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2017年11月24日金曜日

「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)

9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説

鳴神山遺跡牧の学習を進めるなかで予期せぬかたちで「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
鳴神山遺跡牧だけをいくら詳しく調べても、そこに大結馬牧に関する思考が入り込む余地はありません。
しかし、鳴神山遺跡牧と定説の船橋大結馬牧との関係考察を深めるなかで大結馬牧船橋説の根拠が薄弱であることに気が付きました。
また延喜式の馬牧記載順番も船橋説を否定します。
このような情報と鳴神山遺跡牧特性理解の深まりのなかで、ある日突然「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
自分の感情からいうと、「向こうからやってきた仮説」です。

長い間大結馬牧は船橋にあり、鳴神山遺跡牧は船橋大結馬牧の出張所みたいに考えていました。

鳴神山遺跡牧が軍事道路とセットで開発された国家戦略的な軍事牧ですから8世紀における下総国の馬牧のなかで最重要牧であると考えて間違いありません。この時代の情報を後にまとめた延喜式諸国牧に記載されて当然の牧です。そして大結馬牧船橋説に根拠がないのですから鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えることが合理的な思考です。
鳴神山遺跡直線道路は下総国府(東京湾)と香取の海を大きく結ぶと想定されますから、その道路を大結(オオユイ)と呼んでいたとすれば、鳴神山遺跡牧の名称が大結馬牧となることは高津馬牧の例から当然のこととなります。

延喜式諸国牧の記載順番です。

下総国の記載順番をよく見ると大結馬牧は高津馬牧と木嶋馬牧の間にあります。この記載順番から大結馬牧は船橋ではなく、高津馬牧の北にあるはずです。
延喜式記載順番により東海道駅路網の検討が進んだように、延喜式記載順番は大結馬牧の空間位置を考える上で無視することのできない重要検討ファクターです。

大結馬牧のこれまでの定説(船橋説)

大結馬牧船橋説の概要です。

大結馬牧船橋説の難点です。

大結馬牧水海道市付近説の難点です。

大結馬牧船橋説、水海道市付近説の感想です。
共に中世歴史説明補強の観点から大結馬牧を利用している説であり、牧そのものの情報からおのずと生まれてきた説ではありません。

鳴神山遺跡牧の特性と大結馬牧船橋説の根拠薄弱性、延喜式記載順番から鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月22日水曜日

鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)

8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡

古代牧は6つのゾーンから構成されるという研究があります。

この6つのゾーンを鳴神山遺跡に投影してみると良く適合して、鳴神山遺跡牧特性の理解を深めることができます。
牧場地区は「大」集団居住地域の北側で小字「大野」の付近になります。
繋飼地区は総柱掘立柱建物付近で厩舎の存在を想定できます。
管理地区は氏族名が書いてある多文字土器や羽口破片が出土した付近であると考えることができます。
居住地区は「大」集団居住地域です。
牧田地区は養蚕痕跡の濃い地域を想定できます。
祭祀地区は馬骨出土祭祀跡井戸付近が対応します。

鳴神山遺跡牧は下総における典型的古代牧遺跡であり、軍事道路機能と一体的に整備された国家戦略軍事牧遺跡であると考えます。

つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月21日火曜日

鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)

7 鳴神山遺跡直線道路

鳴神山遺跡の中央部を西南西から東北東にかけて直線道路が通っています。
直線道路は谷津地形を完全に無視して台地から谷底の降りていることが確認されていて、8世紀初頭頃律令国家計画道路の特徴を具えています。
この図で直線道路以外の曲線遺構は中世及び近世の馬堀跡です。

発掘調査報告書における直線道路の平面図及び断面図の例です。

直線道路の道路幅は上端で2.0m~2.4m、下端で0.9m~1.1m、深さ0.5m~0.7mです。
巾約1mの道路であり、馬に騎乗した人が馬にいちいち歩く方向を合図する必要のない機能を具えていたと考えます。構造からみて騎馬のすれ違いができない一方通行道路であると考えます。
道路は9世紀初めごろには埋め立てられています。

