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2017年11月21日火曜日

鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)

7 鳴神山遺跡直線道路

鳴神山遺跡の中央部を西南西から東北東にかけて直線道路が通っています。
直線道路は谷津地形を完全に無視して台地から谷底の降りていることが確認されていて、8世紀初頭頃律令国家計画道路の特徴を具えています。
この図で直線道路以外の曲線遺構は中世及び近世の馬堀跡です。

発掘調査報告書における直線道路の平面図及び断面図の例です。

直線道路の道路幅は上端で2.0m~2.4m、下端で0.9m~1.1m、深さ0.5m~0.7mです。
巾約1mの道路であり、馬に騎乗した人が馬にいちいち歩く方向を合図する必要のない機能を具えていたと考えます。構造からみて騎馬のすれ違いができない一方通行道路であると考えます。
道路は9世紀初めごろには埋め立てられています。

直線道路の発掘状況写真です。

直線道路の発掘状況写真です。

直線道路に面して長辺が道路と並行する総柱掘立柱建物(2間×3間)が存在します。総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡ではこの1棟だけです。
道路機能と関わりのある建物であり、通常の掘立柱建物ではなく床が存在する総柱掘立柱建物ですから補給機能や関所機能を具えた行政機関の建物であることが推察できます。

道路断面を見ると複線区間と単線区間があり、かつ道路深さが総柱掘立柱建物付近だけ浅くなっていることから、上図のような道路区分が可能です。

この直線道路の意義について上図のような想定ができます。
地形を無視した直線性は中央政府の計画思考を反映しています。地元集落の生活機能とは全く無関係な道路であることがわかります。
8世紀だけ存在して、蝦夷戦争が終わるとともに埋め立てられたのですから、軍事専用道路であったことがわかります。
有効幅員1mの堀込構造から一方向道路であることが判ります。
西南西-東北東の方向から下総国府(東京湾)と香取の海を結ぶ道路であることが想定できます。
鳴神山遺跡牧域を貫通するのですから、この道路と牧が有機的セットで開発されたと考えることが合理的です。
道路直近に存在する総柱掘立柱建物は道路通行者のための補給機能やチェック機能の存在を物語っています。
このような情報から直線道路は律令国家の東北進出行軍専用道路であると考えざるをえません。国家的戦略的軍事道路であったと考えます。
道路と牧がセットで開発されたのですから、鳴神山遺跡牧は騎馬用軍馬、駄用軍牛の支給牧ということになります。鳴神山遺跡牧を国家的戦略的な軍事牧であると意義づけることができます。

道路構造から直線道路の機能を想像すると上図のようになります。
複線区間は下総国府方面からはるばる行軍してきた軍勢の集合・順番整序空間、そこから東の単線区間は補給チェック施設への行進区間であり、総柱掘立柱建物が補給チェック施設であると考えます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月1日水曜日

鳴神山遺跡直線道路が行軍用一方通行道路であった可能性

鳴神山遺跡直線道路が陸奥国へ向かう将兵の行軍用一方通行道路であった可能性が濃厚となりましたので、メモしておきます。
2017.10.31記事「大塚前遺跡出土大溝が道路であることについて(野馬堀説の間違い訂正)」の関連情報になります。

1 鳴神山遺跡直線道路の構造
鳴神山遺跡直線道路の断面形状を詳しく観察すると次の3パターンに分類できます。

鳴神山遺跡直線道路 断面形状による区分
断面図は道路西方向を向いたときの断面

台地側道付複線区間は複線区間が3箇所ある区間です。正確には単線区間と複線区間が繰り返される区間です。この単線・複線が繰り返される区間の台地北側に側道が連続して付いています。
この区間は馬の前後の入れ替えを複線の繰り返しで行い、人の前後の入れ替えを台地側道で行える区間です。
単線区間はその巾の狭さから人馬の追い抜きが困難な区間です。
堀込が浅い単線区間は総柱建物の前だけですから、その建物のある宅地面に上がり、降りるための区間であると考えることができます。

参考 鳴神山遺跡 直線道路近くの総柱掘立柱建物

総柱掘立柱建物(2間×3間)はその長軸方向と道路走行が完全に一致し、かつ道路から7-8mのところにあります。また総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡ではここだけです。この建物は床がある施設であり、道路機能と密接に結びついた行政機関に関連するものと考えることが可能です。

この建物前だけで道路深さが浅くなり、宅地面に上りやすくなっています。
その前後は単線区間であり、西に複線区間があります。

2 道路利用の推定
総柱掘立柱建物の主要機能はこの道路を行軍してきた将兵に対する補給を行いチェックする機関であったことが考えられます。
複線区間は補給チェックの運営がスムーズに行えるようにするためのグループ集合施設、順番待ち施設であったと想定できます。

西から行軍してきた将兵の一団は前を進む一団の補給とチェックが済むまで複線区間で待たされたのではないかと想像します。複線区間は対面交通の退避所ではなく、一団がそろって補給とチェックを受けることができるように遅れた人馬を待ち、前後の入れ替えを行う集合順番整序場所であったと考えます。
下総国府方面から移動してくる間に各集団が入り混じったり、将校と兵の順番が狂ったりするので、この場所で一団が秩序だった人馬順番を形成したのだと考えます。そろった一団から補給チェック施設に向かい、そこで宅地面に上り補給とチェックを受け、再び道路に降りて東の香取の海のミナトに向かって行軍したと想像します。

鳴神山遺跡直線道路機能の想像

3 鳴神山遺跡直線道路の性格と廃絶
このように考えると直線道路は完全な一方通行路です。西から東へ行軍するためだけの軍事専用一方通行道路です。

律令国家が将兵を東へ向かって行軍させることが無くなれば、この道路は無用の長物になります。
実際に、9世紀始め頃(蝦夷戦争が終了した頃)この道路は埋め立てられました。蝦夷戦争終了後鳴神山遺跡は大発展するのですが、その経済発展にこの道路は全く関わっていません。

大塚前遺跡の大溝道路も蝦夷戦争終結まで機能した軍事専用一方通行道路であったと考えられます。

なお、下総国府付近の東海道本路になったと考えられる道路は複線区間になっていて両方向通行道路であったことが判っています。

参考 新山遺跡出土道路
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用