10 大結馬牧(仮説)の領域
大結馬牧(仮説)に関わると考えられる遺跡として鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、南西ヶ作遺跡、大塚前遺跡をあげることができます。
南西ヶ作遺跡(奈良・平安時代)から墨書文字「大加」が出土します。また「大国玉□」も出土します。鳴神山遺跡で「大加」は牧集団であり、また千葉県で「大加」は鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡だけからの出土となることから、南西ヶ作遺跡は鳴神山遺跡の出先的要素が強かったと考えることができます。南西ヶ作遺跡は牧管理の出先集落であったと考えることができます。この情報は牧場域推定の有力な根拠情報になります。
なお、細かい話になりますが鳴神山遺跡の「大加」も南西ヶ作遺跡の「大加」もよく見ると大と加が組文字のようになっています。鳴神山遺跡で多出する刻書「大加」は完全に一体化して書かれているロゴマーク(組文字)になっています。このこだわりはそれを共有する集団の結束力の強さを示すと考えますが、この集団が何であるか検討を深めたいとおもいます。
鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡の情報、及び牧場域に馬の水飲み場となる谷津が必須であるという地形条件などから大結馬牧(仮説)の牧場地区をイメージしました。
なお牧場地区東南隅に多々羅田という鉄滓出土遺跡があり、年代不明ですが、大結馬牧(仮説)の馬具工房であった可能性もあります。
大結馬牧(仮説)僕所地区イメージを現代地図にプロットしたものです。
つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)
2017年11月26日日曜日
2017年11月24日金曜日
「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説
鳴神山遺跡牧の学習を進めるなかで予期せぬかたちで「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
鳴神山遺跡牧だけをいくら詳しく調べても、そこに大結馬牧に関する思考が入り込む余地はありません。
しかし、鳴神山遺跡牧と定説の船橋大結馬牧との関係考察を深めるなかで大結馬牧船橋説の根拠が薄弱であることに気が付きました。
また延喜式の馬牧記載順番も船橋説を否定します。
このような情報と鳴神山遺跡牧特性理解の深まりのなかで、ある日突然「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
自分の感情からいうと、「向こうからやってきた仮説」です。
長い間大結馬牧は船橋にあり、鳴神山遺跡牧は船橋大結馬牧の出張所みたいに考えていました。
鳴神山遺跡牧が軍事道路とセットで開発された国家戦略的な軍事牧ですから8世紀における下総国の馬牧のなかで最重要牧であると考えて間違いありません。この時代の情報を後にまとめた延喜式諸国牧に記載されて当然の牧です。そして大結馬牧船橋説に根拠がないのですから鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えることが合理的な思考です。
鳴神山遺跡直線道路は下総国府(東京湾)と香取の海を大きく結ぶと想定されますから、その道路を大結(オオユイ)と呼んでいたとすれば、鳴神山遺跡牧の名称が大結馬牧となることは高津馬牧の例から当然のこととなります。
延喜式諸国牧の記載順番です。
下総国の記載順番をよく見ると大結馬牧は高津馬牧と木嶋馬牧の間にあります。この記載順番から大結馬牧は船橋ではなく、高津馬牧の北にあるはずです。
延喜式記載順番により東海道駅路網の検討が進んだように、延喜式記載順番は大結馬牧の空間位置を考える上で無視することのできない重要検討ファクターです。
大結馬牧のこれまでの定説(船橋説)
大結馬牧船橋説の概要です。
大結馬牧船橋説の難点です。
大結馬牧水海道市付近説の難点です。
大結馬牧船橋説、水海道市付近説の感想です。
共に中世歴史説明補強の観点から大結馬牧を利用している説であり、牧そのものの情報からおのずと生まれてきた説ではありません。
鳴神山遺跡牧の特性と大結馬牧船橋説の根拠薄弱性、延喜式記載順番から鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えます。
つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)
鳴神山遺跡牧の学習を進めるなかで予期せぬかたちで「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
鳴神山遺跡牧だけをいくら詳しく調べても、そこに大結馬牧に関する思考が入り込む余地はありません。
しかし、鳴神山遺跡牧と定説の船橋大結馬牧との関係考察を深めるなかで大結馬牧船橋説の根拠が薄弱であることに気が付きました。
また延喜式の馬牧記載順番も船橋説を否定します。
このような情報と鳴神山遺跡牧特性理解の深まりのなかで、ある日突然「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
自分の感情からいうと、「向こうからやってきた仮説」です。
長い間大結馬牧は船橋にあり、鳴神山遺跡牧は船橋大結馬牧の出張所みたいに考えていました。
鳴神山遺跡牧が軍事道路とセットで開発された国家戦略的な軍事牧ですから8世紀における下総国の馬牧のなかで最重要牧であると考えて間違いありません。この時代の情報を後にまとめた延喜式諸国牧に記載されて当然の牧です。そして大結馬牧船橋説に根拠がないのですから鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えることが合理的な思考です。
鳴神山遺跡直線道路は下総国府(東京湾)と香取の海を大きく結ぶと想定されますから、その道路を大結(オオユイ)と呼んでいたとすれば、鳴神山遺跡牧の名称が大結馬牧となることは高津馬牧の例から当然のこととなります。
延喜式諸国牧の記載順番です。
下総国の記載順番をよく見ると大結馬牧は高津馬牧と木嶋馬牧の間にあります。この記載順番から大結馬牧は船橋ではなく、高津馬牧の北にあるはずです。
延喜式記載順番により東海道駅路網の検討が進んだように、延喜式記載順番は大結馬牧の空間位置を考える上で無視することのできない重要検討ファクターです。
大結馬牧のこれまでの定説(船橋説)
大結馬牧船橋説の概要です。
大結馬牧船橋説の難点です。
大結馬牧水海道市付近説の難点です。
大結馬牧船橋説、水海道市付近説の感想です。
