小金沢貝塚発掘調査報告書(「千葉東南部ニュータウン10 -小金沢貝塚-」(1982、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部、財団法人千葉県文化財センター))に縄文時代海岸線の詳細図が掲載されていたので、その図をGISに転写して縄文中期から後期頃の干潟環境について予察的に考察してみました。
1 6500年前の海岸線とその頃の遺跡
6500年前の海岸線とその頃の遺跡
縄文海進クライマックス期の海岸線を想定しています。現在は浸食されて存在しない台地尾根が広がり、海面は細長い谷津深くまで浸入しています。この頃は干潟環境は貧弱で寧ろ岩礁的な入り江環境が存在していたと考えられます。
2 5000年前の海岸線とその頃の遺跡
5000年前の海岸線とその頃の遺跡
大局的には縄文中期の有吉北貝塚、有吉南貝塚の時代に対応するものと考えられます。
村田川河口湾はまだ奥深くまで広がっていますが、小さい谷津はその奥深くから海は退き、そこが後背湿地になります。尾根では海岸線が浸食され陸域が内陸側に後退し、その場所(波蝕台)に干潟環境が生れます。この様子を地図重ね合わせで次に表現します。
3 6500年前から5000年前までの間に形成された干潟等
6500年前から5000年前までの間に形成された干潟等
有吉北貝塚や有吉南貝塚に拠点を構えた中期縄文人は村田川河口湾と海面低下にもかかわらず形成される波蝕台の干潟と小さい谷津奥の後背湿地が織りなす多様な海岸環境を利用して漁労を行い、生業としていたと考えられます。
なお、有吉北貝塚や有吉南貝塚が終焉した理由と海岸環境の変化がどのように関連するのか(あるいは関連しないのか)今後検討を深めることにします。
4 3500年前の海岸線とその頃の遺跡
3500年前の海岸線とその頃の遺跡
大膳野南貝塚の時期は4000年前から3800年前と想定していますので、おおよそ3500年前の海岸線をそれに対応させても根本的な間違いにはならないと考えます。
この頃はそれ以前と比べて海岸線平面形は平滑に近づいてきていて内湾奥深くに魚がはいる状況はなくなりますが、干潟はより一層広がっています。その様子を次にみてみます。
5 5000年前から3500年前までの間に新たに形成された干潟等
5000年前から3500年前までの間に新たに形成された干潟等
5000年前から3500年前までの間に新たに広大土地が後背湿地となるとともに、新たに形成された波蝕台が干潟を形成します。海岸線の平滑化がすすんでいることがわかります。この時期までは波蝕台の形成がみられ、台地尾根部では海岸線が東に移動してきていますが、この時期以降は海退に伴い海岸線が全体に西に移動してゆきます。台地からみると海岸線が離れていきます。村田川河口湾も完全に消滅します。
6 考察
有吉北貝塚、有吉南貝塚など中期貝塚拠点集落の終焉時期と村田川河口湾が縮小していく時期が、六通貝塚を除く大膳野南貝塚など後期拠点集落の終焉時期と海岸線が西遷する時期がほぼ重なり、対応すると考えます。今後集落消長要因として海岸環境の変化がどのような役割を果たしたのか、その関連を詳しく学習することにします。
参考 村田川下流域の古地理
村田川下流域における約6500年前の古地理(左) 村田川下流域における約5000年前と約3500年前の古地理(右)
「千葉東南部ニュータウン10 -小金沢貝塚-」(1982、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部、財団法人千葉県文化財センター)から引用
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