直線道路の発掘状況写真です。

直線道路の発掘状況写真です。

直線道路に面して長辺が道路と並行する総柱掘立柱建物(2間×3間)が存在します。総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡ではこの1棟だけです。
道路機能と関わりのある建物であり、通常の掘立柱建物ではなく床が存在する総柱掘立柱建物ですから補給機能や関所機能を具えた行政機関の建物であることが推察できます。

道路断面を見ると複線区間と単線区間があり、かつ道路深さが総柱掘立柱建物付近だけ浅くなっていることから、上図のような道路区分が可能です。

この直線道路の意義について上図のような想定ができます。
地形を無視した直線性は中央政府の計画思考を反映しています。地元集落の生活機能とは全く無関係な道路であることがわかります。
8世紀だけ存在して、蝦夷戦争が終わるとともに埋め立てられたのですから、軍事専用道路であったことがわかります。
有効幅員1mの堀込構造から一方向道路であることが判ります。
西南西-東北東の方向から下総国府(東京湾)と香取の海を結ぶ道路であることが想定できます。
鳴神山遺跡牧域を貫通するのですから、この道路と牧が有機的セットで開発されたと考えることが合理的です。
道路直近に存在する総柱掘立柱建物は道路通行者のための補給機能やチェック機能の存在を物語っています。
このような情報から直線道路は律令国家の東北進出行軍専用道路であると考えざるをえません。国家的戦略的軍事道路であったと考えます。
道路と牧がセットで開発されたのですから、鳴神山遺跡牧は騎馬用軍馬、駄用軍牛の支給牧ということになります。鳴神山遺跡牧を国家的戦略的な軍事牧であると意義づけることができます。

道路構造から直線道路の機能を想像すると上図のようになります。
複線区間は下総国府方面からはるばる行軍してきた軍勢の集合・順番整序空間、そこから東の単線区間は補給チェック施設への行進区間であり、総柱掘立柱建物が補給チェック施設であると考えます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月16日木曜日

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)

3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の位置を示しました。その間の戸神川谷津に西根遺跡があります。関係すると考える南西ヶ作遺跡と大塚前遺跡の位置も示しました。

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の竪穴住居軒数、掘立柱建物棟数を近隣遺跡と比較して示しました。
この表をグラフにしてより直観的に観察してみます。

竪穴住居軒数のグラフです。
掘立柱建物は人が居住していた建物です。
鳴神山遺跡の竪穴住居軒数は千葉県開発集落でトップクラスです。鳴神山遺跡は船尾白幡遺跡の5倍ほどになります。
発掘区域の大小で竪穴住居軒数も変わるはずですから、古代集落規模の本当の比較にはなりませんが、参考になります。
なお数値は発掘した竪穴住居数であり、建て替え、廃絶、新築が繰り返された結果全部を含むので、ある時間断面をとると各遺跡ともより少ない竪穴住居が存在していたと考えられます。

掘立柱建物棟数のグラフです。
掘立柱建物の用途は養蚕小屋が多かったという印象を墨書土器などから強く受けています。倉庫や行政施設、寺院などの用途の建物も掘立柱建物です。
鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の棟数が近い数値で、鳴神山遺跡は竪穴住居軒数に比して掘立柱建物棟数が異常に少ない印象をうけます。この異常さを次のグラフで確認しました。

竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数のグラフです。
鳴神山遺跡の数値が近隣遺跡のなかで最低クラスです。鳴神山遺跡は船尾白幡遺跡の1/5です。後のデータで示すように鳴神山遺跡は牧集落であるので、養蚕小屋や倉庫をあまり必要としない生活を送っていたので、このような極端な掘立柱建物の少なさになったのです。逆に掘立柱建物棟数の少なさが鳴神山遺跡が牧集落であることを物語ります。

このグラフは鳴神山遺跡竪穴住居の年代別推移グラフです。
年代を推定できる土器が出土した約半数の竪穴住居のグラフです。
因みに近隣遺跡のどこでも竪穴住居の約半数は廃絶後すぐ埋め立てられ遺物はほとんど無く、残り半数の竪穴住居から遺物が出土し、その中に多量の遺物が含まれているものがあるという似た状況があります。
8世紀第1四半期に鳴神山遺跡に竪穴住居が新たな開発集落として作られたと考えられます。
発掘調査報告書では7世紀2軒の竪穴住居と8世紀の竪穴住居との間に何らかの関連は見られないとしています。
その後竪穴住居数は増え、集落が発展します。下総国総合開発の時代に該当します。
蝦夷戦争時代には若干竪穴住居がへりますが、蝦夷戦争における「根こそぎ動員」の影響のようだとイメージしています。
蝦夷戦争が終わると竪穴住居数は急増して9世紀第2四半期にピークを迎えます。生産施設と労働力が存在し、かつ強制的供出がなくなったのですから拡大生産活動が可能になり、経済的に大発展したのだと思います。
その後雲行きが怪しくなり、9世紀第4四半期には急減し、10世紀には集落として消滅に近い状況になります。

