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2016年10月24日月曜日

上谷遺跡 鍛冶遺構を疑う竪穴住居

上谷遺跡の鍛冶遺物、鍛冶遺構について学習を進めています。

これまで鞴羽口あるいは鉄滓が出土した遺構が9カ所あり、そのうち8カ所は鍛冶遺物は出土しているものの鍛冶遺構ではないことが確認できました。

残るA102a竪穴住居は炉状ピットが存在することから鍛冶遺構であることを疑っています。

これ以外に、鍛冶遺物が出土しないすべての遺構について、それが鍛冶遺構の可能性があるかどうか検討しています。

その検討の際中ですが、A133竪穴住居が鍛冶遺構である可能性を感得できましたので、メモしておきます。

1 A133竪穴住居の位置

A133竪穴住居の位置

2 A133竪穴住居の記述
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A133

検出地区

L7-47-2g、L7-48-1・1gにて検出した。

遺構

長軸3.60m×短軸3.32m×壁高0.57m、主軸方位はN-27°-Eを示している。

平面形は隅丸方形である。

床はハードロームに暗褐色土が混じる、よく踏み固められた貼床である。

住居跡中央部にて硬化面を平面屈曲して認めたが、その脇では火熱により床表面が損壊していた。

床には、焼土粒や炭化粒が散っていた。

床面でピットを3基検出したが、主柱穴は不明であり、壁柱穴を確認したにとどまっている。
P1・P3が出入口施設のピットであろうが、P2が柱穴としてよいか迷うものであった。

ピットの覆土は暗褐色土であったが、P1はロームを多く含み、P2・P3は焼土粒子が包含されていた。

周溝は、竈袖下まで巡っており、住居跡全体を巡るものであった。

しかし南東壁では二重に周溝が巡っていた。

竈は北西壁の中央に築かれており、壁を浅く掘込み煙道部としていた。

竈は袖の基礎部にロームが壁から張り出し、その上に白色粘土と黒色土を混合させたものを積んでいた。

また、袖の内壁は赤化していた。

火床は緩やかな傾斜を持ち、強く赤化していた。

なお、住居廃絶後に不用材などの焼却が行われ、壁から住居跡床中央に向かって炭化材が出土している。

覆土は、住居廃絶時にこの不用材の焼却による火の使用と投入土(7・8層)、覆土中層(5層以上)以上の暗褐色土を主体とした自然堆積によって埋没していた。

7・8層からは炭化材を検出しており、焼土も混入しているものである。

遺物

竪穴住居全体に散在して、遺物は出土している。

2・3・4・7はいずれも床面から出土しているが、7は横倒した状態で、3は伏せた状態であった。

1は竈右袖の外に置かれた状態であったが、竈の崩壊粘土で埋没していた。

所見

本住居跡は、南東壁下に二重に巡る周溝より、住居の若干の拡張が行われていたことが捉えられた。

また、それに伴う出入口の改替が行われたのか、P1・P3が平面配置上検討すべきことになる。

竈等からの配置的にはP1であるが、P3の覆土は焼土粒子を含み、住居廃絶時の覆土に近似することから、P1からP3への出入口施設の改替があったと考えたい。

本住居跡の住居廃絶時の不用材の焼却に関わる投入土では、遺構が完全に埋戻されてはいなかったことが覆土の堆積状況から捉えられた。

覆土中位まで埋め戻した住居跡はその後しばらく「穴」として放置され、自然の堆積に任せたような遺構であった。

A133

A133

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

アンダーラインは引用者

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3 A133竪穴住居の検討

発掘調査報告書ではこの竪穴住居が鍛冶遺構である可能性は検討されていません。

その背景にはこの住居が廃絶後焼却されていることがあると思われます。

記載では「火熱により床表面が損壊していた。床には、焼土粒や炭化粒が散っていた。」となっていて、廃絶後の住居焼却によるものではない事象を観察していた可能性を感じます。

