2016年4月24日日曜日

人面墨書土器の人面は人か鬼か?

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.340 人面墨書土器の人面は人か鬼か?

日替わりで記事テーマがまったく変化してしまっていますが、ご容赦ください。

千葉県で出土する人面墨書土器の人面が人か鬼か、自分なりに判ってきましたので、判った瞬間の思考を記事として定着させておきます。

白幡前遺跡から「丈部人足召代」と書かれた人面墨書土器が出土しています。

白幡前遺跡出土人面墨書土器
「八千代市の歴史」から引用


この墨書土器の人面について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載資料によれば、人面は鬼であるとしています。


多文字墨書の復原案
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用

「丈部人足召代」は次のように解釈されることになります。

「丈部人足(はせつかべひとたり 墨書を書いた人名)の身体が病気(や死)に召される(招かれる)代わりに<人面>(疾病神、死神)に、この甕に入れた物(食べ物 疾病神・死神に対する賄賂)を奉ります(さしあげます)」

しかし、この説明は納得しがたく、2015.05.07記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字の意味」では次のように書きました。

「なお、上記復原案では、人面と呼ばれる顔は疾病神・災厄神・死神の顔になります。

しかし悪意が充ちた顔でない様子から、丈部人足が自分の顔を自分の身体の代わりとして土器に描いたという解釈の方があっているかもしれません。」

さて、次のような理由から、千葉県で出土する人面墨書土器の人面は疾病神ではなく、祈願者本人であるとする直観が強まりました。

●千葉県出土人面墨書土器の人面が疾病神ではなく、祈願者本人であると考える理由

1 顔つきが悪相ではない。疾病神や鬼なら、もっとデフォルメして悪相にかくはず。

2 顔つきが画一的ではなく個性豊かである。(社会通念上の疾病神とか鬼とかの共通して狭いイメージを投影した顔つきとは見れない)

3 延命祈願の墨書土器に疾病神や鬼の顔を書いて、その土器を竪穴住居に置いて(おそらく日常的に利用して)いることは、人の心性と矛盾する。人の心性は「鬼は外」である。

4 専門家が間違いなく疾病神とか鬼とか自ら納得して直観しているなら、人面ではなく、鬼面なりの別の言葉でこの土器を表現するはず。しかしそのような動きはない。人面が疾病神なり鬼の顔であると考える専門家の根拠は薄弱のように感じられる。

このような思考をしている最中に、WEBで偶然に次の資料を閲覧しました。

「古代人の顔と祈り」橿原市博物館講演会資料(奈良文化財研究所 森川実)

この資料に多数の平城京出土人面墨書土器データと次の学説一覧が掲載されていました。

人面墨書土器をめぐるおもな学説
「古代人の顔と祈り」橿原市博物館講演会資料(奈良文化財研究所 森川実)から引用

学説の中には人面が鬼とするのと、本人のものであるとするものがあります。

この資料では平城京出土人面墨書土器について「現代の考古学者からは、「行疫神」、「厄病神」などと思われている。」としています。

しかし、この資料を詳しく読むと平城京出土人面墨書土器と千葉県出土墨書土器の違いが、自分としては極めて鮮明にわかりました。

平城京出土人面墨書土器は川から出土しています。そして悪相の顔です。

平城京出土人面墨書土器の例
「古代人の顔と祈り」橿原市博物館講演会資料(奈良文化財研究所 森川実)から引用


一方千葉県出土人面墨書土器は竪穴住居から出土しています。そして悪相の顔ではありません。

この資料を読んだおかげで、同じ「人面」墨書土器でも、2つのカテゴリーがあることが、素人なりに判りました。

平城京出土人面墨書土器は疾病神であり、千葉県出土人面墨書土器は本人であるということです。

平城京出土人面墨書土器は疾病神を書いて、それにご馳走を入れて、川に流し、住宅から離れてもらったのです。

千葉県出土人面墨書土器は、本貫地や名前の他、自分の似顔絵まで書いて、鬼が自分と他人を間違わないようにして、自分の賄賂が確実に鬼に伝わるようにしたのです。

この仮説を次にまとめてみました。

人面墨書土器の人面の正体(2016.04.24仮説)

