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2018年9月19日水曜日

事例学習 菊間手永遺跡

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 18

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として「千葉県の歴史 資料編」掲載事例の学習を遺跡別にしています。この記事では菊間手永遺跡を学習をします。村田川河口低地付近の事例学習はこれで一応完結です。

1 菊間手永遺跡の位置

菊間手永遺跡の位置
近くにある実信貝塚の学習は既に2018.09.13記事「事例学習 実信貝塚」で行っています。

2 遺跡の概要
「本貝塚は台地の最北端の海岸平野を見下ろす標高約16~20mの地点に位置する。周辺の遺跡としては,本遺跡の台地直下の海岸平野上に,実信貝塚がある。実信貝塚は標高約5mの現水田面から検出されており,貝層の形成時期(縄文時代中期後半~晩期終末)は,本遺跡の形成時期(後期前半から晩期終末)と併行することから,本遺跡の性格を解明するうえで,重要な貝塚であるといえる。
本遺跡には,馬蹄形を呈し, 北側に開口する環状貝塚が形成されており,このほかに後期前半から晩期の住居跡26軒、後期前半を主とする時期の土坑(小竪穴)3基が検出されている。このほかに、墓域・住居跡・土坑から計82個体分の人骨が検出されている。」

遺構配置図 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
遺構配置図では貝層の分布は斜面に限定されています。台地の地形が馬蹄形をしているように観察できますが、これが環状貝塚の実相を表現しているものか、それとも自然地形であるのか自分には不明です。参考文献で確かめたいと思います。

遺構配置図の1960年代空中写真へのプロット

1960年代空中写真

3 遺物
「遺物としては, 土器・ 石器のほかに,土製品(異形脚付土器・ 土偶など),骨角器(ヤス状刺突具・鏃・ 骨針など),貝製品(貝輪・ヘラ状加工品など)が出土している。自然遺物として.魚類(クロダイ・スズキなど),爬虫類(アオウミガメ)、鳥類(ガンカモ類など),獣類(シカ・イノシシ類)の動物遺存体出土している。
本遺跡からは多量の土器・土製品が出土している。注目すべき遺物としては,安行3a式期の異形脚付土器と浅鉢がある。ともに03号住居跡からの出土である。図4-3は屋外埋設土器に用いられた土器であるが東北地方の後期前半に属する螢沢式土器であり,関東地方での出土例がきわめて稀なものである。このほかに,中部瀬戸内地域の後期前半に属する福田K2式土器も出土例が稀なものであり,注目される。」

骨角器 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

出土遺物 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

4 感想
この貝塚集落のメイン生業が集落存在期間をとおして漁労であるのかどうか確かめたいと思います。六通貝塚は海から離れた場所に立地し、加曽利B式期以降の生業では漁労の比重が軽くなり、狩猟の比重が重くなるような印象を受けます。菊間手永遺跡は海辺に立地しますが、縄文晩期までに漁労の比重が変化するのかしないのか、六通貝塚と集落発展モデルが同じなのか異なるのか、比較対照検討の価値が大きいと感じます。

なお、蛇足ですが菊間手永遺跡の縄文人がミナトとする実信貝塚から出る海域・干潟には村田川河口湾の湾入部は含まれていないような印象を受けます。菊間手永遺跡からは村田川河口湾の湾入部は見えません。もし漁労のメインテリトリーが村田川河口湾の湾入部だとすると集落立地位置が台地の北端部に位置すべきです。縄文時代後期から晩期の村田川河口湾の湾入部は六通貝塚のテリトリーであったようです。縄文時代中期では草刈貝塚や神門遺跡をミナトとする集落が湾入部をテリトリーとしていたと考えられますから、湾入部は最初から右岸(北岸)サイドのテリトリーであるようです。こうした情報は縄文人の移動入植経路や順番と関わるのではないだろうかと想像します。

2018年9月17日月曜日

事例学習 木戸作貝塚

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 16

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として「千葉県の歴史 資料編」掲載事例の学習を遺跡別にしています。この記事では小金沢貝塚のすぐそばに立地する木戸作貝塚を学習をします。

1 木戸作貝塚の位置

木戸作貝塚の位置
右が六通貝塚、真ん中が小金沢貝塚、上が木戸作貝塚です。六通貝塚と小金沢貝塚の中央部間距離は530m、小金沢貝塚と木戸作貝塚の距離は480mです。