このグラフは船尾白幡遺跡竪穴住居の年代別推移グラフです。
左の縦棒2本は50年間を右4本は25年間をイメージできますから、その平仄違いを考慮すると竪穴住居の推移パターンは鳴神山遺跡と似たものになります。
船尾白幡遺跡は9世紀第3四半期にピークを迎え、その後急減します。
8世紀初頭に集落がスタートして8世紀一杯着実に竪穴住居軒数を増やし、9世紀になると急増して第2、3四半期頃ピークを迎え、第4四半期に急減、10世紀初頭にはほとんど衰滅というパターンは下総台地古代開発集落に共通するようです。

年代別竪穴住居の分布をみるとこのグラフのようになります。
GISを使うと竪穴住居を年代別に分布図として捉えることができますから、全ての出土物情報もこのレベルで把握分析できます。
なお、8世紀の間だけ遺跡を2分するような線形で直線道路が存在し、9世紀になると直線道路は埋め立てられてしまいます。
掘立柱建物は出土物がほとんどないので年代が不明であり、図では一律にその分布を表示しています。

参考に竪穴住居からの遺物出土状況について私が理解したことを話します。
竪穴住居は深いもので1m程の穴になっていますが、その中に同じ墨書文字の土器破片が多数存在していたり、刀子・鉄鏃・紡錘車・鎌等が出土します。また火をもやした跡(焼土)も出土します。この状況から同じ墨書文字を共有する集団がこの穴の前で墨書土器を壊してその破片を穴に投げ込んだ祭祀を行ったと考えます。その祭祀では武器や道具も投げ込んだと考えます。
縄文時代西根遺跡ではダイナミックな土器破壊を伴う祭祀が浮き彫りになりましたが、そうした「土器破壊を伴う祭祀」という縄文時代風習が奈良時代にも続いていたことは興味深いことです。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月11日土曜日

下総台地の古代開発集落一斉衰滅の原因

下総台地の古代開発集落は9世紀第4四半期から10世紀初頭にかけて急速に一斉衰滅します。その原因がなにであるか以前から興味があります。
一方低地の水田耕作をする集落はこの時期に逆に発展しています。

その原因のイメージについてこの2~3年サッパリ判らなかったのですが、最近おぼろげながらたとえ話風に判ってきたような気になりましたので、その感想をメモしておきます。

1 9世紀末から10世紀にかけての下総国の状況
● 律令国家の統治が弱まる(徴税・治安など)
● 台地上開発集落はほとんど全て衰滅
● 低地集落(水田集落)は逆に発展

2 私のたとえ思考
●ワンマン会社S社で経営中枢部が失踪し、権力空白が生まれる。(下総国の状況)
●S社A部門は内部が混乱し仕事継続ができなくて、組織が崩壊。(台地上開発集落)
●S社B部門は内部の統制が維持され仕事継続して、組織として発展。(低地水田集落)
●同じS社を構成していたA部門とB部門の差はそれぞれの組織特性に基づく対応力の差

3 台地上開発集落崩壊のイメージ
●開発集落の住民はリーダー層を除くと、全て新住民であり、浮浪人や俘囚などが主体であった。
●開発集落の働き手は強制力により隷属的、半奴隷的な労働に従事していた。
●国家権力の空白が生まれた時、リーダー(地元氏族)による開発集落統治が不可能となった。

4 群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党が台地開発集落崩壊の実体
これまで群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党(*)という事象は台地開発集落を取り巻く社会環境(社会情勢)としてイメージしてきました。
しかし、そのイメージは誤りであり、群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党が台地開発集落崩壊の実体そのものであると判りました。