千葉県と平城京で、人面墨書土器の人面の意味が異なることは、千葉県と平城京の衛生環境の違いを反映しているように思えてしまいます。

「千葉県の歴史」掲載資料で、白幡前遺跡出土人面墨書土器の人面を鬼に見立てた背景には、平城京において人面は疾病神であるとする知識があったのだとおもいます。

しかし、その知識、つまり平城京の人面=疾病神をそのまま千葉県出土人面墨書土器に適用することはできないという仮説設定が、この記事の趣旨です。

なお、千葉県出土人面墨書土器の人面が祈願者本人の似顔絵であるとすると、当時の上層階層の人の顔つき研究ができるということになります。

髯がどうだとか、髪がどうだとか、データを収集できる可能性が生まれます。



2016年4月23日土曜日

旧石器時代人はアサリ・ハマグリを食べなかったか?

前後の記事と関係ありませんが、読書中に違和感を覚えた事項がありますのでメモしておきます。

「縄文人の世界」(小林達雄、朝日選書、1996)の縄文土器の意義を記述している部分に「土器のもたらしたもの」という小項目があり、その中に次のような記述があります。

「つまり煮炊きするようになって初めて、従来食べられなかったものがたちまち食料に早変わりするのである。

そうしたものは、植物ばかりではない。

その本格的利用は土器の発明よりいくぶん遅れたと思われるが、貝類もこうした種類の食品である。

堅く殻を閉じたアサリやハマグリを、旧石器人は最後まで食料に結びつけることに関心を示さなかった。

それを開発し、積極的な利用を進めたのは、縄文早期人である。

土器に海水を加えて煮れば、素晴らしいスープができ、貝はふたを開けて容易に肉を食べられるようになる。」

太字は引用者

縄文時代を対象とした図書とはいえ、旧石器時代人はアサリやハマグリを食べなかったという説明には納得できません。

現在発掘できる旧石器時代遺跡は全て当時の海岸線や河川から隔絶した場所であるので、海や川の狩猟採取に関する遺跡が見つからないだけだと思います。

旧石器時代の海にもアサリやハマグリが生息していて、土器が無くても火があるのですから、その貝類を旧石器時代人は食べていたと考えます。

旧石器時代人が貝類を食べなかったという考えはいくらなんでもあり得ないと思います。

旧石器時代人も含めて、どの時代の人類も、地球上のどの地域でも、海の貝は食べていたと思います。

次の地図は旧石器時代の海岸線位置図です。

最終氷期(約6万~1万年前)の海岸線

水深100m程度くらいの場所が最終氷期最盛期の海岸線です。

海岸で生息し、海から食物を得ていた旧石器時代人の生活遺跡は全て水没していて、その情報を得ることは、現在の科学技術力ではできないということです。

旧石器時代の河川も次の図に示すように、全てその後の縄文海進で沖積堆積物に覆われています。

旧石器時代谷津形状検討のための横断面位置

旧石器時代(最終氷期最盛期)の谷津形状の検討(想像)
2014.08.23記事「旧石器時代の谷津形状の検討」参照

河川で漁をして食糧を得ていた旧石器時代人の生活遺跡が人の目に触れることは将来もないと思います。

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参考 最終氷期の海岸線を示す資料

日本第四紀地図Ⅱ先史遺跡・環境図 最終氷期
日本第四紀地図(日本第四紀学会、1987)から引用

日本第四紀地図Ⅱ先史遺跡・環境図 最終氷期
日本第四紀地図(日本第四紀学会、1987)から引用






2016年4月22日金曜日

作業メモ 西根遺跡命名の素となった小字「西根」の意味

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.339 作業メモ 西根遺跡命名の素となった小字「西根」の意味