共に中世歴史説明補強の観点から大結馬牧を利用している説であり、牧そのものの情報からおのずと生まれてきた説ではありません。
鳴神山遺跡牧の特性と大結馬牧船橋説の根拠薄弱性、延喜式記載順番から鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えます。
つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)
2017年11月10日金曜日
大結馬牧船橋説の根拠薄弱性
鳴神山遺跡のGIS学習を深めているなかで、鳴神山遺跡が典型古代牧でありかつ国家的戦略的重要性のある牧・道路セット遺跡であることが浮かび上がりました。
同時に大結馬牧の根拠薄弱性に気が付き、その瞬間に大結馬牧印西説が生まれました。
仮説 大結道路と大結馬牧
この仮説が生まれる前に行っていた学習はあくまでも鳴神山遺跡の学習であり、大結馬牧に興味の焦点はありませんでした。従って次の「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)の情報に基づき考察をしていました。
「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)における大結馬牧の記述
学習過程では、この大結馬牧船橋説に従って、それと鳴神山遺跡との関係を次のように仮説しました。
参考 大結馬牧船橋説を信じていたころの仮説
しかし鳴神山遺跡と大結馬牧の関係を考えたので、大結馬牧について考えざるを得なくなり、その根拠薄弱性の認識に至ってしまったということです。
学習を深めれば深めるほど大結馬牧船橋説の根拠薄弱性が感じられるようになり、最後は船橋説(水海道市付近説も)を到底首肯できることはできないと結論付けるにまで至りました。
この記事では大結馬牧船橋説、水海道市付近説の根拠薄弱性についてメモします。
1 大結馬牧船橋説
1-1 概要
●大結馬牧を意富比(オオヒ)神社と関連づける。音「オオ」が同じ。
●意富比(オオヒ)神社付近に中世の荘園夏見御厨が建設され、その前身が牧であった可能性が濃い。
●延喜式に下総国から伊勢神宮に馬を献上する記載があり、それが大結馬牧からと類推すると、夏見御厨が伊勢神宮内宮領になった説明ができる。(梅田義彦)
●船橋付近から馬骨が出土する。
1-2 大結馬牧船橋説の根拠薄弱性
●大結をオオヒと読む根拠はなく、大結(オオユイ)と意富比(オオヒ)神社の関連は語呂合わせに過ぎない。
●根拠となる馬骨は夏見付近ではなく離れた本郷町方面であり、それ以外の牧を示す情報がないことから、船橋付近が大結馬牧であるとの特定はできない。
●延喜式記載順番に合わない。
2 大結馬牧水海道市付近説
2-1 概要
●大結馬牧を地名大生郷(オオウゴウ)と関連付ける。音「オオ」が同じ。
●牧を示す地名がある。古間木など。
2-2 大結馬牧水海道市付近説の根拠薄弱性
●大結を地名大生郷(オオウゴウ)と関連づけるのは語呂合わせに過ぎない。
●牧の存在を示す地名で大結馬牧の特定はできない。
3 感想
船橋説、水海道市付近説に関して、次のような感想を持っています。
大結馬牧船橋説は船橋に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(夏見御厨)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
大結馬牧水海道市付近説は水海道市付近に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(平将門の乱など)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
ともに奈良時代の牧特性そのものに関する情報・推定からおのずと生まれた説ではないように感じます。
奈良時代牧そのものに興味の焦点を当て、その専門的情報に基づいて大結馬牧について検討した専門家は過去現在誰もいないので、中世歴史に興味のある人々が大結馬牧を自分好みに「配置」して中世歴史を説明補強した思考が定式化してしまったのだと考えます。
下総国古代牧そのものを学術的見地から検討した専門家が過去現在存在していないことは、延喜式諸国牧記載順番についての言及がどこにもないことからうかがうことができます。
下総国古代道路については学術的検討が多く、駅家の延喜式記載順番が詳しく検討され、その検討を一つの重要要件として駅路の分析が行われています。
牧に関する地名、馬骨の出土は極端に言えば下総には無数にあります。それらは恐らくすべて牧実在の跡を示します。奈良時代の下総台地は牧だらけであったと(つたない私の遺跡学習体験でも)考えることができます。
古代牧を示す情報を持って、それだけで大結馬牧を特定したことにはなりません。
大結馬牧の特定のためにはそれなりの根拠が必要であり、大結馬牧印西説は特定根拠要件を満たす可能性が極めて濃厚であると考えます。
同時に大結馬牧の根拠薄弱性に気が付き、その瞬間に大結馬牧印西説が生まれました。
仮説 大結道路と大結馬牧
この仮説が生まれる前に行っていた学習はあくまでも鳴神山遺跡の学習であり、大結馬牧に興味の焦点はありませんでした。従って次の「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)の情報に基づき考察をしていました。
「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)における大結馬牧の記述
学習過程では、この大結馬牧船橋説に従って、それと鳴神山遺跡との関係を次のように仮説しました。
参考 大結馬牧船橋説を信じていたころの仮説
しかし鳴神山遺跡と大結馬牧の関係を考えたので、大結馬牧について考えざるを得なくなり、その根拠薄弱性の認識に至ってしまったということです。
学習を深めれば深めるほど大結馬牧船橋説の根拠薄弱性が感じられるようになり、最後は船橋説(水海道市付近説も)を到底首肯できることはできないと結論付けるにまで至りました。
この記事では大結馬牧船橋説、水海道市付近説の根拠薄弱性についてメモします。
1 大結馬牧船橋説
1-1 概要
●大結馬牧を意富比(オオヒ)神社と関連づける。音「オオ」が同じ。
●意富比(オオヒ)神社付近に中世の荘園夏見御厨が建設され、その前身が牧であった可能性が濃い。
●延喜式に下総国から伊勢神宮に馬を献上する記載があり、それが大結馬牧からと類推すると、夏見御厨が伊勢神宮内宮領になった説明ができる。(梅田義彦)
●船橋付近から馬骨が出土する。
1-2 大結馬牧船橋説の根拠薄弱性
●大結をオオヒと読む根拠はなく、大結(オオユイ)と意富比(オオヒ)神社の関連は語呂合わせに過ぎない。
