2014.11.25記事「古代「東海道水運支路」(仮説)の検討項目」に従って、まず古代駅路網変遷に関する文献調査を行います。
1 検討対象・方法等
手元にある次の2つの図書の駅路網変遷図を検討し、駅路網変遷の概要を知り、古代「東海道水運支路」(仮説)との関連について検討します。
●検討対象図書
ア 「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)及び「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)
イ 「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)
ア、イの両方の図書とも、その駅路網変遷図を既にこのブログで紹介したことがあります。
●検討方法
検討の方法は次のように行います。
・各図書の駅路網変遷をGoogle earthにプロットすることにより、俯瞰的にその変遷を見て、駅路網や駅家(えきか)の位置や変遷推移の説明記述を理解し、その問題点等を検討します。
・同時に、駅路網変遷と私の古代「東海道水運支路」(仮説)を対照して、古代「東海道水運支路」(仮説)の大局的な位置づけについてイメージを持ちます。
●Google earthを使う理由とGoogle earthプロット方法
駅路網変遷情報をGoogle earthにプロットすることにより、駅路網をGoogle earthの3D表現(衛星写真・空中写真の地形凸凹の上での表現)の中で俯瞰できますから、駅路網と地形・河川等との関係、現代都市との関係等を詳しく知り、問題意識を深めることができます。また他の地理的情報(地形段彩図や遺跡位置図等)を必要に応じてGoogle earthに一緒にプロットできますから検討を深めることができます。
Google earthプロット方法は次のような方法で行います。
ア 駅路網図をGISソフト地図太郎PLUSに取り込む(位置合わせする)
イ 地図太郎PLUSで駅路網ルート、駅家地点等のレイヤーをつくる。
ウ 駅路網ルート、駅家地点等のレイヤーをkmlファイルで書きだす。(「他形式で編集レイヤーを書き出す」)
エ kmlファイルをGoogle earth画面にドラッグ&ドロップする。
図書に印刷された地図情報をそのままの精度でGoogle earthにプロットするのですから、位置の正確性は厳密なものでないことは言うまでもありませんが、ここでの検討では位置の正確性よりも、その地図の全体像をより「空間直感的」に知ることにありますから、この方法で十分です。
2 「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)及び「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)の検討
「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)の時期区分を「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)で一部修正しているので二つの図書名を書きました。基本は「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)です。
この図書では次の5枚の駅路網図を掲載しています。
「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)及び「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)に掲載されている駅路網図
この5枚の駅路網図を平面図(地図太郎PLUS)とGoogle earth(斜め衛星写真)にプロットすると次のようになります。
参考として「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)の記述要旨を付けました。
自分自身が行う詳しい検討や問題意識の投影は別の資料が揃ってから行います。この記事では文献に記述されている情報をそのまま参考として紹介します。
2-1 前期計画道路の形成(7世紀中頃~持統3(689)年)
東国A期の道路網
平面図投影
東国A期の道路網
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・全国の多くの白鳳期寺院が道路に接して建てられていることから、これらの寺院が建立された7世紀末頃には計画道路がすでに存在していた可能性が高い。
・西日本で、天智朝頃から建設が急ピッチで進められた古代山城が計画道路と関連した分布であることが判明している。
・埼玉県所沢市の東の上遺跡では東山道武蔵路の一部と考えられる道路側溝から7世紀第3四半期の土器が出土している。
・後の大宰府レベルや国府レベルの官衙に相当する施設、あるいは山城のような軍事施設が、道路建設の目標・中継地点とされたことが想定される。
2-2 前期駅路の隆盛(持統3(689)年~神護景雲2(768)年)
東国B期の駅路網
平面図投影 駅家名記入
東国B期の駅路網
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・律令制-駅制・令制国の成立によって、制度面を含めた駅路体系が完成する。
・武蔵国府-下総国府間の陸路が建設され、相模-武蔵-下総を連結する東海・東山道路連絡駅路が成立した。
・この時期に令制の国が成立し、その役所である国府が設けられ、それに伴って各国府に至る駅路が設定され、東海道や東山道以外に、支路も建設されたであろう。これに該当するものは、東海道下総路(上総-下総)、安房路(上総-安房)などがある。
・常陸国平津路(安侯駅-平津駅)、東海・東山連絡路(常陸-下野)なども存在したことが判明する。
・ほとんどの駅家・駅路はこの時期の早い段階で一斉に整備された可能性が高い。
2-3 前期駅路の合理化(神護景雲2(768)年~延暦15(796)年)
東国C期の駅路網①(C1期の変革が終了した状況)
平面図投影 駅家名記入
東国C期の駅路網①(C1期の変革が終了した状況)
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・煩雑化した部分の整理と手薄な部分の充当による前期駅路体系の合理化の時期。
・東山道武蔵路と東海道走水ルートが廃止され、相模国府-武蔵国府-下総国府-上総国府というルートが東海道本路になる。
2-4 後期計画道路の形成(延暦15(796)年~弘仁年間(810~824))
東国C期の駅路網②(C2期の変革が終了した状況)
平面図投影 駅家名記入
東国C期の駅路網②(C2期の変革が終了した状況)
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・複雑に発達した駅路網の整理などが集中的に行われた時期。
・房総地方から常陸国に入るルートが下総国から直接常陸国に入るルートに変わる。
・常陸国入国ルートが変更されることにより、駅家・駅路の整理・改変が集中して行われ、常陸国の駅路は南北に貫く路線に1本化されることになった。
2-5 後期駅路による安定(弘仁年間(810~824)~10世紀代)
東国D期の駅路網(C3期の変革が終了した状況)
平面図投影 駅家名記入
東国D期の駅路網(C3期の変革が終了した状況)
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・武蔵国における駅路路線が再び変更され、相模国浜田駅-武蔵国店屋駅-小高駅-大井駅を経て、豊島駅-下総国井上駅と続くルートになる。
・このルート沿いには郡家が多く、元々は伝馬路か伝路であった可能性が非常に高い。
・駅路や伝馬路・伝路の統合を伴う官道体系の変革は全国的に見ても、9世紀前半代、それも初頭に行われた例が多い。
・東海道と東山道が分離され、きわめてシンプルな駅路体系が現出した。
・10世紀末頃には全国一律の駅制は崩壊すると考えられる。
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