鳴神山遺跡、西根遺跡、船尾白幡遺跡付近の地名には既に古代に使われていたことが証明されているものもあります。

西根遺跡から墨書文字「舟穂郷生部直弟刀自女奉」が出土し、「舟穂郷」が現在に大字「船尾」として伝わる地名であることからです。

船尾に限らず古代に生まれた地名が現在の小字として残っているものと考えられるものが数多く存在しますので、メモしておき、今後の発掘情報と地名情報の関連分析に備えます。

次の図は印西市の小字分布図です。

印西町字界図(昭和63年印刷)平成13年4月印西市復刻

これまでに小字「大野」と小字「白幡」を記事にしてすでに説明してあります。

1 大野
小字「大野」は墨書文字「大」や「大加」集団が活躍した土地であることから、その記憶が地名「大野」(大[オオ、オホ]と祈願していた人々が活躍していた野)として定着したと想像しました。

詳しくは、2015.12.30記事「鳴神山遺跡最多出土墨書文字「大」と小字「大野」」参照

参考 墨書土器文字「大」と小字「大野」

2 白幡

小字「白幡」はシラ(オシラサマと同じシラ(白)で繭の白さ)-ハタ(機織)であり、絹製品生産地を示すと考えました。

2016.03.21記事「船尾白幡遺跡 紡錘車」参照

参考 船尾白幡遺跡の紡錘車出土と小字白幡

船尾白幡遺跡は養蚕を示す有力な遺物が多数出土しています。

3 西根

さて、これ以外に注目すべき小字として「西根」があります。

戸神川沖積地の左岸サイドに「西根」があります。

西根の東側は船尾白幡遺跡の中心拠点(Dゾーン)が控えています。

また西根遺跡から多数の出土物がみつかり、西根遺跡付近が船尾白幡遺跡のミナトであり、祭祀の場であることもわかってきています。

このような情報から、小字「西根」の意味を次のように想像します。

船尾白幡遺跡が新規開発地として建設された時、その西側に位置する戸神川低地は開発地(集落)と外部を結ぶ重要なミナトであり、そのミナトを通じて船尾白幡遺跡は外部とつながっていました。

つまり船尾白幡遺跡からみると、地先の戸神川低地は西側に伸びる根のような存在であったと考えます。

船尾白幡遺跡からみて地先戸神川低地は自らの根元の部分に当たると考えて、「西根」という地名が生まれたと考えます。

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参考

ね【根】
1 〖名〗
二 物の基礎となり、それを形づくる根本となる部分。ねもと。つけね。
① 生えているものの下部。毛、歯などの生えているもとの部分。
*万葉(8C後)四・五六二「いとま無く人の眉(まよ)根(ね)をいたづらに掻かしめつつもあはぬ妹かも」
*あきらめ(1911)〈田村俊子〉七「頭髪の根が痛くって仕様がないよ」
② 立っているものが、地に接する部分。ふもと。すそ。
*書紀(720)神代上(兼方本訓)「譬ば海(うな)の上(うへ)に浮(うか)べる雪の根(ネ)係所(かかること)無(な)きが猶し」
*真景累ケ淵(1869頃)〈三遊亭円朝〉五一「手水鉢(てうづばち)の根に金が埋めて有るから」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
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4 木戸
木戸場という小字と木戸脇という小字があります。

木戸という地名は、柵があって囲まれている区域や建物があり、その区域や建物の中に出入りするための木戸が存在するということです。

現代は柵や木戸(つまり扉)の存在に驚くことはありません。

しかし、古代にあっては、柵と出入りするための木戸があるということは、そこが役所であるとか、軍事施設であるとか、関所であるとかの重要な意味を持っていたと考えます。

木戸という地名はその場所に重要施設が存在していたことを示している指標性のある地名です。

戸神と船尾にある「木戸脇」「木戸場」は双方とも南(印旛沼)から鳴神山遺跡や船尾白幡遺跡にやってくる訪問者をチェックする役所(関所)が存在していたことを伝えていると想像します。