●根拠となる馬骨は夏見付近ではなく離れた本郷町方面であり、それ以外の牧を示す情報がないことから、船橋付近が大結馬牧であるとの特定はできない。
●延喜式記載順番に合わない。
2 大結馬牧水海道市付近説
2-1 概要
●大結馬牧を地名大生郷(オオウゴウ)と関連付ける。音「オオ」が同じ。
●牧を示す地名がある。古間木など。
2-2 大結馬牧水海道市付近説の根拠薄弱性
●大結を地名大生郷(オオウゴウ)と関連づけるのは語呂合わせに過ぎない。
●牧の存在を示す地名で大結馬牧の特定はできない。
3 感想
船橋説、水海道市付近説に関して、次のような感想を持っています。
大結馬牧船橋説は船橋に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(夏見御厨)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
大結馬牧水海道市付近説は水海道市付近に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(平将門の乱など)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
ともに奈良時代の牧特性そのものに関する情報・推定からおのずと生まれた説ではないように感じます。
奈良時代牧そのものに興味の焦点を当て、その専門的情報に基づいて大結馬牧について検討した専門家は過去現在誰もいないので、中世歴史に興味のある人々が大結馬牧を自分好みに「配置」して中世歴史を説明補強した思考が定式化してしまったのだと考えます。
下総国古代牧そのものを学術的見地から検討した専門家が過去現在存在していないことは、延喜式諸国牧記載順番についての言及がどこにもないことからうかがうことができます。
下総国古代道路については学術的検討が多く、駅家の延喜式記載順番が詳しく検討され、その検討を一つの重要要件として駅路の分析が行われています。
牧に関する地名、馬骨の出土は極端に言えば下総には無数にあります。それらは恐らくすべて牧実在の跡を示します。奈良時代の下総台地は牧だらけであったと(つたない私の遺跡学習体験でも)考えることができます。
古代牧を示す情報を持って、それだけで大結馬牧を特定したことにはなりません。
大結馬牧の特定のためにはそれなりの根拠が必要であり、大結馬牧印西説は特定根拠要件を満たす可能性が極めて濃厚であると考えます。
2017年10月27日金曜日
印西市大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)
大結馬牧の場所が船橋ではなく印西であると気が付くと、これまで意味不明であった多数の事象(情報)が次々と結びつき、蓋然性の高い新たな情報が生れます。
自分が思考しているというよりも、情報自身が能動的に結びつく挙動をしているようにさえ感じます。
この記事では大塚前廃寺(大塚前遺跡)の名称が播寺(波田寺)[ハタデラ]であるという仮説が生まれましたので、メモします。
鳴神山遺跡では墨書文字「播寺」「波田寺」「寺」「佛」が出土しています。
文字「寺」「佛」出土分布図
鳴神山遺跡から仏教にかかわる遺構は見つかっていません。
視野を鳴神山遺跡発掘区域だけに絞ると、集落の北側に分布していて、その場所は馬牧の牧場に近い場所で、集落の中心部から離れた場所になります。
「播寺」「波田寺」「寺」「佛」の文字出土意義の空間的説明は困難です。
しかし、視野を鳴神山遺跡発掘区域から広げて、仮説大結馬牧の牧場ゾーンイメージも見渡してみると、同じ大結馬牧に大塚前廃寺もあれば「播寺」「波田寺」「寺」「佛」文字出土もあることに気が付くことができます。
「播寺」「波田寺」「寺」「佛」が発掘区域北側に偏っていたのは、これらの文字が大塚前廃寺と関連しているからであると考えざるを得ません。
「播寺」「波田寺」は大塚前廃寺の名称であると結論付けざるを得ません。
仮説 大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)
大塚前廃寺は「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)で次のように説明されています。
「印西市大塚前遺跡では下総国分寺系の軒瓦を使用した大型の四面廂付の掘立柱建物が検出されている。この遺跡からは、東西二棟の掘立柱建物の跡が掘りだされ、大型建物の屋根の棟だけに瓦をふく甍棟建物という屋根構造が想定されている。また、総柱建物構造から床板をはった仏堂的な機能が考えられている。この年代は明らかではないが、同時期と思われる竪穴住居の遺物から、八世紀後半から九世紀にかけてのものと思われる。」
大塚前廃寺説明イラスト
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
馬牧に仏教寺院があり、その影響を受けた馬牧現場従事者が墨書文字「播寺」「波田寺」「寺」「佛」を残したと考えることができます。
播寺(大塚前廃寺)の活動時期を8世紀後半から9世紀にかけてのもだとすると、蝦夷戦争の最盛期にあたり、律令国家が下総国全体を東北進出の兵站基地として全力で開発していた時期です。
播寺(大塚前廃寺)の意義は一般的な仏教普及ではなく、鎮護国家の観点から軍馬増産活動を宗教面から支援する施設であったと考えることができます。
播寺(大塚前廃寺)はいわば大結馬牧付属寺院であったと考えることができます。
さて、大塚前廃寺説明イラストをみると寺院の前に大溝が通っています。これは道路です。
2015.12.27記事「学習 台地上の溝状古代道路の例」参照
大塚前遺跡の発掘風景写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
この道路は播寺(大塚前廃寺)に関わることは当然ですが、馬牧の道路であることも確実です。
鳴神山遺跡にも直線道路があり、播寺(大塚前廃寺)にも道路があります。つまり大結馬牧には道路が2本あります。
その意義(意味)について次の記事で検討します。
大結馬牧の姿が急速に浮かび上がってきています。
……………………………………………………………………
2017.10.28追記
播寺(波田寺)[ハタデラ]の表記について
播(ハタ)、波田(ハタ)は印播郡の播(バ)をハタと読み替えて、あるいは印波郡の波(バ)をつかって田を加えてハタと読み、印播郡(印波郡)をイメージしたのではないかと想像します。
印播郡の表記は次のように変遷していることが専門家論文で述べられています。
奈良時代は「印波」と書くことが多い。
平安時代以降は「印播」と「印幡」が使われ、後に「印旛」と書くようになる。
「延喜式」は「播」、「和名抄」は「幡」を用いる。
