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2021年3月30日火曜日

千葉市動物公園「動物園で考古学」観覧

 1 千葉市動物公園「動物園で考古学」コーナー

千葉市動物公園に「動物園で考古学」コーナーが昨年10月に新設されました。遅まきながら観覧してきました。コンパクトですがとても充実していて、自分にとっては興味の深まる展示物が多くありました。

千葉市動物公園建設にあたって、この場所(餅ヶ崎遺跡)の発掘が昭和54年~60年に行われ、縄文中期終末~後期初頭の集落跡が出土し、学術的に価値の大きな遺物・遺構が多数出土しました。このような関連から、「動物園で考古学」は「餅ヶ崎遺跡出土品」展示と「ヒトと動物のかかわり」展示の2展示から構成されています。


「餅ヶ崎遺跡出土品」展示の様子


「ヒトと動物とのかかわり」展示の様子


「ヒトと動物とのかかわり」展示の様子

2 「餅ヶ崎遺跡出土品」展示

餅ヶ崎遺跡出土代表的遺物と遺構パネルが展示されています。


展示遺物


展示遺物


展示土器


展示パネル

3 「ヒトと動物とのかかわり」展示

出土骨や動物に関わる出土遺物、及び動物にかかわる多数の考古学的興味パネルが展示されています。この展示は餅ヶ崎遺跡にこだわらず、千葉市内遺跡を対象にしています。


展示物(イノシシ形突起)


展示物(イノシシ形突起)拡大


展示パネル


展示パネル

4 感想

餅ヶ崎遺跡は中期社会急成長後の大崩壊におけるどん底時期の遺跡であり、とても興味のある遺跡です。展示称名寺式土器は以前特別許可を得て全周撮影をして円満な3Dモデルを作成して分析をしたことがあります。

イノシシ形突起は大膳野南貝塚出土物です。この大膳野南貝塚イノシシ形突起については、遺跡内分布の分析をしたことがあります。

2018.06.27記事「貝殻・獣骨・土器片出土の意義

この展示で現物に出会えるとは思ってもみませんでした。ラッキーです。早速3点のイノシシ形突起について3Dモデル作成用撮影をしました。

「動物園で考古学」コーナーはコンパクトで、展示環境(特に光線環境)は必ずしも十分ではありませんが、展示物とその説明は高度で充実していています。加曽利貝塚博物館や千葉市埋蔵文化財調査センターの展示と較べてなんら遜色がありません。

2019年5月17日金曜日

餅ヶ崎遺跡出土称名寺式土器の裏側盛り上がり 3Dモデル観察

縄文土器学習 126

1 称名寺式土器観察記事
2019.05.14記事「称名寺式土器 餅ヶ崎遺跡」で千葉市餅ヶ崎遺跡出土称名寺式土器を観察しました。その記事の中で「日本土器事典」における称名寺式土器記述を引用しました。その引用中には次の文章が含まれていました。
「沈線は何度もなぞられ、他の後期の土器に比べて幅が広く、かつ深いことが多い。そのため器壁の薄いものでは、沈線の裏の部分が盛り上がっていることがある。」
私の観察は沈線裏側についてはまったく無頓着であり、その実情は判っていませんでした。

2 Twitterでのご指摘ご教授
この記事アップ後、Twitterでpolieco archeさんからのご指摘ご教授があり、以前その土器を観察したことがあり、「突出ではない」という挿図とメモを残しているとして、それをアップしていいただきました。
同じ土器について過去に専門的観察がpolieco archeさんによって行われその結果を教えていただいたので、興味が強く湧きました。同時に自分としても同じ観察をするのが筋だと思い、早速その土器が展示されている加曽利貝塚博物館にでかけ、土器内面をガラス越しに観察してみました。

3 土器内面の3Dモデル観察
土器内面をガラス越しですが別角度から7枚の写真を撮り、3DF Zephyr Liteで3Dモデルを作成したところ、土器内面の凹凸が判るレベルでの3Dモデルを作成することができました。

餅ヶ崎遺跡出土称名寺式土器内面の3Dモデル

口縁部に幅広でとても深い沈線が2条刻まれていますが、その裏側付近に凹部2条とそれに挟まれた凸部1条が観察できます。その様子は次の‏matcap画像でも確認できます。(3Dモデル画面下のmodel inspector(i)でmatcapにすると写真が除去され立体物だけの表示になります。)

matcap画像
この情報から土器外面沈線と内面凹凸の関係を次のように分析することができました。

4 土器外面沈線と内面凹凸の関係分析

土器外面と内面の様子

土器外面沈線と内面凹凸の関係分析

ア 土器外面沈線に対応して内面に凹部があります。凹部には指で押した跡が多数見られます。
イ 土器外面の沈線に囲まれた部分(相対的に出っ張った部分)に対応して内面に凸部があります。この凸部には指で押した跡は見られません。