8世紀の蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代に新規開発地の建設が始まりましたが、建設当時は軍事兵站基地として建設されたので、誰でも自由に出入りできるような集落ではなかったと考えます。

5 戸神川沖積地が左右(東西)に二分されている

戸神川沖積地の小字がその中央付近で二分されています。

この分割は新規開発地でいえば鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の領域分割に対応すると考えます。

より厳密に思考すると、古墳時代の戸神集落と船尾集落の領域分割が新規開発地にも引き継がれたということです。

戸神川両岸(戸神集落と船尾集落、鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡)は共存しつつ競争関係にあったと考えます。





2016年4月21日木曜日

作業メモ 土錘と土製円盤の共伴出土

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.338 作業メモ 土錘と土製円盤の共伴出土

別件で鳴神山遺跡のGISデータを見ていた時、土錘と土製円盤が4遺構で共伴出土している状況を見つけました。

土錘は全部で7遺構から、土製円盤は5遺構から出土しているのすぎません。

土錘から見ると57%の遺構から土製円盤が出土します。

土製円盤からみると、80%の遺構から土錘が出土します。

この共伴出土の状況は特段の興味の対象になります。土錘と土製円盤の空間的出土状況の間には強い相関があります。

この情報は鳴神山遺跡の特性の影の側面を知ることが出来そうなので、忘れないように記事としてメモしておき、今後検討を深めることとします。

今後の検討のために、その分布状況だけを見ておきました。

鳴神山遺跡 土錘出土状況

鳴神山遺跡 土製円盤出土状況

なお、土錘と土製円盤が共伴出土する遺構の1つから穂摘具が出土していて、その遺構は水田耕作との関わりがあると考えています。

土錘は釣りや網漁でおもりとして使われるものだと考えます。

土錘の分布域は集落が戸神川に降りる場所として使った枝谷津(8世紀末頃まで存在した直線道路が戸神川沖積地に降りる場所)を囲むように分布していますから、土錘の意味と分布状況が整合します。

穂摘具も出土しているのですから、水田耕作もしていたのでした。

鳴神山遺跡のメインの生業は牧や養蚕であったと考えますが、少数の集団は戸神川に降りてそこで水田耕作を行い、川魚を獲っていたことになります。

そして、その集団が土製円盤を使っていたことになります。

土製円盤は祭祀道具と考えられていますから、鳴神山遺跡では沖積に降りて水田耕作したり川漁をする小集団だけが土製円盤をつかう祭祀を行っていたことになります。

そのように考えると、その小集団の出自がどのようなものであるのか(同時にメインの大集団の出自も)知りたくなります。

鳴神山遺跡の台地から降りて沖積地で生業活動を行った人々ははたして既存集落出身住民であるのか、どうか?

またその小集団の書いた墨書文字からどのような情報を得られるかということにも興味が湧きます。

今後土錘や土製円盤についても興味を持ちたいとおもいます。

2016年4月20日水曜日

参考 竪穴住居10軒当たり穂摘具出土数

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.337 参考 竪穴住居10軒当たり穂摘具出土数

参考までに、遺跡別穂摘具出土数と竪穴住居数の情報から遺跡別竪穴住居10軒当たり鎌出土数を調べて見ました。

穂摘具出土数

竪穴住居10軒当たり穂摘具出土数

船尾白幡遺跡では穂摘具の用途は主に稲の刈り取り用であると考えました。

稲に限らず雑穀の収穫にも使われたと考えます。

竪穴住居10軒当たり穂積具出土数を見ると、白幡前遺跡の値が大きく、船尾白幡遺跡、井戸向遺跡がそれに続きます。

この3遺跡はある程度水田耕作を行っていたと考えます。

ただし、別の記事で書きましたが、これら3遺跡の水田耕作は当時の水田耕作全体の中では極めて限られた部分であり、大半は古墳時代から存在していた既存集落が耕作していたと考えます。