「印葉」の表記もある。
山路直充:古代の開発と船穂郷の大塚前廃寺、いんざい再発見第3号(印西地域史研究会編)による
大塚前遺跡の時代つまり8世紀後半から9世紀初めごろのインバ郡の表記はこの論文から印播郡や印波郡が使われていたことと想定できますから、上記の播寺(波田寺)のイメージと合致します。
自分が思考しているというよりも、情報自身が能動的に結びつく挙動をしているようにさえ感じます。
この記事では大塚前廃寺(大塚前遺跡)の名称が播寺(波田寺)[ハタデラ]であるという仮説が生まれましたので、メモします。
鳴神山遺跡では墨書文字「播寺」「波田寺」「寺」「佛」が出土しています。
文字「寺」「佛」出土分布図
鳴神山遺跡から仏教にかかわる遺構は見つかっていません。
視野を鳴神山遺跡発掘区域だけに絞ると、集落の北側に分布していて、その場所は馬牧の牧場に近い場所で、集落の中心部から離れた場所になります。
「播寺」「波田寺」「寺」「佛」の文字出土意義の空間的説明は困難です。
しかし、視野を鳴神山遺跡発掘区域から広げて、仮説大結馬牧の牧場ゾーンイメージも見渡してみると、同じ大結馬牧に大塚前廃寺もあれば「播寺」「波田寺」「寺」「佛」文字出土もあることに気が付くことができます。
「播寺」「波田寺」「寺」「佛」が発掘区域北側に偏っていたのは、これらの文字が大塚前廃寺と関連しているからであると考えざるを得ません。
「播寺」「波田寺」は大塚前廃寺の名称であると結論付けざるを得ません。
仮説 大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)
大塚前廃寺は「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)で次のように説明されています。
「印西市大塚前遺跡では下総国分寺系の軒瓦を使用した大型の四面廂付の掘立柱建物が検出されている。この遺跡からは、東西二棟の掘立柱建物の跡が掘りだされ、大型建物の屋根の棟だけに瓦をふく甍棟建物という屋根構造が想定されている。また、総柱建物構造から床板をはった仏堂的な機能が考えられている。この年代は明らかではないが、同時期と思われる竪穴住居の遺物から、八世紀後半から九世紀にかけてのものと思われる。」
大塚前廃寺説明イラスト
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
馬牧に仏教寺院があり、その影響を受けた馬牧現場従事者が墨書文字「播寺」「波田寺」「寺」「佛」を残したと考えることができます。
播寺(大塚前廃寺)の活動時期を8世紀後半から9世紀にかけてのもだとすると、蝦夷戦争の最盛期にあたり、律令国家が下総国全体を東北進出の兵站基地として全力で開発していた時期です。
播寺(大塚前廃寺)の意義は一般的な仏教普及ではなく、鎮護国家の観点から軍馬増産活動を宗教面から支援する施設であったと考えることができます。
播寺(大塚前廃寺)はいわば大結馬牧付属寺院であったと考えることができます。
さて、大塚前廃寺説明イラストをみると寺院の前に大溝が通っています。これは道路です。
2015.12.27記事「学習 台地上の溝状古代道路の例」参照
大塚前遺跡の発掘風景写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
この道路は播寺(大塚前廃寺)に関わることは当然ですが、馬牧の道路であることも確実です。
鳴神山遺跡にも直線道路があり、播寺(大塚前廃寺)にも道路があります。つまり大結馬牧には道路が2本あります。
その意義(意味)について次の記事で検討します。
大結馬牧の姿が急速に浮かび上がってきています。
……………………………………………………………………
2017.10.28追記
播寺(波田寺)[ハタデラ]の表記について
播(ハタ)、波田(ハタ)は印播郡の播(バ)をハタと読み替えて、あるいは印波郡の波(バ)をつかって田を加えてハタと読み、印播郡(印波郡)をイメージしたのではないかと想像します。
印播郡の表記は次のように変遷していることが専門家論文で述べられています。
奈良時代は「印波」と書くことが多い。
平安時代以降は「印播」と「印幡」が使われ、後に「印旛」と書くようになる。
「延喜式」は「播」、「和名抄」は「幡」を用いる。
「印葉」の表記もある。
山路直充:古代の開発と船穂郷の大塚前廃寺、いんざい再発見第3号(印西地域史研究会編)による
大塚前遺跡の時代つまり8世紀後半から9世紀初めごろのインバ郡の表記はこの論文から印播郡や印波郡が使われていたことと想定できますから、上記の播寺(波田寺)のイメージと合致します。
2017年10月26日木曜日
大結馬牧の場所と延喜式記載順
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」で大結馬牧の場所が専門家が考えている船橋付近ではなく、印西付近であるとする仮説を設定しました。
その仮説蓋然性の向上に資する可能性のある情報をみつけましたのでメモしておきます。
古代東海道研究において延喜式駅家リストの順番情報が駅路コースを復元するために有効活用されています。
延喜式のリストは必ず一定の決め事をした上でその順番が決まっていると考えて間違いありません。
延喜式の兵部省、諸国馬牛牧リストの順番も必ず一定の決め事により配列されていると考えてよいと思います。
その決め事(基準)はつぎのようになっていると推察できます。
●延喜式諸国馬牛牧リストの各国内順番の基準
馬牧→牛牧の順
馬牧は南→北の順
馬牧→牛牧の順は全ての国で確認できます。
南→北の順は手持ち情報の範囲では安房国、肥後国で確認できます。
この基準が正しいと考えると、下総国の馬牧は南から北へ高津馬牧,大結馬牧,木嶋馬牧,長洲馬牧の順に配列していたことになります。
大結馬牧を船橋に比定すると高津馬牧より南になりますから、延喜式リストの順番と合わなくなります。
このような間接情報から大結馬牧を船橋に比定する考えが否定されます。
大結馬牧の場所が船橋ではないとすると、大結仮説(大結馬牧の場所は印西)の存在感が増します。
参考 「千葉県の歴史 通史編 古代2」の牧分布推定図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」から引用
大結馬牧の場所は船橋にプロットされている。
……………………………………………………………………
延喜式 諸国馬牛牧
諸國馬牛牧。
駿河國。【岡野馬牧,蘇彌奈馬牧。】
相摸國。【高野馬牛牧。】
武藏國。【檜前馬牧,神埼牛牧。】
安房國。【白濱馬牧,鈖師馬牧。】
上總國。【大野馬牧,負野牛牧。】
下總國。【高津馬牧,大結馬牧,木嶋馬牧,長洲馬牧,浮嶋牛牧。】
常陸國。【信太馬牧。】
