大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 10
大膳野南貝塚堀之内1式期廃屋墓の機能不明柱穴の検討を竪穴住居毎に順次しています。
10 堀之内1式期 J9竪穴住居
10-1 特徴
J9竪穴住居から周産期人骨が出土しています。貝層のフルイ作業により乳歯片、右下顎骨、左右大腿骨などが出土しています。
一方貝層直下から埋葬された犬骨(2号犬骨)が出土しています。
J9竪穴住居の位置
J9竪穴住居 柱穴分布
2号犬骨出土状況
10-2 検討
10-2-1 J9竪穴住居は犬用廃屋墓(犬墓)
人骨と犬骨の土層断面上の位置関係は次のようになります。
J9竪穴住居 人骨と犬骨の土層断面模式位置
J9竪穴住居床面で犬の埋葬が行われ、その上を貝層で覆いましたが、その途中で周産期遺体を埋葬したという順序が明白です。
J9竪穴住居は犬の埋葬のために使われたものであることが明白な例です。犬埋葬後、その場所に周産期の人遺体も追加して埋葬しました。
空家といっても人が住んだ1軒の住居をまるまる犬の墓にするのですから、その犬がいかにかわいがられていたか伝わってきます。発掘調査報告書では生後半年程度の成長途中の犬であると分析しています。
追加埋葬された周産期人の扱いは犬と比べてはるかに粗末に扱われています。この違いから、犬を埋葬した家族と周産期人を埋葬した家族は異なり、かつその家族の間に相当の社会的身分差(埋葬に関わる権力差)があったことが忍ばれます。犬を埋葬した家族は集落の中で特別上等の身分だったのかもしれません。
追記(2017.12.19)
埋葬された犬は成犬ではない幼犬であるので、つまりまだ猟犬になっていない命であるので、それは命そのものに近いので、竪穴住居に埋葬することに抵抗感が少なかったのかもしれません。
また生まれて間もなく死んだ子ども(周産期死亡の子ども)の命も人になる前の命そのものであるという思考が縄文人にあったのかもしれません。
猟犬や人になりきる前の未分化な命そのものであるので、幼犬を竪穴住居に埋葬したり、そこに周産期死亡人を一緒に埋葬したりすることに抵抗感が少なかったのだと想像します。
つまりJ9廃屋墓は犬用廃屋墓と言い切るのではなく、犬や人になりきる前の未分化命の廃屋墓、命そのものの廃屋墓と捉える方が正確な認識かもしれません。
10-2-2 機能不明柱穴の検討
4本の機能不明柱穴が竪穴住居の屋根を支える補助柱であるか、祭祀性をもつ柱であるか、今後より多数事例を集めて検討することにします。機能不明柱穴の分布が東西方向であることが、北方向を拝む祭壇のように見えますので気になっています。
10-2-3 参考 1号犬骨
大膳野南貝塚では2匹の犬が埋葬されていて、J9竪穴住居埋葬犬(2号)ではない1号犬骨は北貝層から出土しています。
1号犬骨は竪穴住居に含まれない場所から出土しています。発掘調査報告書では10歳未満の成犬であると分析しています。
1号犬骨
1号犬骨出土場所
1号犬骨、2号犬骨出土位置
2017年12月18日月曜日
2017年12月17日日曜日
甕被り葬廃屋墓
大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 9
大膳野南貝塚堀之内1式期廃屋墓の機能不明柱穴の検討を竪穴住居毎に順次しています。
9 堀之内1式期 J18竪穴住居
9-1 特徴
J18竪穴住居から人骨が2体出土し、1体は住居中央漆喰炉に重複する甕被り伸展葬人骨で8~9才の小児骨、もう1体は住居北東隅の伸展葬人骨で壮年女性です。
ともに床面から出土し、破砕貝混土に覆われています。
土器・石器が中テン箱1箱分と種不明獣骨9点が出土しています。
J18竪穴住居の位置
J18竪穴住居 柱穴分布
J18竪穴住居 人骨の状況
9-2 検討
9-2-1 埋葬の様子
甕被り幼児人骨が竪穴住居中央に存在するので、例えば集落リーダー格人物の子どもが死亡して集落全体で手厚く葬った様子が推察できます。
J18竪穴住居は幼児が死亡した時すでに廃絶竪穴住居であった(空家であった)と考えることができます。
従ってJ18竪穴住居にはそこに住んでいた住民ではない、別の場所に住んでいた幼児が埋葬されたことになり、空家が墓として転用されたことがほぼ確実な例として捉えることができると考えます。
幼児はこの場所でモガリが行われ(ミイラ化して)、その後混破砕貝土で埋葬されたと考えます。
モガリが別の場所で行われた壮年女性の遺体(ミイラ)も幼児埋葬の際にこの竪穴住居に持ち込まれ、一緒に埋葬されたと想像します。
壮年女性人骨の位置が住居の端であり幼児と比べぞんざいな扱いを受けていたと推察します。壮年女性人骨の両手が背中後ろに廻っていたという状況は女性遺体を持ち込んだときの扱いが丁寧でなかった様子を表現していると考えます。埋葬直前ですから建物は当然ながら存在しません。そのとき、壁の上からドサリと遺体(ミイラ)を落としたのかもしれません。
人骨は破砕貝を含む土層で覆われています。漆喰炉や漆喰床を使っていた集団ですから、破砕貝を土に混ぜれば土がシッカリと固まることを知っていて、特製の埋葬土を作って埋葬したもとの考えます。
J74竪穴住居では人骨が純貝層で覆われていましたので、それとJ18竪穴住居の例を比較すると、J18竪穴住居埋葬の方が簡便な方法であると言えます。
竪穴住居を全部純貝層で覆うために必要な貝殻準備と混貝土つくりではその労力や時間に雲泥の差が生れます。
おそらく埋葬対象の社会ランクの違いや人数の違いが純貝層で埋葬するか、混貝土で埋葬するかの違いを分けたと想像します。
人骨出土状況 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
9-2-2 機能不明柱穴の検討
壁柱線の内部に位置する機能不明柱穴が建物を支える構造補助柱にすぎないのか、それとも祭祀性のある柱(祭壇)であるのか不明です。
ただ、甕被り人骨が機能不明柱穴を結んだ線をまたいでいるので、この柱穴に祭祀性があったとしてもそれは竪穴住居がつかわれていた時につくられたものであり、甕被り人骨の遺体が置かれた時に設置されたと考えることには抵抗が生れます。
J18竪穴住居 機能不明柱穴の検討
