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2020年10月16日金曜日

円盤形土器片の使い方

 縄文土器学習 484

2020.10.15記事「千葉市有吉北貝塚の遺物と遺構」で、内野第1遺跡では製糸(繊維製品)が交易に関する主な生業になっていることがわかりましたが、その検討の中で円盤状土器片の役割について合理的空想(?)ができるようになりましたので、メモしておきます。

1 円盤状土器片の使い方(空想)


円盤状土器片を使って大麻繊維から糸素材を作る様子(空想)

大麻線維を微細なレベルで細長く裂いたものの両端を左手でつまみ、輪の下に円盤状土器片を乗せ、右手でクルクルまわします。それにより繊維に撚りが生まれます。円盤状土器片を外せば糸素材が出来上がります。


円盤状土器片

千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書から引用

3㎝~4㎝程度のものが多く、手で回しやすい大きさです。

2 糸素材を使った糸の作り方(空想)

糸素材を2本あるいは3本紡錘車で撚って糸そのものを作ったと想像します。

最初に長さの異なる2本あるいは3本の糸素材を紡錘車で撚り、1本の糸素材が途切れた時、新たな糸素材を別の1本あるいは2本の糸素材に水(あるいはより粘性のある液体)をつけながら揃えて一体化して撚りを続けます。糸素材の水分・表面状況によっては水を使わなくても新たな糸素材を撚りに加えていくことができる可能性があります。このようにして、次々に糸素材を加えていけば、紡錘車で長い糸(糸素材2本あるいは3本の撚り糸)を作ることができます。


紡錘車(紡輪)

千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書から引用

軸(紡茎)は木製のため出土していません。

紡錘車に開いている小孔はそこにヒモを通して紡錘車と軸を硬く結び、軸の回転と紡錘車の回転を一体化させる機能を担っています。宮原俊一「重たい紡錘車 -縄文晩期の有孔円板形土製品について-」(2020、「日々の考古学3」、六一書房)

3 参考 紡錘車の軸受け

紡錘車の軸(紡茎)下端が安定するように軸受けが使われ、それが次の出土物「有孔円板形土器片」であると想像します。


有孔円盤形土器片

千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書から引用

4 感想

この記事は全て頭のなかで空想した事柄です。これで済んでしまっては学習になりませんから、大麻繊維と土器片と紡錘車(のようなレプリカ)を入手して、実験的にこの空想が成り立つか検証することにします。もし実験的にこの空想が成り立てば、それが証拠となる証明にはなりませんが、円盤形土器片意義学習は確実に前進します。

2016年8月30日火曜日

上谷遺跡 紡錘車、鉄鎌の出土状況

1 紡錘車、鉄鎌の意味

紡錘車は繭から絹糸を製糸するための道具、鉄鎌は蚕を飼育するための桑の枝切りに主に利用されていたと考えます。

紡錘車の例 (A102)
左は石製、中央と右は鉄製
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

鉄鎌の例 (A094)
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

2 紡錘車の出土状況

紡錘車の出土状況は次の通りです。

上谷遺跡 紡錘車出土状況

掘立柱建物密集地近くで最も密に、次いで竪穴住居密集地近くで密に分布しているように観察できます。

掘立柱建物が蚕小屋であり、その近くの竪穴住居でお湯を沸かして絹糸紡ぎした場合と、竪穴住居密集地まで繭を持ち帰って、そこでお湯を沸かして絹糸紡ぎをした場合の2通りの例が想定できます。

3 鉄鎌の出土状況

鉄鎌の出土状況は次の通りです。

上谷遺跡 鉄鎌出土状況

鉄鎌の出土状況は紡錘車の出土状況と似ていて、紡錘車と鉄鎌が同じ生糸生産という生業に関わっていたことを物語っています。

4 主要墨書文字別統計

紡錘車と鉄鎌の出土を主要墨書文字別に統計を取ると次のようになります。

上谷遺跡 主要墨書文字別 紡錘車、鉄鎌出土数

養蚕絹糸生産に全ての墨書文字集団が参加していたことがわかります。

恐らく養蚕絹糸生産が最も高付加価値の産業であり、上谷遺跡集落のメイン生業であったと考えます。

生糸からさらに機織りが行われていたかどうかは今後さらに検討します。

なお、得集団が他の3集団より紡錘車、鉄鎌出土数が多く、養蚕絹糸生産では得集団が全体をリードしてのかもしれません。

5 養蚕がメイン生業であった証拠

次の多文字墨書土器が出土していて、その祈願内容から上谷遺跡のメイン生業が養蚕と牧畜であったことが判明します。


A036竪穴住居出土多文字土器

A036竪穴住居の位置

発掘調査報告書による釈文

「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」

私の解釈

承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。

野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。

(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)

(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。

発掘調査報告書では墨書土器解釈の特別章を設けているにも関わらず、「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の解釈は行われていません。

おそらく子の解釈が出来ないので、この多文字墨書土器の解釈を見送ったのだと思います。

(「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会) 第6節墨書土器に見る信仰と習俗 参照)

参考 2016.03.29記事「墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味」参照


このような情報から、上谷遺跡出土の紡錘車と鉄鎌は少なくともその主要な用途は養蚕絹糸生産であったと考えます。

なお、蚕を示す墨書文字「子」「小」の分布が主に下総国に分布していることから、麻布(望陀布)の有名産地である上総国と下総国は、布生産という観点からみると、麻と絹という棲み分けが行われていた可能性を想定しています。

参考

墨書文字「子」「小」合計出土数と下総国領域


上谷遺跡で麻が生産され、麻糸が紡がれ、麻布が生産されていたことを示す材料は見つけていませんが、反対に否定する材料も現在のところありません。

近隣遺跡で乾漆のために麻が生産されていたことがわかっています。

2016.04.09記事「船尾白幡遺跡で乾漆を示す墨書文字(息)を認識」参照