この記事ではA124a竪穴住居について検討します。
1 A124a竪穴住居の位置
A124a竪穴住居の位置
掘立柱建物群から少し西に離れた場所にA124a竪穴住居は立地します。
また竪穴住居も密集している場所ではありません。
2 A124a竪穴住居の特徴
次にA124a竪穴住居の特徴を列挙します。(発掘調査報告書から引用)
●A124aとA124bの重複
本住居跡はA124bと重複する遺構であるが、覆土の堆積状況より、本住居跡がA124bより新しい遺構と捉えられた。
A124a・b
A124a
●人面墨書土器や鉄器が出土する
人面墨書土器や「竹」「得」などの墨書土器が出土します。また鉄器4点(鏃、刀子、鎌、壜状金具)が出土しています。
小型甕の人面墨書土器
●略完形の鞴羽口の出土
口径7.00×7.20×長さ(15.7) 外面成形後ていねいなヘラミガキ。褐(色調)、砂粒白色(粘土)。
A124a竪穴住居 鞴羽口
3 検討(想像を交えた学習)
3-1 鞴羽口出土の意味
発掘調査報告書掲載図を拡大すると次のようになり、鞴羽口出土は覆土層の下層からであることがわかります。
A124a竪穴住居 鞴羽口出土位置
鞴羽口は外部から持ち込まれたものです。
覆土層の下部から出土しているので、住居が廃絶する前に持ち込まれた可能性も全くゼロではないと考えますが、基本は住居廃絶後に持ち込まれたものと考えます。
覆土層中には人面墨書土器や鉄器4点も出土しているので、それらを勘案すると、次のようなストーリーを一例として想定できると考えます。
●A124a竪穴住居から鞴羽口が出土したことの一解釈
A124a竪穴住居は古い住居から一度立て替えています。
ボロ屋にずっと住んでいたのではなく、立て替え新築したことがあったのですから、この住居に住んでいた家族は家系が継続し、かつ裕福であったことが推定できます。
つまり集落の指導層的立場にあった家族であると考えてもよいと思います。
そのような由緒ある一家の家長が死に、家を廃絶したとき、その指導者を弔い、あるいはその住居(場所)が果たした機能に感謝して、住居跡の穴に二つに割れた(合わせれば略完形になる)鞴羽口や人面墨書土器、鉄器をお供えしたのだと思います。
一種の祭祀が行われたのだと考えます。
お供えされたものに鞴羽口と鉄器があるので、A124aの住人やその場所が何らかの形で鍛冶に関わっていたのかもしれません。
(例、鍛冶技術者を配下にしていた統領であるとか、鍛冶に必要な炭の生産に関わるとか、原料となる屑鉄の入手に関わるとか・・・)
また、人面墨書土器を書ける人は教養と権力を有する者であったと考えます。
その人面墨書土器をこの場で弔いあるいは感謝の祭祀に使ったと考えると、A124a竪穴住居に住んでいた住人も社会的地位が高かったことを確認できます。
3-2 鍛冶遺物が必ずしも出土しない鍛冶遺構が上谷遺跡に存在する可能性
2016.10.10記事「上谷遺跡 鞴羽口出土A102a竪穴住居の検討」で検討したA102a竪穴住居は鍛冶遺構であると考えますが、A124a竪穴住居鍛冶遺構ではありません。
鍛冶遺物出土遺構には鍛冶遺構と非鍛冶遺構があるということが、遅まきながらわかりました。
同時に、鍛冶遺物(鞴羽口や鉄滓)が出土しない遺構の中に鍛冶遺構があるということも推察できました。
鞴羽口や鉄滓は出土しないけれど、焼けたピット等が残っている鍛冶遺構を上谷遺跡で探します。
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