張出部中央にある機能不明柱穴は建物のシンボルとなるような位置にありますから、また出入りの実用性を損ないますから、何らかの祭祀性があったものと想像します。建物と一緒に存在していたと考えます。
大膳野南貝塚堀之内1式期廃屋墓の機能不明柱穴の検討を竪穴住居毎に順次しています。
9 堀之内1式期 J18竪穴住居
9-1 特徴
J18竪穴住居から人骨が2体出土し、1体は住居中央漆喰炉に重複する甕被り伸展葬人骨で8~9才の小児骨、もう1体は住居北東隅の伸展葬人骨で壮年女性です。
ともに床面から出土し、破砕貝混土に覆われています。
土器・石器が中テン箱1箱分と種不明獣骨9点が出土しています。
J18竪穴住居の位置
J18竪穴住居 柱穴分布
J18竪穴住居 人骨の状況
9-2 検討
9-2-1 埋葬の様子
甕被り幼児人骨が竪穴住居中央に存在するので、例えば集落リーダー格人物の子どもが死亡して集落全体で手厚く葬った様子が推察できます。
J18竪穴住居は幼児が死亡した時すでに廃絶竪穴住居であった(空家であった)と考えることができます。
従ってJ18竪穴住居にはそこに住んでいた住民ではない、別の場所に住んでいた幼児が埋葬されたことになり、空家が墓として転用されたことがほぼ確実な例として捉えることができると考えます。
幼児はこの場所でモガリが行われ(ミイラ化して)、その後混破砕貝土で埋葬されたと考えます。
モガリが別の場所で行われた壮年女性の遺体(ミイラ)も幼児埋葬の際にこの竪穴住居に持ち込まれ、一緒に埋葬されたと想像します。
壮年女性人骨の位置が住居の端であり幼児と比べぞんざいな扱いを受けていたと推察します。壮年女性人骨の両手が背中後ろに廻っていたという状況は女性遺体を持ち込んだときの扱いが丁寧でなかった様子を表現していると考えます。埋葬直前ですから建物は当然ながら存在しません。そのとき、壁の上からドサリと遺体(ミイラ)を落としたのかもしれません。
人骨は破砕貝を含む土層で覆われています。漆喰炉や漆喰床を使っていた集団ですから、破砕貝を土に混ぜれば土がシッカリと固まることを知っていて、特製の埋葬土を作って埋葬したもとの考えます。
J74竪穴住居では人骨が純貝層で覆われていましたので、それとJ18竪穴住居の例を比較すると、J18竪穴住居埋葬の方が簡便な方法であると言えます。
竪穴住居を全部純貝層で覆うために必要な貝殻準備と混貝土つくりではその労力や時間に雲泥の差が生れます。
おそらく埋葬対象の社会ランクの違いや人数の違いが純貝層で埋葬するか、混貝土で埋葬するかの違いを分けたと想像します。
人骨出土状況 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
9-2-2 機能不明柱穴の検討
壁柱線の内部に位置する機能不明柱穴が建物を支える構造補助柱にすぎないのか、それとも祭祀性のある柱(祭壇)であるのか不明です。
ただ、甕被り人骨が機能不明柱穴を結んだ線をまたいでいるので、この柱穴に祭祀性があったとしてもそれは竪穴住居がつかわれていた時につくられたものであり、甕被り人骨の遺体が置かれた時に設置されたと考えることには抵抗が生れます。
J18竪穴住居 機能不明柱穴の検討
張出部中央にある機能不明柱穴は建物のシンボルとなるような位置にありますから、また出入りの実用性を損ないますから、何らかの祭祀性があったものと想像します。建物と一緒に存在していたと考えます。
2017年12月16日土曜日
覆土層人骨出土廃屋墓
大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 8
大膳野南貝塚堀之内1式期廃屋墓の機能不明柱穴の検討を竪穴住居毎に順次しています。
8 堀之内1式期 J79竪穴住居
8-1 特徴
J79竪穴住居を切ってJ14竪穴住居が存在し、J12竪穴住居を切ってJ14竪穴住居が存在していますが、J79竪穴住居とJ12竪穴住居の新旧関係は不明となっています。
人骨が床面から30㎝高い覆土中層から出土していて、この人骨が含まれる覆土がJ79竪穴住居の分であるとすると、J12→J79の順番であると推察できます。
人骨はJ79壁柱穴にかぶさって存在していますから、J79竪穴住居建物が無くなってからその穴が埋没する途中に埋葬されたものと考えることができます。
人骨は熟年~老年の男性で、後世の削平等により下半身が失われています。
J79竪穴住居の炉は漆喰炉、北西部覆土層上層から貝層が出土しています。
土器・石器が中テン箱1/3箱と獣骨28点が出土しています。
J79竪穴住居の位置
J79竪穴住居 柱穴分布
J79竪穴住居 人骨の状況
8-2 機能不明柱穴の検討
人骨が覆土層中から出土していることから機能不明柱穴が埋葬人骨に関連して新たに建てられた祭壇である可能性は無いようです。
竪穴住居が重複していることもあり、機能不明柱穴の意義を判断する決めては乏しいのですが、竪穴住居廃絶時に建てられた祭壇である可能性を否定できる材料は見つかりません。
[空想]もし北側にある4本の機能不明柱穴が竪穴住居廃絶時の祭壇であれば、その祭壇位置に対応して男性遺体の埋葬位置が決まったのかもしれません。
追記 J79竪穴住居の例は穴の覆土堆積中に埋葬された例であり、竪穴住居廃絶後それを廃屋墓(あるいはモガリ小屋)として再利用するという集落意思が希薄に感じます。
適当な埋葬場所がないので、あるいは正規の埋葬をするほどの故人ではないので、たまたま放棄されている竪穴があるのでそこに埋葬してしまおうという安易な意思が見え隠れします。
おそらくそのような安易な埋葬であるため、この竪穴に人が埋葬されたという情報は薄れ途切れてしまったと想定します。その結果J79竪穴住居は後年にJ14竪穴住居によって切られたのだと思います。
竪穴住居床面に遺体を置いて埋葬(モガリ)を行った本来の意味での廃屋墓は別の竪穴住居によって切られることは大膳野南貝塚ではありません。
廃屋墓の所在は世代から世代に情報として伝えられたと考えられます。
なお、床下墓坑の竪穴住居は別の竪穴住居によって切られています。縄文人にとって床下墓坑は家族レベルの葬送であり、集落社会における廃屋墓概念には入っていなかったと考えます。
大膳野南貝塚堀之内1式期廃屋墓の機能不明柱穴の検討を竪穴住居毎に順次しています。
8 堀之内1式期 J79竪穴住居
8-1 特徴