下野國。【朱門馬牧。】
伯耆國。【古布馬牧。】
備前國。【長嶋馬牛牧。】
周防國。【竈合馬牧,垣嶋牛牧。】
長門國。【宇養馬牧,角嶋牛牧。】
伊豫國。【忽那嶋馬牛牧。】
土佐國。【沼山村馬牧。】
筑前國。【能臣嶋牛牧。】
肥前國。【鹿嶋馬牧,庇羅馬牧,生屬馬牧,柏嶋牛牧,櫏野□牧,早埼牛牧。】
肥後國。【二重馬牧,波良馬牧。】
日向國。【野波野馬牧,堤野馬牧,都濃野馬牧,野波野牛牧,長野牛牧,三野原牛牧。】
その仮説蓋然性の向上に資する可能性のある情報をみつけましたのでメモしておきます。
古代東海道研究において延喜式駅家リストの順番情報が駅路コースを復元するために有効活用されています。
延喜式のリストは必ず一定の決め事をした上でその順番が決まっていると考えて間違いありません。
延喜式の兵部省、諸国馬牛牧リストの順番も必ず一定の決め事により配列されていると考えてよいと思います。
その決め事(基準)はつぎのようになっていると推察できます。
●延喜式諸国馬牛牧リストの各国内順番の基準
馬牧→牛牧の順
馬牧は南→北の順
馬牧→牛牧の順は全ての国で確認できます。
南→北の順は手持ち情報の範囲では安房国、肥後国で確認できます。
この基準が正しいと考えると、下総国の馬牧は南から北へ高津馬牧,大結馬牧,木嶋馬牧,長洲馬牧の順に配列していたことになります。
大結馬牧を船橋に比定すると高津馬牧より南になりますから、延喜式リストの順番と合わなくなります。
このような間接情報から大結馬牧を船橋に比定する考えが否定されます。
大結馬牧の場所が船橋ではないとすると、大結仮説(大結馬牧の場所は印西)の存在感が増します。
参考 「千葉県の歴史 通史編 古代2」の牧分布推定図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」から引用
大結馬牧の場所は船橋にプロットされている。
……………………………………………………………………
延喜式 諸国馬牛牧
諸國馬牛牧。
駿河國。【岡野馬牧,蘇彌奈馬牧。】
相摸國。【高野馬牛牧。】
武藏國。【檜前馬牧,神埼牛牧。】
安房國。【白濱馬牧,鈖師馬牧。】
上總國。【大野馬牧,負野牛牧。】
下總國。【高津馬牧,大結馬牧,木嶋馬牧,長洲馬牧,浮嶋牛牧。】
常陸國。【信太馬牧。】
下野國。【朱門馬牧。】
伯耆國。【古布馬牧。】
備前國。【長嶋馬牛牧。】
周防國。【竈合馬牧,垣嶋牛牧。】
長門國。【宇養馬牧,角嶋牛牧。】
伊豫國。【忽那嶋馬牛牧。】
土佐國。【沼山村馬牧。】
筑前國。【能臣嶋牛牧。】
肥前國。【鹿嶋馬牧,庇羅馬牧,生屬馬牧,柏嶋牛牧,櫏野□牧,早埼牛牧。】
肥後國。【二重馬牧,波良馬牧。】
日向國。【野波野馬牧,堤野馬牧,都濃野馬牧,野波野牛牧,長野牛牧,三野原牛牧。】
WEBページ「延喜式」から引用
2017年10月22日日曜日
大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説
1 大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説
鳴神山遺跡が大結馬牧であると薄々直観してきましたが、それがどのような仮説になるのか不明でした。
しかし、下総国府の建設、東海道の建設(駅路、駅家建設)、東海道を軸とした域内幹線交通路の建設、官牧の建設が同一プロジェクトとして構想、計画、実施されたことに気が付く(理解する)と、鳴神山遺跡が大結馬牧であるという仮説が脳裏に焼き付き他の仮説をことごとく駆逐しました。
大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説
大結(オオユイ)とは下総国府(東京湾岸)と香取の海のミナトを結ぶ陸上道路の名称であると仮説します。
大結(オオユイ)は読んで字のごとく二つの海を結ぶ大連絡を表現している具体地域開発用語(その当時の造語)として捉えました。
大結道路は東海道を補完する補助幹線道路(域内幹線道路)の機能を有する道路であると考えます。
この道路建設と連動する新規官牧開発が鳴神山遺跡のある印西台地であり、その名称が道路名称を使って大結馬牧となったと考えました。
鳴神山遺跡で出土した直線道路が大結道路そのものであると考えます。
その道路の下総国府付近延長部が下総国府関連遺跡や新山遺跡で出土した道路であると考えます。
参考 鳴神山遺跡出土道路
発掘調査報告書から引用
参考 新山遺跡出土道路
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
このような関連インフラ名称が官牧名称になった例として高津馬牧があります。
東海道水運支路(仮説)において船越の平戸川側に高津(印旛浦の最高位にあるミナト)が建設され、その高津のそばに新規建設された官牧の名称が高津馬牧となりました。
高津も具体地域開発用語(その当時の造語)です。
なお、船越には地形を無視した直線道路整備が後世の馬防土手遺構として伝わっていて、道路建設作風が7世紀末から8世紀初頭頃のものであることを表現しています。
仮説東海道水運支路、船越については2014.11.21記事「〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討について」などブログ記事が多数あります。
2015.01.10房総古代道研究会発表資料も公開しています。
忘れられた古代交通施設 -千葉市花見川区に所在した水運路を結ぶ古代道路施設 船越-
2 これまでの大結馬牧比定地仮説とその難点
2-1 船橋付近説 大結の読み「オオヒ」
邨岡良弼「日本地理志料」、吉田東伍「大日本地名辞書」では大結をオオヒと読み、意富比(オオヒ)神社と関連付けて、大結馬牧を船橋付近としています。
大結をオオヒと読む根拠がありません。共通する音「オオ」を使って強引に二つの言葉を結びつけた「語呂合わせ」が思考の根底にあります。
後世にその場所が夏見御厨という開発地であったので、その前身が牧であると考えています。
しかし「語呂合わせ」が無意味であるとすれば、後世の開発地の存在だけからその場所を大結馬牧であると特定することは困難です。
2-2 船橋付近説 大結の読み「オオユイ」
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では大結をオオユイと読みますが、意富比(オオヒ)神社と関連付けて船橋付近としています。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)の大結馬牧説明
オオユイ馬牧とオオヒ神社の音の違いの説明をしていないにも関わらずその間に関連があることを前提にしています。
後世にその場所が夏見御厨という開発地であったので、その前身が牧であると考えています。また近隣の遺跡から馬の出土があったことを念頭においています。
