2015年2月2日月曜日

古墳時代遺跡がほとんど全て台地面上に立地する意義

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.55 古墳時代遺跡がほとんど全て台地面上に立地する意義

1 古墳時代遺跡が台地面上にのみ分布する特異性
2015.02.01記事「見込違い作業から判った古墳時代遺跡と地形との関係」で書いたように、花見川・浜田川流域の古墳時代遺跡は愛宕山古墳(方墳)1箇所を除き全て台地面上に立地しています。(この事実から愛宕山古墳の特異性が浮かび上がりますが、その検討は後日じっくり行います。)

この事実は、花見川谷津北岸(南向き斜面)沿いに発達する河岸段丘に近世以降の集落が集中して立地していることと比較すると、きわめて特異な分布現象であると考え、驚きました。

専門家の方は既知かもしれませんが、自分にとっては気がつかなかったことです。

古墳時代遺跡と地形との関係における特性(特異性)を発見できたと考えています。

古墳時代遺跡が台地面上にのみ分布することがいかに特異なことであるか、説明します。

次の図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)です。

旧版1万分の1地形図(大正6年測量)
古墳時代遺跡分布記入(赤点は古墳、黒点は古墳以外遺跡)、古墳時代水田開発可能地記入

この図で、大正6年時点では花見川北岸(谷津の南向き斜面)の台地沿いに集落が分布していることがわかると思います。

詳しい情報はここでは示しませんが、この集落分布は江戸時代資料(絵図等)から判明する集落分布とほとんど同じです。また戦後の経済高度成長期直前までの姿でもあります。

次の図は地形段彩図です。

地形段彩図
古墳時代遺跡分布記入、近代水田分布記入

青っぽい色の土地は標高10m前後で、花見川北岸(谷津の南向き斜面)の台地縁辺に貼り付くようの帯状に分布しています。この土地は沖積地と台地面の間に存在する河岸段丘面(千葉段丘、武蔵野面相当)です。

上記の旧版1万分の1地形図と地形段彩図をオーバーレイしてみます。

旧版1万分の1地形図と地形段彩図のオーバーレイ図

花見川右岸(北岸)では近世以降の集落が台地面上ではなく、河岸段丘上にのみ分布している様子が確認できます。

この様子を拡大図と断面図で見てみます。

天戸付近地形断面位置
天戸付近の旧版1万分の1地形図+地形段彩図

天戸付近地形断面と古墳時代・近世以降の土地利用対照

古墳時代集落が台地面上にあることが、近世以降集落が河岸段丘上に限定して立地していることと比べて、特異です。

近世以降の集落が河岸段丘上に立地する主な要因は水田耕作に便利な場所であるからだと考えます。

水田耕作の方が台地面上の畑よりはるかに金になるからです。

古墳時代集落が台地面上に立地する主な要因は、漁業より金になる生業が台地面上にあったからだと考えます。その生業は畑作であると考えます。

(なお、河岸段丘上の近世以降集落の地表面の下に古墳時代遺跡が眠っている可能性があります。[近世以降集落の場所では開発行為がないので古墳時代遺跡が存在していても発見されることはありません。古墳時代に限らず縄文時代・弥生時代の遺跡も眠っている可能性があります。]

しかし、将来、近世以降集落から古墳時代遺跡が発見されることがあった場合でも、古墳時代遺跡のメイン分布地が台地面であることは動かないと思います。

従って、古墳時代遺跡分布が特異であるという思考に変わりはないと思います。)

2 古墳時代遺跡が台地上に立地する主要因としての畑作
古墳時代において、花見川内水面漁業より金になる生業として、台地面上での畑作が重要であったと考えます。

また、水田耕作している谷津でも集落は台地面上に立地することから、古墳時代のこの付近では水田耕作専業という生業は存在しないで、水田耕作と同時に畑作も必ず行っていたと考えます。

畑作の栽培作物についての知識を持ち合わせていませんが、近くの新堀遺跡で紡錘車が2点出土していることから、麻あるいは桑のどちらかが栽培されていた可能性はあります。

新堀遺跡から出土した滑石製紡錘車
(いつかこの滑石製紡錘車2点を収蔵機関で閲覧して、実用物であることの確認をしたいと考えています。)

新堀遺跡位置
(参考 新堀遺跡から住居跡合計13(古墳和泉期(古墳時代中期)住居跡7、不明1、古墳鬼高期(古墳時代後期)1、平安時代4)が検出され、紡錘車は古墳和泉期住居跡2箇所から各1点が出土している。
なお、古墳時代和泉期土壙内にハマグリ等の貝殻混入が見られ、花見川筋の物流が示唆される。)

麻あるいは桑以外にも、食料としての作物(麦・粟等の雑穀、果実等)の栽培が行われていたことは当然だと考えます。

花見川・浜田川流域に関していえば、古墳時代では水田耕作が第1位産業になっていた(※)と考えますが、畑作もそれに劣らずかなり重要であったと認識するようになりました。

※ 花見川・浜田川流域を支谷津単位でみると、水田開発が進み第1位産業に育った場所では古墳がつくられ、水田開発が途上でまだ育っていない場所では古墳がつくられないという関係があるのではないかと想像しています。(2015.01.30記事「位置決定要因別に見た古墳タイプ」の「古墳と水田開発可能谷津との対応」図参照)

畑作の栽培作物が何であるか、興味が湧きます。

また、麻栽培による麻織物生産の様子や、桑栽培による養蚕・絹織物生産が花見川・浜田川流域に存在していたのかどうかということにも興味が湧きます。

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