J79竪穴住居を切ってJ14竪穴住居が存在し、J12竪穴住居を切ってJ14竪穴住居が存在していますが、J79竪穴住居とJ12竪穴住居の新旧関係は不明となっています。
人骨が床面から30㎝高い覆土中層から出土していて、この人骨が含まれる覆土がJ79竪穴住居の分であるとすると、J12→J79の順番であると推察できます。
人骨はJ79壁柱穴にかぶさって存在していますから、J79竪穴住居建物が無くなってからその穴が埋没する途中に埋葬されたものと考えることができます。
人骨は熟年~老年の男性で、後世の削平等により下半身が失われています。
J79竪穴住居の炉は漆喰炉、北西部覆土層上層から貝層が出土しています。
土器・石器が中テン箱1/3箱と獣骨28点が出土しています。
J79竪穴住居の位置
J79竪穴住居 柱穴分布
J79竪穴住居 人骨の状況
8-2 機能不明柱穴の検討
人骨が覆土層中から出土していることから機能不明柱穴が埋葬人骨に関連して新たに建てられた祭壇である可能性は無いようです。
竪穴住居が重複していることもあり、機能不明柱穴の意義を判断する決めては乏しいのですが、竪穴住居廃絶時に建てられた祭壇である可能性を否定できる材料は見つかりません。
[空想]もし北側にある4本の機能不明柱穴が竪穴住居廃絶時の祭壇であれば、その祭壇位置に対応して男性遺体の埋葬位置が決まったのかもしれません。
追記 J79竪穴住居の例は穴の覆土堆積中に埋葬された例であり、竪穴住居廃絶後それを廃屋墓(あるいはモガリ小屋)として再利用するという集落意思が希薄に感じます。
適当な埋葬場所がないので、あるいは正規の埋葬をするほどの故人ではないので、たまたま放棄されている竪穴があるのでそこに埋葬してしまおうという安易な意思が見え隠れします。
おそらくそのような安易な埋葬であるため、この竪穴に人が埋葬されたという情報は薄れ途切れてしまったと想定します。その結果J79竪穴住居は後年にJ14竪穴住居によって切られたのだと思います。
竪穴住居床面に遺体を置いて埋葬(モガリ)を行った本来の意味での廃屋墓は別の竪穴住居によって切られることは大膳野南貝塚ではありません。
廃屋墓の所在は世代から世代に情報として伝えられたと考えられます。
なお、床下墓坑の竪穴住居は別の竪穴住居によって切られています。縄文人にとって床下墓坑は家族レベルの葬送であり、集落社会における廃屋墓概念には入っていなかったと考えます。
2017年12月14日木曜日
人骨7体出土廃屋墓 祭壇跡か?
大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 7
この記事は2017.12.12記事「人骨7体出土縄文時代後期廃屋墓」、2017.12.13記事「多くが女性の人骨7体出土縄文廃屋墓 追考」の続きです。
7 J74竪穴住居純貝層に存在する直線状模様
7-1 直線状模様の確認と成因推定
次の写真に見られるように人骨7体を覆う純貝層に並行する2本の直線状模様が見えます。
J74竪穴住居純貝層の中に存在する直線状模様(非純貝層) 素写真は大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
純貝層(イボキサゴがメイン、ハマグリが客体)は白色ですが、直線状模様は黒っぽく純貝層ではありません。
純貝層は人骨の上に貝殻を撒いてできた土層です、従って模様は木製品などのモノが最初からあり、その場所に貝殻が撒かれ、貝層が出来た後貝層の中で木製品が腐りその空洞部分に泥などが溜まってできたと考えることができます。
7-2 直線状模様の位置同定
直線状模様と柱穴や人骨との位置関係を把握できるように、画像処理しました。
純貝層の平面分布図
純貝層斜め写真への平面分布図投影
平面分布図(投影)への直線状模様の転写 素写真は大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
平面分布図(投影)への直線状模様の転写
直線状模様を転写した平面分布図の正投影
直線状模様は人骨1号と2号の間にある柱穴(cp32)と人骨3号と4号の間にある柱穴(p12)を結ぶ直線の両側に分布しているように観察できます。
7-3 直線状模様の検討
この記事は2017.12.12記事「人骨7体出土縄文時代後期廃屋墓」、2017.12.13記事「多くが女性の人骨7体出土縄文廃屋墓 追考」の続きです。
7 J74竪穴住居純貝層に存在する直線状模様
7-1 直線状模様の確認と成因推定
次の写真に見られるように人骨7体を覆う純貝層に並行する2本の直線状模様が見えます。
J74竪穴住居純貝層の中に存在する直線状模様(非純貝層) 素写真は大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
純貝層(イボキサゴがメイン、ハマグリが客体)は白色ですが、直線状模様は黒っぽく純貝層ではありません。
純貝層は人骨の上に貝殻を撒いてできた土層です、従って模様は木製品などのモノが最初からあり、その場所に貝殻が撒かれ、貝層が出来た後貝層の中で木製品が腐りその空洞部分に泥などが溜まってできたと考えることができます。
7-2 直線状模様の位置同定
直線状模様と柱穴や人骨との位置関係を把握できるように、画像処理しました。
純貝層の平面分布図
純貝層斜め写真への平面分布図投影
平面分布図(投影)への直線状模様の転写 素写真は大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
平面分布図(投影)への直線状模様の転写
直線状模様を転写した平面分布図の正投影
直線状模様は人骨1号と2号の間にある柱穴(cp32)と人骨3号と4号の間にある柱穴(p12)を結ぶ直線の両側に分布しているように観察できます。
7-3 直線状模様の検討
直線状模様の両端付近の柱穴(cp32、p12)を取り巻いて人骨1号・2号、3号・4号が寄り添うように分布していることから、直線状模様は次のような木製祭壇の存在によりつくられたと想像しました。
純貝層で埋まった木製祭壇(空想)
柱の両側に横木を何本も通し様々な飾りをつけたのだと思います。その横木と飾りが貝層の中で腐り、その空間に泥がしみ込んで2列の直線状模様ができたと空想しました。