次の武器は鳴神山遺跡の牧集団(墨書文字「大」「大加」集団)が所持していたものです。

鳴神山遺跡出土鉄鏃、刀子

鳴神山遺跡出土刀子

これらの武器を所持していた牧集団は強い統制下では生産活動に従事して集落発展に寄与したのですが、統制が弱まると地道な生産活動で社会になじむ方向ではなく、略奪や不正活動など社会に従わない方向、社会を破壊する方向に向かったのだと考えます。

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* 僦馬(シュウバ)の党 ウィキペディアから引用
僦馬の党(しゅうばのとう)は、平安期に坂東で見られた自ら武装して租税等の運輸を業とする「僦馬」による集団で、馬や荷の強奪を行った群盗。
律令制下において、地方から畿内への調庸の運搬を担ったのは郡司・富豪層であった。主に舟運に頼った西日本及び日本海沿岸に対し、馬牧に適した地が多い東国では馬による運送が発達し、これらの荷の運搬と安全を請け負う僦馬と呼ばれる集団が現れた。特に東海道足柄峠や東山道碓氷峠などの交通の難所において活躍したと見られている。
一方で8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなると地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が常態化するようになっていた。僦馬は、これら群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。この背景には当時の東国における製鉄技術の発展を指摘する見解がある[1]。また、現在の東北地方から関東地方などに移住させられ、9世紀に度々反乱を起こした俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)と呼ばれる人々も、移住先にて商業や輸送に従事しており、僦馬の先駆的存在であったと指摘する見解もある[2]。彼らは徒党を組んで村々を襲い、東海道の馬を奪うと東山道で、東山道の馬を奪うと東海道で処分した。特に寛平~延喜年間には、899年(昌泰2年)に足柄峠・碓氷峠に関が設置されたことが示すとおり僦馬の横行が顕著であった。
これらの僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望、藤原利仁、藤原秀郷らの下級貴族らであった。彼等は国司・押領使として勲功を挙げ、負名として土着し治安維持にあたった。
近年、武士の発生自体を、東国での僦馬の党、西国での海賊の横行とその鎮圧過程における在地土豪の武装集団の争いに求め、承平天慶の乱についても、これらを鎮圧した軍事貴族の内部分裂によるとする見解が出されている[3]。
1^ 網野、1982
2^ 宮原、2014
3^ 下向井、2001
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2017年11月10日金曜日

大結馬牧船橋説の根拠薄弱性

鳴神山遺跡のGIS学習を深めているなかで、鳴神山遺跡が典型古代牧でありかつ国家的戦略的重要性のある牧・道路セット遺跡であることが浮かび上がりました。
同時に大結馬牧の根拠薄弱性に気が付き、その瞬間に大結馬牧印西説が生まれました。

仮説 大結道路と大結馬牧

この仮説が生まれる前に行っていた学習はあくまでも鳴神山遺跡の学習であり、大結馬牧に興味の焦点はありませんでした。従って次の「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)の情報に基づき考察をしていました。

「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)における大結馬牧の記述

学習過程では、この大結馬牧船橋説に従って、それと鳴神山遺跡との関係を次のように仮説しました。

参考 大結馬牧船橋説を信じていたころの仮説

しかし鳴神山遺跡と大結馬牧の関係を考えたので、大結馬牧について考えざるを得なくなり、その根拠薄弱性の認識に至ってしまったということです。
学習を深めれば深めるほど大結馬牧船橋説の根拠薄弱性が感じられるようになり、最後は船橋説(水海道市付近説も)を到底首肯できることはできないと結論付けるにまで至りました。

この記事では大結馬牧船橋説、水海道市付近説の根拠薄弱性についてメモします。

1 大結馬牧船橋説
1-1 概要
●大結馬牧を意富比(オオヒ)神社と関連づける。音「オオ」が同じ。
●意富比(オオヒ)神社付近に中世の荘園夏見御厨が建設され、その前身が牧であった可能性が濃い。
●延喜式に下総国から伊勢神宮に馬を献上する記載があり、それが大結馬牧からと類推すると、夏見御厨が伊勢神宮内宮領になった説明ができる。(梅田義彦)
●船橋付近から馬骨が出土する。