2 貝塚の概要
調査の結果,後期の堀之内1式期を主体とする7か所の斜面貝層と, 10軒の住居跡が検出された。貝塚を構成する貝は,イボキサゴが圧倒的に多く,ハマグリ・シオフキなどがこれにつぐ。魚類として主要なものは,イワシ類・サヨリ・マハゼなどの湾奥の沿岸部にみられる小型のものである。

貝層と遺構配置 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

斜面貝層 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

検出された住居跡は壁柱穴や入口の柱穴が明瞭な柄鏡形住居跡が主体であるが,壁や床面などが崩壊・流出したものが多く.本来の姿をとどめているものは多くない。

柄鏡型住居 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

出土した土器は,下総台地に一般的な堀之内式土器が主体である。注目される土器としては.県内での類例に乏しかった古段階の堀之内1式土器がある。報告書では2個体の土器として報告されているが,接合することが判明した。

堀之内1式土器 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

3 感想・考察
小金沢貝塚と480mしか離れていない同じ尾根に木戸作貝塚が立地する意味について次のように仮説しましたのでメモします。

仮説 貝塚集落分立は漁場区域区分に対応する 資源乱獲下における分配争いの回避策
木戸作貝塚と小金沢貝塚は同じ尾根でたった480mしか離れていない場所に立地しますが、谷津を通って海岸平野に出るルートが異なります。木戸作貝塚は泉支谷を経由して、小金沢貝塚は金沢支谷を経由して海に出ることになります。海に出るために尾根筋を通ることは狭い、水平的・垂直的に屈曲が多いことから利用されていなかったと考えられます。従って海岸平野に出るルートが異なり、出た場所が異なります。つまり生業としての採貝や魚漁の場所が異なることが推定できます。
この推定から次の仮説を設定して、当面の学習促進に使うことにします。

仮説
・資源乱獲が激しく(データから事実として判明している)、大集団のなかで美味しいハマグリ等漁獲物分配に争いが絶えない。
・採貝や沿岸魚漁などは大集団で共同作業する必要がないので、小集団毎に漁業権区域を設定して、そこでの漁業しか認めない仕組みをつくり、枯渇する資源の分配争いを避けた。
・この社会的仕組みに対応して六通貝塚大集団が木戸貝塚、小金沢貝塚および上赤塚遺跡、大膳野南貝塚の4つの小集団に分かれそれぞれ別の場所に集落を構え、占有できる漁場で採貝と沿岸魚漁を行った。
・この社会的仕組みは一時的に成功した(堀之内1式期における4つの小集団の人口急増)。
・堀之内2式期頃になるとこの仕組みがほころびだし(資源の本格的枯渇?、食性の変化?、栽培や狩猟における技術開発?)、加曽利B式期になると4つの小集団が分散居住を止めて再び六通貝塚に集まった。
・六通貝塚に人口が集中し、陸獣骨出土が増えていることから、大集団が共同することによってはじめて実現できる効率的大規模追い込み猟等が行われていた(と推定可能である)。※
・堅果類の一斉採集や莫大な量のアク抜き処理・食品化も大集団の組織力により効率を重視して実施された。

※大集団が共同することによってはじめて実現できる効率的大規模追い込み猟の一つの事例として、内野第1遺跡の大規模落とし穴列による大規模追い込み猟が念頭にあります。ブログ花見川流域を歩く番外編2015.04.20記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代大規模落し穴シカ猟」参照

この仮説を文字にして眺めると六通貝塚から上赤塚遺跡・木戸作貝塚・小金沢貝塚・大膳野南貝塚の4つの小集団に分かれた(堀之内1式期頃)のは採貝と沿岸魚漁を最大限効率化する社会システムを採用したためであると「感じ」ます。
再び大集団に戻った(加曽利B式期以降)のは狩や堅果類採集を最大限効率化するための社会システムを採用したためであると「感じ」ます。
いずれの時期でも採貝・沿岸魚漁、狩、堅果類採集は生活必須項目として行っているのですが、時代時代によって社会が要請する効率化圧力の下で、発明される最新社会システム・最新技術システムが順次採用され、それによって集落の分散・集中の様相が異なってくると「感じ」ます。

2018年9月16日日曜日

事例学習 小金沢(こかんざ)貝塚

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 15

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として「千葉県の歴史 資料編」掲載事例の学習を遺跡別にしています。この記事では六通貝塚のすぐそばに立地する小金沢(こかんざ)貝塚を学習をします。