この様子を写真に書き込むと次のようになります。
木製祭壇(空想)の位置と人骨との位置関係 素写真は大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
J74竪穴住居の機能不明柱穴の多くは補助構造柱ですが2つの柱穴(1つは機能不明柱穴、1つは古段階壁柱)が祭壇用柱であった可能性が濃厚となりました。
発掘途中の貝層写真が無ければ祭壇検討は出来ませんでした。
2017年12月13日水曜日
多くが女性の人骨7体出土縄文廃屋墓 追考
大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 6
大膳野南貝塚堀之内1式期の廃屋墓の機能不明柱穴の検討をしています。
この記事は2017.12.12記事「人骨7体出土縄文時代後期廃屋墓」の続きです。
6 J74竪穴住居とJ105竪穴住居の関係
6-1 建物の関係
J74竪穴住居はJ105竪穴住居の跡に作られています。
その敷地関係は単なる偶然とは思えない様相を呈しています。
J74竪穴住居とJ105竪穴住居の関係
J74竪穴住居とJ105竪穴住居 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
J74竪穴住居はJ105竪穴住居の敷地内に完全に内包されていることが観察できます。
従って、J74竪穴住居と記述していますが、厳密にはJ74住居は竪穴ではありません。
J105竪穴住居は廃絶後焼却され床面に厚く焼土が分布していますが、その焼土の上にJ74竪穴住居の床面が形成されています。
またJ105とJ74の長軸方向は略一致します。さらに張出部の位置も同じ場所であると考えられます。
出土土器からJ105とJ74はともに堀之内1式期です。
これらの状況からJ74竪穴住居がたてられたとき、その場所がJ105竪穴住居廃絶祭祀跡の場所であることを十分承知して、つまり意識してわざとその中におさまるように竪穴を掘らない小住居を立てたことが推察できます。
6-2 人間関係の想像
J105竪穴住居から鯨骨製骨刀が出土しています。
J105竪穴住居出土鯨骨製骨刀 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
この骨刀出土はこの住居主人の持ち物で、その主人が死亡したときJ105竪穴住居の廃絶祭祀でこの住居に納められたと考えるならば、この住居の主人は集落のリーダー格であったと考えることができます。
リーダー格主人が死亡し、その住居を廃絶して燃やし、その跡に小さなJ74住居を作ったことになります。
そして、その小さな住居は住居内に補助柱が沢山あったのですから粗末なつくりであったと考えます。3回ほど建て替えをしている様子はその家の構造が粗末であるからそうせざるをえなかっと考えます。そしてさらに粗末な家構造は、集落がその家を頑丈につくることを許さなかったからだと考えます。
このように考えると(想像すると)、集落のリーダー格主人が死亡し、住居は燃やして廃絶し、その敷地内に粗末な小屋を建てて主人の妻(寡婦)が住んだのではないだろうかと想像します。
妻は主人の死亡に関連して殉死することは免れ、粗末な小屋を作って生きることが許されたのだと思います。
サハリンアイヌでは主人が死ぬと妻が亡骸を1年かけてミイラにし、ミイラが完成すると褒美をもらって生きることを許され、亡骸が腐ってミイラにならないと殉死させられたそうです。(瀬川拓郎「アイヌと縄文」(ちくま新書)による)
殉死を免れたリーダー格主人の妻(寡婦)が死亡すると、その小屋がモガリ小屋となり、最後には集落の別の女性や子どもの亡骸(モガリが行われて既にミイラとなったもの)も運びこまれ、ある時集落全員で純貝層で6体(追加してさらに1体)の亡骸(ミイラ)を埋葬したのだと想像します。
小屋は粗末ですが、集落女性世界では地位の高い女性の小屋ですから、その場所が集落女性陣の埋葬の場となったと想像します。
2017年12月12日火曜日
人骨7体出土縄文時代後期廃屋墓
大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 5
大膳野南貝塚堀之内1式期の廃屋墓の機能不明柱穴の検討をしています。
5 堀之内1式期 J74竪穴住居
5-1 特徴
J74竪穴住居はJ105竪穴住居を切って重複してつくられ、柱穴の分布から古段階、中段階、新段階の3段階にわたって建て替えられています。
床面付近から6体の人骨が、覆土層から1体の人骨が出土しています。
炉は漆喰炉で人骨は純貝層で覆われています。
J74竪穴住居の位置
J74竪穴住居 柱穴分布
古段階張出部柱穴は中段階張出部柱穴と重複すると考えられています。(発掘調査報告書)
人骨の状況
人骨の推定(発掘調査報告書)
1号人骨:壮年期女性
2号人骨:熟年期~老年期女性、右上顎側切歯が抜歯
3号人骨:性別不明3歳前後幼児骨
4号人骨:熟年期女性
5号人骨:青年期男性
6号人骨:壮年期前半女性
番外人骨:壮年~熟年女性頭骨片(覆土内出土)
人骨の状況 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
5-2 検討
5-2-1 人骨埋葬状況
人骨出土付近の土層断面の詳細を発掘調査報告書を詳しく分析して把握してい見ました。
人骨出土付近土層断面情報
3号・4号人骨及び5号・6号人骨出土付近は土層断面図があり土層の状況を把握することができました。
この把握結果を模式的に示すと次のようになります。
人骨出土付近の土層
1号・2号人骨は床面直上から出土し、純貝層に覆われている様子が観察(想定)できます。J74竪穴住居が廃絶して間もない時期の埋葬であるのかもしれません。発掘調査報告書では1号と2号の時間差はほとんどないと想定しています。
3号・4号人骨は混貝土層の堆積の上から出土し、純貝層に覆われている様子が観察(想定)できます。混貝土層は人為的に撒かれたと想定します。J74竪穴住居が廃絶して建物が無くなってからの出来事であると想定します。
5号・6号人骨は焼土粒、炭化物を含む土層堆積の上から出土し、純貝層に覆われている様子が観察(想定)できます。焼土粒・炭化物は人為的にこの場で物を燃やした跡ですから建物が無くなってからモノを燃やした、あるは建物を燃やした跡であると考えます。
