山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の学習のなかで茅野市棚畑遺跡から銚子産コハク製品と糸魚川産ヒスイ製品が出土していることを知りました。
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.06.27記事「中期の社会構造」参照
コハク製品とヒスイ製品の生産遺跡は限られていますからそれらが棚畑遺跡までやってくる運搬ルートは推定可能であると考えました。さらに、この二つのルートを合わせれば、ヒスイが房総にやってくるルートも浮かび上がることになります。
早速コハクルートとヒスイルートを想定してみました。
1 茅野市棚畑遺跡に至るコハクルートとヒスイルートの想定
茅野市棚畑遺跡に至るコハクルートとヒスイルートの想定
国土地理院3Dモデル(色別標高図+陰影起伏図)
垂直倍率:×9.9
銚子市粟島台遺跡:コハク製品生産遺跡
糸魚川市長者ケ原遺跡:ヒスイ製品生産遺跡
茅野市棚畑遺跡:ヒスイ製品、コハク製品出土遺跡
2 メモ
コハクルートはコハク製品生産遺跡である銚子市粟島台遺跡→加曽利貝塚→堀之内貝塚→東京湾渡海→武蔵野台地の拠点集落→多摩丘陵横断→相模川流域→相模川沿い西進→笹子峠→甲府盆地→釜無川沿い西北進→宮川沿い西北進→茅野市棚畑遺跡(約280㎞)としてイメージできます。
ヒスイルートは糸魚川市長者ケ原遺跡→姫川沿い南進→松本盆地→塩尻峠→諏訪湖→茅野市棚畑遺跡(約130㎞)としてイメージできます。
ヒスイルートとコハクルートを合わせると、ヒスイが房総に運ばれた主要ルート(約410㎞)としてイメージすることができます。
今後、このルート沿いの主要中継集落を調べ、より精細なルートを想定することにします。
なお、コハク製品の移動だけでなく人の移動もあったと考えられます。房総から棚畑遺跡に婿入りが、反対に棚畑遺跡から房総に婿入りがあったかもしれません。房総に満遍なく分布する非在地系土器や長野県から多数出土する加曽利E式土器は間接的文化伝播だけでなく、人の移動(移住)も伴っていたと想像します。
2020.06.21記事「墓制の展開」参照
3 参考
地理院地図画面
地理院地図3Dモデル画面