強引な語呂合わせをしていないだけであって、オオユイとオオヒが関連することの説得的説明が出来ない点で2-1と同じです。後世に開発地になり、古代遺跡からは馬骨が出土したからという理由だけでそこが大結馬牧であると特定することは困難です。
2-3 茨城県水海道市から石下町付近説
大結をオオヒと読み、地名大生郷(オオウゴウ)、古間木(古牧)、大間木(大牧)と関連付けて大結馬牧を茨城県水海道市大生郷町から石下町古間木一帯とする説があります。
大結をオオヒと読む根拠がありません。また仮にオオヒと読んだとして、なぜオオヒなのかその説明はありません。
オオという音がオオヒとオオウゴウで一致するという語呂合わせになっています。
語呂合わせを除くと残る情報は牧存在を示す地名です。牧関連地名は下総の至るところにありますから、これをもって大結馬牧の特定はできません。
3 余談 新仮説誕生の舞台裏
大結馬牧、意富比神社、鳴神山遺跡出土メイン墨書文字「大」の3者に関連があるに違いないと4日間ほど寝ても覚めても検討しました。図書館で古い情報を調べたりもしました。
何度か「新仮説」が生まれ、消えました。
・オオヒ神社はオオユイ神社の転であり、オオユイ馬牧と関連付けることができる?
・オオヒ神社は多氏の神社で墨書文字「大」は多氏と関連する?
…
アーダ、コーダと考えて、到達した結論は大結馬牧、意富比神社、鳴神山遺跡出土メイン墨書文字「大」の3者に関連が全く無いということです。
3者の関連を断ち切ると3者の意味が脳裏に鮮明に浮かび上がりました。
大結馬牧の意味はこの記事で書いた通りです。
墨書文字「大」の意味は大神ということで、「大加」「天(則天文字)」(船尾白幡遺跡メイン文字)などの意味も関連して解釈を深めることができました。別記事で書きます。
意富比神社の名称意味は「日本の神々 神社と聖地 11関東」(谷川健一編、白水社)における意富比神社と大井神社(常陸)の説明が参考になりました。別記事で紹介します。
鳴神山遺跡が大結馬牧であると薄々直観してきましたが、それがどのような仮説になるのか不明でした。
しかし、下総国府の建設、東海道の建設(駅路、駅家建設)、東海道を軸とした域内幹線交通路の建設、官牧の建設が同一プロジェクトとして構想、計画、実施されたことに気が付く(理解する)と、鳴神山遺跡が大結馬牧であるという仮説が脳裏に焼き付き他の仮説をことごとく駆逐しました。
大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説
大結(オオユイ)とは下総国府(東京湾岸)と香取の海のミナトを結ぶ陸上道路の名称であると仮説します。
大結(オオユイ)は読んで字のごとく二つの海を結ぶ大連絡を表現している具体地域開発用語(その当時の造語)として捉えました。
大結道路は東海道を補完する補助幹線道路(域内幹線道路)の機能を有する道路であると考えます。
この道路建設と連動する新規官牧開発が鳴神山遺跡のある印西台地であり、その名称が道路名称を使って大結馬牧となったと考えました。
鳴神山遺跡で出土した直線道路が大結道路そのものであると考えます。
その道路の下総国府付近延長部が下総国府関連遺跡や新山遺跡で出土した道路であると考えます。
参考 鳴神山遺跡出土道路
発掘調査報告書から引用
参考 新山遺跡出土道路
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用
このような関連インフラ名称が官牧名称になった例として高津馬牧があります。
東海道水運支路(仮説)において船越の平戸川側に高津(印旛浦の最高位にあるミナト)が建設され、その高津のそばに新規建設された官牧の名称が高津馬牧となりました。
高津も具体地域開発用語(その当時の造語)です。
なお、船越には地形を無視した直線道路整備が後世の馬防土手遺構として伝わっていて、道路建設作風が7世紀末から8世紀初頭頃のものであることを表現しています。
仮説東海道水運支路、船越については2014.11.21記事「〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討について」などブログ記事が多数あります。
2015.01.10房総古代道研究会発表資料も公開しています。
忘れられた古代交通施設 -千葉市花見川区に所在した水運路を結ぶ古代道路施設 船越-
2 これまでの大結馬牧比定地仮説とその難点
2-1 船橋付近説 大結の読み「オオヒ」
邨岡良弼「日本地理志料」、吉田東伍「大日本地名辞書」では大結をオオヒと読み、意富比(オオヒ)神社と関連付けて、大結馬牧を船橋付近としています。
大結をオオヒと読む根拠がありません。共通する音「オオ」を使って強引に二つの言葉を結びつけた「語呂合わせ」が思考の根底にあります。
後世にその場所が夏見御厨という開発地であったので、その前身が牧であると考えています。
しかし「語呂合わせ」が無意味であるとすれば、後世の開発地の存在だけからその場所を大結馬牧であると特定することは困難です。
2-2 船橋付近説 大結の読み「オオユイ」
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では大結をオオユイと読みますが、意富比(オオヒ)神社と関連付けて船橋付近としています。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)の大結馬牧説明
オオユイ馬牧とオオヒ神社の音の違いの説明をしていないにも関わらずその間に関連があることを前提にしています。
後世にその場所が夏見御厨という開発地であったので、その前身が牧であると考えています。また近隣の遺跡から馬の出土があったことを念頭においています。
2-3 茨城県水海道市から石下町付近説
大結をオオヒと読み、地名大生郷(オオウゴウ)、古間木(古牧)、大間木(大牧)と関連付けて大結馬牧を茨城県水海道市大生郷町から石下町古間木一帯とする説があります。
大結をオオヒと読む根拠がありません。また仮にオオヒと読んだとして、なぜオオヒなのかその説明はありません。
オオという音がオオヒとオオウゴウで一致するという語呂合わせになっています。
語呂合わせを除くと残る情報は牧存在を示す地名です。牧関連地名は下総の至るところにありますから、これをもって大結馬牧の特定はできません。
3 余談 新仮説誕生の舞台裏
大結馬牧、意富比神社、鳴神山遺跡出土メイン墨書文字「大」の3者に関連があるに違いないと4日間ほど寝ても覚めても検討しました。図書館で古い情報を調べたりもしました。
何度か「新仮説」が生まれ、消えました。
・オオヒ神社はオオユイ神社の転であり、オオユイ馬牧と関連付けることができる?