「器壁の薄いものでは、沈線の裏の部分が盛り上がっていることがある。」という「日本土器事典」の記述と較べると内面凸凹は真逆になります。
しかし、多数の指で押した跡の存在から次の推測が成り立ちます。
「この土器は最初沈線に対応して内面に凸部ができた。その凸部を解消するために指で押さえて凸部をへこませた。その時凸部は薄いので指で押さえた時元通りではなく、凹みすぎた。」
結論として、「この土器は沈線を描いた時、内面は盛り上がった。しかしそれを指で補正した。補正が過ぎてその部分が凹んだ。」と観察メモを残すことができると思います。

5 まとめ
polieco archeさんが残した観察メモ「突出ではない」はその通りです。同時に「日本土器事典」の「沈線は何度もなぞられ、他の後期の土器に比べて幅が広く、かつ深いことが多い。そのため器壁の薄いものでは、沈線の裏の部分が盛り上がっていることがある。」もある意味でその通りだったと言えると思います。

polieco archeさんご指摘ご教授に端を発した活動により、称名寺式土器の一つの特性を深く体験することができました。polieco archeさんに感謝します。

なお、ガラス越し撮影でも丁寧な撮影により有用な3Dモデル作成ができることを体験できました。自分にとっての学習ツールが増えたことになり、よかったと思います。

2019年5月14日火曜日

称名寺式土器 餅ヶ崎遺跡

縄文土器学習 123

縄文土器を形式別に観察しています。
この記事では加曽利貝塚博物館に展示されている縄文後期初頭土器様式である称名寺式土器(千葉市餅ヶ崎遺跡出土)を観察します。

1 称名寺式土器の観察

称名寺式土器 千葉市餅ヶ崎遺跡出土 加曽利貝塚博物館展示 ガラス越し撮影

称名寺式土器上半部拡大 千葉市餅ヶ崎遺跡出土 加曽利貝塚博物館展示 ガラス越し撮影

称名寺式土器下半部拡大 千葉市餅ヶ崎遺跡出土 加曽利貝塚博物館展示 ガラス越し撮影

・胴部くびれ部分があります。そのくびれで模様構成が2段に分かれています。
・J字文を含むモチーフが深い沈線でつくられ、その内部が縄文で満たされています。沈線外部の縄文は磨り消されていますが、十分に消されていません。

2 「日本土器事典」における称名寺式土器記述の抜粋
「関東地方の縄文文化後期初頭の型式。
その祖型については西日本に求める考え方が有力であるものの、一方西日本では、中津式の成立を東日本の影響とする考え方があり未解明の部分が多い。
器形
ロ縁がやや外反し、胴上半部にくびれ部を持つ深鉢が基本形であり、平縁のものと波状縁のものがある。波状縁は4単位が多い。また、Ⅰ式後半からは波頂部に把手をもつものがあり、そのうち一つだけ大きなつくりになるものもある。深鉢のほかには、量は少ないが浅鉢や塊がある。
文様
平行する沈線によって閉じたモチーフを連続して描き、縄文を充填して、モチーフを浮び上がらせるのがⅠ式の基本であり、無文部分はよく研磨される。使用されることの多いモチーフには、O字状、J字状、剣先状のものがあり、とくにJ字を二段縦に配置する構成が特徴的である。沈線は何度もなぞられ、他の後期の土器に比べて幅が広く、かつ深いことが多い。そのため器壁の薄いものでは、沈線の裏の部分が盛り上がっていることがある。新しい段階になると、文様の配置がくずれ、複雑に入り組んだものとなるため、空白部分が減少し、施文範囲が胴部全般に及ぶようになるとともに、縄文帯の下端が解放されるものが多くなる。
分布
関東地方とその西部に多く見られるが、古いタイプは今のところ南関東でしか見つかっていない。同じ時期の東海や西日本の磨消縄文土器と胴部破片では区別が難しいため、境界線を設けるのは困難であるが、東海東部、中部高地までは分布圏と考えられる。」
「日本土器事典」から引用

3 称名寺式土器の較正年代

称名寺式土器の較正年代
小澤政彦先生講演「東関東(千葉県域)の加曽利E式」資料(2019.02.24)では称名寺式土器の較正年代が4490~4235年前calBPとなっています。

4 称名寺式土器の千葉県域分布

称名寺式土器出土遺跡
私家版千葉県遺跡データベースでは称名寺式は220レコード(遺跡)ヒットします。

称名寺式土器出土遺跡ヒートマップ
加曽利EⅣ式頃の中期社会崩壊直後の様子を表現している興味深い分布図であると考えられます。
縄文中後期の千葉県域最大集落地帯である都川流域-村田川河口域-鹿島川源流域が遺跡密集地域として表現されていません。
詳しい検討は改めて行います。そこでは前後の加曽利E式土器(EⅠ、EⅡ、EⅢ、EⅣ)、堀之内式土器分布との関係をみて、中期社会崩壊について考察します。