1-2 大結馬牧船橋説の根拠薄弱性
●大結をオオヒと読む根拠はなく、大結(オオユイ)と意富比(オオヒ)神社の関連は語呂合わせに過ぎない。
●根拠となる馬骨は夏見付近ではなく離れた本郷町方面であり、それ以外の牧を示す情報がないことから、船橋付近が大結馬牧であるとの特定はできない。
●延喜式記載順番に合わない。

2 大結馬牧水海道市付近説
2-1 概要
●大結馬牧を地名大生郷(オオウゴウ)と関連付ける。音「オオ」が同じ。
●牧を示す地名がある。古間木など。

2-2 大結馬牧水海道市付近説の根拠薄弱性
●大結を地名大生郷(オオウゴウ)と関連づけるのは語呂合わせに過ぎない。
●牧の存在を示す地名で大結馬牧の特定はできない。

3 感想
船橋説、水海道市付近説に関して、次のような感想を持っています。
大結馬牧船橋説は船橋に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(夏見御厨)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
大結馬牧水海道市付近説は水海道市付近に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(平将門の乱など)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
ともに奈良時代の牧特性そのものに関する情報・推定からおのずと生まれた説ではないように感じます。

奈良時代牧そのものに興味の焦点を当て、その専門的情報に基づいて大結馬牧について検討した専門家は過去現在誰もいないので、中世歴史に興味のある人々が大結馬牧を自分好みに「配置」して中世歴史を説明補強した思考が定式化してしまったのだと考えます。

下総国古代牧そのものを学術的見地から検討した専門家が過去現在存在していないことは、延喜式諸国牧記載順番についての言及がどこにもないことからうかがうことができます。
下総国古代道路については学術的検討が多く、駅家の延喜式記載順番が詳しく検討され、その検討を一つの重要要件として駅路の分析が行われています。

牧に関する地名、馬骨の出土は極端に言えば下総には無数にあります。それらは恐らくすべて牧実在の跡を示します。奈良時代の下総台地は牧だらけであったと(つたない私の遺跡学習体験でも)考えることができます。
古代牧を示す情報を持って、それだけで大結馬牧を特定したことにはなりません。
大結馬牧の特定のためにはそれなりの根拠が必要であり、大結馬牧印西説は特定根拠要件を満たす可能性が極めて濃厚であると考えます。
 

2017年11月9日木曜日

大結馬牧(仮説)のゾーンイメージ

2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」で 鳴神山遺跡こそが大結馬牧であるという仮説を立てました。

この仮説が生まれた瞬間の思考はつぎのようなものです。

「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれた瞬間

鳴神山遺跡の牧が国家的重要性があると気が付いたことと、大結馬牧船橋説の根拠薄弱に気が付いたことが重なったためです。
大結馬牧船橋説がしっかりしていればこの仮説がうまれる余地はありません。
大結馬牧船橋説の根拠虚弱性検討は次の記事でおこなうことにして、この記事では鳴神山遺跡が典型古代牧の様相を呈していて、国家的重要性がある様子をメモします。

1 鳴神山遺跡が典型古代牧の様相である様子
古代牧関連遺構は次の6つの施設から構成されるという研究があります。
1 牧場地区(牧本体。草原であり遺構は少ない。土塁・堀・柵列などが牧認定の根拠となる。)
2 繋飼地区(厩舎。駅路・居館・官衙・宮都・寺社などに付設される。)
3 管理地区(官衙的な事務空間(検印・礎石建物・文房具、馬具工房)、検印のための土塁・柵列など)
4 居住地区(牛馬飼育集団の居住集落。牛馬骨や馬具の出土、皮革加工などの痕跡を伴う。)
5 牧田地区(牛馬飼育集団が自営するための田畑。)
6 墳墓・祭祀地区(埋葬牛馬、牛馬殉葬、殺牛馬儀礼。)
(桃崎祐輔(2012):牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓-;日韓集落の研究 弥生・古墳時代及び無文土器~三国時代(最終報告書)、日韓集落研究会 による)

