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2019年1月2日水曜日

千葉県遺跡分布地図帳 陥し穴、人骨、丸木舟、翡翠、琥珀

私家版千葉県遺跡DB地図帳 20 陥し穴、人骨、丸木舟、翡翠、琥珀

私家版千葉県遺跡DBの全レコード(20130)を分布図を通じて概観する活動を行っています。この記事では項目(フィールド)「遺構・遺物」の記載内容で陥し穴、人骨、丸木舟、翡翠、琥珀を含む遺跡の分布図を例として作成してみました。

1 陥し穴、人骨、丸木舟、翡翠、琥珀の分布
私家版千葉県遺跡DB地図帳 陥し穴分布 101

参考 縄文時代草創期遺跡と陥し穴分布

参考 縄文時代草創期遺跡と有舌尖頭器出土遺跡
 
私家版千葉県遺跡DB地図帳 人骨分布 102

参考 千葉県人骨出土貝塚 地形立地分類

私家版千葉県遺跡DB地図帳 丸木舟分布 103

参考 「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)掲載「丸木舟の出土地」

私家版千葉県遺跡DB地図帳 翡翠分布 104

私家版千葉県遺跡DB地図帳 琥珀分布 105

2 メモ
・陥し穴は縄文早期に流行った罠猟ですが、東京神奈川では陥し穴と仕掛弓(有舌尖頭器が遺物として対応)という罠猟分布域と縄文草創期隆線文土器遺跡分布が一致し、その立地特性は旧石器時代遺跡と異なる地形を強く選択しているという研究があります。(「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)収録「関東南西部の縄文時代草創期の様相 安藤広道」)
ブログ芋づる式読書のメモ2018.12.24記事「遺跡の立地
ブログ芋づる式読書のメモ2018.10.31記事「関東南西部の縄文時代草創期の様相
・陥し穴分布図は縄文草創期から早期頃の罠猟の立地特性を知るうえで貴重な検討資料とすることができ、東京神奈川と千葉の比較検討に役立ちます。
・DBから人骨出土遺跡を難無く作成することができ、その情報をたとえば貝塚遺跡に絞り込めば、貝塚と葬送の関係分析の基礎資料とすることができます。
2018.11.28記事「千葉県貝塚 遺構遺物検索例(人骨)
・丸木舟でDBを検索すると64遺跡を抽出することができ、これまでに確認されている丸木舟出土遺跡122の半分の情報を得ることができます。
2018.10.30記事「遺跡DB感想 丸木舟
・翡翠(大珠)、琥珀という出土物が記載されている遺跡分布図も作成することができます。自分はこのような分布図をみたことがありませんから価値があると考えます。
・翡翠は威信財と言われますが、翡翠分布図から有用な意味を汲み取ることが出来るかどうか、今後の検討が楽しみです。
・琥珀は銚子付近で採れ、その周辺に分布しますが木更津付近に飛地的に分布する遺跡群が気になります。


2018年11月28日水曜日

千葉県貝塚 遺構遺物検索例(人骨)

貝塚を例とした千葉県遺跡DB活用方策の検討 7 遺構遺物検索例(人骨)

千葉県遺跡DBにおける貝塚755件の遺構遺物欄記載を「人骨」で検索してみました。DB遺構遺物欄活用例として検索したものです。

1 人骨出土貝塚
人骨出土貝塚は36件で貝塚全体(755件)の約5%となります。
地形別にみると台地に立地する貝塚がほとんどですが、低地の貝塚から人骨が出土している例もあります。

千葉県 人骨出土貝塚

千葉県人骨出土貝塚 地形立地分類
・低地2件は茂原市の渋谷貝塚と下太田貝塚で、下太田貝塚は時代「縄文(中・後・晩)」で遺構遺物概要が「貝層、獣骨層、土器包含層・縄文土器、石器、土偶、骨製品、人骨200体以上、赤色顔料粒子、植物種子、植物遺体」となっていて人骨200体以上という特段に注目すべきものとなっています。低地立地貝塚で人骨出土した例は特別な考察が必要な事例のようです。
・台地貝塚から人骨が出土している事象は貝塚が集落における埋葬場所であったことを示していると考えます。

2 人骨出土貝塚の分布特性
下に千葉県 貝塚地形立地分類を示します

千葉県貝塚 地形立地分類
この図と1に示した千葉県人骨出土貝塚地形立地分類をくらべると、貝塚が密に分布するところと人骨出土貝塚が密に分布するところがほぼ一致します。
その分布一致の様子はヒートマップ(カーネル密度推定)を対照すると一目瞭然です。

千葉県人骨出土貝塚ヒートマップ(カーネル密度推定)

千葉県貝塚ヒートマップ(カーネル密度推定)

3 考察
・貝塚が密に分布する場所に人骨出土貝塚が密に分布するのですから、一般論としては貝塚が埋葬の場に使われるという文化が分布図に表現されていると言えそうです。
しかし、人骨出土貝塚の分布は貝塚全体の分布と比べてかなり極限されています。この様子から、貝塚に人骨を埋葬するという風習が限定された時期のものであるなど、限定条件が存在しているように想像します。
・貝塚から人骨が出土して、それが発掘調査報告書等に記載されている遺跡の総数のうち、DB検索(「人骨」)でヒットする貝塚(36件)の割合がどの程度のものであるか、まだ情報を持っていません。
・人骨出土貝塚の中に大膳野南貝塚が含まれていません。これはDB出典(ふさの国文化財ナビゲーション)における内容面更新に限界があることを示しています。遺跡データベースの内容を発掘報告書発行に従って順次更新するという本来のデータベース管理作業はおそらく不可能に近いことであると理解します。