・オオヒ神社は多氏の神社で墨書文字「大」は多氏と関連する?
…
アーダ、コーダと考えて、到達した結論は大結馬牧、意富比神社、鳴神山遺跡出土メイン墨書文字「大」の3者に関連が全く無いということです。
3者の関連を断ち切ると3者の意味が脳裏に鮮明に浮かび上がりました。
大結馬牧の意味はこの記事で書いた通りです。
墨書文字「大」の意味は大神ということで、「大加」「天(則天文字)」(船尾白幡遺跡メイン文字)などの意味も関連して解釈を深めることができました。別記事で書きます。
意富比神社の名称意味は「日本の神々 神社と聖地 11関東」(谷川健一編、白水社)における意富比神社と大井神社(常陸)の説明が参考になりました。別記事で紹介します。
2017年10月15日日曜日
高津馬牧、大結馬牧(想定)の牧場中心域
白幡前遺跡が高津馬牧(延喜式)に対応し、鳴神山遺跡が大結馬牧(延喜式)に対応すると想定して、さらに上谷遺跡の牧を含めて、牧の牧場(草原)中心域を検討しました。
1 牧場(草原)中心域検討のための条件
まだ自分の知識が大いに不足していますが、とりあえず次の2つの条件から牧場(草原)中心域の想定を行います。
ア 古代牧の地形的条件として馬の水飲み場が牧場(草原)に含まれていること。
上谷遺跡の検討では台地上の浅い谷に馬の水飲み施設と想定される土坑が存在しています。
参考 上谷池水部付近の土坑
参考 墨書土器竹野に対応する野(牧)イメージ
イ 牧領域の大きさの1例として約3㎞×約1.5㎞程度が想定されること。
参考 もはらのしょう 藻原荘
平安時代,上総国にあった興福寺領の荘園。現在の千葉県茂原市域に比定される。ここはもと777年(宝亀8)上総国司となった藤原黒麻呂が領した牧で,のち原野が開田されて荘園となり,その子常陸介春継に伝領された。春継は常陸国の大目〘だいさかん〙坂上氏の女をめとって同荘に住み生涯を終えたが,その子良尚に遺言してこの地に墳墓をつくらせ,後世他人の地となって墓が踏み荒らされることがないように,同荘を興福寺に施入することを命じ,877年(元慶1)に死去した。しかし良尚もまもなく世を去り,その遺命を継いだ長子菅根らは890年(寛平2)に藻原,田代の両荘田を興福寺に施入した。この施入帳(《朝野群載》)によると,藻原荘の規模は東西1020丈(約3㎞),南北487丈(約1.5㎞)あったという。なお1160年(永暦1)ごろ,鳥羽安楽寿院領上総国橘樹〘たちばな〙社の巽(南東)角の地が藻原荘と接しており,相論になっていた事実がある。
戸田 芳実
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
2 馬牧牧場(草原)中心域の想定
上記ア、イから3遺跡対応馬牧の牧場(草原)中心域を次のように想定しました。
白幡前遺跡関連牧(高津馬牧)の牧場(草原)中心域推定
高津川上流の谷津が浅い谷になっている付近が高津馬牧の中心域であると考えます。
円の面積は約4.5平方キロメートルですが、もちろんこのような形状の牧場(草原)があったとは考えません。あくまでも牧場中心域のイメージです。
鳴神山遺跡関連牧(大結馬牧か?)の牧場(草原)中心域推定
戸神川上流の西→東に流れる浅い谷を挟んだ印西台地が主な牧場(草原)であったと考えます。
上谷遺跡関連牧の牧場(草原)中心域推定
上谷遺跡関連牧は地形特性と官牧ではないという条件から牧の範囲は4.5平方キロメートルよりはるかに狭い牧であったと考えます。
1 牧場(草原)中心域検討のための条件
まだ自分の知識が大いに不足していますが、とりあえず次の2つの条件から牧場(草原)中心域の想定を行います。
ア 古代牧の地形的条件として馬の水飲み場が牧場(草原)に含まれていること。
上谷遺跡の検討では台地上の浅い谷に馬の水飲み施設と想定される土坑が存在しています。
参考 上谷池水部付近の土坑
参考 墨書土器竹野に対応する野(牧)イメージ
イ 牧領域の大きさの1例として約3㎞×約1.5㎞程度が想定されること。
参考 もはらのしょう 藻原荘
平安時代,上総国にあった興福寺領の荘園。現在の千葉県茂原市域に比定される。ここはもと777年(宝亀8)上総国司となった藤原黒麻呂が領した牧で,のち原野が開田されて荘園となり,その子常陸介春継に伝領された。春継は常陸国の大目〘だいさかん〙坂上氏の女をめとって同荘に住み生涯を終えたが,その子良尚に遺言してこの地に墳墓をつくらせ,後世他人の地となって墓が踏み荒らされることがないように,同荘を興福寺に施入することを命じ,877年(元慶1)に死去した。しかし良尚もまもなく世を去り,その遺命を継いだ長子菅根らは890年(寛平2)に藻原,田代の両荘田を興福寺に施入した。この施入帳(《朝野群載》)によると,藻原荘の規模は東西1020丈(約3㎞),南北487丈(約1.5㎞)あったという。なお1160年(永暦1)ごろ,鳥羽安楽寿院領上総国橘樹〘たちばな〙社の巽(南東)角の地が藻原荘と接しており,相論になっていた事実がある。
戸田 芳実
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
2 馬牧牧場(草原)中心域の想定
上記ア、イから3遺跡対応馬牧の牧場(草原)中心域を次のように想定しました。
白幡前遺跡関連牧(高津馬牧)の牧場(草原)中心域推定
高津川上流の谷津が浅い谷になっている付近が高津馬牧の中心域であると考えます。
円の面積は約4.5平方キロメートルですが、もちろんこのような形状の牧場(草原)があったとは考えません。あくまでも牧場中心域のイメージです。
鳴神山遺跡関連牧(大結馬牧か?)の牧場(草原)中心域推定
戸神川上流の西→東に流れる浅い谷を挟んだ印西台地が主な牧場(草原)であったと考えます。
上谷遺跡関連牧の牧場(草原)中心域推定
上谷遺跡関連牧は地形特性と官牧ではないという条件から牧の範囲は4.5平方キロメートルよりはるかに狭い牧であったと考えます。
2017年10月13日金曜日
古代開発集落の生業 牧
短期集中学習「奈良平安7開発集落の生業と消長」の最初の検討は生業のうち牧です。
1 牧に関連する遺物及び推定
最初に牧に関連する遺物をまとめてみました。
牧に関連する遺物及び推定
参考 遺跡位置
以下簡潔に説明します。
2 馬骨の出土
白幡前遺跡の土坑から馬2頭分の骨と人骨が出土しています。また鳴神山遺跡の井戸から馬骨が出土しています。
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の様子
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の位置
鳴神山遺跡馬骨出土井戸の様子
鳴神山遺跡馬骨出土井戸の位置
3 馬具の出土
上谷遺跡からハミ(4点セット)が出土しています。
上谷遺跡馬具出土状況
4 牧関連墨書文字
白幡前遺跡から「牧万、牧方」が出土しています。
鳴神山遺跡から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」が出土しています。
「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の出土状況
