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2017年4月18日火曜日

複数竪穴住居の関連性検討

大膳野南貝塚 前期後葉集落 複数竪穴住居の関連性検討

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書のまとめでは前期後葉集落の竪穴住居について次のような組み合わせでその関連性を指摘しています。

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居 発掘調査報告書における関連性の見立て

発掘調査報告書では、これらのグループは群在していて、一部はかなり近接しているので、「これらの住居には時期的な前後関係があるものと推定される。」と記述しています。

はたしてその記述通りであるか、学習することにします。

全体をざっと眺めると次のような検討方向の感想を持ちます。
J50・68は関連しているように感じます。
J56・58・60・121は場所が近接しているだけで、全く異なる性格のものが混じっているように感じます。
J72・113は関連しているように感じます。
J83・89・97・98は諸磯式という点で共通しますが、J97は特殊ですから、単純な関連性あるものとして捉えることは困難かもしれないと直観します。

参考 大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居

この記事ではJ50とJ68の関連性について学習します。

J50とJ68の位置関係は次の通りです。

J50とJ68の位置関係

建物の間の空間は2m以下であり大変近接しています。
また、建物の平面形状・方向・面積なども似ています。

次に発掘調査報告書の柱穴分類を色分けしてみました。

J50号・J68号竪穴住居の柱穴分類

両方の竪穴住居ともに建て替え(拡張)を1回行い、それに対応して二組の主柱穴と内側・拡張外側の2列の壁柱穴が見られます。
主柱穴の位置変更にともない、炉祉も変更となっています

J50と68が前後関係のある竪穴住居で、同じ血族の竪穴住居であったと考えても合理的です。
今のところ、J50と68の前後関係は判りません。

さて、この検討の中で、自分レベルで新たな発見をし、いささか興奮気味になったことがありますので、次の記事で紹介します。

2017年4月17日月曜日

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居炉祉数の意味

2017.04.16記事「大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居形状」で優勢土器形式が浮島式竪穴住居は諸磯式竪穴住居に比べて面積も大きく、深さも深いことをグラフで示しました。

これを分布図で示すと次のようになります。

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居面積(㎡)

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居深さ(㎝)

さて、炉祉数(基数)をみると、優勢土器形式が逆転する結果になります。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居炉祉数(基)

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居炉祉数

面積が狭く深さが浅い竪穴住居である諸磯式竪穴住居の方が、面積が広く深さが深い竪穴住居である浮島式竪穴住居より炉祉数が多い理由を次のように想定します。

諸磯式竪穴住居の方が建物(上物)の構造が虚弱であり屋根と柱やその他の部材破損に伴う主柱の交換位置変更の回数が多く、その度に炉の位置を変更せざるを得なかったと考えます。

諸磯式竪穴住居の方が狭く浅い竪穴住居であったことはそれだけでなく、同時に建物のフレーム自体が虚弱であったことと結びついていたと考えます。

太くしっかりした木材を利用できなかったのだと思います。

現代社会風に考えれば、浮島式土器竪穴住居住民より諸磯式土器竪穴住居住民の方が財力が無い、あるいは技術力がないということになります。

しかしそのような財力や技術力ではなく、この集落における諸磯式系住民の社会的身分が低く、そのために狭く、浅く、フレームが弱い竪穴住居の建設しか認められていなかったのではないかと想像します。

社会的身分の上下、優劣がある2つの集団が1つの集落社会を構成していた有様が浮かび上がりつつあると考えています。

なお追って、竪穴住居の上物(建物)の強弱を発掘調査報告書の情報(遺構平面図断面図、写真等)から分析的に抽出する作業にチャレンジしたいと思います。

参考 大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居