1 小金沢貝塚の位置

小金沢貝塚の位置
右が六通貝塚、真ん中が小金沢貝塚、上が木戸作貝塚です。六通貝塚と小金沢貝塚の中央部間距離は530m、小金沢貝塚と木戸作貝塚の距離は480mです。

参考 小金沢貝塚の位置 背景は現代地図・写真

2 貝塚の概要と遺構
貝塚は5か所ほどの貝層からなる地点貝塚で、直径約90mの環状を呈する。形成時期は堀之内式期である。鹹水性貝塚であるが,淡水性の魚貝類も出土している。
竪穴住居跡19軒(加曽利E式期2軒・ 堀之内式期17軒)炉穴20基・土坑74基が検出されている。
堀之内式期は遺構の重複関係から2時期に分けられる。17軒の住居跡群は台地縁辺部から平坦部にかけて分布し、いわゆる中央広場を中心に環状に展開している。これらのうちの6軒は柄鏡形住居跡の形態をとっている。

遺跡全体図 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

柄鏡型住居 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

2 出土物
人工遺物は、土器(条痕文系土器・加曽利E式土器・堀之内式土器) ,土製品(土偶2 ・小型士器1)、石器(打製石斧21・磨製石斧18・石鏃2・ 石錘2 ・凹石4・磨石9・石皿18・砥石4・敲石7)、貝製品(サルボウ製貝輪1・ ベンケイガイ製貝輪1・ヤス状尖頭器1)である。
人骨が4 体(仰臥屈葬1・ 仰臥伸展葬2・不明1)出土している。いずれも堀之内式期に属するものと考えられる。
自然遺物は,貝類はイボキサゴ・ハマグリを主体とし,シオフキ・アラムシロガイ・アサリなども出士しており、 ほかに淡水域・汽水域に生息するものも出土している。魚類としては、 コノシロ・マイワシ・サッパ・カタクチイワシなどを含むニシン亜目・サヨリ属の脊椎骨・アジ亜科が出土している。

出土土器 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

出土土偶 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
胸に乳房が表現されています。この土偶以外に首・両手が欠落した乳房のある胴部だけの土偶も出土しています。

3 感想・考察
3-1 六通貝塚との関係
六通貝塚と小金沢貝塚の中央部間は徒歩7~8分程度の距離です。
小金沢貝塚の盛期は堀之内式期ですが、六通貝塚はその盛衰で堀之内式期が明瞭な縮小期になっています。六通貝塚の人々が堀之内式期に近在に出先小集落を沢山設けて分散居住したような印象を持っています。今後詳しく学習検討するテーマです。
それにしても母村である六通貝塚からたった500m程しか離れていない場所になぜ小集落(小金沢貝塚)が立地したのか、興味がつきません。

参考 六通貝塚集落盛衰イメージ 「千葉東南部ニュータウン37-千葉市六通貝塚-」(平成19年3月、独立行政法人都市再生機構・財団法人千葉県教育振興財団)から資料引用して作画

3-2 木戸作貝塚との関係
木戸作貝塚(次記事で学習予定)の盛期も堀之内式期です。同じ時期に徒歩7~8分程度の距離の規模の類似する貝塚集落が存在したことに興味が深まります。小金沢貝塚と木戸作貝塚の関係について次の記事で検討します。

2018年9月15日土曜日

事例学習 六通貝塚

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 14

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として「千葉県の歴史 資料編」掲載事例の学習を遺跡別にしています。この記事では加曽利E4 式期~晩期前半に及ぶ六通貝塚の学習をします。
六通貝塚は大膳野南貝塚を始め周辺貝塚集落の母村であると推定しているので縄文後期の村田川河口低地付近の集落状況を知る上で決定的に重要な遺跡です。既に詳細検討を一旦始めた(2018.08.12記事「六通貝塚 竪穴住居時期別分布の概観」等参照)のですが、詳細検討に突入する前に周辺遺跡の概要を知る必要があると気が付き、現在事例学習をしている次第です。その一環としてこの記事では「千葉県の歴史 資料編」掲載事例情報に限って学習します。事例学習が終わった後、問題意識を研いで鮮明にして、再度六通貝塚詳細学習をします。