さて、全ての人骨が純貝層に覆われているのですが、このことから亡骸が置かれたのはほぼ同じ時点であり、6体の遺骸の上に純貝層を一斉に掛けて埋葬が行われたのではないだろうかと想像します。
もし3組の亡骸の埋葬に時間差があり、それぞれの場合で純貝層を撒けばすぐ近くの床面は純貝層に覆われ、後に近くに別の亡骸が置かれた時それは純貝層の上に置かれ、断面的には純貝層中から出土することになります。しかしそうなっていないので3組の埋葬は1回であった可能性を想定できます。
番外人骨は純貝層がすでに存在していた時に埋葬された例であると考えます。
1号~6号人骨亡骸はJ74竪穴住居が廃絶し、その建物が取り払われ(おそらく焼き払われ)た後、あまり時間を置かないで一斉に持ち込まれ一斉に純貝層で覆った(埋葬した)と想像(空想)します。
1号~6号の亡骸の死亡時期や死亡要因は様々であると考えます。それぞれ別の場所で長時間(1~2年程度の)モガリがおこなわれ、亡骸はミイラ化していたと考えます。最後に集落のいろいろな住居に散在しているモガリ対象亡骸(ミイラ)をJ74竪穴住居に集め純貝層で埋葬して、集落として祭祀上の一つの区切りをつけたのではないだろうかと想像します。
7体の人骨のうち5体が女性であることは、家長(男)でない者(妻、子ども、女)の埋葬が集団で行われたという特徴をJ74竪穴住居廃屋墓が表現している可能性があります。
5-2-2 機能不明柱穴について
機能不明柱穴が多数存在しかつそれらのほとんどが2つの柱穴が隣接してペアで存在しているように観察できます。
この観察からJ74竪穴住居の機能不明柱穴の多くは建物の構造補助柱であり、建て替えの時に一緒に付け直されたと想像することができます。
同時に、土層断面図に表現される幾つかの機能不明柱穴は、床面に覆土層が堆積した時には存在していなかったように観察できます。
また、人骨が機能不明柱穴の上にかぶさって存在している場所もいくつかあります。
このような状況からJ74竪穴住居の機能不明柱穴の多くは建物を支える補助柱であったと考えて間違いないと思います。
なお、亡骸埋葬時に機能不明柱穴分布範囲は全て純貝層で覆われたので、その場に立派な祭壇が存在していたとは考えずらいですが、吹き流しなどを飾る背の高い祭祀柱が単独で存在していた可能性はあると想像します。
大膳野南貝塚堀之内1式期の廃屋墓の機能不明柱穴の検討をしています。
5 堀之内1式期 J74竪穴住居
5-1 特徴
J74竪穴住居はJ105竪穴住居を切って重複してつくられ、柱穴の分布から古段階、中段階、新段階の3段階にわたって建て替えられています。
床面付近から6体の人骨が、覆土層から1体の人骨が出土しています。
炉は漆喰炉で人骨は純貝層で覆われています。
J74竪穴住居の位置
J74竪穴住居 柱穴分布
古段階張出部柱穴は中段階張出部柱穴と重複すると考えられています。(発掘調査報告書)
人骨の状況
人骨の推定(発掘調査報告書)
1号人骨:壮年期女性
2号人骨:熟年期~老年期女性、右上顎側切歯が抜歯
3号人骨:性別不明3歳前後幼児骨
4号人骨:熟年期女性
5号人骨:青年期男性
6号人骨:壮年期前半女性
番外人骨:壮年~熟年女性頭骨片(覆土内出土)
人骨の状況 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
5-2 検討
5-2-1 人骨埋葬状況
人骨出土付近の土層断面の詳細を発掘調査報告書を詳しく分析して把握してい見ました。
人骨出土付近土層断面情報
3号・4号人骨及び5号・6号人骨出土付近は土層断面図があり土層の状況を把握することができました。
この把握結果を模式的に示すと次のようになります。
人骨出土付近の土層
1号・2号人骨は床面直上から出土し、純貝層に覆われている様子が観察(想定)できます。J74竪穴住居が廃絶して間もない時期の埋葬であるのかもしれません。発掘調査報告書では1号と2号の時間差はほとんどないと想定しています。
3号・4号人骨は混貝土層の堆積の上から出土し、純貝層に覆われている様子が観察(想定)できます。混貝土層は人為的に撒かれたと想定します。J74竪穴住居が廃絶して建物が無くなってからの出来事であると想定します。
5号・6号人骨は焼土粒、炭化物を含む土層堆積の上から出土し、純貝層に覆われている様子が観察(想定)できます。焼土粒・炭化物は人為的にこの場で物を燃やした跡ですから建物が無くなってからモノを燃やした、あるは建物を燃やした跡であると考えます。
さて、全ての人骨が純貝層に覆われているのですが、このことから亡骸が置かれたのはほぼ同じ時点であり、6体の遺骸の上に純貝層を一斉に掛けて埋葬が行われたのではないだろうかと想像します。
もし3組の亡骸の埋葬に時間差があり、それぞれの場合で純貝層を撒けばすぐ近くの床面は純貝層に覆われ、後に近くに別の亡骸が置かれた時それは純貝層の上に置かれ、断面的には純貝層中から出土することになります。しかしそうなっていないので3組の埋葬は1回であった可能性を想定できます。
番外人骨は純貝層がすでに存在していた時に埋葬された例であると考えます。
1号~6号人骨亡骸はJ74竪穴住居が廃絶し、その建物が取り払われ(おそらく焼き払われ)た後、あまり時間を置かないで一斉に持ち込まれ一斉に純貝層で覆った(埋葬した)と想像(空想)します。
1号~6号の亡骸の死亡時期や死亡要因は様々であると考えます。それぞれ別の場所で長時間(1~2年程度の)モガリがおこなわれ、亡骸はミイラ化していたと考えます。最後に集落のいろいろな住居に散在しているモガリ対象亡骸(ミイラ)をJ74竪穴住居に集め純貝層で埋葬して、集落として祭祀上の一つの区切りをつけたのではないだろうかと想像します。
7体の人骨のうち5体が女性であることは、家長(男)でない者(妻、子ども、女)の埋葬が集団で行われたという特徴をJ74竪穴住居廃屋墓が表現している可能性があります。
5-2-2 機能不明柱穴について
機能不明柱穴が多数存在しかつそれらのほとんどが2つの柱穴が隣接してペアで存在しているように観察できます。
この観察からJ74竪穴住居の機能不明柱穴の多くは建物の構造補助柱であり、建て替えの時に一緒に付け直されたと想像することができます。