(古墳時代・奈良時代の既存集落は現在の既存集落へと継続していますから、その土地で遺跡発掘調査が行われることはほとんどありません。従って、学習した遺跡が少ないこともあり、私はまだ当時の既存集落の発掘情報を学習できていません。)

北海道遺跡は白幡前遺跡の約半分の値です。北海道遺跡は他の指標でも「低レベル」の場合が多く、また集落の空間構造も特異であり、これまでの検討では同じ新規開発集落といっても特別な条件が関わっている集落であると疑っています。

鳴神山遺跡は極めて値が低く、権現後遺跡は値がゼロです。

この二つの遺跡は水田耕作及び雑穀栽培を、はじめから開発メニューに持たない台地における活動に特化した遺跡であると考えます。

権現後遺跡は土器生産をテーマとする遺跡で問題はないと考えます。

鳴神山遺跡は牧をメインテーマにして、養蚕も行う遺跡であると考えています。

ただし、養蚕業務に対応してその道具である紡錘車や鎌が出土するような関係を、牧について私はまだ見つけていません。

牧業務の存在を示す遺物(それもある程度遺跡をカバーして分布するような複数出土物)は何か、毎日考えてます。

参考 遺跡の位置


2016年4月19日火曜日

参考 鳴神山遺跡 穂摘具

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.336 参考 鳴神山遺跡 穂摘具

船尾白幡遺跡では穂摘具が3点出土し、鎌出土点数(13点)と比べて少なく、生業に占める水田耕作の意義の大きさが小さいことを検討しました。

船尾白幡遺跡で生業に占める水田耕作の意義の小ささの理由は、そもそも船尾白幡遺跡が台地開発のために建設された新規開発地であると考えたからです。

当時水田開発は既存集落住民によって開発が進んでいて、新規開発の余地は少なかったと考えました。

このような状況は船尾白幡遺跡よりもさらに印旛浦から遠ざかる鳴神山遺跡ではもっと顕著であるので、参考までに情報を紹介します。

鳴神山遺跡出土穂摘具は1点だけです。

その出土場所を次に示します。

鳴神山遺跡及び船尾白幡遺跡 穂摘具出土状況

鳴神山遺跡では戸神川谷津の水田耕作と関係があると推定できる位置の竪穴住居から穂摘具が出土しています。

鳴神山遺跡の竪穴住居数は202ですから、鳴神山遺跡集落の生業において水田耕作の占める割合は大変少ないといえます。

穂摘具出土竪穴住居(I007)からは土錘が3点出土していますから戸神川で釣りや網漁もしていて、低地との関わりみられます。また墨書文字「山本山本」が出土しているので、水田開発の胴元だったのかもしれません。

しかし、穂摘具出土1点という数値は、戸神川谷津の水田開発は古墳時代に既存集落によって進展してしまっていて、8世紀9世紀の開発地新住民が水田耕作に関わることはまれであったことを物語っています。

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鳴神山遺跡検討の際に穂積具の紹介をしませんでしたので、この記事で紹介しました。

鳴神山遺跡検討の際には、穂積具は1点しか出土しないので、情報として軽視し、興味対象から外れました。

しかし今になると、たった1点しか出土しないという情報に大いに意味があることが判りました。

2016年4月18日月曜日

船尾白幡遺跡 穂摘具

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.335 船尾白幡遺跡 穂摘具


船尾白幡遺跡出土鉄製穂摘具(手鎌)は3点あります。

他の農業道具と比べて出土数が大変少数です。

その分布を示します。

船尾白幡遺跡 穂摘具出土状況

穂摘具出土が貧弱な理由は、船尾白幡遺跡の集落が奈良時代に建設された新規開発地であり、台地開発の拠点であり、水田耕作は最初から開発メニューに入っていなかったからだと考えます。

戸神川には古墳時代に大規模な可動堰が作られるなど、水田開発がすでに行われていました。
2016.03.07記事「西根遺跡 古墳時代後期から奈良時代前半の出土物」参照