馬牛蚕の皮・肉・骨の利用活動の発展を祈願していると考えられます。(蚕は繭から取り出した蛹の利用(佃煮やサナギ粉))
つまり斃牛馬処理集団の活動祈願が存在していたのですから、逆にそのような集団が存在できるだけの斃牛馬が存在していたことになり、牧の実在が証明されます。
上谷遺跡から「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」が出土しています。
「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の出土状況
次のように解釈できます。
「承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。
野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。
(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)
(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。」
牧の存在が直接文字となっています。
5 これまでの推定
白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に隣接しています。
高津馬牧(延喜式)の推定場所
鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)の一部であると仮説しています。
大結馬牧仮説
2017.10.22追記
この仮説の改訂新版を作りましたので、大結馬牧仮説は次の記事を参照してください。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」
参考
墨書文字「大」集団が東京湾から香取の海まで道路で牧を結び、蝦夷戦争に備えたシステムが大結馬牧(延喜式)であると仮説しています。
近世の印西牧付近が大結馬牧(延喜式)の本拠地であったと考えることができるかもしれません。
参考 墨書文字「大」出土状況
6 牧実在の確認と牧施設場所の検討必要性
以上の資料から白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡に牧が実在したと考えます。
牧を構成する施設のうち牧場(草原)、厩舎、馬具工房などの場所がどこであるのか、それを示す直接証拠が出土していないので、検討(推定)する必要があります。
その検討(推定)を次の記事で行います。
1 牧に関連する遺物及び推定
最初に牧に関連する遺物をまとめてみました。
牧に関連する遺物及び推定
参考 遺跡位置
以下簡潔に説明します。
2 馬骨の出土
白幡前遺跡の土坑から馬2頭分の骨と人骨が出土しています。また鳴神山遺跡の井戸から馬骨が出土しています。
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の様子
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の位置
鳴神山遺跡馬骨出土井戸の位置
これまでの検討でこれら2つの馬骨出土遺構は馬(及び人)を生贄とした祭祀跡であり、牧発展祈願であると考えます。蝦夷戦争に関わる律令国家の牧発展祈願ではないだろうかと想像しています。
白幡前遺跡および鳴神山遺跡ともに牧現場から離れた集落中枢部で生贄を使った牧発展祈願が行われています。白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)に対応すると考えられます。
●参考 古墳時代の馬の殉葬
下総では古墳時代から馬を生贄として使ってきました。
馬という貴重品を生贄にする決意の深さが判るとともに、牧における馬生産が盛んだったことも判ります。
古墳時代の馬の殉葬
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
3 馬具の出土
上谷遺跡からハミ(4点セット)が出土しています。
上谷遺跡馬具出土状況
4 牧関連墨書文字
白幡前遺跡から「牧万、牧方」が出土しています。
鳴神山遺跡から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」が出土しています。
「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の出土状況
馬牛蚕の皮・肉・骨の利用活動の発展を祈願していると考えられます。(蚕は繭から取り出した蛹の利用(佃煮やサナギ粉))
つまり斃牛馬処理集団の活動祈願が存在していたのですから、逆にそのような集団が存在できるだけの斃牛馬が存在していたことになり、牧の実在が証明されます。
上谷遺跡から「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」が出土しています。
「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の出土状況
次のように解釈できます。
「承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。
野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。
(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)
(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。」
牧の存在が直接文字となっています。
5 これまでの推定
白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に隣接しています。
高津馬牧(延喜式)の推定場所
鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)の一部であると仮説しています。
2017.10.22追記
この仮説の改訂新版を作りましたので、大結馬牧仮説は次の記事を参照してください。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」
参考
墨書文字「大」集団が東京湾から香取の海まで道路で牧を結び、蝦夷戦争に備えたシステムが大結馬牧(延喜式)であると仮説しています。
近世の印西牧付近が大結馬牧(延喜式)の本拠地であったと考えることができるかもしれません。
参考 墨書文字「大」出土状況
6 牧実在の確認と牧施設場所の検討必要性
以上の資料から白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡に牧が実在したと考えます。
牧を構成する施設のうち牧場(草原)、厩舎、馬具工房などの場所がどこであるのか、それを示す直接証拠が出土していないので、検討(推定)する必要があります。
その検討(推定)を次の記事で行います。
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