11 古代開発集落が滅びた理由
年表を見ると9世紀後半頃から末にかけて下総国の治安が悪化し、徴税体制も崩壊します。権力が空白化していく状況の中での体制側アクションとして検非違使設置、陰陽師設置などがあり、反抗勢力のアクションとして俘囚の反乱、僦馬の党などがあります。
このような状況のなかで下総台地上の開発集落はことごとく崩壊しました。
一般論としての社会崩壊の原因をジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」で学習しました。
9世紀末~10世紀初頭の下総国台地上開発集落崩壊の主な要因は「社会の対応」にありそうだと目星がおぼろげながら生まれました。
9世紀末から10世紀にかけての下総国の状況は律令国家の統治が弱まるとともに、台地上開発集落がほとんど全て衰滅し、一方低地集落は逆に発展しました。
このような状況をたとえ思考してみました。
組織内部門の特性により崩壊と発展があるように、台地開発集落はその特性により崩壊し、低地集落は生き残り発展したと考えました。組織対応力の差が崩壊と発展の違いに結びついたと考えました。
台地開発集落の現場労働層は浮浪人や俘囚などが主体であり、強制力で隷属的、半奴隷的労働の従事していたのですが、社会統制が弱まると強制力で労働させることができなくなったというのが開発集落崩壊のイメージです。
これまで、群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党は開発集落崩壊を考える際の外部社会環境(社会情勢)として考えてきたのですが、それは誤りであり、それらの事象そのものが開発集落崩壊の実体そのものであることに気が付きました。
おわり
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しました。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)
2017年11月28日火曜日
2017年11月6日月曜日
8・9世紀下総開発集落学習用年表の作成
2017.10.26記事「泥縄式学習」でメモしたように幾つかの図書を読んで、私家版の古代開発集落理解用年表を作成しました。
8・9世紀下総開発集落学習用年表
年表を作成してみると、いままで頭の中で結びついていなかった事柄が同時代の事柄として理解でき、錯誤していた事柄も整序され、時代を総合的に観察できるようになりました。
例えば、8世紀前半から中頃に武蔵国からつながる東海道駅路、下総国府・国分寺、5つの諸国牧、下総国内の幹線陸路・水運路、各地の開発集落が総合的連携的に建設されたことを理解しました。現代の大規模総合開発にも勝る総合開発です。
律令国家が下総国を東北進出の一大兵站基地とするためです。
このような時代感覚を持てたことにより自分の歴史理解がさらに深まります。
また次のような錯誤も正すことができました。
延喜式諸国牧は通常の歴史書では延喜式完成(927年)の平安時代のページで説明されます。それは文書としての延喜式完成が平安時代であるからです。
しかし諸国牧(高津馬牧、大結馬牧…)の実体を平安時代のものとして理解するとすれば、それは錯誤になることを知りました。
平安時代(10世紀)の下総は俘囚の反乱や僦馬の党を経て国家権力が空白に近い状態です。牧を担った台地上の開発集落はほとんど全て衰滅してしまっています。
秩序だった牧の存在はあり得ません。国家中央の文書の記載の中だけの話です。
私家版年表を今後さらに充実させることにします。
8・9世紀下総開発集落学習用年表
年表を作成してみると、いままで頭の中で結びついていなかった事柄が同時代の事柄として理解でき、錯誤していた事柄も整序され、時代を総合的に観察できるようになりました。
例えば、8世紀前半から中頃に武蔵国からつながる東海道駅路、下総国府・国分寺、5つの諸国牧、下総国内の幹線陸路・水運路、各地の開発集落が総合的連携的に建設されたことを理解しました。現代の大規模総合開発にも勝る総合開発です。
律令国家が下総国を東北進出の一大兵站基地とするためです。
このような時代感覚を持てたことにより自分の歴史理解がさらに深まります。
また次のような錯誤も正すことができました。
延喜式諸国牧は通常の歴史書では延喜式完成(927年)の平安時代のページで説明されます。それは文書としての延喜式完成が平安時代であるからです。
しかし諸国牧(高津馬牧、大結馬牧…)の実体を平安時代のものとして理解するとすれば、それは錯誤になることを知りました。
平安時代(10世紀)の下総は俘囚の反乱や僦馬の党を経て国家権力が空白に近い状態です。牧を担った台地上の開発集落はほとんど全て衰滅してしまっています。
秩序だった牧の存在はあり得ません。国家中央の文書の記載の中だけの話です。
私家版年表を今後さらに充実させることにします。
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