同時に、土層断面図に表現される幾つかの機能不明柱穴は、床面に覆土層が堆積した時には存在していなかったように観察できます。
また、人骨が機能不明柱穴の上にかぶさって存在している場所もいくつかあります。
このような状況からJ74竪穴住居の機能不明柱穴の多くは建物を支える補助柱であったと考えて間違いないと思います。
なお、亡骸埋葬時に機能不明柱穴分布範囲は全て純貝層で覆われたので、その場に立派な祭壇が存在していたとは考えずらいですが、吹き流しなどを飾る背の高い祭祀柱が単独で存在していた可能性はあると想像します。
2017年12月10日日曜日
床が傾斜する竪穴住居
大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 4
大膳野南貝塚堀之内1式期の廃屋墓の機能不明柱穴の検討をしています。
4 堀之内1式期 J95竪穴住居
4-1 特徴
後世の削平等により住居壁は失われていると発掘調査報告書で記載されています。楕円形の範囲で住居が想定され、新旧の柱穴が分布し、張出部近くの床面から周産期~乳児期人骨1体が検出されています。炉は漆喰炉、住居覆土のかなりの部分に貝層が含まれます。
J95竪穴住居の位置
J95竪穴住居 廃屋墓
人骨の状況
4-2 検討
4-2-1 人骨について
周産期~乳児期人骨が張出部の近く(張出部柱穴の外側)に存在していることは次のように模式化することができます。
J95竪穴住居 周産期~乳児期人骨出土位置
子どもの人骨が張出部近くに存在する様子は子どもの床下墓坑があるJ77竪穴住居の様子とそっくりです。
J77竪穴住居の床下墓坑の位置
2017.12.07記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 2」参照
J95竪穴住居はJ77とともに廃屋墓に分類されていますが、両方とも住居が生活に使われていた時期から子どもの墓坑が存在していたと考えます。
子どもの亡骸を生活場所に置いて、一緒に生活したいという親の気持ちが表現されている住居であると考えます。
従って、J95竪穴住居が廃絶した時、子どもの亡骸は主な祭祀対象にはならなかったと推定します。地点貝層が子どもの亡骸を覆っていない様子がそのような意識を反映しているように想像します。
4-2-2 機能不明柱穴について
柱穴の全体分布及び床面傾斜から中央部にある機能不明柱穴が建物棟木を支える補助柱の様に観察できます。
J95竪穴住居 建物の検討
J95竪穴住居 模式断面(想定)
住居床面が傾斜しているのでそこに建てられた建物の東側の柱の数を増やして建物の荷重を支える必要があり、そのため東側の柱穴が増えたと考えることが合理的です。
住居中央の機能不明柱穴も西側で4つ、東側で8つになっていて、建て替えの度ごとに棟木を建物中央で支える補助柱を西側で少なく、東側で多く設置したことが推定できます。
なお、発掘調査報告書では住居壁は後世の削平等により失われたと記述していますが、その記述には大いに疑問が残ります。発掘調査報告書の記述通りだとすると上図模式断面のようになります。このような断面はあり得ないと考えます。もし竪穴を掘ったとするならば、床面は略水平になるはずです。建物の荷重を受けるために片側だけ柱を多くするほどの傾斜をつけて竪穴を掘る縄文人はいないと考えます。
発掘調査報告書の記述と上図点線部分はおそらく間違いであり、J95竪穴住居は自然地形斜面を直接床面として建設された住居であったと考えます。
張出部にある1つの機能不明柱穴は張出部外側の中央にあるように観察(推定)できます。その観察(推定)が正しければ、張出部の出入りに不便となる場所であることから、張出部の祭祀性を強調するようなシンボル的柱であったか、あるいは竪穴住居廃絶後に祭壇として設置された柱かもしれません。
2017年12月8日金曜日
北方向を意識した縄文時代後期廃屋墓
大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 3
この記事から、後期集落のピーク時期(爆発的に発展して次期には衰退してしまう時期)である堀之内1式期の廃屋墓の機能不明柱穴の検討を始めます。
3 堀之内1式期 J67竪穴住居
3-1 特徴
近代道路工事の影響で削平され残存部は硬化していますが、帯状の混土貝層が残され、人骨が4体検出されています。
J67竪穴住居の位置
人骨は頭を東に向けて東西方向に並べられているように観察できます。
人骨の状況 1
人骨の状況 2
遺体が東西方向に並べられたことが偶然であるか、意図されたものであるか、今後多くの事例を知るプロセスの中で学習を深めることにしますが、この記事では東西方向に着目します。
人骨1と2は床面直上から人骨3と4は床面から10㎝高い覆土層から出土しているので、人骨1と2の遺体が置かれてから人骨3と4の遺体が置かれるまでの間に時間差があったことが確認できます。この竪穴住居は廃絶後墓として継続して使われたことが判ります。
3-2 検討
発掘調査報告書ではその機能の説明の無い柱穴が6カ所あります。
J67竪穴住居 廃屋墓
遺体が東西方向に並べられ、遺体直ぐ北側に3本の機能不明柱穴が存在することから、これまでに機能不明柱穴は送り場(墓)の祭壇柱であると推定する検討を行ってきています。
J67竪穴住居 送り場の様子推測
2017.07.22記事「竪穴住居の送り場利用は建物廃滅後」参照
J67竪穴住居 送り場イメージ
2017.07.23記事「竪穴住居跡送り場のイメージ」参照
J67竪穴住居は集落主部(北貝層、南貝層のそれぞれ東側)から離れていることから、また出土物(お供え物)の程度から、その利用者は集落一般層(非リーダー層)の者であったと推察します。
この記事から、後期集落のピーク時期(爆発的に発展して次期には衰退してしまう時期)である堀之内1式期の廃屋墓の機能不明柱穴の検討を始めます。
3 堀之内1式期 J67竪穴住居
3-1 特徴
近代道路工事の影響で削平され残存部は硬化していますが、帯状の混土貝層が残され、人骨が4体検出されています。
J67竪穴住居の位置
人骨は頭を東に向けて東西方向に並べられているように観察できます。
人骨の状況 1
人骨の状況 2
