西根遺跡出土縄文時代後期「杭」について千葉県教育委員会提供写真を使って分析作業をすすめていますが、写真原本を調整してより見やすくして分析することにしました。
写真を隅々まで拡大して眺めていると、これまで見落としていていた多数の人工的な線や小孔などが見つかり、それらが意味することが自分で考えていた以上に大きなものであると気が付きました。そのため、写真判読の精度を上げる必要が生じ、写真を見やすくする工夫をしました。
1 写真調整
原本写真をトーンカーブ補正により明るくしたものが調整1です。この写真を基本にして今後判読分析活動を行います。
調整1写真を「描画モード彩度」でペイントしたものが調整2です。結果としてカラー写真もどきとなりました。この写真は参考として利用します。
西根遺跡出土「杭」(縄文時代後期)写真の調整
西根遺跡出土「杭」(縄文時代後期)写真の調整(部分)
参考 調整2写真について
元来彩度ゼロ(白、黒、グレー)写真を「描画モード彩度」でペイントすることはできません。しかし、千葉県教育委員会提供写真は「スライド」(彩度ゼロ)をスキャン(撮影)したもので、スキャン(撮影)がカラーモードであったため完全な彩度ゼロにはならなかったと考えます。そのためカラー写真もどき写真が偶然生まれ、参考資料として使うことが可能となったと考えます。
2 写真調整の効果
調整1写真を利用することにより、判読の精度が向上し、早速ですが新たな「面取り部」を発見しました。追って記事で報告します。
それ以外にも多くの新たな事象が観察できて、ぼんやりとしか見えなかったメガネを目にあった新しいメガネにかえたような印象を持ちます。
3 感想
「杭」が実は石器でつくられた原始「イナウ」であるという仮説の蓋然性を高めるために、これまで「杭」の諸特徴がアイヌのイナウの特徴と共通するものがあるかどうかという視点から検討をすすめてきました。
これまでの作業から、この検討は大いに発展できて、縄文時代のイナウ、石器でつくられたイナウが発見されたということになり、学術的に大きな意味を有するものになると考えています。
さて、そのような大きな意味とは別に、調整1写真を観察しているとき、突然ですが製品特徴の中に具体的「意味」が表現されていると直観できる部分が2箇所出現しました。
このイナウを作った縄文人がある具象を表現していて、そのうち2つが判ったということです。
このイナウには現代人も知っている具象が表現されているのです。
検討を深め順次記事として報告します。
2017年10月3日火曜日
2017年10月2日月曜日
西根遺跡出土「杭」はイナウ 面取り部存在の確認
西根遺跡出土「杭」(縄文時代後期)写真を観察すると面取り部の存在を確認しましたので記録しておきます。
1 面取り部の確認作業
面取り部の確認作業1(訂正後 2017.10.04)
面取り部の確認作業1(訂正前)
面取り部の確認作業2
面取り部の確認作業3
A面、B面をくまなく観察して面取り部(つくりだされた平面)はA面、B面各1箇所確認できます。
B面下の枝を掃っている部分(空洞になっている部分)も結果として平面になりますが、意味のある平面とは考える必要はないと思います。
A面B面における面取り部の存在は、今後の検討において、この製品用途がイナウであることの証明に使える重要要素の一つになると考えます。
なお、面取り部に小孔が4つあります。
小孔はこれ以外にも存在していて、この製品の重要構成要素であると考えますので、次の記事で検討します。
2 参考 面取り部のあるイナウ
樺太の面取り部があるイナウ
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
3 参考 消印
イナウ構成要素として「消印」という概念があります。
イナウ構成要素
「消印⑫:イナウの胴を削って、平面を作り出し、その上下に水平に刻印を数条つけたもの。名取武光によれば、平面部を「イナウコトル」、上下の刻印を合わせて「コトルイトクパ」と呼ぶ。消印が刻まれた面がイナウの正面とされる[名取 1987(1959):84]。樺太の全域で確認されている。」
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
……………………………………………………………………
追記
2017.10.04記事内容を一部訂正しました。
1 面取り部の確認作業
面取り部の確認作業1(訂正後 2017.10.04)