次の図で示すように船尾白幡遺跡付近の谷津は狭小であり、既に古墳時代に大きな堰が存在しているということから、開発が進んでいて、土地所有権や水利権があらかた決定されてしまっていることが推定できます。

新たな水田開発余地はほとんどなかったと考えられます。

船尾白幡遺跡付近の旧版25000分の1地形図

それでも穂摘具が少数出土するということは、古墳時代に開発できなかった劣悪地(谷津の中央部水害常襲ゾーンなど)に開発余地が残されていたのだとおもいます。

船尾白幡遺跡付近の古代空間イメージは次のように表現することができ、当時の既存集落は水運業務や水田耕作を担い、新規開発地は牧業務、養蚕業務、漆業務、麻業務などを担っていて、沖積地と台地のそれぞれの特性を生かして、生業面においても棲み分けしていたと考えます。

船尾白幡遺跡付近空間イメージ

2016年4月17日日曜日

参考 竪穴住居10軒当たり鎌出土数

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.334 参考 竪穴住居10軒当たり鎌出土数

参考までに遺跡別鎌出土数と竪穴住居数の情報から遺跡別竪穴住居10軒あたり鎌出土数を調べた見ました。

鎌出土数

竪穴住居10軒当たり鎌出土数


船尾白幡遺跡の鎌は墨書土器等の情報から養蚕業務における桑の枝切りが主な用途であると考えてきています。

竪穴住居10軒当たり鎌出土数は、権現後遺跡遺跡を除くと、船尾白幡遺跡の値が近隣遺跡よりはるかに大きくなっています。

権現後遺跡を除いて、この情報から、他の遺跡でも養蚕が行われていたと考えていますが、とりわけ船尾白幡遺跡で盛んであったことが推察されます。

船尾白幡遺跡で墨書文字「小」「子」(=蚕(コ)が多数出土し、掘立柱建物の柱穴から「子」と墨書された土器が出土して、掘立柱建物が養蚕小屋であったと推察したような情報は、伊達ではなく、本物であることの傍証を得ました。

船尾白幡遺跡の養蚕は近隣遺跡と比べて特段に盛んだったことが判りました。

なお、グラフ全体を見ると、権現後遺跡の値がダントツのトップになっています。

権現後遺跡は土器製造施設が多数存在していて、いわば土器生産工業団地のような状況を呈しています。土器生産に特化した遺跡です。

これまでこのブログでは、権現後遺跡から出土している多数の鎌は、おもに燃料とする草木を刈るための道具であると考えてきています。

鎌が多数出土する意味はそれだけでは特定できないことが確認できます。

興味をさらに深めるために、燃料となる草木を刈る鎌(権現後遺跡出土鎌)と養蚕で桑を切る鎌(船尾白幡遺跡出土鎌)の違いがあるか、近々比較検討してみたいと思います。


参考 遺跡の位置





2016年4月16日土曜日

船尾白幡遺跡 鎌の時代別出土分布

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.333 船尾白幡遺跡 鎌の時代別出土分布

鎌の時代別出土分布をみてみました。

次に年代別鎌出土状況を示します。

船尾白幡遺跡鎌出土状況 8世紀後葉~9世紀初頭

船尾白幡遺跡鎌出土状況 9世紀第1四半期

船尾白幡遺跡鎌出土状況 9世紀第2四半期

船尾白幡遺跡鎌出土状況 9世紀第3四半期


8世紀後葉~9世紀初頭の鎌出土が1点だけであり、その出土場所が遺跡中心地のDゾーンであり、その後9世紀に入ると遺跡全域に鎌出土場所が点在していますから、鎌を使った農作業(そのメインは養蚕における桑栽培)は8世紀にはじまり、9世紀に発展したことを観察できます。