5 参考 餅ヶ崎遺跡の場所と情報

ちば情報マップ 埋蔵文化財包蔵地より引用

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学習チェックリスト

2019年2月17日日曜日

加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」学習メモ

縄文土器学習 31

2019.02.16に千葉県生涯学習センターにて加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相 -千葉市餅ヶ崎遺跡の調査成果から-」がありました。時間に間に合い運よく聴講できました。講演内容は私が知りたいのだけれどもどの本にも書いてない事柄ばかりで、自分の学習上必須栄養を大いに摂取できたという印象を持ちました。あまりに知りたいことそのものの説明がつづき、すこし興奮したので上がってはならない血圧が少し上がっていたかもしれません。
この記事では私が特に学習できたポイントだけを順不同でメモします。

1 加曽利EⅤ式
「称名寺式の時代になっても加曽利EⅣ式土器を使う人々がいてその土器を加曽利EⅤ式ともいう」旨の話がありました。
加曽利EⅤ式という言葉を聞いたことがあったのですが、どこを調べても判らなかったので、初めて趣旨を理解しました。

2 石棒や土偶
「加曽利EⅣ式~称名寺式になると石棒や土偶の出土が増加する。それ以前はほとんどない。」旨の話しがありました。
加曽利EⅣ式~称名寺式の時期の特徴がよくわかります。

3 長期住居と短期住居
「加曽利EⅣ式ごろに長期住居減り短期住居が増える、柄鏡式も出現する。」
「加曽利EⅣ式ごろ大きな貝塚集落にほとんど人が住まなくなり、餅ヶ崎集落だけが頑張る。」旨の話がありました。

長期居住計画と短期居住計画
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用

長期居住をイメージさせる竪穴住居
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用

短期居住をイメージさせる竪穴住居
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用

加曽利EⅣ式~称名寺式ごろ既存大集落が崩壊して分散的短期的居住となったようで、その様相解明が千葉県考古学のメインテーマの一つらしいことがよくわかりました。
「餅ヶ崎遺跡と加曽利貝塚を比較する価値がある。」旨の話は加曽利貝塚に代表される中期集落崩壊を、その崩壊期に「頑張った」餅ヶ崎遺跡と比較して分析すべきであるという意味だと理解しました。

4 称名寺式の分布は九州から東北にいたる
「それまでの地域別土器形式分布から称名寺式は九州から東北まで分布する」旨の話しがあり、「称名寺式土器では沈線の後に縄文を入れるが、それ以前は縄文の後に沈線を入れている」、「土器は女がつくるから、九州・関西の女が関東にまで移動してきて土器作成手順が変化した」との(想像を交えてとの注釈付きの)話がありました。

称名寺式土器の分布
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用

称名寺式より前の縄文と沈線の切りあい
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用

称名寺式以後の縄文と沈線の切りあい
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用

称名寺式の時期に列島縄文社会が一つのるつぼとなり、大変化したことは確実のようです。石棒や土偶の千葉出現もこの一環であると考えます。
以前自分の空想を記事にしたことがあります。
2017.02.24記事「縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代中期後半の激減

加曽利EⅣ式~称名寺式頃の大規模集落崩壊現象は全国規模の視点でないと解明できないようです。

なお、加納先生想像の女が関東に移動して土器作成手順を変えた説をそのまま受け取ると、九州・関西の男はどうなったんだろうかと心配してしまいます。
女が配偶者として関東や東北に出され、その対価を九州や関西の残った人が得たのか。
男も女と一緒に関東や東北に移動し、女は配偶者になり、男は社会劣位に置かれたのか。
男も女も一緒に関東や東北に移動し、在来の人々を駆逐したのか。
男も女も一緒に関東や東北に移動し、在来の人々と融和社会を構築したのか。

5 竪穴住居数グラフの見方
話しのなかで竪穴住居数グラフの詳しい説明があり、グラフの軸が土器形式に対応していることに気が付くことができました。

よくみる竪穴住居数グラフ
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用 追記

6 集落における竪穴住居の「ぐちゃぐちゃ」な分布と散漫な分布
「有吉北貝塚や草刈遺跡などの竪穴住居分布は「ぐちゃぐちゃ」であり、餅ヶ崎遺跡は散漫である。」旨の説明がありました。他の大規模集落が崩壊したとき、頑張っている餅ヶ崎遺跡の姿の特性が散漫な分布であるということであり、興味が湧きます。後期社会になると集落は再び「ぐちゃぐちゃ」と表現できるのだと思います。
社会全体が崩壊したとき、それでも保持しなければならない最低限の地域中枢管理機能が餅ヶ崎遺跡に存在し、その存在のしかたが散漫型であったと想像しておきます。

散漫な餅ヶ崎遺跡竪穴住居分布
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用

7 炉と土器の関係
次の写真の提示があり、炉と土器の関係がよくわかりました。土器の下端が灰に埋まっていて不自然さはありません。

炉と土器の関係
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写から引用

炉における土器の加熱方法の自分の作業仮説(イメージ)がほぼそのままであると感じました。

作業仮説のイメージ No.1土器の炉における加熱方法
2019.02.11記事「加曽利EⅠ式併行期土器の観察と感想」参照

8 土器把手の意義
縄文土器の把手は実用的意義はないとの話があり、自分の想像や不確かな知識ではなく専門家からそのことを直接聞くことが出来たのでとてもよい知識確認になりました。