日替わりで記事テーマがまったく変化してしまっていますが、ご容赦ください。
千葉県で出土する人面墨書土器の人面が人か鬼か、自分なりに判ってきましたので、判った瞬間の思考を記事として定着させておきます。
白幡前遺跡から「丈部人足召代」と書かれた人面墨書土器が出土しています。
白幡前遺跡出土人面墨書土器
「八千代市の歴史」から引用
この墨書土器の人面について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載資料によれば、人面は鬼であるとしています。
多文字墨書の復原案
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
「丈部人足召代」は次のように解釈されることになります。
「丈部人足(はせつかべひとたり 墨書を書いた人名)の身体が病気(や死)に召される(招かれる)代わりに<人面>(疾病神、死神)に、この甕に入れた物(食べ物 疾病神・死神に対する賄賂)を奉ります(さしあげます)」
しかし、この説明は納得しがたく、2015.05.07記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字の意味」では次のように書きました。
「なお、上記復原案では、人面と呼ばれる顔は疾病神・災厄神・死神の顔になります。
しかし悪意が充ちた顔でない様子から、丈部人足が自分の顔を自分の身体の代わりとして土器に描いたという解釈の方があっているかもしれません。」
さて、次のような理由から、千葉県で出土する人面墨書土器の人面は疾病神ではなく、祈願者本人であるとする直観が強まりました。
●千葉県出土人面墨書土器の人面が疾病神ではなく、祈願者本人であると考える理由
1 顔つきが悪相ではない。疾病神や鬼なら、もっとデフォルメして悪相にかくはず。
2 顔つきが画一的ではなく個性豊かである。(社会通念上の疾病神とか鬼とかの共通して狭いイメージを投影した顔つきとは見れない)
3 延命祈願の墨書土器に疾病神や鬼の顔を書いて、その土器を竪穴住居に置いて(おそらく日常的に利用して)いることは、人の心性と矛盾する。人の心性は「鬼は外」である。
4 専門家が間違いなく疾病神とか鬼とか自ら納得して直観しているなら、人面ではなく、鬼面なりの別の言葉でこの土器を表現するはず。しかしそのような動きはない。人面が疾病神なり鬼の顔であると考える専門家の根拠は薄弱のように感じられる。
このような思考をしている最中に、WEBで偶然に次の資料を閲覧しました。
「古代人の顔と祈り」橿原市博物館講演会資料(奈良文化財研究所 森川実)
この資料に多数の平城京出土人面墨書土器データと次の学説一覧が掲載されていました。
人面墨書土器をめぐるおもな学説
「古代人の顔と祈り」橿原市博物館講演会資料(奈良文化財研究所 森川実)から引用
学説の中には人面が鬼とするのと、本人のものであるとするものがあります。
この資料では平城京出土人面墨書土器について「現代の考古学者からは、「行疫神」、「厄病神」などと思われている。」としています。
しかし、この資料を詳しく読むと平城京出土人面墨書土器と千葉県出土墨書土器の違いが、自分としては極めて鮮明にわかりました。
平城京出土人面墨書土器は川から出土しています。そして悪相の顔です。
平城京出土人面墨書土器の例
「古代人の顔と祈り」橿原市博物館講演会資料(奈良文化財研究所 森川実)から引用
一方千葉県出土人面墨書土器は竪穴住居から出土しています。そして悪相の顔ではありません。
この資料を読んだおかげで、同じ「人面」墨書土器でも、2つのカテゴリーがあることが、素人なりに判りました。
平城京出土人面墨書土器は疾病神であり、千葉県出土人面墨書土器は本人であるということです。
平城京出土人面墨書土器は疾病神を書いて、それにご馳走を入れて、川に流し、住宅から離れてもらったのです。
千葉県出土人面墨書土器は、本貫地や名前の他、自分の似顔絵まで書いて、鬼が自分と他人を間違わないようにして、自分の賄賂が確実に鬼に伝わるようにしたのです。
この仮説を次にまとめてみました。
人面墨書土器の人面の正体(2016.04.24仮説)
千葉県と平城京で、人面墨書土器の人面の意味が異なることは、千葉県と平城京の衛生環境の違いを反映しているように思えてしまいます。
「千葉県の歴史」掲載資料で、白幡前遺跡出土人面墨書土器の人面を鬼に見立てた背景には、平城京において人面は疾病神であるとする知識があったのだとおもいます。
しかし、その知識、つまり平城京の人面=疾病神をそのまま千葉県出土人面墨書土器に適用することはできないという仮説設定が、この記事の趣旨です。
なお、千葉県出土人面墨書土器の人面が祈願者本人の似顔絵であるとすると、当時の上層階層の人の顔つき研究ができるということになります。
髯がどうだとか、髪がどうだとか、データを収集できる可能性が生まれます。
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