1 六通貝塚の位置

六通貝塚の位置

2 貝塚の様子と検出された遺構
東西140m, 南北125mの大規模な面状貝塚を形成している。貝層の測量図によれば,面積12000㎡にもなる。ただし,直近のトレンチ調査によると,現在残っている貝層の範囲はこれよりかなり小さいようである。北端部の中央は層が薄いか,またはとぎれており,馬蹄形というよりは弧状の貝層が東西に対峙する形に近い。
加曽利EⅣ式期から晩期前半に及ぶ遺構が検出された。約40軒の竪穴住居・多数の土坑・溝があるが,今のところ時期は不明である。土坑のなかには貯蔵穴とみられる小竪穴が40基以上含まれており,遺跡全体では多数の存在が見込まれる。

六通貝塚測量図

3 出土遺物
(財)千菜県文化財センターが実施した貝層部の調査では,狭い面積にもかかわらず,整理箱約640箱の土器, 80箱の動物骨が出土している。土器は加曽利EⅢ式から前浦式まで認められ,主体となるのは加曽利B3式から安行3a式である。このほかには土偶・ 石棒・石剣・土版・玉類などが発見されている。石器では磨石類・石皿など植物質食料の加工具が比較的多いのに対して,石鏃・打製石斧などの直接的な生産用具は少ない。

出土土偶

4 貝類
貝層を構成している貝類はほぼ悔産種のみであり,イボキサゴが8割ほどを占める。次に多いハマグリを合わせると9割以上となり,これにシオフキガイを加えた3種が主に採取されていた。種の構成では時期的な変化はほとんど認められない。村田川水系の貝塚でハマグリのサイズをみると,中期貝塚では殻長3cm前後のきわめて小さな個体が中心であり,木戸作貝塚や本貝塚の後期前葉をみても中期とそれほど変わらない。これに対して,後期中葉頃からはかなり大きな個体が増え,後期後葉から晩期の貝層ではさらに顕著である。殻長5cmほどのハマグリが普通にみられ, 7~10cmほどの大型個体も少なくない。成長線分析によると中期では生後1年から1年半のものが中心であり,小型化は高い乱かくによる若年化によることがわかっている。本遺跡における後期後葉以降の大型化は,ハマグリの資源量に対して漁が減ったことを示す。このことは貝類への依存度が減ったことを表していると考えられる。

5 動物遺存体
後期後葉から晩期前半の貝層部分からシカ・イノシシの大型の骨片が集中的に出土している。このような獣骨の集中は横芝町山武姥山貝塚,松戸市貝の花貝塚,市川市堀之内貝塚の晩期貝層または包含層に認められる。人骨の炭素・窒素同位体比による食性分析の結果によれば,関東の晩期縄文人は陸上動物に強く依存していたことを示しているので,本遺跡の晩期縄文人も同様であったことが予想できる。

6 感想
六通貝塚記述に極めて重要な情報が含まれています。縄文時代中期から後期前葉までハマグリの乱獲が行われていたけれども、後期中葉からハマグリの大きさが大きくなり、後期後葉以降はハマグリが明瞭に大型化する。同時に後期後葉から晩期前半に獣骨の集中出土が増えるという記述です。この付近の縄文社会における貝類への依存が減り獣食の比重が増えたという記述です。
採貝活動が乱獲(自然破壊)で破たんして活路を狩猟に求めたのか、それとも乱獲(自然破壊)とは別の要因で食性が変化したのか、究明する価値のあるテーマです。

7 参考 獣骨集中出土が認められる3遺跡

参考 獣骨集中出土が認められる3遺跡

獣骨集中出土が認められる3遺跡は「千葉県の歴史 資料編」に事例として掲載されていますが、その記述ではいずれも獣骨集中出土には触れられていません。




2018年8月12日日曜日

六通貝塚 竪穴住居時期別分布の概観

六通貝塚竪穴住居の時期別分布図を作成して六通貝塚の様子を概観してみました。

1 時期別竪穴住居数

六通貝塚土器分類別竪穴住居数
土器分類が次の資料のように時期に対応していますからこのグラフは時期別竪穴住居数を表現します。

参考 六通貝塚集落盛衰イメージ

ア 時期別竪穴住居グラフ(土器分類別竪穴住居グラフ)は集落消長の様子を表現していると考える
発掘調査報告書では貝塚本体の発掘は行っていないので発掘情報は本当の六通貝塚の様子とは違う可能性があると述べています。しかし縁辺とはいえ貝層本体の西、北、東をふくめて多数箇所の発掘を行っているのですから出土土器分類の傾向は集落消長と無関係であることはあり得ません。大局的には六通貝塚の消長を捉えていると考えます。