この6つの施設区分の考えを鳴神山遺跡に適用すると、次のように具体例が浮かび上がり、その場所を地図に投影することができます。

●牧関連6施設の鳴神山遺跡投影
1 牧場地区(牧集団を示す墨書文字「大」分布の北側)
2 繋飼地区(直線道路行軍将兵に軍馬を支給した可能性のある総柱掘立柱建物の付近)
3 管理地区(リーダー氏族名のある墨書土器や羽口が出土付近)
4 居住地区(牧集団を示す墨書文字「大」分布域)
5 牧田地区(養蚕痕跡の濃い地域)
6 祭祀地区(馬骨出土祭祀跡井戸付近)

鳴神山遺跡牧遺構ゾーン区分推定

2 鳴神山遺跡牧が国家的戦略的重要性を帯びている様子
牧と東北進出用行軍道路がセットで建設されていることから、このセットには律令国家東北進出の国家的戦略性が備わっていたと考えます。
2017.11.01記事「鳴神山遺跡直線道路が行軍用一方通行道路であった可能性」参照

2017年11月1日水曜日

鳴神山遺跡直線道路が行軍用一方通行道路であった可能性

鳴神山遺跡直線道路が陸奥国へ向かう将兵の行軍用一方通行道路であった可能性が濃厚となりましたので、メモしておきます。
2017.10.31記事「大塚前遺跡出土大溝が道路であることについて(野馬堀説の間違い訂正)」の関連情報になります。

1 鳴神山遺跡直線道路の構造
鳴神山遺跡直線道路の断面形状を詳しく観察すると次の3パターンに分類できます。

鳴神山遺跡直線道路 断面形状による区分
断面図は道路西方向を向いたときの断面

台地側道付複線区間は複線区間が3箇所ある区間です。正確には単線区間と複線区間が繰り返される区間です。この単線・複線が繰り返される区間の台地北側に側道が連続して付いています。
この区間は馬の前後の入れ替えを複線の繰り返しで行い、人の前後の入れ替えを台地側道で行える区間です。
単線区間はその巾の狭さから人馬の追い抜きが困難な区間です。
堀込が浅い単線区間は総柱建物の前だけですから、その建物のある宅地面に上がり、降りるための区間であると考えることができます。

参考 鳴神山遺跡 直線道路近くの総柱掘立柱建物

総柱掘立柱建物(2間×3間)はその長軸方向と道路走行が完全に一致し、かつ道路から7-8mのところにあります。また総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡ではここだけです。この建物は床がある施設であり、道路機能と密接に結びついた行政機関に関連するものと考えることが可能です。

この建物前だけで道路深さが浅くなり、宅地面に上りやすくなっています。
その前後は単線区間であり、西に複線区間があります。

2 道路利用の推定
総柱掘立柱建物の主要機能はこの道路を行軍してきた将兵に対する補給を行いチェックする機関であったことが考えられます。
複線区間は補給チェックの運営がスムーズに行えるようにするためのグループ集合施設、順番待ち施設であったと想定できます。

西から行軍してきた将兵の一団は前を進む一団の補給とチェックが済むまで複線区間で待たされたのではないかと想像します。複線区間は対面交通の退避所ではなく、一団がそろって補給とチェックを受けることができるように遅れた人馬を待ち、前後の入れ替えを行う集合順番整序場所であったと考えます。
下総国府方面から移動してくる間に各集団が入り混じったり、将校と兵の順番が狂ったりするので、この場所で一団が秩序だった人馬順番を形成したのだと考えます。そろった一団から補給チェック施設に向かい、そこで宅地面に上り補給とチェックを受け、再び道路に降りて東の香取の海のミナトに向かって行軍したと想像します。

鳴神山遺跡直線道路機能の想像

3 鳴神山遺跡直線道路の性格と廃絶
このように考えると直線道路は完全な一方通行路です。西から東へ行軍するためだけの軍事専用一方通行道路です。

律令国家が将兵を東へ向かって行軍させることが無くなれば、この道路は無用の長物になります。
実際に、9世紀始め頃(蝦夷戦争が終了した頃)この道路は埋め立てられました。蝦夷戦争終了後鳴神山遺跡は大発展するのですが、その経済発展にこの道路は全く関わっていません。