鎌大小に着目すると、鎌大小は9世紀にはどの時代にも両方とも出土しましたが、空間的にも大形鎌と小型鎌は同じように分布していているように観察できます。

大形鎌と小形鎌の分布が異なるような特性は無いようです。

このことから鎌のメイン用途であった桑栽培は集落全体で行われ、桑栽培では大小2種類の鎌が作業状況において使い分けられていたと想像します。



2016年4月15日金曜日

船尾白幡遺跡 鎌の大小分類とその用途想像

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.332 船尾白幡遺跡 鎌の大小分類とその用途想像

船尾白幡遺跡出土鉄製鎌の大きさに大小があるように観察できます。

そこで、20cm×4cmの方形を鎌画像にかぶせて、長さがそれより大きくなるものを大、小さいものを小と分類してみました。

船尾白幡遺跡 鉄製鎌の大きさによる大小分類

取っ手取り付け基部の幅が4cmあるものは長さが20cm以上ありますから一部欠損しているものも、それを基準に大小を判断しました。

大が6点、小が7点になります。

8世紀後葉~9世紀初頭は大(異形鎌)1点だけですが、9世紀の第1四半期~大3四半期は大及び小の両方が出土します。

鎌に大小の2種類が存在し、使い分けられていることがこの情報から判明しました。

鎌の大小2種類の使われ方について、検討(想像)してみます。

検討(想像)1 桑用と麻用の使い分け

異形鎌はエネルギーを1点に集中して使う道具であり、桑の枝を切るものと考えました。

それから類推して、大形鎌は木の枝を切るものであり、したがって桑用であるとかんがえます。

一方、草を切るために小型鎌が存在していたと考え、すなわち小型鎌の主用途は麻の収穫用であると考えることができます。

もし、このように考えると、逆に、桑畑も麻畑も両方とも広い面積で存在していたことになります。

養蚕が掘立柱建物を利用して行われていたほどですから、桑畑が広がっていたことは問題なく首肯できますが、麻畑がどれだけ広がっていたかは少し疑念が残ります。

乾漆で麻布を利用して漆器を作っていたことから麻畑が存在していたことは間違いないと思います。

しかし、漆汁が貴重品であり大量生産出来なかったことが強く推察されます。漆資源の枯渇が社会問題になっていたように想像すらしてます。

漆器生産は高級品の少量生産であったと考えられますから、麻布の生産量は少なくて済んだに違いありません。

そのように考えると、麻布の用途が乾漆のためだけであったと考えると、小形鎌が大形鎌と同じような数で出土している意味を捉えきれなくなります。

乾漆の材料とは別に、麻布が生産されていたと考えられます。

付加価値の高い麻布(望陀布)は上総国の専売特許みたいなものだったと考えると、船尾白幡遺跡における乾漆材料以外の麻布用途は自分たちの衣服用の麻布生産になります。

稼ぐ(出荷する)ための麻布生産は繁盛していなかったと想像しますから、小形鎌が麻専用であったような捉え方は無理があるかもしれません。


検討(想像)2 桑作業の細別による使い分け

掘立柱建物を蚕小屋にして養蚕に励んだ程ですから、養蚕は稼ぐ(出荷する)産業であったことは確実です。

桑栽培は麻栽培などと比べて段違いな重要性があったと考えます。

そのように養蚕を重視すると、鎌の大小が桑栽培の作業細別に対応しているように考えることができます。

例えば、日常的に小枝を切って蚕に与える桑の葉を採取するのは小形鎌を使い、それは女性や子供でもできる作業であったと考えます。

一方、桑の剪定など桑栽培における重要作業で大枝を切る時は大形鎌を使い、それは男の作業であったというようなことです。

もし、作業の細別種類毎に鎌の大きさを変えていたと考えると、それは技術-道具の体系が高度であったことを意味し、養蚕という当時としては極めて高度なバイオ技術に対応している、ふさわしい状況であったことになります。

鎌は万能農具の側面があるとはいえ、大小2種類が出土している主な意味は、重要産業である養蚕の桑栽培でその2種類が必要であったという考えに説得性を感じてしまいます。


つづく