イ 時期不詳竪穴住居が多いことの意義
出土土器分類から土器群を特定できた竪穴住居が19軒、土器群不詳の竪穴住居が21軒となります。21軒の竪穴住居からは出土土器が少ないか全くないために土器群を特定できません。この情報は大変重要な情報であると考えます。大膳野南貝塚でも漆喰貝層有竪穴住居からの出土物は多く時期特定ができるものが多いのとは反対に漆喰貝層無竪穴住居からの出土物は極めてすくなく時期特定ができないものが多くなっています。土器群不詳竪穴住居が全竪穴住居の半数以上であることから、六通貝塚においても大膳野南貝塚と同じように竪穴住居覆土層に貝層や遺物を残す上位階層住民と、貝層や遺物をほとんど残さない下位階層住民が半々のような割合で共住していた可能性があります。土器不詳竪穴住居が半数以上にのぼることは今後詳しく検討する価値のある情報です。

2 時期別竪穴住居分布(土器分類別竪穴住居分布)
時期別竪穴住居分布(土器分類別竪穴住居分布)をみてみると次のような特徴を捉えることができます。

1群(中期後葉)
1群期(加曽利EⅢ式期頃)には既に住居がありこのころ集落が開始しました。集落の始祖家族の住居ですからその全てがほぼ確実に貝塚下に存在していると考えられます。

2群(後期初頭)
2群期(称名寺式期頃)には拠点的集落が形成されていたと考えられます。住居数が急増した様子は15竪穴住居が貝層から離れた場所に存在していることからも捉えられます。

3群(後期前葉)…竪穴住居なし
3群期(堀之内式期頃)には土器数が急減し竪穴住居は検出されません。集落が縮小しました。(仮説…漁業に特化した近隣出先集落に人材が移動して、六通貝塚は管理機能中心になった。近隣出先集落建設による生業活動が成功する。)

4群(後期中葉)
4群期(加曽利B式期頃)には土器数が急増するが竪穴住居検出数は1にとどまります。3群期とくらべると集落の勢いが回復したと捉えられます。(仮説…海岸線後退による漁業環境劣化により近隣出先集落から人材が戻った。)

5群(後期後葉)
5群期(安行1式期頃)も集落の勢いは保持している。竪穴住居は3軒検出されている。
19、20竪穴住居が貝塚から離れた台地縁から検出されていて、拠点集落として発展している様子を窺うことができます。台地縁立地の19、20竪穴住居にどのような「機能」があったのか今後検討します。

6群(晩期前半)
6群期(安行2式期、前浦式期頃)になると土器数が急増し、竪穴住居検出数7軒となり集落のピークになる。(仮説…六通貝塚に人材を集中して行う生業活動が成功する。)
12、13、14、16竪穴住居が比較的密集していることから、この場所がこの時期(ピーク期)の集落中心の一つであったかもしれません。今後検討します。

7群(晩期後半)
7群期(晩期後半)になると土器数は急減し、竪穴住居検出数も1軒となり集落凋落を表現します。(仮説…拠点集落の終焉。)6群の9竪穴住居の傍に7群の10竪穴住居が位置していて、貝塚の中央というポイントが集落にとって特別重要な場所であったのかもしれません。今後検討します。

縄文時代時期不詳
時期不詳竪穴住居が貝塚の西と北・東に分布しています。この分布と6群(晩期前半、ピーク期)の貝塚南の竪穴住居密集とを関連づけて考察する価値があると予察します。集落内上位階層住民と下位階層住民の竪穴住居分布の様相がことなり、その結果がこれらの分布図に垣間見えている可能性があります。今後検討します。

参考

六通貝塚 全竪穴住居

2018年8月9日木曜日

六通貝塚と大膳野南貝塚の盛衰対応

2018.08.08記事「六通貝塚の集落継続期間と盛衰」で六通貝塚の盛衰の様子のイメージを獲得することができました。称名寺式頃最初のピークを迎え、堀之内式期頃衰退し、その後再び勢いを増し晩期前半頃最大のピークを迎え晩期後半には衰退するというイメージです。このイメージは出土土器数や竪穴住居数から得たものです。
早速この盛衰イメージを竪穴住居数により大膳野南貝塚と対応させてみました。