面取り部の確認作業1(訂正前)
面取り部の確認作業2
面取り部の確認作業3
A面、B面をくまなく観察して面取り部(つくりだされた平面)はA面、B面各1箇所確認できます。
B面下の枝を掃っている部分(空洞になっている部分)も結果として平面になりますが、意味のある平面とは考える必要はないと思います。
A面B面における面取り部の存在は、今後の検討において、この製品用途がイナウであることの証明に使える重要要素の一つになると考えます。
なお、面取り部に小孔が4つあります。
小孔はこれ以外にも存在していて、この製品の重要構成要素であると考えますので、次の記事で検討します。
2 参考 面取り部のあるイナウ
樺太の面取り部があるイナウ
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
3 参考 消印
イナウ構成要素として「消印」という概念があります。
イナウ構成要素
「消印⑫:イナウの胴を削って、平面を作り出し、その上下に水平に刻印を数条つけたもの。名取武光によれば、平面部を「イナウコトル」、上下の刻印を合わせて「コトルイトクパ」と呼ぶ。消印が刻まれた面がイナウの正面とされる[名取 1987(1959):84]。樺太の全域で確認されている。」
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
……………………………………………………………………
追記
2017.10.04記事内容を一部訂正しました。
2017年8月11日金曜日
土器集中地点時期別の海退アニメ(千葉県印西市西根遺跡)
2017.08.10記事「土器集中地点別海面分布」で作成した縄文時代後期の想定海面分布図(海退の様子)6枚をアニメにしてみました。
平面図を並べるのと、アニメにするのでは情報内容は同じですが、それから受ける印象やその刺激から発生する思考内容は大いに違ってきます。
土器集中地点時期別の海退アニメ
赤丸は土器集中地点を表現します。
その土器集中地点が形成されていた頃の想定海面を水色で示します。
青線は戸神川の縄文時代後期流路(流路1)です。
水色の想定海面は丸木舟で自由に航行できた海域であると考えます。
水色の想定海面と青線の戸神川が接する場所が印旛海(印旛浦)西端のミナトであったと想定します。
このミナトから陸路(船越)で印西の台地を越え、手賀海(手賀浦)に交通路が通じていたと考えます。
印旛海(印旛浦)から土器集中地点までの戸神川は丸木舟の通航が困難を伴うけれども可能であった区間であると想定します。
土器集中地点は丸木舟通航限界点であり、その限界点で岸辺付近や水域に丸木舟で持参した土器を置いた(投げて壊した)と想定します。
土器集中地点は過去のミナト空間であった場所に該当すると考えます。
土器集中地点とはミナト空間廃絶祭祀場所であると仮説しています。
縄文時代竪穴住居跡はその多くが祭祀跡となりました。その結果土器・石器・獣骨など多様な遺物が出土しています。
竪穴住居跡と遺物との関係とほぼパラレルの関係で、ミナト跡という公共施設空間跡が公共祭祀跡であり、そこから多数土器等が出土すると仮説します。
土器第1集中地点が約3600年前、土器第7集中地点が約3300年前であり、約300年間の出来事のアニメです。(年代はC14測定)
平面図を並べるのと、アニメにするのでは情報内容は同じですが、それから受ける印象やその刺激から発生する思考内容は大いに違ってきます。
土器集中地点時期別の海退アニメ
赤丸は土器集中地点を表現します。
その土器集中地点が形成されていた頃の想定海面を水色で示します。
青線は戸神川の縄文時代後期流路(流路1)です。
水色の想定海面は丸木舟で自由に航行できた海域であると考えます。
水色の想定海面と青線の戸神川が接する場所が印旛海(印旛浦)西端のミナトであったと想定します。
このミナトから陸路(船越)で印西の台地を越え、手賀海(手賀浦)に交通路が通じていたと考えます。
印旛海(印旛浦)から土器集中地点までの戸神川は丸木舟の通航が困難を伴うけれども可能であった区間であると想定します。
土器集中地点は丸木舟通航限界点であり、その限界点で岸辺付近や水域に丸木舟で持参した土器を置いた(投げて壊した)と想定します。
土器集中地点は過去のミナト空間であった場所に該当すると考えます。
土器集中地点とはミナト空間廃絶祭祀場所であると仮説しています。
