(竪穴住居面積最小)は2つの時期ともほとんど同じ値ですが、順位上位の値が倍以上開いていることが大きな特徴になています。
中期末葉~後期中葉集落では前期後葉集落に比べて特別に富める者(*)新たに生まれた様子がわかります。
*面積の大きな竪穴住居を建設できる家族は、それが許されるだけの社会的地位(権力)がある集落リーダー格であり、実際に資材や労働力を確保できるだけの経済力が伴っていたと考えます。現代社会風に一言で言えば「富める者」であったと考えます。
この様子を統計で詳しくみると次のようになります。
大膳野南貝塚 時期別竪穴住居面積
前期後葉集落に比べて中期末葉~後期中葉集落の最大値が倍以上になったにも関わらず、最小値の値と平均値の値があまり変化していないのが特徴です。
大膳野南貝塚 時期別 竪穴住居面積別の割合
面積規模別にみると2つの時期の特徴が明白になります。
竪穴住居祉面積10㎡台以下と20㎡台についてみると中期末葉~後期中葉集落の方がその割合が多くなっています。
一方30㎡台の割合は中期末葉~後期中葉集落は前期後葉集落の半分になっています。
そして40㎡台~70㎡台の大型竪穴住居祉が中期末葉~後期中葉集落に新たに生まれています。
一言でいうと、前期後葉集落と比べて中期末葉~後期中葉集落は竪穴住居面積の格差が大幅に拡大したことになります。
現代社会風に言えば、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなり、中間層が少なくなったという事態発生です。
(「ますます富み、ますます貧しくなり」という表現は、前期後葉集落と中期末葉~後期中葉集落は断絶していますから、同じ社会の変化ではなく、時代の変化を述べています。)
竪穴住居面積から見る限り、中期末葉~後期中葉集落はそれ以前と比べて格差拡大社会であると結論付けることができます。
竪穴住居面積を前期後葉集落(竪穴住居祉16)と中期末葉~後期中葉集落(竪穴住居祉93)で比較してみました。
2つの時期集落の竪穴住居面積イメージを直観的に把握するために、面積-順位グラフを作成して並べてみました。
2つの時期の竪穴住居面積-順位グラフ
順位最下位(竪穴住居面積最小)は2つの時期ともほとんど同じ値ですが、順位上位の値が倍以上開いていることが大きな特徴になています。
中期末葉~後期中葉集落では前期後葉集落に比べて特別に富める者(*)新たに生まれた様子がわかります。
*面積の大きな竪穴住居を建設できる家族は、それが許されるだけの社会的地位(権力)がある集落リーダー格であり、実際に資材や労働力を確保できるだけの経済力が伴っていたと考えます。現代社会風に一言で言えば「富める者」であったと考えます。
この様子を統計で詳しくみると次のようになります。
大膳野南貝塚 時期別竪穴住居面積
前期後葉集落に比べて中期末葉~後期中葉集落の最大値が倍以上になったにも関わらず、最小値の値と平均値の値があまり変化していないのが特徴です。
面積規模別にみると2つの時期の特徴が明白になります。
竪穴住居祉面積10㎡台以下と20㎡台についてみると中期末葉~後期中葉集落の方がその割合が多くなっています。
一方30㎡台の割合は中期末葉~後期中葉集落は前期後葉集落の半分になっています。
そして40㎡台~70㎡台の大型竪穴住居祉が中期末葉~後期中葉集落に新たに生まれています。
一言でいうと、前期後葉集落と比べて中期末葉~後期中葉集落は竪穴住居面積の格差が大幅に拡大したことになります。
現代社会風に言えば、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなり、中間層が少なくなったという事態発生です。
(「ますます富み、ますます貧しくなり」という表現は、前期後葉集落と中期末葉~後期中葉集落は断絶していますから、同じ社会の変化ではなく、時代の変化を述べています。)
竪穴住居面積から見る限り、中期末葉~後期中葉集落はそれ以前と比べて格差拡大社会であると結論付けることができます。
2017年5月6日土曜日
竪穴住居面積からみた集落空間構造
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居面積からみた集落空間構造
竪穴住居の面積についてさらに検討を深めてみます。
次のグラフは竪穴住居面積を4つに区分してその出現数をカウントしたものです。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 面積別竪穴住居数
この分布図を作成してみました。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積40㎡台以上
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積30㎡台
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積40㎡台以上 ヒートマップ、凸包線
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積30㎡台 ヒートマップ、凸包線
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積10㎡台以下 ヒートマップ、凸包線
