2015年10月30日金曜日

メモ 地名と墨書土器の文字

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.234 メモ 地名と墨書土器の文字

前の記事とは関連がない事柄ですが、また鳴神山遺跡の例でもありませんが、前々から気になっていた地名と墨書土器文字の関係についてメモしておきます。

墨書土器の文字がその出土場所付近に伝わる地名と対応するものがあり、「千葉県の歴史 通史編 古代2」でまとめられています。

大変興味深く、参考になります。この記述の中からもっと情報を汲み取っていくつもりです。

私は地名にも強い興味があり、現在「角川千葉県地名大辞典」の付録小字一覧を丸ごと全部電子化する作業を行っていて、それを将来はGISデータベースにしようとしているほどです。

ところが、「千葉県の歴史 通史編 古代2」に魅かれて興味を深めれば深めるほど、違和感とまではいかないにしても、不満足感を感じるようになりました。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」の情報は墨書文字と地名との対応関係に絞られています。

なぜその文字が土器に墨書されてたのかという理由の検討がありません。

墨書土器の中にはその文字が正真正銘の「地名」として登場するものがあります。

例えば「村神郷丈部国依甘魚」(権現後遺跡)の村神郷は地名として書かれた文字ですから、地名としての検討で終始して、それでよいと思います。

一方例えば、「草田」という墨書文字が白幡前遺跡から出土しています。

墨書文字「草田」 白幡前遺跡出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

これについては「カヤタ」と読み現在の八千代市大字の萱田と対応するという検討がなされています。この検討自体は新しい知識を専門家が市民に提供したものとして素晴らしいことだと思います。

墨書文字「草田」が現在の地名「萱田」と対応するということは判りました。

しかし、なぜ「草田」と土器に墨書されたのか説明がありません。

土器に地名を単独で墨書するということが考えられません。

土器に地名を単独で墨書して何かの祈願に用いたとか、そのあたりの説明が欠落しています。

以前の記事で、単独あるいは2-3文字程度の墨書土器の場合のその文字の意味解読のパターン素案を作成しました。

墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案
2015.10.16記事「墨書文字の意味解読パターン素案の作成」参照

私は「草田」もこのパターンの中で位置づけたいと思います。

「カヤ(クサ)ばかり生えて収穫の少ない、私たちが開発に従事している田んぼの収穫が増えますように」という趣旨の祈願を「草田」という文字に表現したのだと思います。

白幡前遺跡では類似の墨書文字として「赤山」「提赤山」が出土しています。
「赤山(セキヤマ)」と呼ばれた収穫物の少ない開発地があり、その開発地の収穫が増えるように祈願し、提(酒や魚を差し出す)したのだと思います。
2015.05.13記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その3」参照

つまり、「草田」とは地名「萱田」発生の意味を説明している言葉なのだと思います。

「草田」が墨書土器に祈願語として書かれたことから、地名発生の様子をそこに汲み取ることができるのだと思います。

「草田」が祈願の対称となったことから、地名発生の意味が判るのです。

「草田」と墨書した古代人は地名としての「草田」を書いたのではなく、「カヤ(クサ)ばかり生えて、収穫が少ない、自分たちの労が報われない、あの田んぼ」をイメージして書いたのだと思います。

そして、そのイメージを人々が共有していたので、「カヤタ」という地名が生れたのだと思います。

「カヤタ」地名が発生した最初は、その地名が指す場所は、ある特定の規模の小さな水田開発地だったことは確実です。

その後の時代変遷のなかで、「萱田」地名が八千代市の大字に変化(場所拡大)していったのです。

地名「萱田」は白幡前遺跡とともに生まれた地名であり、古墳時代から既にそこにあった地名ではないと考えます。

「草田」が地名「萱田」と対応するという情報でストップして終るように、墨書土器文字が現在地名と対応すると判って、そこで検討をストップしてしまっては、満足しきれない感情が残ります。

0 件のコメント:

コメントを投稿