縄文時代竪穴住居跡はその多くが祭祀跡となりました。その結果土器・石器・獣骨など多様な遺物が出土しています。
竪穴住居跡と遺物との関係とほぼパラレルの関係で、ミナト跡という公共施設空間跡が公共祭祀跡であり、そこから多数土器等が出土すると仮説します。
土器第1集中地点が約3600年前、土器第7集中地点が約3300年前であり、約300年間の出来事のアニメです。(年代はC14測定)
2017年8月10日木曜日
土器集中地点別海面分布
2017.08.09記事「縄文時代後期海面分布の想定」で西根遺跡土器第3集中地点形成期頃の海面分布想定図を作成しました。
この図面と同じ図面をデータを検討してある第4集中地点、第5・6集中地点について作成しました。
またデータを外挿して、想像も交えて第1集中地点、第2集中地点、第7集中地点についてもその時期の海面分布を想定してみました。
次にその海面分布図を時間順に並べてみます。
土器第1集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第2集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第3集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第4集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第5、6集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第7集中地点形成時期頃の海面分布想定
縄文時代後期に海面が急速に後退する時期に西根遺跡に土器集中地点が形成されました。
土器集中地点は過去の海の戸神川河口最奥部であり、ミナトであった地点です。
また土器集中地点はその時期戸神川の、丸木舟で遡れる最奥部であった地点であると考えています。
上記海面分布想定図を使って西根遺跡の特性をあぶり出していこうと考えています。
この図面と同じ図面をデータを検討してある第4集中地点、第5・6集中地点について作成しました。
またデータを外挿して、想像も交えて第1集中地点、第2集中地点、第7集中地点についてもその時期の海面分布を想定してみました。
次にその海面分布図を時間順に並べてみます。
土器第1集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第2集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第3集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第4集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第5、6集中地点形成時期頃の海面分布想定
土器第7集中地点形成時期頃の海面分布想定
縄文時代後期に海面が急速に後退する時期に西根遺跡に土器集中地点が形成されました。
土器集中地点は過去の海の戸神川河口最奥部であり、ミナトであった地点です。
また土器集中地点はその時期戸神川の、丸木舟で遡れる最奥部であった地点であると考えています。
上記海面分布想定図を使って西根遺跡の特性をあぶり出していこうと考えています。
2017年8月6日日曜日
縄文時代後期谷津形成モデル
2017.08.05記事「縄文時代後期の谷津形成について考える」で西根遺跡縄文時代流路(流路1)の流路底高度が下流程低くなるという予想が外れたことを書きました。
その理由を次のようなモデルを設定することにより解決できると考えますので、メモします。
西根遺跡縄文時代流路(流路1)の高度が下流ほど低くならない理由
このモデルを考えたことにより、流路の高度が低くならないという問題だけでなく、結果としての効果ですが、なぜ縄文人が流路とその付近に土器を置いたかという理由の答えが導き出されることになります。
流路の堆積や上昇が激しく、丸木舟の通航が不可能になったミナトの廃絶祭祀が西根遺跡の本質であるという仮説の確からしさが急増します。
その理由を次のようなモデルを設定することにより解決できると考えますので、メモします。
西根遺跡縄文時代流路(流路1)の高度が下流ほど低くならない理由
このモデルを考えたことにより、流路の高度が低くならないという問題だけでなく、結果としての効果ですが、なぜ縄文人が流路とその付近に土器を置いたかという理由の答えが導き出されることになります。
