縄文土器学習 256
鎌ヶ谷市郷土資料館展示中峠式深鉢形土器(根郷貝塚)の3Dモデルを作成しましたが、この土器をキッカケにして寄り道学習をしています。
この記事では根郷貝付近の中期環状大集落に関する学習を鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)に基づいて行います。
なお、鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)掲載情報は類似図書と較べると最新情報が掲載されていて各種興味が芋づる式に展開しています。しかしきりがないので、この記事で鎌ヶ谷市関連の寄り道学習を打ち止めにします。
1 鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)で言及されている中期環状大集落
鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)で中期遺跡に関して次のような興味ある記述がされています。
「また、前期との違いは、貝塚遺跡の分布にも表れている。前期にピークを迎えた縄文海進は、中期には海退に向かっていたと考えられるにもかかわらず、貝塚を形成した遺跡の分布域、数は拡大しているのである。それも根郷貝塚や大堀込遺跡と同じような継続期間をもち、多数の竪穴住居跡や土坑が規則的に配置され、環状を呈する大集落が、特に、東京湾水系において多く分布するようになる。市川市の今島田貝塚(阿玉台Ⅳ~加曽利EⅢ式期の竪穴住居跡22軒)・姥山貝塚・向台貝塚(阿玉台Ⅲ~加曽利EⅡ式期の竪穴住居跡31軒)、松戸市の子和清水貝塚(阿玉台~加曽利E式期の竪穴住居跡268軒)・中峠貝塚(阿玉台Ⅲ~加曽利EⅡ式期の竪穴住居跡20数軒)、船橋市高根木戸貝塚(阿玉台~加曽利E式期の竪穴住居跡100軒以上)などはその典型である。また、船橋市海老ヶ作貝塚(阿玉台~加曽利E式期の竪穴住居跡80軒以上)は、印旛沼・手賀沼水系の谷奥に位置しているが、貝塚を構成する貝種は、ハマグリやキサゴなど、東京湾水系に立地する貝塚のそれと同様であった。これはこの時期の活動領域の広がりを示す具体例の一つである。
両水系の最奥部にあたる本市域において、遺跡数が急増し、貝塚を伴う大集落が残されるという事象は、このような周辺地域全体の動きのなかの一環であると考えられる。」鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)から引用
この記述で言及されている中期環状大集落を地形3Dモデルで表示すると次のようになります。
鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)で言及されている中期環状大集落
地形:5mメッシュDEM
阿玉台の頃から始まった谷奥集落が加曽利EⅡ式頃最盛期を迎え、その後急速に衰退したという記述です。
2 「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」の「貝塚」との対応
上記記述は「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」の「貝塚」で述べられているⅣ期の東京湾口部貝塚群の様相そのものです。
縄文時代の時期区分
Ⅳ期貝塚分布図(部分)
Ⅳ期貝塚分布図(部分拡大)
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」では次のように記述されています。
「この時期の遺跡群は、広場集落がひとつないし2つあって、その周辺にのみ小規模な集落が点在して遺跡群を形成するのが特徴である。この状況は、 これまで説明されてきた大規模な貝塚集落の周囲の広域に多数の小規模集落や包含層が分布するというものとはかなり違っている。いわゆる「加曽利E式期」は、Ⅳ期とⅤ期というまったく居住様式の異なる時期にまたがっており、両者を一括した分布図や説明によって誤解を生んできたといえる。広場集落の大半は貝層を形成しており、ほぼ阿玉台Ⅲ期ないし中峠期から加曽利EⅢ式土器の成立前後まで、 という集落の継続期間や、広場と群集貯蔵穴をもつ集落形態、多数の遺構内貝層、 イボキサゴや小型ハマグリ中心の貝層、多量の土器片錘、石器組成など共通点が多く、 きわめて均一性が高い。Ⅲ期の広場集落には定住的な特徴と、頻繁な移動を想定させる特徴を併せもっていたが、Ⅳ期の集落は長期にわたる通年定住型の集落とみてよいだろう。
Ⅳ期に多数存在した通年定住型の集落は、加曽利EⅡ期の終わりから加曽利EⅢ期の始まりにかけて、すべてが消滅したものとみられている。」「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用
3 縄文中期遺跡の分解
2の記述から、根郷貝塚など阿玉台式期から始まり加曽利EⅡ式にピークとなる遺跡群と加曽利EⅢ式、EⅣ式の遺跡群では居住様式が異なり、同じ「加曽利E式」でも分布上の意味が全く異なることが判りました。
次の分布図は縄文中期遺跡全部をプロットしたものですが、この遺跡プロットを加曽利EⅡ式までの成長期遺跡と、加曽利EⅢ式と加曽利EⅣ式という衰退期分散居住した遺跡に2分するような空間分析的検討が必要であることがわかりました。
縄文時代中期遺跡
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