1 六通貝塚と大膳野南貝塚の盛衰イメージ対応

六通貝塚と大膳野南貝塚 竪穴住居時期の概略対応
予想と異なる結果になりました。六通貝塚の発掘調査報告書を見る前は六通貝塚は周辺社会の拠点であり、母村であり、周辺展開した子村(支村)の盛衰とパラレルになると想像していました。しかし実際は上図の通り集落開始期(称名寺式期頃)は同じですがその後の堀之内式期頃(3群期)の様子が真反対になります。六通貝塚では衰退し、大膳野南貝塚ではピーク期(絶頂期)を迎えます。思考をいやが上にも刺激する情報です。
大膳野南貝塚では加曽利B式期頃(4群期)で集落は途絶えますが、六通貝塚はこの頃から再び勢いを増し後期後葉(5群期)を経て晩期前半頃(6群期)に絶頂期を迎え晩期後半から弥生時代中期まで集落が継続します。

2 考察
2-1 六通貝塚と大膳野南貝塚の関係
六通貝塚と大膳野南貝塚の位置を地図にプロットすると次のようになり、直線距離1.1㎞です。台地平坦面でつながっていますから現代人で徒歩15分、縄文人ならもっと短い時間で往来できる距離です。

六通貝塚と大膳野南貝塚の位置
徒歩15分の距離にある2つの縄文集落の盛衰で、堀之内1式期頃(3群期)に真反対の動き、一方は衰退、一方は絶頂期があったことを関係づけないで相互に孤立して生まれた動きであると考えることは100%できません。
堀之内式期頃(3群期)六通貝塚の衰退と大膳野南貝塚の絶頂は強く関連していて、表裏一体のものであると考えることが合理的思考であるというものです。
まだ六通貝塚の学習をスタートしたてなので全体の状況が自分に不明である部分も多いのですが、次のような最初の作業仮説(学習用仮説)をメモしておき、随時改良することにします。

●六通貝塚と大膳野南貝塚の関係仮説
1 加曽利EⅢ式頃(1群期)外部から来た集団が六通貝塚集落を開設して漁業を営み成功した。
2 六通貝塚集落が拠点となり漁場毎に対応する集落(子村)を開設していった。大膳野南貝塚もそのような経緯で称名寺式期頃(2群期)開設され村田川河口湾内に漁場を得た。
3 堀之内式期頃(3群期)大膳野南貝塚をはじめ幾つかの子村漁業が成功し、六通貝塚集落(母村)人員の一部がそれら成功した村に移動した。
4 加曽利B式期頃(4群期)になるとそれまで成功していた子村漁業が海岸線後退による漁場消滅等で衰退した。そのため子村の人員が母村(六通貝塚)に戻った。

堀之内式期頃(3群期)の六通貝塚は「衰退」したのではなく、人々が大膳野南貝塚などの成功した子村に出向いて貼り付いたために、いわば管理中枢機能だけが残った企業本社みたいなものだと考える仮説です。

堀之内式期頃(3群期)に成功したビジネスモデル(漁業子村展開戦略)は、その後の情勢変化(海岸線の後退による漁業の衰退)に対応して見直され、加曽利B式期頃(4群期)には別のビジネスモデル(母村集中強化モデル?)に移行したのだと仮説します。

2018年8月8日水曜日

六通貝塚の集落継続期間と盛衰

1 六通貝塚の集落継続期間
発掘調査報告書に六通貝塚の集落継続期間がまとめられています。

六通貝塚の集落継続期間 「千葉東南部ニュータウン37-千葉市六通貝塚-」(平成19年3月、独立行政法人都市再生機構・財団法人千葉県教育振興財団)から引用
2000数百年の間途切れることなく集落の痕跡が出土しています。貝塚の本体が大きく、かつ存在する位置が交通結節点となる台地尾根に存在することから周辺集落社会で拠点的な役割があったと想定されています。
なお、六通貝塚の発掘調査では次に示す基準に基づいて土器を年代順に1群から7群まで分けています。

