花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.56 浮島駅家の場所について感じる
突然ですが、浮島駅家の場所について感じることがありましたので、最初の気づきがどんなものであったか、後で思い出せるように記録しておきます。
1 これまでの浮島駅家場所推定
これまで、浮島駅家の場所は地名「浮島」が幕張砂丘に該当するという思考と、花見川河口津との連携という観点から次のように考えてきています。
浮島駅家の場所推定
2014.12.12記事「50㎝刻み地形段彩図で古代駅名称を考える」掲載図
浮島駅家は「浮島」という地名の起原である砂州上砂丘の上にあると考え、地図上では大きな○でその中央に浮島駅家の推定場所をプロットしました。
それ以上の正確性のある位置推定できる情報は持ち合わせていませんでした。
2 浮島駅家の場所について感じたこと
次の図は迅速2万図「千葉県下総国千葉郡馬加村」図幅(明治15年測量)です。
迅速2万図「千葉県下総国千葉郡馬加村」図幅(明治15年測量)
この図を見ていて、ふと、湾岸沿いの道路は古代東海道路線とほとんど変わらない(そっくりそのままのようだ)と考えました。
この図のうち、花見川と浜田川河口付近に存在した幕張湾に発達した砂州上砂丘付近を抜き出すと次のような図になります。
迅速2万図の幕張砂丘地域抜書き図
この明治初期の地図を、古墳時代遺跡分布を念頭にみていると、突然奈良時代最初期の東海道本路線駅家である浮島駅家の場所が、「自分の脳裏」に浮かび上がりました(=感じました)。
迅速2万図と古墳時代遺跡分布から感じた浮島駅家の場所
迅速2万図には海食崖下道路が幕張砂丘で北に凸状のルートとなり、沿道集落が表現されています。
この凸状の道路ルートは道路が海蝕崖直下海岸線沿いから砂丘上に乗り上げたことを示しています。
この場所に浮島駅家が存在したと直感しました。その直感の理由はその場所が上ノ台遺跡に近いことです。上ノ台遺跡には古代住居跡300が検出されていて、古墳時代から奈良時代の花見川・浜田川流域のいわば「首都」であった場所です。
「首都」に近い場所に駅家がつくられ、「首都」のパワーで駅家を管理したと考えます。
砂丘の東側には愛宕山古墳があり、この古墳は一種の被支配階層の首長のものであると考えられますから、この付近に浮島駅家があったとは考えられません。
以上が、最近気がついた(感じた)浮島駅家の場所に関する事柄です。
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