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2017年1月13日金曜日

検見川台地古代遺跡の墨書土器出土数の極端な少なさ

2017年1月2日の初夢に端を発し、検見川台地小字群が蝦夷戦争時代頃の俘囚中継施設を表現しているらしいことをいくつか記事にしてきました。

2017.01.05記事「花見川河口津付近の地名「直道」(ナオミチ)の解釈」など参照

初夢という偶然で予期しない事象で、新たな興味が発生したことになります。

想像レベルとはいえ、検見川台地における小字群セットに俘囚移配中継施設の空間ストーリーを投影したことは愉快です。

折角ですから、趣味活動だから許される、突然の寄り道学習を大膳野南貝塚学習の合間にすることにします。

地名の検討だけでは俘囚移配中継施設があった「らしい」ことはわかりますが、決定力に欠けます。

幸い検見川台地上の古代遺跡は過去にこのブログで検討しています。

発掘調査報告書も悉皆的に閲覧してコピーも所持しています。

そこで、地名からイメージできる古代土地空間特性を出土遺構・遺物で検証できるかどうか、チャレンジしてみようと思います。

過去の発掘調査報告書では、台地上の遺跡は一般集落であるとする無特徴を前面に出したような記述になっています。

だれでも直ぐわかるような特筆すべき遺構や遺物はないということです。

しかし、俘囚移配中継施設の存在を暗示する小字群セットが現代にまで伝わるほどですから、詳細にデータを分析すれば、必ずや出土遺構・遺物から古代土地空間特性の一端は検証できると考えます。

この記事では検見川台地古代遺跡の特性を浮き彫りにする方法を検討します。

1 墨書土器出土数(率)による他遺跡との比較による検見川台地古代遺跡特性のあぶり出し

墨書土器出土数をみると、検見川台地古代遺跡(直道遺跡、居寒台遺跡等)の墨書土器出土数は極端に少なくなっています。

墨書土器出土分布図

同じ交通路(東海道水運支路(仮説))にありながら、検見川台地古代遺跡は鳴神山遺跡、上谷遺跡、白幡前遺跡などと比べると、極めて少なくなっています。

遺跡発掘区域の大小も影響はすると思いますが、それにしても検見川台地古代遺跡における墨書土器出土数は少ないものです。

この墨書土器出土数の少なさから検見川台地古代遺跡の特性の1面をあぶり出すことができると考えます。

次のような可能性が予察されます。

ア 墨書土器活動が最盛期を迎える9世紀には検見川台地上の集落が衰退していた可能性。

イ そもそも墨書土器活動を行う生業集団(牧、養蚕、漆、水田…)が少なかった可能性。

参考 鳴神山遺跡竪穴住居 墨書土器出土数

2つの可能性はともにこの土地に俘囚移配中継施設があったことを支持する材料になるかもしれません。

墨書土器の出土統計や出土状況等を他遺跡と比較することによって、検見川台地古代遺跡の特性をあぶり出したいと考えます。

2 出土遺物種類等の他遺跡との比較による検見川台地古代遺跡特性のあぶり出し

ア 鏃など対人殺傷兵器の出土率(対建物、対生業道具等)を他遺跡と比較して、検見川台地古代遺跡の特性をあぶり出す。

イ 建物の統計(竪穴住居/掘立柱建物、掘立柱建物の大きさや形状)を他遺跡と比較して、検見川台地古代遺跡の特性をあぶり出す。

細長い掘立柱建物が多く他遺跡とは建物形状に違いがある可能性を感じています。もし建物形状が異なれば、その利用内容も違う可能性が生まれます。

ウ 釣り針などが出土していることから、検見川台地古代遺跡と漁業との関係

漁業を生業とする集団と墨書土器を残した集団は全く別系統の集団であったと想定しています。

鳴神山遺跡、上谷遺跡、白幡前遺跡などから東京湾産ハマグリが出土しています。

それを供給した集団が東京湾岸に存在するはずですが、交通路(東海道水運支路(仮説))で直接結ばれた花見川河口検見川台地付近にその集団が存在したと考えることが穏当な予想となります。

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参考 検見川台地住居祉のデータ

参考 花見川河口付近の地物

2017年1月6日金曜日

地名「直道」(ナオミチ)の解釈 追補

2017.01.05記事「花見川河口津付近の地名「直道」(ナオミチ)の解釈」の続きです。


小字「直道」に隣接して小字「中扱」が、さらに「大扱台」、「大扱」があります。

注) 小字「中扱」、「大扱台」、「大扱」の存在は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載情報に従います。
角川千葉県地名大辞典付録小字一覧では、この小字は「中坂」、「大坂台」、「大坂」となっています。
角川千葉県地名大辞典付録小字一覧の情報は手で書かれた文字「扱」を「坂」に読み間違いした誤情報であると考えて、この記事を書きます。

昭和初期大字検見川の小字名

小字「中扱」、「大扱台」、「大扱」の読み方は「ナカコク」、「オオコクダイ」、「オオコク」であるか、「ナカシゴキ」、「オオシゴキダイ」、「オオシゴキ」であると予想します。

その意味は俘囚を扱(シゴ)いた場所に由来するのではないかと想像します。

直道(ナオミチ)には俘囚を中央政府社会に服属させるための教化施設があったと考えましたが、その付属野外施設が「中扱」、「大扱台」、「大扱」という小字名で伝わったのではないだろうかと想像します。

中央政府に服属しない俘囚を野外で肉体的にシゴイテ、強引に服属させたのだと思います。

小字「中扱」、「大扱台」、「大扱」が台地面から谷津底面まで広い範囲に広がっていることから、肉体的シゴキとは単純な暴力とか拷問の類ではなく、農作業や鉱工業関係などの肉体労働、危険労働、非衛生労働、技術労働等であったと想像します。

陸奥国蝦夷の日常労働とは異なる労働に強引に従事させて思想改造を図ったものと想像します。

俘囚が全国各地の開発地で有力な労働力となるように、思想改造するとともに職業訓練的な要素もあったに違いないと想像します。

検見川台地の小字群から、そこにあった俘囚中継施設のゾーニングをイメージすると次のようになります。

小字による検見川台地俘囚中継施設のゾーンイメージ(想像)