2017年12月26日火曜日

殯(モガリ)におけるミイラ作成

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 17

2017.12.21記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 まとめ」の中でピックアップした人骨齧痕の意味について考察します。

1 人骨齧痕の記載と統計
人骨齧痕の記載と一覧表を示します。

齧歯類齧痕の記述例
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚出土人骨 齧歯類の齧痕
大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成

竪穴住居出土人骨のうち周産期~3歳・小児のものを除く16事例のうち齧痕のあるものは13事例であり8割を越えます。
発掘調査報告書ではこの事情について次のように検討しています。
「保存状態の良好な住居祉人骨の出土状況を確認したところ、いずれも解剖学的に自然な位置を保持していたことから一次葬と判断されたが、それらの関節で看取された小規模な骨の移動や骨体に残された齧歯類の齧痕から、死後白骨化するまで遺体の周囲に空隙が存在したか、あるいは遺体の覆土が薄かったと推察された。」

2 人骨齧痕の意味
発掘調査報告書の検討では埋葬後の空隙の存在とか薄い覆土という特殊的な状況を想定していますが、8割を超える人骨に齧痕があることから齧痕ができる状況が一般的状況であったと推察できます。
サハリンアイヌの習俗等から縄文時代に殯(モガリ)におけるミイラ作成が埋葬前に存在していたと考えることが合理的です。
遺体は殯小屋(おそらく居住住居とは別の空家)で長期(1年以上)にわたってミイラとなり(あるいは腐って白骨化し)、その間に齧歯類に食われ、骨に齧痕がついたものと考えます。
殯がおわるとミイラはその場で埋葬されたり、別の空家に集められて合同の埋葬がおこなわれたりしたものと想定します。

J40竪穴住居 竪穴住居から人骨1体出土
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

J40竪穴住居が殯小屋であり、かつ埋葬の場でもあったと想像します。

J74竪穴住居 竪穴住居から人骨7体出土
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

死亡時期が異なり別の場所で殯がおこなわれたミイラも含めて遺体6体がJ74竪穴住居に集められて合同埋葬され、覆土層の途中にも別の1体が埋葬されたと想像します。

なお人骨79号住は覆土中層から出土していますが齧痕があります。
遺体が覆土中層に埋葬された後、人骨がネズミに齧られるという状況を想定することはほとんど不可能です。従ってこの例は覆土中層に埋葬された遺体がすでにネズミに齧られたミイラであったことを物語っています。つまり別の場所にある殯小屋で殯が行われ、最後の埋葬がJ79竪穴住居でおこなわれたと考えることができます。

J79竪穴住居 人骨の状況





2017年12月16日土曜日

覆土層人骨出土廃屋墓

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 8

大膳野南貝塚堀之内1式期廃屋墓の機能不明柱穴の検討を竪穴住居毎に順次しています。

8 堀之内1式期 J79竪穴住居
8-1 特徴
J79竪穴住居を切ってJ14竪穴住居が存在し、J12竪穴住居を切ってJ14竪穴住居が存在していますが、J79竪穴住居とJ12竪穴住居の新旧関係は不明となっています。
人骨が床面から30㎝高い覆土中層から出土していて、この人骨が含まれる覆土がJ79竪穴住居の分であるとすると、J12→J79の順番であると推察できます。
人骨はJ79壁柱穴にかぶさって存在していますから、J79竪穴住居建物が無くなってからその穴が埋没する途中に埋葬されたものと考えることができます。
人骨は熟年~老年の男性で、後世の削平等により下半身が失われています。
J79竪穴住居の炉は漆喰炉、北西部覆土層上層から貝層が出土しています。
土器・石器が中テン箱1/3箱と獣骨28点が出土しています。

J79竪穴住居の位置

J79竪穴住居 柱穴分布

J79竪穴住居 人骨の状況

8-2 機能不明柱穴の検討
人骨が覆土層中から出土していることから機能不明柱穴が埋葬人骨に関連して新たに建てられた祭壇である可能性は無いようです。
竪穴住居が重複していることもあり、機能不明柱穴の意義を判断する決めては乏しいのですが、竪穴住居廃絶時に建てられた祭壇である可能性を否定できる材料は見つかりません。
[空想]もし北側にある4本の機能不明柱穴が竪穴住居廃絶時の祭壇であれば、その祭壇位置に対応して男性遺体の埋葬位置が決まったのかもしれません。

追記 J79竪穴住居の例は穴の覆土堆積中に埋葬された例であり、竪穴住居廃絶後それを廃屋墓(あるいはモガリ小屋)として再利用するという集落意思が希薄に感じます。
適当な埋葬場所がないので、あるいは正規の埋葬をするほどの故人ではないので、たまたま放棄されている竪穴があるのでそこに埋葬してしまおうという安易な意思が見え隠れします。
おそらくそのような安易な埋葬であるため、この竪穴に人が埋葬されたという情報は薄れ途切れてしまったと想定します。その結果J79竪穴住居は後年にJ14竪穴住居によって切られたのだと思います。
竪穴住居床面に遺体を置いて埋葬(モガリ)を行った本来の意味での廃屋墓は別の竪穴住居によって切られることは大膳野南貝塚ではありません。
廃屋墓の所在は世代から世代に情報として伝えられたと考えられます。
なお、床下墓坑の竪穴住居は別の竪穴住居によって切られています。縄文人にとって床下墓坑は家族レベルの葬送であり、集落社会における廃屋墓概念には入っていなかったと考えます。