流路の堆積や上昇が激しく、丸木舟の通航が不可能になったミナトの廃絶祭祀が西根遺跡の本質であるという仮説の確からしさが急増します。
2017年8月5日土曜日
縄文時代後期の谷津形成について考える
2017.08.01記事「戸神川谷津の縄文海進海面分布」で縄文海進クライマックス期の海面分布のイメージを、2017.08.04記事「戸神川谷津の縄文海進海面高度」でその時の海面高度のイメージを把握しました。
花見川で以前検討したことがあるので、それなりの確からしさを確保できている自信はあります。
その勢いに乗じて、縄文時代後期(加曽利B式土器期)の海面分布を明らかにしようとしました。
縄文時代後期の海面高度はクライマックス期の海面高度と現在の高度(0m)を時間によって按分比例で把握するしかないと最初から考えています。
縄文時代後期つまり西根遺跡の加曽利B式土器期の年代はC14で出ていますので、按分比例の計算はすぐにできます。
その当時の海面分布は発掘調査報告書所収の縄文時代流路の勾配を利用して、その時代の海面高度との交点を平面上(断面上)で求めれば把握できると考えていました。
ところが、「そうは問屋は卸さない」状況が生まれました。
次の図は西根遺跡断面図から縄文時代流路(流路1)の流路底高度を測定した作業図です。
西根遺跡断面図から縄文時代流路(流路1)の流路底高度を測定した作業図
上流から下流に向かって流路底高度が下がってくれれば、何とか思い通りの分析作業になります。
ところが上流から3.2m→3.3m→3.2m→3.5m→3.3mとなります。
上流から下流に向かって流路底が下がるという一般流路の縦断面になっていません。
次の図は土器出土層の高度分布図です。
発掘調査報告書による土器出土層縦断図
この図も大局的にみても、子細に検討しても上流から下流に高度が下がっていると結論付けられません。
縄文海進クライマックス期から現在まで順次海面が低下し、戸神川谷津では台地奥深く侵入した海が近世印旛沼の位置まで縮小していったことは確実です。
その確実な事実と西根遺跡縄文流路勾配の「異常」を整合させて説明できるようにならなければ西根遺跡の特性を知ることはできません。
データが自分を試す状況が生まれてしまいました。
この危機(?)をいかに脱出するか!
アーダ、コーダと考えているうちにこの危機から離脱できる思考が生まれましたので、次の記事で検討します。
海退期における谷津堆積過程というある程度専門的な検討になりますが、チャレンジしてみます。
全て予定調和的に進まないところに趣味活動の醍醐味と認識飛躍チャンスが生まれます。
花見川で以前検討したことがあるので、それなりの確からしさを確保できている自信はあります。
その勢いに乗じて、縄文時代後期(加曽利B式土器期)の海面分布を明らかにしようとしました。
縄文時代後期の海面高度はクライマックス期の海面高度と現在の高度(0m)を時間によって按分比例で把握するしかないと最初から考えています。
縄文時代後期つまり西根遺跡の加曽利B式土器期の年代はC14で出ていますので、按分比例の計算はすぐにできます。
その当時の海面分布は発掘調査報告書所収の縄文時代流路の勾配を利用して、その時代の海面高度との交点を平面上(断面上)で求めれば把握できると考えていました。
ところが、「そうは問屋は卸さない」状況が生まれました。
次の図は西根遺跡断面図から縄文時代流路(流路1)の流路底高度を測定した作業図です。
西根遺跡断面図から縄文時代流路(流路1)の流路底高度を測定した作業図
上流から下流に向かって流路底高度が下がってくれれば、何とか思い通りの分析作業になります。
ところが上流から3.2m→3.3m→3.2m→3.5m→3.3mとなります。
上流から下流に向かって流路底が下がるという一般流路の縦断面になっていません。
次の図は土器出土層の高度分布図です。
発掘調査報告書による土器出土層縦断図
この図も大局的にみても、子細に検討しても上流から下流に高度が下がっていると結論付けられません。
縄文海進クライマックス期から現在まで順次海面が低下し、戸神川谷津では台地奥深く侵入した海が近世印旛沼の位置まで縮小していったことは確実です。
その確実な事実と西根遺跡縄文流路勾配の「異常」を整合させて説明できるようにならなければ西根遺跡の特性を知ることはできません。
データが自分を試す状況が生まれてしまいました。
この危機(?)をいかに脱出するか!