遺体が東西方向に並べられたことが偶然であるか、意図されたものであるか、今後多くの事例を知るプロセスの中で学習を深めることにしますが、この記事では東西方向に着目します。
人骨1と2は床面直上から人骨3と4は床面から10㎝高い覆土層から出土しているので、人骨1と2の遺体が置かれてから人骨3と4の遺体が置かれるまでの間に時間差があったことが確認できます。この竪穴住居は廃絶後墓として継続して使われたことが判ります。
3-2 検討
発掘調査報告書ではその機能の説明の無い柱穴が6カ所あります。
J67竪穴住居 廃屋墓
遺体が東西方向に並べられ、遺体直ぐ北側に3本の機能不明柱穴が存在することから、これまでに機能不明柱穴は送り場(墓)の祭壇柱であると推定する検討を行ってきています。
J67竪穴住居 送り場の様子推測
2017.07.22記事「竪穴住居の送り場利用は建物廃滅後」参照
J67竪穴住居 送り場イメージ
2017.07.23記事「竪穴住居跡送り場のイメージ」参照
J67竪穴住居は集落主部(北貝層、南貝層のそれぞれ東側)から離れていることから、また出土物(お供え物)の程度から、その利用者は集落一般層(非リーダー層)の者であったと推察します。
2017年12月7日木曜日
大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 2
大膳野南貝塚後期集落の最初期(加曽利E4~称名寺古式期)には人骨を集骨した廃屋墓竪穴住居(J88)が1軒あり、その期の住人は漁業に関わっておらず、従って地点貝層(住居内貝層)は皆無であることを知りました。この期の住民は次期(称名寺~堀之内1古式期)の住民(地点貝層や漆喰炉・漆喰貼床を残した漁民)に駆逐され、住民の総入れ替わりがあったことを知りました。
2017.12.03記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 1」、2017.12.04記事「大膳野南貝塚 後期集落最初期の集団入れ替わり」参照
この記事では称名寺~堀之内1古式期の廃屋墓柱穴について検討します。
称名寺~堀之内1古式期の住民は後期集落の始祖といえる人々です。この始祖たちの竪穴住居を核にしてその後の貝塚(貝層)が形成されていきます。
2 称名寺~堀之内1古式期 J77竪穴住居
2-1 特徴
南貝層に埋没して存在していて、漆喰炉(新旧2基)、漆喰貼床が存在します。
J77竪穴住居の位置
主体部端に一部漆喰貼床に覆われた床下墓坑が存在し、3才くらいの幼児人骨が出土しました。
床下墓坑が漆喰貼床に一部覆われていることから、墓坑は竪穴住居が生活に使われていた時期に存在していたことが確認できます。
死んだわが子の亡骸を身近な場所に置いて生活したいという縄文人の心性をうかがうことができます。(この心性は小児棺が屋外漆喰炉の近くにあることでもうかがうことができます。…追って検討予定)
竪穴住居は廃絶後燃やされたと考えられ漆喰貼床は被熱で赤化しています。竪穴住居の穴は貝で埋まって(地点貝層)います。
張出部覆土層下部から骨角器3点が出土し、そのうち1点は鹿角製完形垂飾品(腰飾り)です。
2-2 検討
発掘調査報告書ではJ77柱穴に機能不明柱穴はありません。
しかし建物構造柱の柱穴と考え難い柱穴が2つあるので検討します。
●P34
床下墓坑の詳細図を見ると床下墓坑設置後につくられたと観察できる柱穴(P34)があります。
床下墓坑の設置後その場所の隅に柱を立てたとすれば、その柱は墓坑の祭壇の役割をした柱の可能性が浮かび上がります。
●P40
主体部と張出部を連結する空間に存在する東西に細長く伸びた漆喰貼床の中央に位置する柱穴は居住機能(利便性)から考えて非合理的であり、また漆喰貼床設置後につくられた可能性が濃厚であるので、住宅廃絶後の柱の可能性があります。例えば竪穴住居廃絶焼却後の祭壇としての柱の可能性があります。
検討
漆喰貼床に方向性を感じ取りますのでメモしておきます。
J77の漆喰貼床は大きく3箇所(張出部、連結部、主体部)に分布しています。
張出部漆喰貼床(発掘調査報告書では文章記述されているが図示されていない)は南北方向長軸の略矩形です。連結部漆喰貼床は東西方向の長矩形です。主体部漆喰貼床は東西方向長軸の楕円形です。これら3つの分布は南北性の軸により展開しています。この南北軸は北方向を意識したものであると推定します。
柱(祭壇)だけでなく住居構造にも縄文人の北方向信仰の跡が多数見つかりそうなので、あえてメモしておきます。
J77竪穴住居の漆喰貼床模式と方向性
なお張出部と主体部の間に連結部(緩衝部?)があることから、主体部の居住機能とは別の機能、例えば祭祀機能が張出部にあったことを想像します。
住居廃絶後張出部に社会的地位(リーダー性)を示す腰飾りを供え、また地点貝層も主体部とは別に独自に存在していることから、張出部に対して主体部とは別の独立した意味があったことが判ります。
また、床下土坑の位置が連結部(緩衝部?)漆喰貼床の延長にあることから、床下土坑は主体部と連結部(緩衝部?)を介して繋がっていることが判ります。
つまり、主体部(現実の生活)は連結部(緩衝部?)を介して張出部(祭祀空間?)と床下墓坑(わが子の亡骸)と繋がっています。あるいは近接するけれども直接交わらないようにしているとも言えます。
2017.12.03記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 1」、2017.12.04記事「大膳野南貝塚 後期集落最初期の集団入れ替わり」参照
この記事では称名寺~堀之内1古式期の廃屋墓柱穴について検討します。
称名寺~堀之内1古式期の住民は後期集落の始祖といえる人々です。この始祖たちの竪穴住居を核にしてその後の貝塚(貝層)が形成されていきます。
2 称名寺~堀之内1古式期 J77竪穴住居
2-1 特徴
南貝層に埋没して存在していて、漆喰炉(新旧2基)、漆喰貼床が存在します。
J77竪穴住居の位置
主体部端に一部漆喰貼床に覆われた床下墓坑が存在し、3才くらいの幼児人骨が出土しました。
床下墓坑が漆喰貼床に一部覆われていることから、墓坑は竪穴住居が生活に使われていた時期に存在していたことが確認できます。
死んだわが子の亡骸を身近な場所に置いて生活したいという縄文人の心性をうかがうことができます。(この心性は小児棺が屋外漆喰炉の近くにあることでもうかがうことができます。…追って検討予定)