凸包線とは分布している地物全てを輪ゴムで囲んだときできる囲み線と同じものです。
凸包線だけを集めてみると次のようになります。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積別凸包線オーバーレイ
例外の少ない同心円構造が浮かび上がりました。
面積の大きい竪穴住居分布を核にして面積が少なくなるにしたがって順次集落外側に分布している様子がわかります。
竪穴住居の面積大小はその住人の集落内における影響力の大小にかかわっていると考えられます。
社会的に優位な住人が集落の中心部に社会的に劣位な住人が集落の外縁部に居住していたことが推察できます。
集落域に、権力構造に伴う比較的単純な空間構造が存在していたと考えます。
この想定はヒートマップを分析するとさらにより具体的にイメージできます。
次の図は4枚のヒートマップを並べたものです。
4枚のヒートマップ
面積別にみた竪穴住居集中域(赤い部分)が面積が小さくなるに従って順次集落中心から離れます。
この様子をさらに1枚の図にまとめると次のようになります。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積別集中域及びその空間配置方向
4つの面積別集中域が規則正しい法則性に基づくように、中心から西方向に2手に分かれて移動します。
まるで円環を完成させるような動きであるようにも見えます。
貝塚が馬蹄形になったり、円環になる仕組みをこの図は物語っているのかもしれません。
集落の空間的発展は、面積規模が大きい有力家の竪穴住居が最初に条件のよい土地に立地し、そこを核として社会的順位の高いものからその近くに比較的面積の大きい竪穴住居を構え、社会的順位の低いものは集落中心から離れた場所に面積の小さい竪穴住居を構えたと考えます。
竪穴住居は廃絶すると送り場となり貝塚となりますから、集落構造に従って結果として貝塚が発達することになります。
竪穴住居面積規模から集落空間構造の大局観を得ることができました。
竪穴住居の面積についてさらに検討を深めてみます。
次のグラフは竪穴住居面積を4つに区分してその出現数をカウントしたものです。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 面積別竪穴住居数
この分布図を作成してみました。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積40㎡台以上
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積30㎡台
この4枚の分布図を比べてみていると、何か空間的な法則性みたいなものを感じ取ることができます。
面積が小さくなるに従って分布が広がるような感じをうけます。
早速、各分布図についてヒートマップと凸包線を作成してみました。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積40㎡台以上 ヒートマップ、凸包線
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積30㎡台 ヒートマップ、凸包線
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積10㎡台以下 ヒートマップ、凸包線
凸包線とは分布している地物全てを輪ゴムで囲んだときできる囲み線と同じものです。
凸包線だけを集めてみると次のようになります。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積別凸包線オーバーレイ
例外の少ない同心円構造が浮かび上がりました。
面積の大きい竪穴住居分布を核にして面積が少なくなるにしたがって順次集落外側に分布している様子がわかります。
竪穴住居の面積大小はその住人の集落内における影響力の大小にかかわっていると考えられます。
社会的に優位な住人が集落の中心部に社会的に劣位な住人が集落の外縁部に居住していたことが推察できます。
集落域に、権力構造に伴う比較的単純な空間構造が存在していたと考えます。
この想定はヒートマップを分析するとさらにより具体的にイメージできます。
次の図は4枚のヒートマップを並べたものです。
4枚のヒートマップ
面積別にみた竪穴住居集中域(赤い部分)が面積が小さくなるに従って順次集落中心から離れます。
この様子をさらに1枚の図にまとめると次のようになります。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居 面積別集中域及びその空間配置方向
4つの面積別集中域が規則正しい法則性に基づくように、中心から西方向に2手に分かれて移動します。
まるで円環を完成させるような動きであるようにも見えます。
貝塚が馬蹄形になったり、円環になる仕組みをこの図は物語っているのかもしれません。
集落の空間的発展は、面積規模が大きい有力家の竪穴住居が最初に条件のよい土地に立地し、そこを核として社会的順位の高いものからその近くに比較的面積の大きい竪穴住居を構え、社会的順位の低いものは集落中心から離れた場所に面積の小さい竪穴住居を構えたと考えます。
