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2017年10月26日木曜日

大結馬牧の場所と延喜式記載順

2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」で大結馬牧の場所が専門家が考えている船橋付近ではなく、印西付近であるとする仮説を設定しました。

その仮説蓋然性の向上に資する可能性のある情報をみつけましたのでメモしておきます。

古代東海道研究において延喜式駅家リストの順番情報が駅路コースを復元するために有効活用されています。
延喜式のリストは必ず一定の決め事をした上でその順番が決まっていると考えて間違いありません。

延喜式の兵部省、諸国馬牛牧リストの順番も必ず一定の決め事により配列されていると考えてよいと思います。
その決め事(基準)はつぎのようになっていると推察できます。

●延喜式諸国馬牛牧リストの各国内順番の基準
馬牧→牛牧の順
馬牧は南→北の順

馬牧→牛牧の順は全ての国で確認できます。
南→北の順は手持ち情報の範囲では安房国、肥後国で確認できます。

この基準が正しいと考えると、下総国の馬牧は南から北へ高津馬牧,大結馬牧,木嶋馬牧,長洲馬牧の順に配列していたことになります。

大結馬牧を船橋に比定すると高津馬牧より南になりますから、延喜式リストの順番と合わなくなります。
このような間接情報から大結馬牧を船橋に比定する考えが否定されます。

大結馬牧の場所が船橋ではないとすると、大結仮説(大結馬牧の場所は印西)の存在感が増します。

参考 「千葉県の歴史 通史編 古代2」の牧分布推定図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」から引用
大結馬牧の場所は船橋にプロットされている。
……………………………………………………………………
延喜式 諸国馬牛牧

諸國馬牛牧。
駿河國。【岡野馬牧,蘇彌奈馬牧。】
相摸國。【高野馬牛牧。】
武藏國。【檜前馬牧,神埼牛牧。】
安房國。【白濱馬牧,鈖師馬牧。】
上總國。【大野馬牧,負野牛牧。】
下總國。【高津馬牧,大結馬牧,木嶋馬牧,長洲馬牧,浮嶋牛牧。】
常陸國。【信太馬牧。】
下野國。【朱門馬牧。】
伯耆國。【古布馬牧。】
備前國。【長嶋馬牛牧。】
周防國。【竈合馬牧,垣嶋牛牧。】
長門國。【宇養馬牧,角嶋牛牧。】
伊豫國。【忽那嶋馬牛牧。】
土佐國。【沼山村馬牧。】
筑前國。【能臣嶋牛牧。】
肥前國。【鹿嶋馬牧,庇羅馬牧,生屬馬牧,柏嶋牛牧,櫏野□牧,早埼牛牧。】
肥後國。【二重馬牧,波良馬牧。】
日向國。【野波野馬牧,堤野馬牧,都濃野馬牧,野波野牛牧,長野牛牧,三野原牛牧。】

WEBページ「延喜式」から引用

2017年10月13日金曜日

古代開発集落の生業 牧

短期集中学習「奈良平安7開発集落の生業と消長」の最初の検討は生業のうち牧です。

1 牧に関連する遺物及び推定
最初に牧に関連する遺物をまとめてみました。

牧に関連する遺物及び推定

参考 遺跡位置

以下簡潔に説明します。

2 馬骨の出土
白幡前遺跡の土坑から馬2頭分の骨と人骨が出土しています。また鳴神山遺跡の井戸から馬骨が出土しています。

白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の様子

白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の位置

鳴神山遺跡馬骨出土井戸の様子

鳴神山遺跡馬骨出土井戸の位置

これまでの検討でこれら2つの馬骨出土遺構は馬(及び人)を生贄とした祭祀跡であり、牧発展祈願であると考えます。蝦夷戦争に関わる律令国家の牧発展祈願ではないだろうかと想像しています。

白幡前遺跡および鳴神山遺跡ともに牧現場から離れた集落中枢部で生贄を使った牧発展祈願が行われています。白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)に対応すると考えられます。

●参考 古墳時代の馬の殉葬
下総では古墳時代から馬を生贄として使ってきました。
馬という貴重品を生贄にする決意の深さが判るとともに、牧における馬生産が盛んだったことも判ります。
古墳時代の馬の殉葬
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

3 馬具の出土
上谷遺跡からハミ(4点セット)が出土しています。

上谷遺跡馬具出土状況

4 牧関連墨書文字
白幡前遺跡から「牧万、牧方」が出土しています。
鳴神山遺跡から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」が出土しています。

「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の出土状況

馬牛蚕の皮・肉・骨の利用活動の発展を祈願していると考えられます。(蚕は繭から取り出した蛹の利用(佃煮やサナギ粉))
つまり斃牛馬処理集団の活動祈願が存在していたのですから、逆にそのような集団が存在できるだけの斃牛馬が存在していたことになり、牧の実在が証明されます。

上谷遺跡から「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」が出土しています。

「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の出土状況

次のように解釈できます。
「承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。
野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。
(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)
(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。」
牧の存在が直接文字となっています。

5 これまでの推定
白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に隣接しています。

高津馬牧(延喜式)の推定場所

鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)の一部であると仮説しています。

大結馬牧仮説
2017.10.22追記
この仮説の改訂新版を作りましたので、大結馬牧仮説は次の記事を参照してください。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説

参考

墨書文字「大」集団が東京湾から香取の海まで道路で牧を結び、蝦夷戦争に備えたシステムが大結馬牧(延喜式)であると仮説しています。
近世の印西牧付近が大結馬牧(延喜式)の本拠地であったと考えることができるかもしれません。

参考 墨書文字「大」出土状況

6 牧実在の確認と牧施設場所の検討必要性
以上の資料から白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡に牧が実在したと考えます。
牧を構成する施設のうち牧場(草原)、厩舎、馬具工房などの場所がどこであるのか、それを示す直接証拠が出土していないので、検討(推定)する必要があります。
その検討(推定)を次の記事で行います。