大塚前遺跡の大溝道路も蝦夷戦争終結まで機能した軍事専用一方通行道路であったと考えられます。

なお、下総国府付近の東海道本路になったと考えられる道路は複線区間になっていて両方向通行道路であったことが判っています。

参考 新山遺跡出土道路
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用


2017年10月22日日曜日

大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説

1 大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説
鳴神山遺跡が大結馬牧であると薄々直観してきましたが、それがどのような仮説になるのか不明でした。
しかし、下総国府の建設、東海道の建設(駅路、駅家建設)、東海道を軸とした域内幹線交通路の建設、官牧の建設が同一プロジェクトとして構想、計画、実施されたことに気が付く(理解する)と、鳴神山遺跡が大結馬牧であるという仮説が脳裏に焼き付き他の仮説をことごとく駆逐しました。

大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説

大結(オオユイ)とは下総国府(東京湾岸)と香取の海のミナトを結ぶ陸上道路の名称であると仮説します。
大結(オオユイ)は読んで字のごとく二つの海を結ぶ大連絡を表現している具体地域開発用語(その当時の造語)として捉えました。
大結道路は東海道を補完する補助幹線道路(域内幹線道路)の機能を有する道路であると考えます。
この道路建設と連動する新規官牧開発が鳴神山遺跡のある印西台地であり、その名称が道路名称を使って大結馬牧となったと考えました。
鳴神山遺跡で出土した直線道路が大結道路そのものであると考えます。
その道路の下総国府付近延長部が下総国府関連遺跡や新山遺跡で出土した道路であると考えます。

参考 鳴神山遺跡出土道路
発掘調査報告書から引用


参考 新山遺跡出土道路
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用

このような関連インフラ名称が官牧名称になった例として高津馬牧があります。
東海道水運支路(仮説)において船越の平戸川側に高津(印旛浦の最高位にあるミナト)が建設され、その高津のそばに新規建設された官牧の名称が高津馬牧となりました。
高津も具体地域開発用語(その当時の造語)です。
なお、船越には地形を無視した直線道路整備が後世の馬防土手遺構として伝わっていて、道路建設作風が7世紀末から8世紀初頭頃のものであることを表現しています。
仮説東海道水運支路、船越については2014.11.21記事「〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討について」などブログ記事が多数あります。
2015.01.10房総古代道研究会発表資料も公開しています。
忘れられた古代交通施設 -千葉市花見川区に所在した水運路を結ぶ古代道路施設 船越-

2 これまでの大結馬牧比定地仮説とその難点
2-1 船橋付近説 大結の読み「オオヒ」
邨岡良弼「日本地理志料」、吉田東伍「大日本地名辞書」では大結をオオヒと読み、意富比(オオヒ)神社と関連付けて、大結馬牧を船橋付近としています。
大結をオオヒと読む根拠がありません。共通する音「オオ」を使って強引に二つの言葉を結びつけた「語呂合わせ」が思考の根底にあります。
後世にその場所が夏見御厨という開発地であったので、その前身が牧であると考えています。
しかし「語呂合わせ」が無意味であるとすれば、後世の開発地の存在だけからその場所を大結馬牧であると特定することは困難です。

2-2 船橋付近説 大結の読み「オオユイ」
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では大結をオオユイと読みますが、意富比(オオヒ)神社と関連付けて船橋付近としています。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)の大結馬牧説明

オオユイ馬牧とオオヒ神社の音の違いの説明をしていないにも関わらずその間に関連があることを前提にしています。
後世にその場所が夏見御厨という開発地であったので、その前身が牧であると考えています。また近隣の遺跡から馬の出土があったことを念頭においています。

強引な語呂合わせをしていないだけであって、オオユイとオオヒが関連することの説得的説明が出来ない点で2-1と同じです。後世に開発地になり、古代遺跡からは馬骨が出土したからという理由だけでそこが大結馬牧であると特定することは困難です。

2-3 茨城県水海道市から石下町付近説
大結をオオヒと読み、地名大生郷(オオウゴウ)、古間木(古牧)、大間木(大牧)と関連付けて大結馬牧を茨城県水海道市大生郷町から石下町古間木一帯とする説があります。
大結をオオヒと読む根拠がありません。また仮にオオヒと読んだとして、なぜオオヒなのかその説明はありません。
オオという音がオオヒとオオウゴウで一致するという語呂合わせになっています。
語呂合わせを除くと残る情報は牧存在を示す地名です。牧関連地名は下総の至るところにありますから、これをもって大結馬牧の特定はできません。

3 余談 新仮説誕生の舞台裏
大結馬牧、意富比神社、鳴神山遺跡出土メイン墨書文字「大」の3者に関連があるに違いないと4日間ほど寝ても覚めても検討しました。図書館で古い情報を調べたりもしました。
何度か「新仮説」が生まれ、消えました。
・オオヒ神社はオオユイ神社の転であり、オオユイ馬牧と関連付けることができる?
・オオヒ神社は多氏の神社で墨書文字「大」は多氏と関連する?