竪穴住居は廃絶すると送り場となり貝塚となりますから、集落構造に従って結果として貝塚が発達することになります。
竪穴住居面積規模から集落空間構造の大局観を得ることができました。
2017年5月5日金曜日
竪穴住居の面積 その1
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居の面積 その1
大膳野南貝塚中期末葉~後期中葉集落の竪穴住居の面積について分析します。
発掘調査報告書では全ての竪穴住居の形状について長径と短径を推定を含めて記載しています。
このデータを用いて、便宜上竪穴住居を楕円形あるいは円形に見立てて、次の公式で竪穴住居面積を簡易的にもとめ、分析しました。
竪穴住居面積を求める式=長径×短径×π÷4
竪穴住居面積の最小・最大及び平均は次の通りです。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居面積(㎡)
面積最小と最大竪穴住居は地図では次のように表示されます。
面積最小と最大竪穴住居
平面形別に面積を集計すると次のようになります。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 平面形別竪穴住居面積(㎡)
円形・楕円形より柄鏡形の方が約4㎡面積が多くなっています。
これは次のデータによるように、円形・楕円形は古い時代に多いことが効いていると考えます。
時期別に竪穴住居面積を集計すると次のようになります。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 時期別竪穴住居面積(㎡)
最初の期(加曽利E4~称名寺古式期)から5番目の期(堀之内2~加曽利B1期)まで時間を追って順次竪穴住居面積が増大します。
最初の期から集落ピークである堀之内1式期まで集落面積が漸増するのは、時間経過とともに生活技術が進歩して社会が全体として豊かになった様子を反映しているものと考えます。
より大型の構造物をつくる技術進歩、穴掘りやカヤ葺きエネルギー(労働力)の確保、多量の屋根用カヤ入手エネルギー(労働力)の確保、主柱用用材入手エネルギー(労働力)の確保等の条件が好転していったことを表現していると考えます。
集落ピークを過ぎて堀之内2式期になると竪穴住居面積は10㎡程急増します。
この急増が何を意味するか、今後出土物等から検討を深めることにします。
竪穴住居数は堀之内1式期は47軒に達していたのが、堀之内2式期には7軒に急減しています。竪穴住居軒数は急減したけれども、1軒あたりの豊かさが増して竪穴住居面積が増大したのか、それとも別の要因(多家族の同居など)が働いたのか、今後検討します。
なお、5番目の堀之内2~加曽利B1期と6番目の加曽利B1~B2式期は竪穴住居軒数がそれぞれ2軒しかありませんから、統計的な意味での深い検討はできないと考えます。
つづく
大膳野南貝塚中期末葉~後期中葉集落の竪穴住居の面積について分析します。
発掘調査報告書では全ての竪穴住居の形状について長径と短径を推定を含めて記載しています。
このデータを用いて、便宜上竪穴住居を楕円形あるいは円形に見立てて、次の公式で竪穴住居面積を簡易的にもとめ、分析しました。
竪穴住居面積を求める式=長径×短径×π÷4
竪穴住居面積の最小・最大及び平均は次の通りです。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居面積(㎡)
面積最小と最大竪穴住居は地図では次のように表示されます。
面積最小と最大竪穴住居
平面形別に面積を集計すると次のようになります。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 平面形別竪穴住居面積(㎡)
円形・楕円形より柄鏡形の方が約4㎡面積が多くなっています。
これは次のデータによるように、円形・楕円形は古い時代に多いことが効いていると考えます。
時期別に竪穴住居面積を集計すると次のようになります。
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 時期別竪穴住居面積(㎡)
最初の期(加曽利E4~称名寺古式期)から5番目の期(堀之内2~加曽利B1期)まで時間を追って順次竪穴住居面積が増大します。
最初の期から集落ピークである堀之内1式期まで集落面積が漸増するのは、時間経過とともに生活技術が進歩して社会が全体として豊かになった様子を反映しているものと考えます。
より大型の構造物をつくる技術進歩、穴掘りやカヤ葺きエネルギー(労働力)の確保、多量の屋根用カヤ入手エネルギー(労働力)の確保、主柱用用材入手エネルギー(労働力)の確保等の条件が好転していったことを表現していると考えます。
集落ピークを過ぎて堀之内2式期になると竪穴住居面積は10㎡程急増します。
この急増が何を意味するか、今後出土物等から検討を深めることにします。
竪穴住居数は堀之内1式期は47軒に達していたのが、堀之内2式期には7軒に急減しています。竪穴住居軒数は急減したけれども、1軒あたりの豊かさが増して竪穴住居面積が増大したのか、それとも別の要因(多家族の同居など)が働いたのか、今後検討します。