竪穴住居は廃絶後燃やされたと考えられ漆喰貼床は被熱で赤化しています。竪穴住居の穴は貝で埋まって(地点貝層)います。
張出部覆土層下部から骨角器3点が出土し、そのうち1点は鹿角製完形垂飾品(腰飾り)です。
垂飾品
J77竪穴住居からの出土遺物は中テン箱3箱、獣骨が1箱に達します。
これらの情報から、J77竪穴住居は廃絶後焼却されるとともに垂飾等のお供えがあり、また繰り返し獣骨や貝殻の投げ入れがあったことがわかります。これらの行為は全て丁寧な祭祀が繰り返し実行されたことを物語ると考えます。垂飾品(腰飾り)は故人が身に着けていたものと推定し、故人は社会的身分が高かった人、リーダーであると推定できます。
発掘調査報告書ではJ77柱穴に機能不明柱穴はありません。
しかし建物構造柱の柱穴と考え難い柱穴が2つあるので検討します。
●P34
床下墓坑の詳細図を見ると床下墓坑設置後につくられたと観察できる柱穴(P34)があります。
床下墓坑の設置後その場所の隅に柱を立てたとすれば、その柱は墓坑の祭壇の役割をした柱の可能性が浮かび上がります。
●P40
主体部と張出部を連結する空間に存在する東西に細長く伸びた漆喰貼床の中央に位置する柱穴は居住機能(利便性)から考えて非合理的であり、また漆喰貼床設置後につくられた可能性が濃厚であるので、住宅廃絶後の柱の可能性があります。例えば竪穴住居廃絶焼却後の祭壇としての柱の可能性があります。
検討
漆喰貼床に方向性を感じ取りますのでメモしておきます。
J77の漆喰貼床は大きく3箇所(張出部、連結部、主体部)に分布しています。
張出部漆喰貼床(発掘調査報告書では文章記述されているが図示されていない)は南北方向長軸の略矩形です。連結部漆喰貼床は東西方向の長矩形です。主体部漆喰貼床は東西方向長軸の楕円形です。これら3つの分布は南北性の軸により展開しています。この南北軸は北方向を意識したものであると推定します。
柱(祭壇)だけでなく住居構造にも縄文人の北方向信仰の跡が多数見つかりそうなので、あえてメモしておきます。
J77竪穴住居の漆喰貼床模式と方向性
なお張出部と主体部の間に連結部(緩衝部?)があることから、主体部の居住機能とは別の機能、例えば祭祀機能が張出部にあったことを想像します。
住居廃絶後張出部に社会的地位(リーダー性)を示す腰飾りを供え、また地点貝層も主体部とは別に独自に存在していることから、張出部に対して主体部とは別の独立した意味があったことが判ります。
また、床下土坑の位置が連結部(緩衝部?)漆喰貼床の延長にあることから、床下土坑は主体部と連結部(緩衝部?)を介して繋がっていることが判ります。
つまり、主体部(現実の生活)は連結部(緩衝部?)を介して張出部(祭祀空間?)と床下墓坑(わが子の亡骸)と繋がっています。あるいは近接するけれども直接交わらないようにしているとも言えます。
2017年12月4日月曜日
大膳野南貝塚 後期集落最初期の集団入れ替わり
2017.12.03記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 1」で後期集落最初期と次期の間に集団の入れ替わりがあったことに気が付きましたので、もう少し詳しくメモしておきます。
最初期(加曽利E4~称名寺古式期)と次期以降(称名寺~堀之内1古式期以降)では貝出土、漆喰炉の存在、遺物の量と質、葬送、竪穴住居分布で次のような非連続が確認できます。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉集落の最初期に集団が入れ替わった可能性
最初期の縄文人集団は漁業と関わらない(貝塚を形成しない)集団であり、葬送から見てわかるように文化的にも次期以降集団と異なっていたと考えることができます。
また出土物などから次期以降集団と比べて貧しく、かつ技術的にも遅れていたと推定できます。
おそらくこの場所に漆喰炉技術を持参してやってきて貝塚をつくった集団は、それまでの居住者を駆逐して(追い払って)新たな集落を形成したものと考えます。
最初期の竪穴住居のうち2軒は北貝層の下に位置しますが、貝層は最初期には存在していません。またこの2軒の竪穴住居覆土層から貝は一切出土していません。したがって、地図上では最初期竪穴住居と北貝層は重なりますが、最初期竪穴住居と貝層(貝塚)とは一切無関係です。
また最初期竪穴住居の分布は台地に分散していて環状集落形成と関わらないことを物語っています。
大膳野南貝塚加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居
大膳野南貝塚称名寺~堀之内1古式期竪穴住居
最初期(加曽利E4~称名寺古式期)と次期以降(称名寺~堀之内1古式期以降)では貝出土、漆喰炉の存在、遺物の量と質、葬送、竪穴住居分布で次のような非連続が確認できます。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉集落の最初期に集団が入れ替わった可能性
最初期の縄文人集団は漁業と関わらない(貝塚を形成しない)集団であり、葬送から見てわかるように文化的にも次期以降集団と異なっていたと考えることができます。
また出土物などから次期以降集団と比べて貧しく、かつ技術的にも遅れていたと推定できます。
おそらくこの場所に漆喰炉技術を持参してやってきて貝塚をつくった集団は、それまでの居住者を駆逐して(追い払って)新たな集落を形成したものと考えます。
最初期の竪穴住居のうち2軒は北貝層の下に位置しますが、貝層は最初期には存在していません。またこの2軒の竪穴住居覆土層から貝は一切出土していません。したがって、地図上では最初期竪穴住居と北貝層は重なりますが、最初期竪穴住居と貝層(貝塚)とは一切無関係です。
また最初期竪穴住居の分布は台地に分散していて環状集落形成と関わらないことを物語っています。
大膳野南貝塚加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居
大膳野南貝塚称名寺~堀之内1古式期竪穴住居
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