アーダ、コーダと考えているうちにこの危機から離脱できる思考が生まれましたので、次の記事で検討します。
海退期における谷津堆積過程というある程度専門的な検討になりますが、チャレンジしてみます。
全て予定調和的に進まないところに趣味活動の醍醐味と認識飛躍チャンスが生まれます。
2017年5月13日土曜日
西根遺跡 縄文時代水中土器送りは平安時代まで続く
西根遺跡で縄文時代土器送りが陸域だけでなく、水域(水中)でも行われたことを既に述べました。
2017.05.11記事「西根遺跡 土器集中域詳細把握と問題意識」参照
また水域(水中)の土器送り場(土器集中地点)の分布図を作成して検討しました。
2017.05.12記事「西根遺跡 土器集中域の分類(試案)」参照
この縄文時代水域(水中)土器送りの習俗が平安時代まで受け継がれていたことが発掘調査報告書で判明していますので、メモしておきます。
次の図は西根遺跡の奈良時代後半~平安時代の土器分布と特徴図です。
西根遺跡の奈良時代後半~平安時代の土器分布と特徴
奈良時代後半~平安時代においても盛んに戸神川水面に土器(多くは墨書土器)が置かれて(投げ込まれて)います。
縄文時代後期の土器集中域と同じように生活のなかで実際に使われた実用土器がほとんどで、同時に生活改善祈願の道具と推定される墨書土器が過半以上でもあります。
縄文時代後期の水中土器送りと奈良・平安時代の水中土器投げ込みが全く同じ趣旨であるかどうかという点は大いに検討の余地があると思います。
しかし、縄文時代後期の習俗が奈良・平安時代まで戸神川という同じ舞台で延々と引き継がれてきたことが推察できます。
縄文時代後期の土器送りでの祈願内容は例えば「集落の権威を高める翡翠の入手」といった社会的なものであり、奈良・平安時代の水中土器投げ込みでの祈願内容は「自分や家族の健康や生活向上」といった私的なものであるという違いはありうると考えます。
社会的なものと私的なものという違いはありますが、個々人の切実な祈願であるという点では同じであったと思います。
祈願内容は時間が流れるなかで、いろいろなものに変化するけれども、水中に土器を置いて祈願するという行為(習俗)は連綿と伝わったと考えます。
西根遺跡の中近世流路では銭貨が沢山出土しています。
西根遺跡中近世流路から出土した銭貨
平安時代まで続いた水中土器送り(土器投げ込み)習俗は中近世になると戸神川への銭貨投げ込みに形を変えたものと考えます。
戸神川は縄文時代から中近世まで水際祭祀の場として継続していたのです。
2017.05.11記事「西根遺跡 土器集中域詳細把握と問題意識」参照
また水域(水中)の土器送り場(土器集中地点)の分布図を作成して検討しました。
2017.05.12記事「西根遺跡 土器集中域の分類(試案)」参照
この縄文時代水域(水中)土器送りの習俗が平安時代まで受け継がれていたことが発掘調査報告書で判明していますので、メモしておきます。
次の図は西根遺跡の奈良時代後半~平安時代の土器分布と特徴図です。
西根遺跡の奈良時代後半~平安時代の土器分布と特徴
奈良時代後半~平安時代においても盛んに戸神川水面に土器(多くは墨書土器)が置かれて(投げ込まれて)います。
縄文時代後期の土器集中域と同じように生活のなかで実際に使われた実用土器がほとんどで、同時に生活改善祈願の道具と推定される墨書土器が過半以上でもあります。
縄文時代後期の水中土器送りと奈良・平安時代の水中土器投げ込みが全く同じ趣旨であるかどうかという点は大いに検討の余地があると思います。
しかし、縄文時代後期の習俗が奈良・平安時代まで戸神川という同じ舞台で延々と引き継がれてきたことが推察できます。
縄文時代後期の土器送りでの祈願内容は例えば「集落の権威を高める翡翠の入手」といった社会的なものであり、奈良・平安時代の水中土器投げ込みでの祈願内容は「自分や家族の健康や生活向上」といった私的なものであるという違いはありうると考えます。
社会的なものと私的なものという違いはありますが、個々人の切実な祈願であるという点では同じであったと思います。
祈願内容は時間が流れるなかで、いろいろなものに変化するけれども、水中に土器を置いて祈願するという行為(習俗)は連綿と伝わったと考えます。
西根遺跡の中近世流路では銭貨が沢山出土しています。
西根遺跡中近世流路から出土した銭貨
平安時代まで続いた水中土器送り(土器投げ込み)習俗は中近世になると戸神川への銭貨投げ込みに形を変えたものと考えます。
戸神川は縄文時代から中近世まで水際祭祀の場として継続していたのです。
