花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.290 鳴神山遺跡のメイン生業は?
これまで鳴神山遺跡について年代情報があるサンプル調査(183竪穴住居)の情報を分析してきました。
鳴神山遺跡出土情報全部を使っているわけではありませんが(平成11年度報告書の約8割程度の情報を利用)、遺跡の状況を自分なりに相当詳しく知ることができました。
発掘調査報告書記載生データをGISデータベース化して分析する方法は、大変強力な学習研究ツールであることを確認しました。
しかし、これまでの検討の中で鳴神山遺跡のメイン生業がなんであるか、どうやって食っていたか、今ひとつ釈然としません。
紡錘車は沢山出ますから、製糸(麻・絹)と機織りが大切な生業の一つであったことは確実ですが、それがメインではないと直観しています。
結論から言うと、鳴神山遺跡のメイン生業は牧であると想像しているのですが、その物的証拠が発掘調査報告書からなかな見つかりません。
しかし、有力情報を見つけましたので、メモしておきます。
●馬骨出土と祭祀が推定される遺構の存在
Ⅱ040井戸から馬骨と考えられる獣骨が出土し、祭祀があったことが想定されていますのでその情報を転載します。
井戸の記述
「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用
井戸の平面図・断面図
「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用
井戸の位置
この遺構を牧業務発展を祈願して、馬を犠牲・生贄として供犠したと考えることができるのではないかと思います。
8世紀後半(直線道路が開通した8世紀第3、4四半期頃)に大切な馬を犠牲にして牧業務発展の祈願祭祀が盛大に行われ、牧業務が大々的にスタートしたのではないかと考えます。
この井戸から次の墨書文字が出土しています。
「大国玉罪」、「冨」2、「高高」、「依依」、「++++」、「+」2、「□□」
「大」集団、「依」集団がこの牧業務開設記念祭祀に参加していた可能性を想像します。
なお、鳴神山遺跡の場合、延喜式に記載されている牧ではなく、延喜式記載牧の馬や牛を「香取の海」岸に搬送する陸路の中間に設けられた中継的機能を有する牧と考えられますから、恐らく施設は貧弱であり、また施設の主な設置場所は直線道路より北側の遠方になるので、遺構として出土しにくいのだと考えます。
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参考
2015.04.19記事「八千代市白幡前遺跡 馬2頭と人1人が捨てられた9世紀土坑」で白幡前遺跡で馬骨と人骨が出土した遺構を紹介しました。
土坑P168 ウマ遺存体の出土状況
土坑P-168の位置
発掘調査報告書では、次のように考察しています。
・「ウマの形質は在来小型馬に近いと考えられる。」
・「この土坑は、発掘時の所見によると、掘られてから比較的短時間で埋められたということであるので、死体の始末のために掘られ、埋め戻されたのであろう。」
・「この土坑は平安時代、9世紀のものである。少なくとも2頭の若いウマや、1人の人間がまとめて捨てられる(埋葬される)のは、事故または疾病と考えるよりも、なんらかの戦乱に伴う犠牲者と見てよいだろう。中・近世の戦乱の多かった時代ならいざしらず、この地方にも、なんらかの抗争が存在し、犠牲者はウマとともにこの大きな土坑に埋められたのであろう。供献と考えられる遺物は出土しておらず、死亡の後にすみやかに埋められたものと考えられる。」
この発掘調査報告書の記述に大いに疑問を感じるようになりました。
白幡前遺跡では、この場所以外から幼馬が出土しています。幼馬が出土するということは牧業務が行われていた証拠であると考えます。
人骨出土を犠牲・生贄と考えれば、つまり牧業務発展の「人柱」と考えれば発掘情報を無理なく理解することができます。
また、白幡前遺跡では墨書文字「牧万」(牧の政所を意味していると考えます)が多数出土しています。
今、振り返ると、白幡前遺跡は高津馬牧と連動する遺跡だったと考えます。
白幡前遺跡の再検討が楽しみです。
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