アーダ、コーダと考えて、到達した結論は大結馬牧、意富比神社、鳴神山遺跡出土メイン墨書文字「大」の3者に関連が全く無いということです。
3者の関連を断ち切ると3者の意味が脳裏に鮮明に浮かび上がりました。
大結馬牧の意味はこの記事で書いた通りです。
墨書文字「大」の意味は大神ということで、「大加」「天(則天文字)」(船尾白幡遺跡メイン文字)などの意味も関連して解釈を深めることができました。別記事で書きます。
意富比神社の名称意味は「日本の神々 神社と聖地 11関東」(谷川健一編、白水社)における意富比神社と大井神社(常陸)の説明が参考になりました。別記事で紹介します。

2017年10月18日水曜日

鳴神山遺跡 牧と武士集団、輸送集団との強い関係

白幡前遺跡では牧と武士集団、輸送集団との関係が密接であることが判りました。
2017.10.16記事「白幡前遺跡における牧と武士集団、輸送集団の関係」参照
鳴神山遺跡でも同じことが言えますので記述します。

1 墨書文字「大」集団、「大加」集団について
墨書文字「大」(オオ)集団と「大加」(オオカ)集団は集落の北側に竪穴住居をかまえ、牧の現業に関わる集団であると考えています。
「大」は下総各地に同族を持つ氏族的集団であると考えています。「大加」は「大」に加勢するという意味であり、新たに「大」一族に従った寄せ集め外人部隊であると想像しています。
なお、例えば墨書「依」(キヌ…養蚕)集団は集落の南側に竪穴住居をかまえ、牧現業集団の生活を支えるサポート集団であり、養蚕、漆、食料生産などに関わっていたと考えています。たとえば養蚕に使う掘立柱建物や製糸に使う紡錘車の出土は集落南側に集中しています。

墨書文字「大」の分布

墨書文字「大加」の分布

参考 墨書文字「依」の分布

2 墨書文字「大」「大加」出土と武器出土の関係
集落が最盛期を迎えた9世紀第2四半期でみると「大」出土と鉄鏃出土が強く相関するとともに、「大加」と「弓」が同じ土器に書かれます。「弓」は武装勢力であることを直接示します。
なお「大加」出土竪穴住居から刀子は出土しますが、鉄鏃の出土はなく、外人部隊である「大加」集団(武装集団)が外敵と戦うための武器(鉄鏃)は日常的には所持していないことがわかり、親集団の「大」と雇われ集団の「大加」の関係が見えて興味が増します。

9世紀第2四半期の「大」「大加」

9世紀第2四半期の「大」「大加」 説明

鉄鏃の集中出土と「大」出土が強く相関し、「大」集団の武装化が進んだ様子が次の図でわかります。

9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土

9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土 説明

牧の現業を担う集団の武装化がすすみ、武士集団となっていく様子がよくわかるデータとなっています。

牧集団が武士集団になっていく理由の最大のものは、牧集団が単純に馬生産に特化してたわけではなく、9世紀になると生産した馬を使って運送業を行い、街道での盗賊から身を守ることが必要であったからであると考えます。
なお、墨書文字「久弥良」(クビラ…金毘羅)集団は関西から鳴神山遺跡に来た輸送専門集団であると想像しています。
武装化は牧や集落を盗賊から守るための自衛でもあったと考えます。

しかし、9世紀末頃の制度的混乱で無政府状態が生まれ、俘囚の反乱や群盗の蜂起が相次ぎ、牧が盗賊に襲われる機会が増し、逆に武装した牧集団が盗賊にもなり、下総の牧は一気に凋落したと考えます。
武装した牧集団がその後の専業武士集団誕生の母体の一つになったと考えます。