なお、5番目の堀之内2~加曽利B1期と6番目の加曽利B1~B2式期は竪穴住居軒数がそれぞれ2軒しかありませんから、統計的な意味での深い検討はできないと考えます。
つづく
2017年5月4日木曜日
西根遺跡(縄文時代)各種分布図のGIS貼り付け
西根遺跡(縄文時代)学習を始めるに当たってその見立て(作業仮説)は既に検討しました。
2017.04.20記事「西根遺跡学習用作業仮説」
2017.04.26記事「西根遺跡は翡翠原石入荷ミナトか? 学習用作業仮説追補」
この記事では学習を実務的に始めるための準備として発掘調査報告書に掲載されている各種分布図をGISに貼り付けましたので、紹介します。
1 GISに貼り付けた分布図
次の5図をとりあえずGIS(地図太郎PLUS)に貼り付けました。
GISに貼り付けた西根遺跡(縄文時代)分布図
発掘調査報告書の中でのサイズはまちまちであり、また略図的なものから精細な地図まであります。
2 GIS貼り付け結果
GISに貼り付けた様子を示します。
広域の中で西根遺跡
今後、縄文時代の周辺遺跡や遺構をGISにプロットして、西根遺跡の意義の検討を深めたいと思います。
周辺地形の中での西根遺跡
台地状の竪穴住居祉から、台地斜面のどこを通ってこの西根遺跡の場所に降りてきたかなどの分析は早い時期に行いたいと考えています。
地図の重ね合わせ
土器集中域精細図(青)と土器重量分布図(メッシュ図)(赤)を重ねたものです。
土器集中域の空間分析を徹底して行う予定です。
地図の重ね合わせ(拡大)
同上
地図の重ね合わせ(拡大)
土器重量分布図(赤)と獣骨重量分布図(緑)を重ね合わせたものです。
獣骨(焼骨細片)の分布が土器分布と同じ場所で面的である理由に興味が湧いています。
3 GIS活用のイメージ
発掘調査報告書では10万片以上の土器片を対象に分析を行い土器形式別等の分布図を作成しています。
土器形式別等の分布図
土器形式別等の分布図
これらの分布図に含まれる情報を自分なりに咀嚼してその結果をGISにプロットして、他の情報との関連をみたいと考えています。
その作業の中で、発掘調査報告書における土器分析結果から新たな有益情報を汲みだすことを目指します。
予定調和的に興味深い事象が発見できることを期待しますが、そうならないことも考えられますから、興味津々です。
4 参考 分布図のGIS貼り付け方法
実は以前の西根遺跡(古墳・奈良・平安時代)検討で既に類似分布図をGIS(地図太郎PLUS)に貼り付けてあります。
その過去における分布図貼り付け結果を利用して、今回は簡便な方法で、かつ正確に貼り付けしました。
紙地図GIS貼り付け結果の再利用
遺跡における紙地図GIS貼り付け結果(位置情報ファイル)は、私にとって重要な知的資産になっています。
2017.04.20記事「西根遺跡学習用作業仮説」
2017.04.26記事「西根遺跡は翡翠原石入荷ミナトか? 学習用作業仮説追補」
この記事では学習を実務的に始めるための準備として発掘調査報告書に掲載されている各種分布図をGISに貼り付けましたので、紹介します。
1 GISに貼り付けた分布図
次の5図をとりあえずGIS(地図太郎PLUS)に貼り付けました。
GISに貼り付けた西根遺跡(縄文時代)分布図
発掘調査報告書の中でのサイズはまちまちであり、また略図的なものから精細な地図まであります。
2 GIS貼り付け結果
GISに貼り付けた様子を示します。
広域の中で西根遺跡
今後、縄文時代の周辺遺跡や遺構をGISにプロットして、西根遺跡の意義の検討を深めたいと思います。
周辺地形の中での西根遺跡
台地状の竪穴住居祉から、台地斜面のどこを通ってこの西根遺跡の場所に降りてきたかなどの分析は早い時期に行いたいと考えています。
地図の重ね合わせ
土器集中域精細図(青)と土器重量分布図(メッシュ図)(赤)を重ねたものです。
土器集中域の空間分析を徹底して行う予定です。
地図の重ね合わせ(拡大)
同上
地図の重ね合わせ(拡大)
土器重量分布図(赤)と獣骨重量分布図(緑)を重ね合わせたものです。
獣骨(焼骨細片)の分布が土器分布と同じ場所で面的である理由に興味が湧いています。
3 GIS活用のイメージ
発掘調査報告書では10万片以上の土器片を対象に分析を行い土器形式別等の分布図を作成しています。
土器形式別等の分布図
土器形式別等の分布図
これらの分布図に含まれる情報を自分なりに咀嚼してその結果をGISにプロットして、他の情報との関連をみたいと考えています。
その作業の中で、発掘調査報告書における土器分析結果から新たな有益情報を汲みだすことを目指します。
予定調和的に興味深い事象が発見できることを期待しますが、そうならないことも考えられますから、興味津々です。
4 参考 分布図のGIS貼り付け方法
実は以前の西根遺跡(古墳・奈良・平安時代)検討で既に類似分布図をGIS(地図太郎PLUS)に貼り付けてあります。
その過去における分布図貼り付け結果を利用して、今回は簡便な方法で、かつ正確に貼り付けしました。
紙地図GIS貼り付け結果の再利用
遺跡における紙地図GIS貼り付け結果(位置情報ファイル)は、私にとって重要な知的資産になっています。
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