2017年2月7日火曜日
大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代後期
大膳野南貝塚の遺構分布を通しで概観してみて、自分なりの遺跡イメージを構築しようとしています。
この記事では縄文時代中期末葉~後期中葉の遺構分布を概観してみます。
なお、この前の時期(縄文時代前期末葉~中期後葉)は土器は出土していますが、遺構は出土していません。
次に、竪穴住居祉、土坑、北・南・西貝層、地点貝層の分布図を示します。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 竪穴住居祉分布図
この分布図を概観する限りでは竪穴住居の分布は北・南貝層付近で密であり、全体として2重環状分布のように見えます。
この情報に土器形式情報をオーバーレイして時代変化などについて分析学習したいと思います。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 土坑分布図
土坑分布も2重環状分布しているように観察できます。
また列状の分布している場所が各所に見られます。
恐らく詳しく分析すれば竪穴住居と土坑との対応関係をどこかのレベルで知ることができるような予感のする分布です。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 北・南・西貝層分布図
メインの貝塚を形成する貝層は3か所に分かれて分布していて、竪穴住居・土坑の2重環状分布の外側環状と一致します。
発掘調査報告書では貝層は弥生時代以降の改変により現在の姿になり、もともとは環状をしていたと記述されています。
しかし、後世の開発により削られたと発掘調査報告書が想定していると考えられる場所は台地中央部であり、場所の地勢からして、その場所にもともと貝塚があったとは考えずらく、発掘調査報告書の記述に違和感を持ちますので、学習において検証したいと考えます。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 地点貝層分布図
地点貝塚の分布は外環状をきれいに示すように観察できます。
発掘調査報告書ではこの他に、漆喰使用遺構分布図、人骨検出遺構分布図もありますが、本学習の中で検討します。
この記事では縄文時代中期末葉~後期中葉の遺構分布を概観してみます。
なお、この前の時期(縄文時代前期末葉~中期後葉)は土器は出土していますが、遺構は出土していません。
次に、竪穴住居祉、土坑、北・南・西貝層、地点貝層の分布図を示します。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 竪穴住居祉分布図
この分布図を概観する限りでは竪穴住居の分布は北・南貝層付近で密であり、全体として2重環状分布のように見えます。
この情報に土器形式情報をオーバーレイして時代変化などについて分析学習したいと思います。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 土坑分布図
土坑分布も2重環状分布しているように観察できます。
また列状の分布している場所が各所に見られます。
恐らく詳しく分析すれば竪穴住居と土坑との対応関係をどこかのレベルで知ることができるような予感のする分布です。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 北・南・西貝層分布図
メインの貝塚を形成する貝層は3か所に分かれて分布していて、竪穴住居・土坑の2重環状分布の外側環状と一致します。
発掘調査報告書では貝層は弥生時代以降の改変により現在の姿になり、もともとは環状をしていたと記述されています。
しかし、後世の開発により削られたと発掘調査報告書が想定していると考えられる場所は台地中央部であり、場所の地勢からして、その場所にもともと貝塚があったとは考えずらく、発掘調査報告書の記述に違和感を持ちますので、学習において検証したいと考えます。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 地点貝層分布図
地点貝塚の分布は外環状をきれいに示すように観察できます。
発掘調査報告書ではこの他に、漆喰使用遺構分布図、人骨検出遺構分布図もありますが、本学習の中で検討します。
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