土器分類基準 千葉東南部ニュータウン37-千葉市六通貝塚-」(平成19年3月、独立行政法人都市再生機構・財団法人千葉県教育振興財団)から引用

2 六通貝塚集落の盛衰
群別土器数(掲載土器組成)と群別竪穴住居数のグラフを示すと次のようになります。

掲載土器組成

土器分類別竪穴住居数
貝塚本体の発掘はほとんど行っていないといっても、掲載土器組成は発掘域全体の土器群別組成であることと、そのパターンが竪穴住居数パターンと似ていることから群別組成は遺跡盛衰をある程度表現しているとみて間違いないと考えます。
1群期(加曽利EⅢ式期頃)には既に住居がありこのころ集落が開始しました。
2群期(称名寺式期頃)には拠点的集落が形成されました。
3群期(堀之内式期頃)には土器数が急減し竪穴住居は検出されません。土器数の急減はこの時期に集落がある程度衰退した様子を表現していると考えます。
4群期(加曽利B式期頃)には土器数が急増しますが竪穴住居検出数は1にとどまります。3群期とくらべると集落の勢いが回復したと捉えることができます。
5群期(安行1式期頃)も集落の勢いは保持していたとみることができます。竪穴住居は3軒検出されています。
6群期(安行2式期、前浦式期頃)になると土器数が急増し、竪穴住居検出数7軒となり集落のピークになります。
7群期(晩期後半)になると土器数は急減して、竪穴住居検出数も1軒となり集落凋落を表現しています。

群別掲載土器数はある程度集落盛衰の様子を表現していると考えられるので、その結果を最初に引用した集落継続期間表と画像とした合わせて、集落盛衰を直観的にイメージできるようにしました。

六通貝塚 集落盛衰イメージ 「千葉東南部ニュータウン37-千葉市六通貝塚-」(平成19年3月、独立行政法人都市再生機構・財団法人千葉県教育振興財団)から資料引用して作画

六通貝塚と大膳野南貝塚の集落盛衰の比較を次の記事で行います。

2018年8月6日月曜日

六通貝塚の学習開始

7月で大膳野南貝塚学習の中間とりまとめを終えて、現在次の2本立ての活動を行っています。
ア 大膳野南貝塚学習で生まれた興味の他縄文遺跡への投影
イ 投影学習ツールとしての私家版暫定版GIS連動千葉県縄文遺跡データベースの構築
2018.07.26記事「興味の他縄文遺跡への投影」参照
データベース構築作業はある程度進みましたので、並行的に他遺跡学習もスタートさせました。
この記事では最初の対象である六通貝塚学習着手を記録しておきます。

1 六通貝塚の概要
六通貝塚発掘調査報告書(「千葉東南部ニュータウン37 -千葉市六通貝塚-」(平成19年3月、独立行政法人都市再生機構・財団法人千葉県教育振興財団))によれば六通貝塚は縄文時代後期から晩期に大型の貝塚を形成した集落が存在していて、大膳野南貝塚を含む周辺貝塚集落の拠点的役割を果たしていたことが想定されています。

六通貝塚発掘調査報告書(「千葉東南部ニュータウン37 -千葉市六通貝塚-」(平成19年3月、独立行政法人都市再生機構・財団法人千葉県教育振興財団))

発掘は貝塚本体は行っておらず、周辺の道路敷等に限られていて大膳野南貝塚のような遺跡全体の発掘とは状況が根本的に異なっています。

六通貝塚測量図 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代) 211六通貝塚」(千葉県発行)から引用 回転 

2 六通貝塚の学習方針
貝塚本体の発掘が行われていないため、集落の本体は不明になります。そこで貝塚周辺の遺構(主に竪穴住居)の検討を貝塚や地形との関係を見ながら詳しく検討して、大膳野南貝塚で観察して興味を抱いた事項が確認できるか学習します。遺構情報をGISに展開して検討することにします。

3 遺構配置図のGISプロット
遺構配置図は平面直角座標系(9系)の座標が記載されているので、そのデータにより遺構配置図をGISにプロットすることができました。(※)

遺構配置図(全体図) 背景なし

遺構配置図(全体図) 背景は地理院地図

遺構配置図(全体図) 背景は2007年~空中写真

遺構配置図(全体図) 背景は1960年代地形図(千葉市都市図)

遺構配置図(全体図) 背景は1960年代空中写真
開発前の地形図や空中写真との関係をみながら発掘情報を学習する基盤をつくることができました。

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遺構配置図の座標は平面直角座標系(9系)で日本測地系で記載されているので世界測地系に変換してGISにプロットしました。なおX座標、Y座標ともに報告書記載に正60mの誤差がありました。その誤差の意味は不明です。