他の焼却住居の記載では「床に焼土粒や炭化粒が散らばっていた」というような記述はされていません。

一般的住居焼却跡の観察結果記載は、この報告書では焼土層が存在するという記述になります。

また、焼土粒子が包含されるピット2とピット3は鍛冶遺構そのものではないだろうかと考えます。

住居中心に近いピット3が鞴羽口を使って高温を得る炉本体、周溝に近いピット4は炉から取り除いた灰を一時的に貯める穴と考えることができます。

A133竪穴住居の2つの鍛冶関連と想定するピット



2016年10月11日火曜日

上谷遺跡 略完形鞴羽口出土竪穴住居の検討

鍛冶関連遺物出土竪穴住居の検討を行っています。

この記事ではA124a竪穴住居について検討します。

1 A124a竪穴住居の位置

A124a竪穴住居の位置

掘立柱建物群から少し西に離れた場所にA124a竪穴住居は立地します。

また竪穴住居も密集している場所ではありません。

2 A124a竪穴住居の特徴

次にA124a竪穴住居の特徴を列挙します。(発掘調査報告書から引用)

●A124aとA124bの重複

本住居跡はA124bと重複する遺構であるが、覆土の堆積状況より、本住居跡がA124bより新しい遺構と捉えられた。

A124a・b


A124a

●人面墨書土器や鉄器が出土する

人面墨書土器や「竹」「得」などの墨書土器が出土します。また鉄器4点(鏃、刀子、鎌、壜状金具)が出土しています。

小型甕の人面墨書土器

●略完形の鞴羽口の出土

口径7.00×7.20×長さ(15.7) 外面成形後ていねいなヘラミガキ。褐(色調)、砂粒白色(粘土)。

A124a竪穴住居 鞴羽口


3 検討(想像を交えた学習)

3-1 鞴羽口出土の意味

発掘調査報告書掲載図を拡大すると次のようになり、鞴羽口出土は覆土層の下層からであることがわかります。

A124a竪穴住居 鞴羽口出土位置

この竪穴住居には鍛冶ピットが存在しないので、この竪穴住居は鍛冶遺構ではないと考えます。

鞴羽口は外部から持ち込まれたものです。

覆土層の下部から出土しているので、住居が廃絶する前に持ち込まれた可能性も全くゼロではないと考えますが、基本は住居廃絶後に持ち込まれたものと考えます。

覆土層中には人面墨書土器や鉄器4点も出土しているので、それらを勘案すると、次のようなストーリーを一例として想定できると考えます。

●A124a竪穴住居から鞴羽口が出土したことの一解釈

A124a竪穴住居は古い住居から一度立て替えています。

ボロ屋にずっと住んでいたのではなく、立て替え新築したことがあったのですから、この住居に住んでいた家族は家系が継続し、かつ裕福であったことが推定できます。

つまり集落の指導層的立場にあった家族であると考えてもよいと思います。

そのような由緒ある一家の家長が死に、家を廃絶したとき、その指導者を弔い、あるいはその住居(場所)が果たした機能に感謝して、住居跡の穴に二つに割れた(合わせれば略完形になる)鞴羽口や人面墨書土器、鉄器をお供えしたのだと思います。

一種の祭祀が行われたのだと考えます。

お供えされたものに鞴羽口と鉄器があるので、A124aの住人やその場所が何らかの形で鍛冶に関わっていたのかもしれません。

(例、鍛冶技術者を配下にしていた統領であるとか、鍛冶に必要な炭の生産に関わるとか、原料となる屑鉄の入手に関わるとか・・・)

また、人面墨書土器を書ける人は教養と権力を有する者であったと考えます。

その人面墨書土器をこの場で弔いあるいは感謝の祭祀に使ったと考えると、A124a竪穴住居に住んでいた住人も社会的地位が高かったことを確認できます。


3-2 鍛冶遺物が必ずしも出土しない鍛冶遺構が上谷遺跡に存在する可能性

2016.10.10記事「上谷遺跡 鞴羽口出土A102a竪穴住居の検討」で検討したA102a竪穴住居は鍛冶遺構であると考えますが、A124a竪穴住居鍛冶遺構ではありません。

鍛冶遺物出土遺構には鍛冶遺構と非鍛冶遺構があるということが、遅まきながらわかりました。

同時に、鍛冶遺物(鞴羽口や鉄滓)が出土しない遺構の中に鍛冶遺構があるということも推察できました。

鞴羽口や鉄滓は出土しないけれど、焼けたピット等が残っている鍛冶遺構を上谷遺跡で探します。